悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 存在感を消すはずが、なぜか王子の初笑いを引き出してしまいました
昨夜、陽菜はベッドの上で三回ため息をついた。
謎の手紙の一行が頭から離れなかった。——悪役令嬢のあなたには、まだ知らない役割がある。
その意味を考え続けて、気づいたら朝になっていた。
(考えても答えは出ない。今日は今日でやるべきことがある)
陽菜は鏡の前に立った。マリーが丁寧に整えてくれた銀色の髪が、朝日を受けてかすかに光っている。碧色の瞳が陽菜を見返している。
今日の作戦はシンプルだ。
攻略対象と一切関わらない。目を合わせない。話しかけない。石になる。
(昨日はカノンを助けてしまった。でも今日は絶対に大丈夫。石になれば何も起きない。石! 石になるんだ如月陽菜!!)
馬車に乗り込んで、窓の外を見ながら陽菜は自分に言い聞かせた。リュミエール河の水面が朝日にきらめいている。遠くに学院の尖塔が見えた。
*
王立学院リセ・ド・ロゼリアの講義室は、天井が高く、窓から差し込む光が白い石の壁に反射して明るかった。
陽菜は廊下で一度だけ深呼吸した。
(大丈夫。ゲームの知識によれば、今日の魔法理論の講義はプリズマの共鳴現象がテーマのはず。難しい授業だ。みんな教授の方を見てる。誰も隣を気にしてる暇なんてない)
扉を開けて中へ入った。
ヴァネッサの指定席を確認する。三列目の窓側。陽菜はそこへ向かって歩き始め——
固まった。
隣の席に、すでに人が座っていた。
銀色の髪がきれいに整えられている。背筋がまっすぐで、手元の教本をめくる動作に一切の無駄がない。右耳に小さな閃光のピアスが光っている。深い瑠璃色の瞳が、教本の文字を静かに追っていた。
(アルフォンス・リュシアン。第一王子。攻略対象第一号!!!!)
陽菜の脳内で警報が鳴り響いた。
ゲームの座席配置通りだ。分かってた。分かってたけど、実際に目の前に座ってると衝撃が全然違う。
周囲の貴族子弟たちがアルフォンスの方を向いて、早速とっかえひっかえ話しかけている。
「[excited]殿下、おはようございます! 昨日の晩餐はいかがでしたか!?」
「[gentle]ああ」
「[excited]今日のご衣装も素晴らしゅうございます!」
「[gentle]そうか」
二言だけ返して、アルフォンスは教本に視線を戻した。令嬢たちが恨めしそうな顔で引き下がっている。
陽菜は静かに自分の席に着いた。
(近い。近すぎる。肩幅分しか間がない。石になれ。石! 石! 石!)
手を膝の上に置いて、前を向く。ヴァネッサの顔で完璧に無表情を作った。アルフォンスはこちらを見ていない。よし。作戦通りだ。
教授が入ってきた。白髪で小柄な老人で、羽根ペンを耳に挟んでいる。ゲームでも登場した魔法理論の担当教員だ。
「では始めましょう。今日はプリズマの共鳴現象について——」
プリズマとは、この世界の魔法の源となる体内の魔力のことだ。詠唱と手の印を組み合わせることで発動し、火・水・風・地・光・闇の六つの属性がある。人口の約十五パーセントしか扱えない、希少な力だ。
教授が黒板に図を書き始めた。
陽菜は教科書を開きながら、内心で呟いた。
(これ、ゲームのレオンルートで詳しく説明されてたやつだ。同属性同士が触れると出力が下がる現象……確か、エネルギーの循環が閉じてしまうからで、異なる属性間なら増幅するんだったっけ)
「では質問です」
教授が振り返った。
「同属性のプリズマが共鳴した際、なぜ出力が低下するのか。誰か説明できますか?」
沈黙。
貴族子弟たちが視線を泳がせている。答えられる者がいない。
陽菜は口を閉じていた。知ってる。全部知ってる。でも言わない。石だから。石は喋らない。
教授の視線が、ゆっくりと講義室を巡った。
……そして陽菜で止まった。
「[serious]クロワール嬢、いかがですか」
(なんで! なんで止まるの!!)
陽菜の口が、脳より先に動いた。
「[serious]同属性のプリズマが接触すると、エネルギーの流れが内側で循環してしまって、外への出力に使われる分が減るんだと思います。料理に例えると、鍋の蓋を閉めたまま沸騰させようとするようなもので、熱が外に逃げられなくて内側で滞る、みたいな……」
言い終わって、陽菜は固まった。
(今、なんか言った。喋った。石なのに喋った!!)
教授が眼を丸くして前のめりになった。
「[surprised]ほう。クロワール嬢、それはどこで……その比喩は教科書には載っていない表現ですが」
その声に引かれるように。
アルフォンスが、顔を上げた。
深い瑠璃色の瞳が、真横の席——陽菜の方へと向いた。
(見られてる!! 視線が来てる!! なんで!! 石になるって言ったのに!!!)
陽菜はヴァネッサの顔で完璧に無表情を保った。内心は絶叫していたが、外見上は貴族令嬢として静かに座っている。
「[gentle]独自の考え方ですね」
低くて静かな声だった。感情の起伏がほとんどない。でも「批判」ではなく「観察」のような口調だった。
アルフォンスはすぐに視線を教本に戻した。
陽菜は全力で前を向いた。
(まずい。注目を集めてしまった。これは作戦の失敗だ。でも直接会話になったわけじゃない。まだ挽回できる!!)
*
昼休み。
学院の中庭——ジャルダン・ブラン、白薔薇が咲き誇る場所——は昼の日差しで明るかった。白いベンチが並ぶ石畳の上を、生徒たちが思い思いに歩いている。薔薇の甘い匂いが風に乗っていた。
陽菜はカノンとベンチに並んで座っていた。
カノン——男爵家出身の奨学生で、ゲームの本来のヒロイン——は昨日助けた縁でなぜかすっかり陽菜になついている。茶色い髪をぱたぱたさせながら、楽しそうに喋っていた。
「[excited]今日の魔法理論の授業、すごかったですね! ヴァネッサさまのご説明、すっごくわかりやすくて……鍋の比喩、なるほどって思いました!」
「[gentle]……ありがとう」
(本当はゲームから仕入れた知識なんだけどね。言えないけど)
昼食の包みを開けながら、陽菜は考えていた。午後の講義は別の教室だ。席も違う。午後を乗り切れば今日の石作戦は概ね成功と言えるはず——
「[gentle]少しよろしいですか」
その声が、頭の上から降ってきた。
陽菜は昼食の包みを取り落としそうになった。
顔を上げる。立っていたのはアルフォンスだった。護衛もなく、一人で。深い瑠璃色の瞳が静かにこちらを見ている。
周囲の貴族令嬢たちがざわめき始めた。
「[whispers]……殿下が? ヴァネッサさまに直接?」
「[whispers]なぜ……」
(なんで来るの!!!! ゲームではここでカノンと話す初会話イベントのはずで——って、こっちを向いてる! あたしを向いてる!!! シナリオが完全にすり替わってる!!!!)
陽菜の頭が高速で回転した。冷静に。ヴァネッサとして。普通に返事をするだけでいい。
「今朝の、料理の比喩が気になりました。あの考え方、どこかで学ばれたのですか」
(答えればいいだけ。普通に答えるだけ。名前を呼んで礼儀正しく返答する。それだけ)
「[gentle]あの……アル、アルミニウム……」
沈黙。
カノンが「アルミニウム……?」と首を傾げた。
(ちがう!!!! アルミニウムって何!!! 元素周期表が暴走した!!!!!)
「[surprised]じゃ、じゃなくて!! アルフォンスさまっ!!」
言い終わった瞬間、陽菜は顔を両手で覆いたくなった。物理的に覆えなかったのはヴァネッサの体に染み付いた貴族の矜持のせいだ。辛うじてそこだけ守れた。
カノンが「あ……あはは」と困った顔で笑っている。
そしてアルフォンスの口元に——
弧が、浮かんだ。
ほんの少しだけ。かすかに。でも確実に、口の端が上がった。
周囲の令嬢たちがいっせいに息を呑む音がした。
「[whispers]…………殿下が……笑った?」
「[whispers]ヴァネッサさまに? あのヴァネッサさまに??」
「[whispers]どういうこと……」
ざわめきが広がっていく。
アルフォンスはそのかすかな笑みのまま、静かに言った。
「[gentle]アルミニウム、というのは何ですか。この国の言葉ではないようですが」
「[serious]……その、造語です。えっと、軽くて丈夫な金属のイメージで……」
「[gentle]面白い。また聞かせてください」
それだけ言って、アルフォンスは静かに立ち去った。
陽菜はベンチの上で固まった。
視線。刺さってくる視線がある。
令嬢グループの中で、特に眼光の鋭い一人——栗色の髪を高く結い上げた、凛とした顔立ちの令嬢——が、陽菜をじっと見ていた。他の令嬢たちが興奮気味に囁き合う中、その令嬢だけが笑っていなかった。冷たく、値踏みするような視線だった。
(やばい。あの視線、絶対に良くない感じのやつだ)
カノンが「……大丈夫ですか、ヴァネッサさま」と小声で声をかけてきた。
「[gentle]大丈夫」
全然大丈夫じゃなかった。
*
放課後。
リュミエール河の遊歩道は静かだった。
川幅は広く、夕方の光を受けた水面がゆったりと流れている。石畳の道の両側に並ぶ柳の葉が、風でそっと揺れていた。馬車の音も、市場の喧騒も、ここまでは届かない。
陽菜は一人で歩きながら、頭の中を整理しようとしていた。
(座席は変えられない。昼食の場所を変えよう。でもカノンがついてくる。かといって中庭を避けたら避けたで他の場所で何かが起きそうだ。アルフォンスさまは行動が読めない。ゲームの通りに動かない。詰んでる)
ため息をついて、川面を見た。橙色の夕日が水に溶けている。きれいな景色なのに、全然落ち着かなかった。
橋のたもとで、足が止まった。
手すりに両手をついて、水面を見下ろしている人がいた。
護衛がいない。従者もいない。銀色の髪が夕風に揺れている。
アルフォンスだ。
(なんでここに! 護衛なしで!?)
陽菜は無意識に足を止めた。引き返せばいい。でも体が動かなかった。
夕日の中で、アルフォンスは川を見つめていた。表情は読めない。でも、肩の位置が少し低い。体の力が抜けている。
脳内でゲームのテキストが再生された。
——幼少期より王位継承者として、感情を外に出すことを禁じられて育った。本音を話せる相手が誰一人いない。孤独な王子——
ゲームの設定テキストで読んだ言葉だ。何度も読んだ。でも今、目の前で実際に見ると、その言葉の重さが全然違って感じられた。
(ゲームのキャラクターが……本当にそこにいる)
「本当に寂しそうだな」
はっとした。
声に出るつもりはなかった。でも出ていた。
(まずい!!!!)
アルフォンスがゆっくりと振り返った。深い瑠璃色の瞳が陽菜を捉えた。
「[serious]……聞こえていました」
「す、すみません」
アルフォンスは少しの間、陽菜を見ていた。表情は静かだ。怒っているわけではない。ただ、何かを確かめるような目つきだった。
「[gentle]寂しい、か」
その言葉を、アルフォンスは口の中で転がすように繰り返した。
「[gentle]そんなことを面と向かって言う人間は……初めてだよ」
——ドクン、と跳ねた。
胸の奥で、何かが大きく鳴った。
(え)
陽菜は自分の左胸に、無意識に手を当てていた。
(今のなに。なんで今。ゲームのキャラに。こんな感じになるの)
「[gentle]……失礼しました、殿下。お邪魔でしたね」
なんとかそれだけ言って、陽菜は頭を下げた。足早に橋を渡る。背中から視線を感じたが、振り返らなかった。
*
帰りの馬車の中で、陽菜はずっと窓の外を見ていた。
夕暮れのブランシェールが流れていく。白い建物が橙色に染まっている。市場の灯りが一つ、また一つと点いていく。
(まずい。まずいまずいまずい)
胸の奥がまだ、ざわついている。あの瞬間の感覚が消えない。
ゲームで何度も見たキャラだ。設定だって全部知ってる。孤独な王子。感情を殺して育てられた第一王子。ゲームのテキストに書いてあった通りの人だ。
(それなのに、なんで本物みたいに見えるの)
馬車がクロワール公爵邸に着いた。
自室に戻って、陽菜は引き出しの奥から手紙を取り出した。昨日から何度も見ている一行が、今日も変わらずそこにある。
——悪役令嬢のあなたには、まだ知らない役割がある。
「[whispers]……まだ知らない役割、か」
攻略対象に近づかないようにしていたのに、今日だけで二回も絡んでしまった。名前を噛んだ。王子を初めて笑わせた。令嬢に睨まれた。川べりで独り言を聞かれた。
そして、胸が跳ねた。
陽菜は机に突っ伏した。
(攻略対象にドキッとした。あたしが。悪役令嬢が。ゲームを全部クリアして設定も全部知ってる相手に)
認めたくない。でも確かに、今日あの川べりで感じたことは、ゲームのキャラを見る目じゃなかった。
手紙を裏返しにして机の端に置いた。
窓の外では、夜のブランシェールが静かに広がっている。リュミエール河の水面が、遠くでかすかに光っていた。
陽菜はそっとため息をついた。
(明日から、どうすればいいんだろう)