もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~
巨大な宇宙戦艦が光の矢を放つ遠未来の銀河――ラインハルト・フォン・ミューゼルは、残酷な陰謀によって親友キルヒアイスを失おうとしていた。しかし、運命のその日、キルヒアイスは奇跡的に生還する。
「無事でよかった……!」
涙の再会もつかの間、ラインハルトの周囲で異変が起こり始める。貴族たちの間で囁かれる不穏な噂、銀河を揺るがす大戦の幕開け、そして何より、姉アンネローゼに暗殺の魔の手が迫っているかもしれないという衝撃の事実! 野望と権力が星々のように激突する中、ラインハルトはキルヒアイスと共に巨大な敵へ立ち向かわねばならない。
だが、真実に近づくほど、二人は巧妙に仕組まれた死の罠へと深く堕ちていく……。果たしてラインハルトの運命は? そして、二人の友情は最後まで輝き続けるのか? 胸躍る、感動の銀河スペクタクル、ここに開幕!
もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~ - 罠の星、全てが崩れる日
出撃三時間前。
旗艦ブリュンヒルトの艦橋は、いつもと違う静けさに包まれていた。
空気が、張り詰めている。
「クリューガー少佐、艦隊陣形データの最終確認を」
黄金の髪を揺らし、ラインハルトが振り返る。蒼い瞳が、新たに後方支援担当となった副官を射抜いた。
クリューガーは一礼し、端末を操作する。その指先は、わずかに汗ばんでいた。
キルヒアイスが、艦橋の隅からその様子を見つめている。深紅の髪の下の、深い緑色の瞳が、細められた。
先日、信頼する副官マイアー少将が緊急異動で艦隊を去った。その穴を埋めるように配属されたのが、このクリューガー・フォン・クライン少佐だ。人事局からの推挙で、経歴は申し分ないとされていた。
だが——
(目の動きが、おかしい)
キルヒアイスは胸の奥で呟いた。クリューガーがデータを読み上げるたび、その視線が一瞬、あり得ない方向へ走る。まるで、何かを探るように。
確証はない。しかし、前回の暗殺未遂以来、キルヒアイスの警戒心は以前よりずっと研ぎ澄まされていた。
「……ラインハルト様」
キルヒアイスが半歩、前に出る。
しかし、その時だった。
「し、出撃準備、完了しました!!」
若いオペレーター兵が、緊張で上ずった声で叫んだ。敬礼の角度が明らかに間違っている。
「……あっ、す、すみません! もう一度!!」
やり直す。今度は勢い余って右手が震えている。艦橋の空気が、一瞬だけ緩んだ。
キルヒアイスが、そっと歩み寄り、小声で囁く。
「大丈夫だ。敬礼は、一回でいい。深呼吸して」
オペレーター兵は耳まで真っ赤にして、こくこくと頷いた。
ラインハルトはその様子を一瞥し、口元をわずかに歪めた。それは、苦笑いに近い表情だった。
「よし、全艦へ通達。これよりロイテンベルク星系へ侵攻する。総員、戦闘配置につけ」
ブリュンヒルトの艦体が、重低音を響かせて回頭する。
キルヒアイスは何も言えなかった。クリューガーへの疑念は、胸の内にしまい込むしかなかった。
その時、キルヒアイスは無意識に、軍服の左袖口を直した。
左胸の傷が、ずきりと疼く。まだ、完治していない。再生医療で傷口は塞がったが、内部の神経は悲鳴を上げていた。
(……大丈夫だ)
キルヒアイスは自分に言い聞かせる。
戦闘開始から二十分。
艦橋のメインモニターに、光点の群れが広がっていた。敵味方、数千隻の艦艇が入り乱れる戦域図だ。
「右翼、予定通り前進。敵を包囲殲滅する」
しかし、次の瞬間、モニターの光点が、あり得ない動きを見せた。
包囲されるはずの同盟艦隊が、まるでこちらの作戦を知っているかのように、事前に回避行動を取ったのだ。
敵の艦列が、するりと右翼の側面に回り込む。
「なに……?」
誰かが息を呑む音がした。
ラインハルトの目が、冷たく細められる。
「陣形変更。全艦、デルタフォーメーションへ移行。急げ」
命令が飛んだ。
だが、その直後だった。
モニターの中央——艦列の要所に配置されていた十二隻の帝国艦が、突然、向きを変えた。
砲口が、隣の僚艦に向けられる。
閃光。
ドォォォン!!
くぐもった爆音が、艦橋の床を震わせた。モニターの中で、味方の艦が内側から炎に包まれ、真っ二つに折れていく。装甲が剥離し、内部の空気が宇宙空間に噴き出して、一瞬で凍りつく。
「味方艦が、味方を撃っています!!」
絶叫が艦橋に響く。
ラインハルトは、無言でモニターを見つめていた。その顔から、表情が消えている。
キルヒアイスが、動いた。
通信席で何かを操作しようとしていたクリューガーの腕を、背後から強く掴む。
「……何をしている」
クリューガーの顔色が変わった。
「離せ!! これは戦闘指揮の——」
キルヒアイスは答えず、そのままクリューガーを床に組み伏せた。クリューガーが握っていた隠し端末が、金属音を立てて床に落ちる。
キルヒアイスは端末を拾い上げた。画面をスクロールする。
「……全作戦データ。数時間前に、外部へ送信されている」
静かな声だった。
しかし、その声は艦橋の全員の耳に、死刑宣告のように突き刺さった。
ラインハルトが、初めてクリューガーに視線を向ける。
「……そうか」
たった一言。
怒鳴りもしない。罵倒もしない。ただ、静かに、そうか、と。
その声は、かすかに震えていた。
艦橋の誰もが、背筋を冷たいものが這うのを感じた。
ガギィン!!
突然、艦橋の外で、鋼鉄が引き裂かれるような凄まじい轟音が響いた。
「敵特殊部隊が、小型艇で強行接舷!! 艦内に突入してきます!!」
監視カメラの映像が、サブモニターに映し出される。黒ずくめの武装兵たちが、廊下を制圧しながら進んでくる。その動きは無駄がなく、まるで艦内構造を知り尽くしているかのようだ。
護衛の兵士たちが応戦するが、次々と撃ち倒されていく。
「艦橋の防衛を固めろ!!」
ラインハルトの命令も虚しく、敵兵はあっという間に艦橋の目前まで迫っていた。
ズドォォォン!!!
爆薬が炸裂し、艦橋の分厚い装甲扉が、内側へ向かって吹き飛んだ。
硝煙と火花が充満する中、敵の指揮官らしき男が、ゆっくりと銃を構える。
銃口は、まっすぐにラインハルトの心臓を狙っていた。
時間が、止まった。
キルヒアイスは、考えるより先に、体が動いていた。
ラインハルトの前に、身を投げ出す。
ドスッ!
軽い衝撃。
キルヒアイスの左肩に、焼けるような痛みが走った。血の味が、喉に広がる。
床が、傾いでいく。
「キルヒアイス!!!」
ラインハルトの絶叫。
倒れたキルヒアイスの腕を、敵兵が掴む。無理やり引きずり起こし、出口へと連行していく。
キルヒアイスの足が、血で滑る床を引きずられた。
「これはゼークヴァルトからの贈り物だ、金髪の小僧」
敵指揮官が、歪んだ笑みを浮かべて言い放つ。
キルヒアイスは、なされるがまま引きずられながら、一度だけ、ラインハルトを振り返った。
その深い緑色の瞳は、痛みに歪んでいなかった。
(……よかった。ラインハルト様が、無事で)
その目は、痛みよりも、申し訳なさを宿していた。
自分のせいで、ラインハルトの行動を縛ってしまう。そのことが、何よりも悲しいと、その目は語っていた。
「キル——」
ラインハルトは名を叫ぼうとして、声が出なかった。
喉が、張り付いて動かない。指先が、空を掻く。
敵は、退艦していった。
艦橋には、血の匂いと、沈黙だけが残された。
損害報告が、次々と入ってくる。
「撃沈、百三十隻」
「大破、二百八十隻」
「戦死者、推定八千人以上……」
オペレーター兵たちの声は、泣き出しそうに震えていた。艦隊は、もはや戦闘継続不可能だ。モニターの向こうで、敵艦隊が悠然と離脱していく。
帝都から、軍務省経由で帰還命令が届く。指揮権停止。
ラインハルトは、崩れた艦橋の床に膝をついていた。
手の平で、キルヒアイスが流した血の跡を、そっと押さえる。赤く、まだ温かい。
誰も、声をかけられなかった。
しばらくして、ラインハルトは立ち上がった。ふらつく足で、外の宇宙が見える窓へと歩く。
「……くそっ!!」
拳が、窓ガラスを叩いた。鈍い音。骨がきしむ感触。もう一度。今度はガラスに血がにじむ。
「全員……生きて、帝都に戻れ……」
命令の言葉が、喉の奥で詰まった。それ以上、何も言えなくなった。
ラインハルトの肩が、かすかに震えている。
艦隊は、壊滅した。
姉は、連絡の取れない辺境にいる。
キルヒアイスは、奪われた。
二十歳の若き提督は、生まれて初めて、本当の意味で何もできないという事実を、その身に刻みつけられていた。
帝都への帰還途中。
ブリュンヒルトの医療区画で、ラインハルトは一人、壁に背を預けていた。
膝を抱え、ただ、暗い宇宙を見つめている。
絶望が、体全体を覆い尽くしていた。
ふと、キルヒアイスが倒れる直前の言葉を、思い出す。
引きずられながら、キルヒアイスは確かに、小さく呟いたのだ。
その言葉は、ラインハルトの名前ではなかった。
「データ」——そう、聞こえた。
(データ……?)
ラインハルトは、その言葉を頭の中で繰り返す。
敵要塞の場所も、キルヒアイスの生死も、何もかもが闇の中だ。しかし、キルヒアイスは最後に、自分ではなく「データ」という言葉を託した。
それは、暗闇の中に落ちた、一筋の糸だった。
細く、今にも切れそうな。
ラインハルトは、目だけを開けたまま、ガラスの向こうの暗い宇宙を見続けている。
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