悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 悪役令嬢、どん底で泣く——でも私はここで終わらない
マリアンヌが掲示板に貼り出した写しのことは、朝が来る前に学院中に広まっていた。
陽菜がそれを知ったのは、クロワール公爵家の馬車が王立学院リセ・ド・ロゼリアの正門をくぐった瞬間だった。石畳の上に降り立った瞬間、空気が変わった。
(……あ。もう全員知ってる)
廊下を歩くだけで、すれ違う生徒の視線が変わる。昨日まで会釈してきた同級生が、ふいと目を逸らす。二人組の令嬢が、陽菜の後ろ姿に向かってひそひそと囁いた。
「[whispers]やっぱりヴァネッサさまは、ずっとああいう方だったのね」
「[sarcastic]王子さまに執着して恥ずかしくないのかしら。しかもカノンさんのことまで……」
(うわ、聞こえてる。めっちゃ聞こえてる)
陽菜は内心でツッコみながら、ヴァネッサの顔のまま無表情を保って歩いた。表情を崩したら負けだ。それだけはわかってた。
教室に入ると、両隣の席が空いていた。誰も座っていない。窓から差し込む朝の光が、その空席を白々しく照らしていた。
(ゲームで見た光景だ。破滅エンド直前のやつ。でも……リアルでやられると、思ったより全然キツい)
カノンが駆け寄ってきたのはその時だった。
「[serious]ヴァネッサさま、あの手紙は嘘です。私、ちゃんと——」
「[cold]カノンさん」
マリアンヌが滑らかな動きでカノンの前に出た。春の花みたいな笑顔。でもその目が笑っていない。
「[gentle]あなたまで誤解されてしまっては大変ですわ。ヴァネッサさまとは少し距離を置かれた方が、あなたのためになります」
カノンが陽菜を見た。困った顔で、でも絶対に引かないという目で。
陽菜はかすかに首を振った。目線だけで「来なくていい」と伝える。カノンを巻き込んだら、この状況がもっと複雑になる。それはわかってた。わかってたけど。
(ありがとう、カノン。それだけで十分だよ)
陽菜は一人で席に着いた。
*
三日間が、じりじりと過ぎた。
二日目の昼休み、レオンが大図書館の隅に陽菜を呼び出した。藤色のツートーンの髪、左右で色違いの目——オッドアイが、いつもより少し真剣な光を帯びていた。
「[serious]手紙の筆跡を調べた。ヴァネッサさまの筆跡と一致しない。僕が古文書分析の手法で証明できる」
胸の奥がじわりと温かくなった。
(レオンさん……)
翌朝、その温かさは砕けた。
マリアンヌが手配した筆跡鑑定士が、「一致する」という正式な鑑定書を提出したのだ。貴族院公認の鑑定機関による公式文書。レオンが「論理的に間違っている」と食い下がっても、制度の壁は動かなかった。学生の研究は証拠能力がない——たったそれだけの理屈で、全部おしまいだった。
「[angry]馬鹿げてる。数値が明らかに——」
担当教師が冷たく首を振った。レオンが地団太を踏んだ。でも制度はそんなもので動かない。
陽菜はその場に立ったまま、廊下の石壁を見つめた。
(ゲームの中で、レオンが証拠を出しても封じられるルートがあった。知ってた。全部知ってた。でもなんで、こんなに苦しいんだろう)
同じ日の夕方、クロードが廊下で陽菜の後ろに立った。
「護衛として傍に付きます」
真っすぐな声だった。迷いのない声だった。その直後、廊下の向こうから騎士団の上官の低い声が届いた。
「[serious]クロード。殿下の警護が最優先だ。公爵令嬢個人への肩入れは命令違反になる」
「しかし——」
食い下がるクロードの声が廊下に響く。陽菜はそれを聞きながら、足を速めた。振り返らなかった。クロードを巻き込みたくなかった。それだけだ。
(ありがとう。本当に、ありがとう)
口の中でだけ、誰にも聞こえない声でそう言った。
*
三日目の夕方。
陽菜が一人で廊下を歩いていると、前から銀色のストレートへアが光を弾いているのが見えた。深い瑠璃色の瞳。アルフォンスだった。護衛を一人連れて、こちらに向かって歩いてくる。
(……来た)
廊下には他に誰もいない。
すれ違いざま、アルフォンスの足が止まった。陽菜も、気づいたら立ち止まっていた。斜め後ろを向いたまま、二人の間に沈黙が落ちた。
一秒。二秒。三秒。
アルフォンスは何も言わなかった。王子として公式に動くことはできない。その現実が、二人の間に透明な壁として存在していた。陽菜にはそれがわかった。ゲームで知ってたから。王子には立場がある、動けない理由がある、全部知ってた。
(知ってた。なのになんで……こんなに苦しいんだろう)
奥歯を噛んだ。アルフォンスがかすかに口を開いた瞬間——。
「[serious]殿下、次のご予定が」
護衛騎士の声がそれを断ち切った。アルフォンスの言葉は、どこにも着地しなかった。
陽菜は背中を向けたまま、先に歩き出した。振り返らなかった。
(好きだから、重さがわかる。好きだから、苦しい。これってたぶん……ただの恋より、ずっとやっかいだ)
足音だけが、廊下に響いた。
*
三日目の夜。
女子寮パヴィヨン・リスの自室に戻って扉を閉めた瞬間、昼間ずっと張り続けていたヴァネッサの顔が崩れた。
机の上に一通の封書が置いてあった。クロワール公爵家の紋章の蝋封。父、ジルベールからだ。
震える手で開く。几帳面な筆跡で、短く書いてあった。
——クロワール家の名誉に関わる。至急、説明せよ。
紙を持ったまま、陽菜は立ちすくんだ。
(ゲームの知識があれば大丈夫だと思ってた。全部把握してるつもりだった)
ひとりごとが、口から漏れた。
「[crying]でも……全然ダメだった」
涙が、止まらなくなった。
ガマンしてたわけじゃない。ただ気づいたら、ぼろぼろと出てきた。床に座り込んで、膝を抱えて、泣いた。
泣きながら、ヴァネッサの記憶が流れ込んできた。
クロワール公爵邸の長い廊下。白い扉の前に立つ小さな女の子。赤みがかった栗色の巻き毛が、震えていた。扉が開いて、医師が首を振って、父ジルベールが「そうか」の一言だけ言って立ち去った。その背中を、幼いヴァネッサがじっと見ていた。
廊下が静かになった。誰も来なかった。誰も抱きしめに来なかった。
(ああ……一緒だ)
今の自分と、鏡写しだった。助けを求めても誰も来ない夜。制度の壁。立場の壁。透明な壁。
余計に泣いた。ヴァネッサの孤独が、自分の孤独と重なって、どこが境界線かわからなくなった。
泣き疲れて、ベッドの端に腰を下ろした時。
枕の下から、白い封筒が出てきた。
(……なに、これ)
拾い上げた。封はされていない。中に、一枚の紙が入っていた。
——舞踏会で、真実を示せ。あなたの中にいるもう一人が、鍵を握っている。
差出人の名前は、どこにもなかった。
以前に届いた二通と同じ字体。同じ紙質。また、あの謎の手紙だ。
でも今回は、前と感触が違った。
「あなたの中にいるもう一人」。
その言葉が、ヴァネッサの記憶と直結した。廊下に一人でいた幼い女の子。誰にも入ってきてもらえなかった部屋を守るために、毎日鏡の前で微笑みを練習していた女の子。
陽菜はゆっくりと立ち上がった。
涙を袖で拭って、声に出した。
「[serious]ヴァネッサが破滅するのは、ゲームのシナリオだから?」
一拍。
「[angry]ふざけんな」
窓の外、夜の空に星が散らばっていた。プリメーラ王国の夜空はいつも星が多くて、それだけが今夜、少しだけ優しかった。
手紙を強く握ったまま、陽菜は立っていた。涙の跡が乾いた頬が、少し冷たかった。
(あたしたちで、乗り越える。二人で、やってやる)
目の奥に、火がついていた。どん底に落ちたから、その分だけ、燃えるものがあった。
星灯祭——冬至の夜に開催される、プリメーラ王国最大の舞踏会。そこで真実を示す。方法はまだわからない。証拠もまだない。でも、立ち上がることだけは決めた。
枕の下から出てきた手紙を、陽菜は丁寧に折って、前の二通と一緒に引き出しにしまった。
夜はまだ、長かった。でも今夜は、眠れる気がした。