もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~
巨大な宇宙戦艦が光の矢を放つ遠未来の銀河――ラインハルト・フォン・ミューゼルは、残酷な陰謀によって親友キルヒアイスを失おうとしていた。しかし、運命のその日、キルヒアイスは奇跡的に生還する。
「無事でよかった……!」
涙の再会もつかの間、ラインハルトの周囲で異変が起こり始める。貴族たちの間で囁かれる不穏な噂、銀河を揺るがす大戦の幕開け、そして何より、姉アンネローゼに暗殺の魔の手が迫っているかもしれないという衝撃の事実! 野望と権力が星々のように激突する中、ラインハルトはキルヒアイスと共に巨大な敵へ立ち向かわねばならない。
だが、真実に近づくほど、二人は巧妙に仕組まれた死の罠へと深く堕ちていく……。果たしてラインハルトの運命は? そして、二人の友情は最後まで輝き続けるのか? 胸躍る、感動の銀河スペクタクル、ここに開幕!
もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~ - 銀河に轟け、その名を——覇者の夜明け
シュラーゲン岩礁は、光の届かぬ墓場だった。
大小無数の岩塊がひしめく暗黒の宙域を、一機の小型艇が縫うように進む。艇の識別信号は、キルヒアイスが命がけで残したデータから割り出したものだ。敵要塞のセンサー網は、その艇を「帰還した味方の哨戒艇」と認識し、素通りさせた。
艇内で、ラインハルト・フォン・ミューゼルはコンソールに手を置いていた。
燃えるような黄金の髪は無造作に乱れ、氷のように蒼い瞳だけが、異様な輝きを放っている。軍服はロイテンベルクでの戦闘で汚れたままだ。左胸の銀のブローチだけが、無機質な光を反射させていた。
(キルヒアイス……)
名前を胸の裡で呟く。それだけで、凍りつきそうな心臓が、もう一度だけ脈を打った。
要塞の格納庫に着艦する。ハッチが開くと同時に、ラインハルトは走り出していた。
警備兵が二人、通路の角から現れる。
「[surprised]おい、何者——」
最後まで言わせない。ラインハルトの手刀が兵士の喉笛を打ち抜き、同時に足を払って二人目を床に叩きつける。鈍い音。倒れた兵士のブラスターを奪い、安全装置を解除する。動作に迷いはない。
廊下を進む。キルヒアイスが残した兵站記録の断片から、要塞の構造は頭に入っている。拘束区画は地下三層目。エレベーターは使えない。階段を駆け下りる。二階層分を飛び降り、着地と同時に前転して勢いを殺す。
背後で警報が鳴り始めた。
「[cold]遅すぎる」
ラインハルトは走る速度を緩めない。
地下三層。錆びついた鉄の扉。
蹴破った。
部屋の中央に、キルヒアイスはいた。
両手を鎖で吊るされ、格子に括りつけられている。深紅の髪は血と汗で固まり、軍服は裂けて傷だらけの肌が覗いていた。左肩の銃創には包帯すら巻かれておらず、傷口が黒く変色している。
それでも——キルヒアイスの深い緑色の瞳は、閉じていなかった。
「[whispers]……来るなと言ったはずです」
絞り出すような声。唇は乾ききってひび割れている。
ラインハルトは答えない。無言で戒めを外し、キルヒアイスの体を支えた。
「[cold]お前の言うことを聞いていたら、俺はもう終わっていた」
短い言葉。それだけだった。だがキルヒアイスは、その一言で全てを理解したように、わずかに口元を緩めた。
部屋の隅に端末がある。ラインハルトはキルヒアイスを壁に寄りかからせると、端末を起動した。
画面にデータの一覧が表示される。
通信ログ、クーデター計画書、首都侵入用の通信識別コード——ゼークヴァルト門閥同盟が帝国そのものを内部から乗っ取るための、完全な証拠の束だった。
ラインハルトはデータを小型端末に転送しながら、冷たい笑みを浮かべた。
(クラウゼヴィッツ。お前の首は、これで頂いた)
「[gentle]立てるか」
ラインハルトが手を差し伸べる。キルヒアイスはその手を掴み、壁に手をついて立ち上がった。
「[gentle]……立てます」
声はまだかすれている。だが、その瞳には確かな光が戻っていた。
二人は小型艇に乗り込んだ。ワープ起動。艦艇が空間を折り畳み、星々が光の線に変わる。
キルヒアイスが意識を保つために壁に手をついているのを、ラインハルトは操縦席から見ていた。
手を伸ばす。
キルヒアイスの肩を、そっと支えた。
キルヒアイスはその手を振り払わなかった。ただ、静かに目を閉じる。
艦艇は、帝都ヴァルトハイゼンへ向けて跳躍した。
* * *
帝都オスティアーデ。
皇宮「ノイエ・ヴァルハラ」の大広間には、重苦しい空気が充満していた。
「[serious]……よって、上級大将ラインハルト・フォン・ミューゼルの指揮権停止はもはや猶予ならぬ事態である。艦隊を壊滅させた責任は、将官位の剥奪をもって清算されるべきだ」
銀色のオールバックを完璧に整えた老貴族が、重々しい声で演説を続ける。冷たい灰色の瞳が、出席した将官たちを一人ひとり見据えた。
クラウゼヴィッツ・フォン・シュタウフェンベルク。ゼークヴァルト門閥同盟の盟主であり、右頬の古い決闘の傷跡が、この男の生き様を物語っている。
臨席する皇帝は、玉座で沈黙したままだった。
「[serious]賛成の者は起立を」
クラウゼヴィッツが言い終える前に——
ドォン!!
大広間の分厚い扉が、内側から蹴破られた。
全員の視線が、一斉に入口へ集中する。
そこに立っていたのは、傷だらけの軍服を纏い、黄金の髪を振り乱した一人の青年だった。
「[cold]その採決、待ってもらおう」
静かな声。だが、その一言で広間の空気が凍りついた。
ラインハルトは迷わず歩を進める。ざわめく貴族たちを無視し、皇帝の前に進み出た。
「[angry]無礼者! この場を何と心得る!」
ラインハルトは答えない。代わりに、端末を会議場の大型スクリーンに接続した。
スクリーンが光り、無数のデータが映し出される。
それは、クラウゼヴィッツと門閥同盟幹部が交わした通信ログの全文だった。
「[cold]見ての通りだ。ゼークヴァルト門閥同盟によるクーデター計画書。首都侵入用の通信識別コードを悪用し、正規艦隊を偽装して帝都を制圧する手順が、日付と時刻入りで記録されている」
広間が、水を打ったように静まり返った。
「[cold]そしてこちらが、キルヒアイス暗殺未遂を指示した、ディルクシュナイダー秘密情報局との連絡記録だ」
ラインハルトの指が端末を操作する。スクリーンに新たな文書が表示された。
クラウゼヴィッツの顔から、血の気が引いていく。
「[angry]……捏造だ!!」
老貴族が叫んだ。だが、その声はわずかに震えている。
「[cold]捏造? では、この暗号化のタイムスタンプと、門閥同盟の内部承認コードが一致している理由を説明してもらおうか」
ラインハルトの声は、氷のように冷たかった。
感情を抑えた静かな口調で、一点一点、証拠を積み重ねていく。怒鳴り散らすより、遙かに恐ろしい。その論理の正確さが、貴族たちを一人、また一人と沈黙させていった。
クラウゼヴィッツの灰色の瞳が、獲物を失った鷹のように揺れた。
「[angry]……ならば!!」
クラウゼヴィッツが護衛に合図する。広間の隅に控えていた武装兵たちが、一斉にブラスターを構えた。
「[cold]実力行使か。それが貴様の最後の手段だな」
ラインハルトは動かない。蒼い瞳が、クラウゼヴィッツを射抜く。
護衛が引き金に指をかけた——その瞬間。
広間の後方の扉が、音もなく開いた。
現れたのは、包帯を全身に巻いた、赤毛の青年だった。
深紅の髪が、かすかに揺れる。深い緑色の瞳は、静かな怒りをたたえていた。
「[surprised]キル……ヒアイス……!?」
誰かが、幽霊を見るような声を上げた。
死んだはずの男が、生きて立っている。その事実だけで、広間の空気が凍りつく。護衛が、一瞬動きを止めた。
その一瞬で、キルヒアイスは動いていた。
護衛の手首を掴み、捻り上げる。最小限の力。満身創痍のはずの体が、無駄のない動きで相手を床に押さえ込んだ。
ガシャン、とブラスターが床に落ちる音が、静寂を破った。
キルヒアイスは護衛を制圧したまま、ゆっくりと跪き、皇帝に向かって頭を下げた。
「[gentle]……ラインハルト様が持参された証拠は、本物です」
静かな声。だが、その一言が、広間の空気を完全に変えた。
キルヒアイスが立ち上がろうとして、ふらつく。壁に手をついた。
ラインハルトが無言で駆け寄り、その肩を支える。
(……まったく)
ラインハルトは心の中で呟いた。こんな時なのに、少しだけ口元が緩むのを抑えられない。
皇帝が、初めて口を開いた。
「……クラウゼヴィッツ。弁明はあるか」
クラウゼヴィッツは、ゆっくりと顔を上げた。
その灰色の瞳に宿っていたのは、怒りでも恐怖でもなく——深い、古い傷の痛みだった。
「[serious]……私は、帝国の秩序を守るためにやったまでだ」
クラウゼヴィッツの声は、静かだった。
「[serious]ラインハルト・フォン・ミューゼルのような平民同然の成り上がりが、帝国を牛耳ればどうなるか。百年積み上げた貴族の秩序が崩れ、帝国は内側から食い破られる。……それを防ぐために、必要なことだった」
その言葉には、紛れもない信念があった。
ただの悪党ではない。本気で帝国の未来を案じ、そのために手段を選ばなかった。ただそれだけの男だった。
ラインハルトは、初めて感情をあらわにした。
「[cold]その秩序が、私の姉を奪った」
蒼い瞳に、炎が宿る。
「[cold]その秩序が、私の兵士たちを死なせた。私の副官を二度も奪いかけた。お前の野望のために帝国を売るものならば——」
ラインハルトは、クラウゼヴィッツをまっすぐに見据えた。
「[cold]俺が、それを終わらせる」
広間に、沈黙が落ちた。
皇帝が、重い口を開く。
「クラウゼヴィッツ・フォン・シュタウフェンベルク。貴公を反逆罪の容疑で拘束する。また、ゼークヴァルト門閥同盟の全加盟貴族家に調査を命じる。アンネローゼ嬢の辺境惑星移送も、即刻撤回とする」
衛兵がクラウゼヴィッツを囲む。老貴族は最後まで背筋を伸ばし、立ったままだった。
連行される瞬間、クラウゼヴィッツは一度だけラインハルトを振り返った。
その灰色の瞳は、古い傷の痛みを宿したまま——しかし、どこかで全てを諦めたような色をしていた。
ラインハルトは、何も返さなかった。
門閥同盟の幹部貴族たちが、次々と席を立ち、降伏の意を示す。広間の空気は、完全に変わっていた。
* * *
帝都オスティアーデの夜空に、無数の星が瞬いている。
軍務省本庁舎の屋上。
ラインハルトとキルヒアイスは、並んで星空を見上げていた。
キルヒアイスは医療処置を受けた後もまだ包帯だらけで、左肩を庇うように立っている。ラインハルトはその隣で、腕を組んで星を見ていた。
子供の頃、屋根の上から見たのと同じ星空だ。
「[gentle]……あの約束、まだ有効か」
不意に、ラインハルトが言った。
キルヒアイスは、少しだけ目を細める。
「[gentle]最初から期限なんてつけていません」
短い沈黙があった。
「[serious]次は、誰も失わせない」
ラインハルトの声は、静かだった。だがその言葉には、鋼のような決意が込められていた。
キルヒアイスはそれに答えず、ただ深い緑色の瞳で星を見続ける。
ふと、キルヒアイスがふらついた。
肩が、ラインハルトの腕に触れる。
ラインハルトは、動かなかった。
キルヒアイスも、そのままだった。
どちらも何も言わず、ただ肩を触れ合わせたまま、星を見続ける。帝都の夜景が眼下に広がり、冷たい夜風が二人の髪を揺らした。
その静寂を破ったのは、ラインハルトの通信端末だった。
低い電子音が鳴る。
ラインハルトが端末を取り出し、画面を見た。
発信元不明の暗号通信。
内容は、たった一行だった。
——次は姉を使う。帝国の外から。
ラインハルトの蒼い瞳が、鋭く細められた。
「[cold]……キルヒアイス、どうやら俺たちの戦いは、まだ始まったばかりのようだ」
キルヒアイスは、静かに頷いた。
その深い緑色の瞳は、もう痛みだけを宿してはいなかった。
帝都の星空の下。二人の青年は、新たな戦いの到来を感じ取っていた。
この夜を境に、銀河帝国の歴史は静かに、だが確実に、新しいページを開こうとしていた。