悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 好感度イベント、全部あたしに来てる件
朝のホームルームが始まる前の廊下は、いつも貴族の令嬢たちのざわめきで満ちている。
ドレスの裾が石畳を掃う音、遠くから届く礼拝の鐘、薔薇の庭園から流れてくる朝の空気——王立学院リセ・ド・ロゼリアの朝はいつも、どこか絵画のように整っていた。
整っていたのだが。
「[excited]ヴァネッサさまーーー!!」
腕に衝撃が来た。
ぎゅっと、両手で。全力で。
如月陽菜は廊下の真ん中で固まった。左腕にしがみついているのは、栗色の髪をふわっと揺らした少女——カノンだ。明るい茶色の瞳がキラキラ光っていて、ほっぺたが少し赤い。今日も元気の塊みたいな顔をしている。
(……なんでいつもこんなに元気なの、この子)
「[excited]今日もご一緒に登院できて、幸せです! ヴァネッサさまは今日もお綺麗で!」
声がでかい。廊下に響く。
通りかかった令嬢三人が足を止めた。視線が陽菜とカノンを行ったり来たりしている。ひそひそ声が届いてきた。
「[whispers]クロワール令嬢が……ヒロインと仲良し?」
「[whispers]なんか、雰囲気変わったわよね、最近」
(あーーーうるさいうるさいうるさい!! あたしの耳に全部聞こえてますよ!!)
陽菜はヴァネッサの顔で完璧に無表情を保ちながら、内心では絶叫していた。
新学期から一週間が経った。
陽菜の「攻略対象を全員避ける大作戦」は、ものの見事に崩壊している。そもそもの元凶は隣でにこにこしているこの子だ。カノンが学院中を歩き回りながら「ヴァネッサさまは私の恩人です!」と吹聴して回ったせいで、本来ヒロインに来るはずの好感度イベントが、なぜか全部陽菜のところに直撃している。
(ゲームのシナリオ的には、カノンがみんなに好かれていく流れのはずなのに……なんであたしが好かれてるの!?)
「[gentle]……カノン。腕を離しなさい。人目がある」
「[excited]はい! 失礼しました、ヴァネッサさま!」
パッと離れてぺこりとお辞儀するカノン。怒った様子もなく、むしろ嬉しそうに微笑んでいる。この子はどうして陽菜がそっけなくしても、一向に懐くのをやめないんだろう。
令嬢たちの視線が、まだ向いている。
陽菜はそっと目を逸らして歩き出した。
*
昼休み。
大図書館ビブリオテーク——王立学院が誇る八万冊の蔵書を収める四階建ての建物——の中は、昼間でも静かだった。磨かれた木の床、高い天井、窓から差し込む柔らかい光。古い本の匂いが全体にうっすら漂っている。
陽菜はここに来るのが好きだった。カノンが追ってこない数少ない場所のひとつだ。
(ゲームの進行状況を整理したい。このままだとシナリオがどこへ向かうか分からなくなる)
目当ての本は魔法理論のコーナーにある。プリズマの制御に関する基礎文献で、ヴァネッサの体に眠る膨大な魔力をどう扱うかのヒントになるはずだ。
問題は、その本が棚の一番上にあることだった。
(……高すぎる)
陽菜は脚立を引っ張ってきた。ドレスの裾を少し持ち上げて、慎重に一段、また一段と上る。本の背表紙に手が届く。あと少し——
足が滑った。
慣れないドレスの裾を踏んだ。重心が前に傾く。脚立が傾く。やばい、落ちる——
背後から、腕が伸びてきた。
しっかりと、確実に、陽菜の体を受け止めた。
一瞬の沈黙。
(……え)
ゆっくり振り返ると、深い瑠璃色の瞳がすぐそこにあった。銀色の髪、背筋がまっすぐ伸びた立ち姿、右耳の小さな閃光のピアス。
アルフォンス・リュシアンだ。
(これ!!! このイベント!!!! 大図書館で脚立から落ちかけたヒロインをアルフォンスが受け止める、好感度Lv2解放イベント!!!! カノンがやる場面でしょそれ!!!! なんであたしがやってるの!!!!)
脳内で警報が七重に鳴り響いた。
「す、すみません!」
陽菜はアルフォンスから離れながら言った。顔が熱い。なんで熱いんだ。落ち着け自分。
「[serious]これは事故です! 事故! 脚立が古くて、足が滑っただけで!」
アルフォンスは静かに陽菜を見ていた。表情はいつも通り、ほとんど動かない。少し間があって、彼は言った。
「[gentle]事故でも構わない」
低くて、穏やかな声だった。
「[gentle]また落ちそうになったら、僕の前で落ちろ」
ドクン、と脈打った。胸の奥で、何かが大きく一回鳴った。
(なんでそんなさらっと言うの!! それゲームではカノンに言うセリフでしょ!! なんであたしに言ってるの!!! そしてなんであたしの胸がこんなに——)
内心ツッコミが渋滞している間に、アルフォンスは棚から本を取って陽菜に手渡した。目当ての魔法理論の文献だ。それだけして、彼は何も言わずに立ち去った。
後ろ姿を見つめながら、陽菜はじっとしていた。
頬が、まだ冷めない。
(……まずい。まずい気がする。これ、絶対まずい)
*
午後の魔法実技授業は、本館から離れた実技棟で行われる。
教室の床は石張りで、天井が高い。魔法が暴発しても被害が最小限になるよう設計されているらしい。壁に沿って魔力吸収素材の板が張られていて、窓は鉄格子入りの厚いガラスだ。
陽菜はその教室の真ん中に立っていた。
担当教員——白衣の中年の女性で、魔法実技を担当するシュヴァリエ先生——が前に立っている。
「[serious]では基礎詠唱の確認です。風属性から順に、各自でプリズマを起こしてみなさい」
プリズマ。この世界の体内魔力のことだ。詠唱と手の印を組み合わせて発動する。人口の約十五パーセントしか扱えないが、クロワール公爵家の血を引くヴァネッサの体には、相当量が眠っているらしい。
問題は、陽菜にはその扱い方がよく分からないことだった。
(どれくらいの力で……抑えながら出せばいいんだ? ゲームでヴァネッサが魔法を使う場面ってほとんどなかったし……)
周囲のクラスメイトたちが、順番に詠唱している。小さな風が起きて、葉っぱが揺れるくらいの穏やかな魔法だ。
陽菜の番が来た。
詠唱句を口にしながら、手の印を結ぶ。プリズマを引き出そうとする。どれくらいの量を……と加減を探った次の瞬間。
ドバァァァン!!!
水が吹き出した。
風属性のつもりだったのに、水属性のプリズマが爆発的に溢れ出した。天井に向かって噴水のような水柱が上がり、そのまま四方八方に広がった。
教員が悲鳴を上げた。クラスメイトたちが叫んだ。机が濡れた。窓が揺れた。
一秒後、教室は完全に水浸しになっていた。
しん、と静まり返った。
ずぶ濡れになった教員とクラスメイト全員が、陽菜を見ている。
「す、すみません……!」
陽菜が青い顔で謝ろうとしたその瞬間、教室の後方扉がゆっくりと開いた。
顔を出したのは、騎士科の制服を着た青年だった。陽菜より少し背が高くて、肩幅がある。短く刈り込んだ黒髪、真っ直ぐな眉、誠実そうな目。胸元に騎士科の紋章が刻まれた銀のバッジが光っている。
「[surprised]お見事です」
静寂の中、その声だけが響いた。
全員が振り返った。
「[serious]あれほどのプリズマ量を持つ方は、この学院にそう何人もいません」
青年——クロードは、濡れた教室を見渡しながら、真剣な顔で言った。感嘆している。本気で。
(お見事じゃないんだが!!!! あたしは教室を水没させたんです!!!! なんで称賛されてるの!!!)
陽菜の内心が静かに叫んでいる間に、クラスメイトたちの目線がクロードと陽菜を交互に行き来していた。シュヴァリエ先生が絞り出すように、「授業は……以上にします」と言った。
*
廊下に出ると、クロードが待っていた。
陽菜は少し驚いた。この人、わざわざ外で待ってたの。
「[serious]突然失礼します、クロワール令嬢」
頭を下げる動作が、きびきびしていて淀みない。騎士科の生徒らしい、無駄のない礼だ。
「[serious]護衛させていただけますか」
直球だった。
「[serious]あれほどの魔力を持つ方が、きちんとした護衛なしにいるのは——王国の損失です」
真顔で言っている。本気だ。この人、本気でそう思って言っている。
(クロードさんはゲームだとカノンの護衛キャラでしょ!! カノンが危険な目に遭いそうになったところをクロードが守る、あの献身ルートの起点イベントでしょ!! なんであたしのところに来るの!!!!!)
ゲームの知識がガンガン脳内を駆け巡る。でも返事が出てこない。陽菜が固まっていると、クロードは補足するように続けた。
「[gentle]無理に承諾していただかなくても構いません。ただ——危険な目に遭いそうな時は、声をかけてください」
それだけ言って、クロードは一礼して去っていった。
廊下に一人残された陽菜は、しばらく動けなかった。
(……カノンのルートキャラが、三人とも、あたしに好感度上げてる。これ、どういうこと?)
*
夜。
女子寮パヴィヨン・リス——百合の館と呼ばれる、生徒寮の建物——の最上階に、ヴァネッサの特別室がある。
天蓋付きのベッド、広い窓、バルコニーからは遠くに王宮の尖塔が見えた。使用人がいない時間は、陽菜がほっとできる数少ない場所だ。
陽菜は机に向かって、羽根ペンを走らせた。
白い紙の上に、箇条書きにする。
——カノンのイベント→全部あたしに来てる
——アルフォンスの抱きとめイベント→横取り済み
——クロードの護衛申し出→横取り済み
書き並べながら、陽菜は頭を抱えた。
(ゲームのシナリオ、もう取り返しのつかないくらいズレてきてる……)
ペンが止まった。
アルフォンスの声が、頭の中に浮かんだ。
——また落ちそうになったら、僕の前で落ちろ。
静かで、低くて、当たり前みたいに言う声だった。
胸のあたりがざわざわした。あの瞬間と同じ感覚が、またじわっと戻ってくる。
(これって……もしかして……)
ペンを置いた。両手で顔を覆う。
(悪役令嬢が攻略対象に恋しちゃうとか、シナリオ完全崩壊じゃん!!!!! あたし何やってるの!!! ゲームのキャラに!!! 設定全部知ってる相手に!!!!)
枕を引っ張って顔に押し当てた。じたばたした。気持ち的にじたばたした。
深呼吸。
(……落ち着け。落ち着くんだ如月陽菜。恋愛とかしてる場合じゃない。ヴァネッサの破滅エンドを回避することが最優先。明日からは好感度を下げる方向で行動する。それだけ考えればいい)
自分にそう言い聞かせた。
その瞬間。
ドアの下の隙間から、白い封筒がすっと差し込まれてきた。
陽菜は動きを止めた。
ゆっくりと椅子から立ち上がって、封筒を拾い上げる。前回と同じ、差出人のない白い封筒だ。
開けた。
中には一枚の紙。同じ丁寧な筆跡。でも今回は二行あった。
——舞踏会の夜、全てが決まる。
——あなたはまだ、何も知らない。
陽菜は封筒を握ったまま、しばらく動かなかった。
舞踏会。ゲームの最終章で開催される、星灯祭の夜の舞踏会のことだろうか。あそこで全ての攻略ルートが決着する。ヴァネッサが追放されるのも、その夜だ。
(「全てが決まる」って……どういう意味? ゲームと同じ結末になるってこと? それとも)
窓の外を見た。夜のブランシェールが広がっている。王宮の尖塔の明かりが遠くに見えた。どこかから、風に乗って薔薇の香りが届いてくる。
手紙を握る指に、少し力が入った。
(差出人は誰? 目的は何? まだ知らないことって、何?)
何も分からない。好感度は三方向から同時に上がっている。明日から好感度を下げようとしていた計画が、この一枚の手紙で揺らいだ。
取り巻きの令嬢たちの、今朝廊下で向けられた冷たい視線が、ふと頭の隅に浮かんだ。あの目つきは、最初の頃とは少し違う。
静かな夜が、深くなっていく。