悪役令嬢、今日も空回り中
ある普通の朝、高校生の如月陽菜は目を覚ますと、乙女ゲーム『ロゼリア:王子たちの恋歌』の悪役令嬢、ヴァネッサ・ド・クロワールとして転生していた。
彼女は結末を知っている。ヴァネッサはヒロインの邪魔をし、みんなの敵になり、最も屈辱的な形で社交界から追放される。陽菜が思い描いていた人生計画とはまったく違う。
「絶対にそんなことはさせない。」
彼女の作戦はシンプル。脚本にあるすべての「悪役令嬢の行動」を避けること。簡単そうに見えるけど…
大間違い。見事に、笑えるほどに間違っている。
陽菜が冷たく振る舞おうとしたり、トラブルを避けようとするたびに、逆の結果を招いてしまう。ヒロインのカノンに意地悪しようとしたら、落ちてきた本棚から彼女を救い、一瞬で慕われることに。第一王子アルフォンスを無視しようとしたら、緊張で固まってしまい、その慌てた顔に彼が惚れてしまう。天才魔法使いレオンの呪文の欠点をうっかり指摘(ゲーム知識のおかげで)、彼はハートを抱えて彼女の後をついて回る。そしてヒロインを守るはずの騎士クロードは、このヴァネッサこそ本物だと決めつけて離れない。
悪役令嬢の運命から逃れようとすれ
悪役令嬢、今日も空回り中 - 反撃開始——封蝋の嘘と、俺はお前が壊されるのを見ていられなかった
夜が明ける前から、陽菜は机に向かっていた。
昨夜泣いた分、頭がすっきりしていた。変な話だけど、本当にそう感じた。
机の上には偽造ラブレターの写しが広げてある。マリアンヌが学院に張り出した、あの二枚だ。取り寄せるのに少し手間がかかったけど、今は手元にある。
(さて。ゲームプレイヤーとして、全ルートをやり込んだ人間として、本気で考えよう)
じっと見る。字体。紙の質。インクの色。そして——封蝋。
クロワール公爵家の紋章が押されている。赤い蝋の上に、五弁の薔薇と剣が交差するあの紋章。ヴァネッサの家紋だ。
(……あれ)
陽菜は首をかしげた。
ゲームの中でヴァネッサが封蝋を使うシーンを、何度見ただろう。全ルートで見た。だから知っている——クロワール家の封蝋道具は、執務棟の書斎机の引き出しに厳重に保管されている。陽菜が転生してからこの方、一度も開けたことがない引き出しだ。
(待って待って待って。これ、詰められるじゃん!!)
ヴァネッサの顔のまま、無表情で立ち上がった。
メモ帳を引き出して、手早く書き付ける。封蝋を持ち出せる人間は誰か。邸の使用人。あるいは、邸の外で同じ蝋を入手できた者。でも公爵家の封蝋に使う蝋は特注品だ。ゲームの設定で読んだ。産地も製法も限られている。
陽菜は紙を三回たたんでポケットに入れた。
「[excited]よし。レオンさんのとこ行こう」
朝の廊下はまだ薄暗かった。
*
大図書館ビブリオテークは、午前七時には開く。
エルザ司書が入口で陽菜を見て、少し目を細めた。相変わらず何も言わない人だけど、入れてくれるということは黙認してくれてるんだろうと陽菜は思っている。
三階の東端。藤色と白のツートーンの頭が、本の山の向こうに見えた。
レオンはすでに起きていた。というか、もしかして徹夜かもしれない。ノートのページを繰る手が、止まる気配がない。
「[serious]レオンさん」
「位相変換式の第十二系が出た。見てくれ」
(あ、こっちの話を聞く気がない)
「[serious]後で見ます。先に聞いてほしいことがあって」
レオンの手が止まった。陽菜がポケットからメモを出して広げると、レオンはペンを置いた。読む。三秒で読んだ。
「封蝋の産地ね」
「[serious]そう。クロワール家の封蝋に使う蝋は特注品のはずで——」
「蝋の成分は産地によって異なる」
レオンの目に、火がついた。
あの時と同じだ。陽菜が図書館で位相変換の誤りを指摘した時と、まったく同じ目の輝き方をしている。
「古文書の羊皮紙産地鑑定に使う手法と原理が同じだ。蜜蝋の成分比率は養蜂地域の植生で変わる。クロワール領フォルティーヌの蜜蝋と、他の地域の蜜蝋は——区別できる」
言いながら、すでに本棚に向かっていた。ばさばさと本が降ってくる。
(レオンさんが私の話を最後まで聞いた!? いやそれより本の雪崩が!!)
陽菜はあわてて本を受け止めた。
「[surprised]ちょ、危ない——!」
「危なくない。計算して落としてる。座ってろ、二時間で結果を出す」
(二時間!? 計算して落としてる!? 色々ツッコみたいところがあるんですけど!!)
でも陽菜は、なんか、嬉しかった。
レオンが本格的な測定器具を引っ張り出して、手紙に押された封蝋の欠片を顕微鏡みたいな器具にセットするのを見ながら——この人、本当に本気だ、と思った。
制度の壁で筆跡鑑定の結果を潰された時、地団太を踏んでいた横顔を思い出す。あの時から、もう一度証明しようとしていたんだろう。知的好奇心で動いているのは分かる。でも同時に、陽菜のために頭を使ってくれている。
(……なんか、ありがとうって言いたくなる)
胸の奥がじわりと温かくなるのを感じながら、陽菜は隣に座って待った。
二時間後。
レオンが数値の書かれた紙を陽菜の前に置いた。
「クロワール領フォルティーヌ産の蜜蝋と、この封蝋の成分比率は一致しない。一致するのは——リヴィエール侯爵領内の養蜂地域、アンブル地区だ」
「[surprised]リヴィエール……!」
リヴィエール公爵家。五大公爵家の一つで、海運を握る家門。そして寮長プリシラ・ド・リヴィエールの実家。マリアンヌが——誰かの後ろ盾を持っているとしたら。
「証拠は揃った。あとは舞踏会で提示するだけだ」
さらりと言った。まるで「計算が終わった」と言うみたいに。
(計算式より先にありがとうって言えないの!? この人!?)
「……ありがとう、レオンさん」
陽菜が言うと、レオンは少しだけ黙った。それから、ノートを閉じた。
「礼はいい。面白かっただけだ」
(照れてる。確実に照れてる。この人、照れてる時の顔、ちゃんとあるじゃないですか)
陽菜は内心で「なんかかっこいいじゃないですか」と認めながら、分析結果を大切にポケットにしまった。
*
同じ頃、学院の廊下では別の戦いが起きていた。
後から陽菜が聞いた話だ。
カノンが一人で、学院中を走り回っていた。
マリアンヌに脅されて偽証した生徒たちの名前を、第一話から今まで陽菜の行動を近くで見てきた記憶を辿りながらリストアップして——一人ずつ、個別に話しかけに行った。
最初の三人は、扉を開けてもらえなかった。「怖いから」と言って。
四人目は、顔を見た瞬間に扉を閉めた。
それでも、カノンは次の扉を叩いた。
「ヴァネッサさまが転んだ私を助けてくれた日のことを、覚えていますか。あの方は変わりました。いいえ、もともとあういう方だったのかもしれません。でも——それを知っているのはゲームのシナリオでも噂でもなく、目の前のあなたたちです」
一人が、顔を上げた。
そこから、少しずつ変わった。
後で、陽菜はそれを聞いて、鼻の奥がつんとした。
転んだカノンを助けたのは——何の計算もなく、思わず手が出ただけだった。でも、その一瞬が巡り巡って、今日ここに戻ってきた。
この世界の住人は本物だ、と陽菜はまた確信した。ゲームのキャラクターじゃない。本物の感情を持つ、本物の人間だ。
*
夕方、寮の廊下を歩いていると、後ろから大きな足音が近づいてきた。
振り向くと、クロードが騎士団の制服のまま、真剣な顔で立っていた。
身長があって、体格がよくて、目が真っすぐすぎる。何かを言おうとしている顔をしていた。
「[serious]今日、上官に命令違反と記録されました」
「[surprised]え、ちょっと——それって」
(大丈夫なの!? キャリアは!? 騎士団的に!?)
「[serious]それでも戻ってきました」
陽菜は何も言えなかった。
「ありがとうございます……でも、よかったんですか」
クロードは迷わなかった。一ミリも。
「[serious]俺は王子殿下にではなく、正義に仕えると決めました」
沈黙。
陽菜の中でツッコミが追いつかなかった。いや、追いつく前に別の感情が来てしまった。
(……かっこよすぎて何も言えない)
本当に何も言えなくて、ただ「ありがとうございます」とだけ言った。声が少し震えた。
クロードは頷いた。それだけで、もう次の行動を考えているみたいな顔をしていた。
一人、また一人。
誰かが、本気で動いてくれている。
その重みが、陽菜の中の孤独をじわじわと、確かに溶かしていた。
*
深夜。
陽菜は寮室の机に資料を広げていた。明日の舞踏会前日の段取りを最終確認している。レオンの封蝋分析結果、カノンが集めた証言リスト、クロードの証言——全部揃っている。
あとは、舞踏会当日にどう動くかだ。
考えながら資料をめくっていると、ドアがノックされた。
こんな時間に誰だろうと思いながら立ち上がって、扉を開けた。
廊下に、アルフォンスが立っていた。
護衛もつけずに、一人で。
(え)
(ちょっと待って)
(王子が深夜に女子寮!? これ絶対見つかったらまずいやつ!!! 寮則的にも身分的にも何もかも!!!)
陽菜が声も出せずにいると、アルフォンスが無言で一束の書類を差し出した。
深い瑠璃色の目が、静かに陽菜を見ていた。
「[gentle]……リヴィエール侯爵が、学院の備品購入費を横領していた。その取引記録だ」
陽菜は書類を受け取った。ざっと目を通すだけで、それが本物だとわかった。日付、金額、取引相手——全部書いてある。
「[surprised]何で……これを」
「[gentle]王子として公に動くことはできない。だが——これを使えば、マリアンヌの後ろ盾は崩れる」
一拍、間があった。
アルフォンスの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「[gentle]……俺は、お前が壊されるのを黙って見ていられなかった」
陽菜の胸の奥で、何かがドクンと大きく脈打った。
三日前の廊下を思い出した。すれ違って、立ち止まって、何も言えなかったあの沈黙。あの時アルフォンスは言葉を持っていなかった——でも今夜、言葉の代わりに行動で答えを出してきた。
カノンのことも、クロードのことも、レオンのことも、全部嬉しかった。全部本当に嬉しかった。
でも——これだけが、違う重さで胸に刺さっていた。
書類を持つ手が、かすかに震えていた。顔が熱い。声が出ない。
ゲームの攻略対象、と思っていた人が。プリメーラ王国の第一王子、と思っていた人が。深夜に、護衛もつけずに、一人で——ここに来た。
「[sad]……ありがとうございます」
声が、うまく出なかった。
アルフォンスはそれを聞いて、かすかに頷いた。それだけ言って、廊下を歩き始める。
「[gentle]明日、うまくいくといい」
振り返らずに、遠ざかる背中。右耳の閃光のピアスが、廊下の灯りを弾いた。
扉が静かに閉まった。
陽菜は閉まった扉を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(あ)
認めるのに、一秒もかからなかった。
(これ、好きだ。本当に好きだ)
言い訳なしに、そう思った。ゲームの攻略対象だから、とか。転生してきた元女子高生だから、とか。そういう話じゃなくて——ただ、この人が、好きだ。
胸の真ん中が、じわりと温かいような、痛いような、不思議な感じでいっぱいになった。
*
全部の準備が整って、陽菜は窓の前に立った。
夜の王都ブランシェールが広がっている。白い石造りの街並みに、魔法の灯りが点々と光っている。明日は星灯祭——冬至の夜、プリメーラ王国最大の舞踏会。ゲームの破滅エンドと完全に同じ構図を、マリアンヌが再現しようとしている。
でも今回は違う。証拠がある。仲間がいる。そして——自分の意志がある。
陽菜が静かに決意を固めた、その瞬間。
胸の奥から、かすかな声が響いた。
ヴァネッサの声だった。
夢の中で出会ったあの孤独な少女が——初めて、能動的に語りかけてきた。
——あなたなら……わたくしの物語を変えられる。
陽菜は鏡に映った自分の顔を見た。栗色の波打つ長い髪。金色の瞳。唇の端の小さなホクロ。ヴァネッサの顔。でも今は、自分の顔にも思える。
「[serious]うん。変える。絶対に変える」
小さく、でもはっきりと、口に出した。
二つの魂が、初めて同じ方向を向いた夜だった。
窓の外、王都の灯りが静かに輝いている。明日の舞踏会まで、あとほんの少しだ。マリアンヌが公衆の前で糾弾演説を始める。全員の視線が集まる中で、集めた証拠を確実に機能させられるか——それが次の問いだった。