もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~
巨大な宇宙戦艦が光の矢を放つ遠未来の銀河――ラインハルト・フォン・ミューゼルは、残酷な陰謀によって親友キルヒアイスを失おうとしていた。しかし、運命のその日、キルヒアイスは奇跡的に生還する。
「無事でよかった……!」
涙の再会もつかの間、ラインハルトの周囲で異変が起こり始める。貴族たちの間で囁かれる不穏な噂、銀河を揺るがす大戦の幕開け、そして何より、姉アンネローゼに暗殺の魔の手が迫っているかもしれないという衝撃の事実! 野望と権力が星々のように激突する中、ラインハルトはキルヒアイスと共に巨大な敵へ立ち向かわねばならない。
だが、真実に近づくほど、二人は巧妙に仕組まれた死の罠へと深く堕ちていく……。果たしてラインハルトの運命は? そして、二人の友情は最後まで輝き続けるのか? 胸躍る、感動の銀河スペクタクル、ここに開幕!
もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~ - 姉の涙、届かない手
帝都中央病院の一室でキルヒアイスが最後の診察を受けてから、二日が経っていた。
ラインハルト・フォン・ミューゼルは、前線基地イゼルローン要塞に設けられた連絡用執務室で、一枚の公文書を手にしていた。漆黒の軍服をまとい、燃えるような黄金の髪が空調の風に揺れる。その蒼い瞳が、手元の文面をなぞるごとに、冷たく凍りついていく。
【緊急通知番号四八三】
【発令元:帝国後宮管理局】
【件名:第一級寵姫アンネローゼ殿下の身辺安全確保に関する緊急措置】
「……なんだと」
声は低く、短かった。
文面は簡潔だった。アンネローゼを保護する名目で、戦闘が頻発する最前線の辺境惑星、グラーフェンシュタイン第二惑星へ移送する——それが決定したという。発令者の署名は後宮管理局次長の名前だった。
「ふざけるな」
彼の手が、文書をくしゃりと握り潰した。指の力で紙が破れ、皺が走る。執務室の空気が、一瞬で張り詰めた。
キルヒアイスが隣で端末を操作していた。深紅の髪の若者は、相変わらず穏やかな表情を崩さない。しかし端末を叩く指は素早く、無駄がない。彼の左胸——暗殺未遂の傷跡が残る場所——を、かばうような仕草はなかった。少なくとも表面上は。
「後宮管理局次長の名前を、門閥同盟の家系リストと照合しました」
数秒後、画面に結果が表示される。
「一致しました。次長はゼークヴァルト門閥同盟、傘下のフィッシャー伯爵家の出身です」
ラインハルトは短く息を吐いた。
「やはりか」
彼は椅子を蹴るように立ち上がる。握り潰した文書が、床に落ちた。
前話——たった二日前に届いた姉の侍女からの秘密の手紙。夕食に毒が混入されていたという報告。それを未然に防いだ侍女の恐怖に震える文字。後宮内で誰かが姉の命を狙っている証拠だった。
毒で殺せないなら、今度は物理的に危険地帯へ放り込む。
後宮管理局は皇帝の耳に入る前に、これを既成事実として処理するつもりだ。移送は明日の早朝。
「キルヒアイス、行くぞ」
「どこへですか」
「軍務省だ。この命令を撤回させる」
キルヒアイスは静かに立ち上がった。その深い緑色の瞳が、一瞬だけラインハルトの背中を見つめる。温かみのある視線だったが、どこか心配そうでもあった。
二人は執務室を出た。
軍務省本庁舎は、地上四十階建ての巨大な建物だ。帝都オスティアーデの中心部にそびえ立ち、帝国宇宙艦隊の全作戦を統括する中枢だった。ラインハルトは最上階に自分の執務室を持つが、今回の用件はそこではない。
後宮管理局との連絡を担当する部署——帝国後宮連絡室。
ラインハルトは迷わずその扉を開けた。キルヒアイスが後に続く。
部屋の中では、三人の高官がデスクに向かっていた。全員が門閥貴族の出身か、あるいはその息のかかった者たちだ。ラインハルトが入室した瞬間、空気が変わった。嫌な沈黙が走る。
「後宮管理局次長名で発令された、アンネローゼ殿下の移送命令について話がある」
高官の一人——髪の薄い中年男、シュトライト准将が顔を上げた。面倒そうな表情だ。
「ああ、あれですか。もう決定したことです。軍務省の管轄外ですよ」
「グラーフェンシュタイン第二惑星は、現在も散発的な戦闘が続いている最前線だ。保護という名目で女性を送る場所ではない」
「後宮管理局が安全だと判断したんです。我々には口出しできません」
ラインハルトの指が、軍服の袖の下で白くなる。キルヒアイスが半歩、前に出た。
「後宮管理局の決定には、帝国貴族特権法第三条の例外規定——緊急時における皇帝直轄権の発動が適用されるはずです。その手続きは踏まれましたか」
シュトライト准将の顔が、わずかに歪んだ。
「皇帝陛下は現在、健康上の理由で面会がかなわない。したがって直轄権の発動は不可能です」
「それならば上級大将の権限で、皇帝への直訴状を提出する」
「どうぞご自由に。ただし——」
シュトライト准将は、デスクの引き出しから一枚の書類を取り出した。それをラインハルトの前に滑らせる。
「上級大将の直訴権は、軍務省本省の決裁を経て初めて有効となります。そして本省は先ほど、貴殿の直訴を却下しました」
沈黙。
ラインハルトはその書類を見下ろした。却下の印が押されている。日付は——今日だった。事前に用意されていたのだ。
「……いつからだ」
「何がです?」
「いつからこの茶番を準備していたときいている!」
声が、執務室に響いた。シュトライト准将の顔がわずかに青ざめる。しかし彼は、それでも口元に薄笑いを浮かべたままだった。
「お引き取りください、上級大将。ここは軍務省です。感情で動かれると困りますな」
ラインハルトの拳が震えた。
(この——)
その時、キルヒアイスの手が、そっとラインハルトの腕に触れた。
「……今日のところは引きましょう」
声は穏やかだった。しかし、かすかに震えている。彼はもう一方の手を、無意識に腰に当てていた。まだ完全に回復していない体で、ここまで早足で歩いてきたのだ。息が整っていないのが、ラインハルトにも分かった。
「感情で動けば、次の手はなくなります」
ラインハルトはキルヒアイスを見た。深紅の髪の親友の顔は、少し青ざめている。それでも、その深い緑色の瞳はラインハルトをまっすぐ見つめていた。
(お前はいつも、そうだな)
いつも俺の暴走を止める。自分の傷がまだ癒えていないのに、それよりも俺のことを心配する。
ラインハルトは無言で踵を返した。キルヒアイスが後に続く。
廊下に出ると、キルヒアイスは壁に手をついて、小さく息を整えた。誰にも聞こえないように。しかしラインハルトはそれに気づいていた。
だが、そのことには触れなかった。
今はただ、歩くしかなかった。
その夜。
前線基地連絡用の帝都執務室に、ラインハルトは一人で座っていた。星図を広げ、グラーフェンシュタイン第二惑星の位置を確認している。帝都から遠く、帝国と同盟の境界線からも近い。戦闘の流れ弾が惑星軌道まで届いた事例も過去にある危険な宙域だ。
姉がそこに送られれば、自分は何もできなくなる。
(動く理由がどこにあっても、何も)
拳を握りしめた。
その時だった。
執務室のドアが、静かにノックされた。軍の通信とは違う、控えめな音。
「誰だ」
返事はなかった。その代わり、ドアがゆっくりと開く。
現れたのは、マントを深くかぶった女性だった。背が高く、動きに無駄がない。その後ろに、もう一人——小柄な女性が立っている。
マントの女性が、フードを外した。
「ラインハルト」
ラインハルトは椅子から立ち上がった。その蒼い瞳が見開かれる。
そこに立っていたのは、姉だった。
アンネローゼ。腰まで届く黄金の長い髪。深い菫色の瞳。いつも哀しげな微笑みを浮かべているその顔が、今はほっとしたように、そして少しだけ不安そうに、弟を見つめていた。
「無事でよかった……元気そうで」
彼女はゆっくりと歩み寄り、ラインハルトの頬に手を触れた。その指先は冷たかった。長い廊下を歩いてきたせいだろうか。あるいは——緊張で?
「姉さん……どうしてここに」
「明日、私ね……遠くに行くの。その前に、どうしても会いたくて」
彼女の後ろに控えていた侍女が、静かに一礼した。アンネローゼが唯一心を許している侍女だ。深夜の警備の隙間をついて、ここまで連れてきたのだろう。
「ごめんなさいね、急に。でも、どうしても……あなたの顔が見たかったの」
ラインハルトは姉の手を取った。その時——
袖口がずれて、細い手首が露わになった。白い肌に、うっすらと残る打ち傷の跡。青紫色の痣が、かすかに、しかし確かにあった。
ラインハルトの顔が、一瞬で凍りついた。
「……姉さん、これは」
「あ……これはね、自分で転んでしまって——」
「誰にやられた」
声が、低くなった。蒼い瞳に炎が宿る。
アンネローゼはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「いいの。大したことじゃないわ」
「よくない」
「ラインハルト」
彼女は弟の両手を、自分の手で包み込んだ。冷たい指先が、ラインハルトの震える手をそっと押さえる。
「お願い。あなたとキルヒアイスが無事でいてくれるなら、それだけでいいの。私のために、大切なものを失わないでほしい。あなたはいつも無茶をするから……私、それが一番怖いのよ」
その言葉に、ラインハルトの喉が詰まった。
(姉さんは、自分の命が狙われていることを知っている)
(それでも、俺のことを心配している)
彼は奥歯を噛みしめた。泣いてはいけない。今、泣いたら姉がもっと心配する。
「……必ず迎えに行く」
静かに、しかしはっきりと言った。
「ええ」
アンネローゼは小さくうなずいた。その菫色の瞳が、ほんの少し潤んでいる。それでも彼女は、涙を見せなかった。弟の前で泣くわけにはいかないと、そう思っているのだろう。
二人の間の沈黙が長く続いた。ラインハルトは、姉の手を離さなかった。
執務室のドアの外。
キルヒアイスは、壁にもたれていた。中から聞こえるかすかな声。アンネローゼの優しい声音と、ラインハルトの低い声。
彼は静かに目を閉じた。何も言わず、そっと視線を床に落とす。その深い緑色の瞳に、どんな感情が浮かんでいたのか、誰にもわからなかった。
しばらくして、侍女が声をかけた。
「殿下、そろそろお時間です」
アンネローゼはラインハルトの手を、もう一度だけ強く握った。それから、ゆっくりと手を離す。
「元気でね。無理しないで」
「姉さんも」
彼女は微笑んだ。いつもの哀しげな、でも温かい微笑みだった。そしてマントのフードを深くかぶり直し、侍女とともに廊下の闇へと消えていった。
ラインハルトは、閉じられたドアをしばらく見つめていた。
(必ず迎えに行く)
その思いだけが、胸の中で燃え続けていた。
アンネローゼが去って、間もなくだった。
執務室のドアが、勢いよく開かれた。入ってきたのは、艦隊通信担当の若い下士官だった。息を切らし、顔面蒼白で、右手に通信文を握りしめている。
その敬礼の角度が、明らかに間違っていた。手が震えているせいで、指先が耳よりずいぶん上を指している。緊張のあまり、直立不動の姿勢もわずかに傾いでいた。
キルヒアイスが、無言で近づいた。そしてそっと、下士官の敬礼の角度を手で直してやる。
「落ち着いて。いいから、報告して」
「は、はいっ! たった今、帝都軍務省人事局より緊急通達が……!」
下士官は震える声で伝えた。
「艦隊後方支援担当、マイアー少将に対し、別の艦隊への緊急異動命令が発令されました! すでに本人に通達済みで、明朝には出発の準備が整うと……!」
執務室が、静まり返った。
マイアー少将。ラインハルト艦隊の補給・兵站を統括してきた専門家であり、最も信頼する後方支援の副官だ。彼が抜ければ、艦隊の内部情報管理は一時的に空白になる。
「……発令者は」
「軍務省人事局長の名で……!」
ラインハルトは、握りしめていた手を解いた。掌に、爪の跡がくっきりと残っている。
(姉の移送と、マイアーの異動——同時だ)
偶然ではない。これが敵の第二手だ。艦隊内部に楔を打ち込み、ラインハルトの行動力を削ぐ。
しかし、動かぬ証拠はない。今すぐ止める権限もなかった。
キルヒアイスが静かに口を開いた。
「……誰かが中にいる可能性があります」
言葉を選ぶような、慎重な口調だった。
「ああ」
ラインハルトは奥歯を噛みしめた。敵の手が、艦隊の内側にまで届いている。その事実が、二人の間に重くのしかかる。
下士官は、まだ直立不動のまま震えていた。キルヒアイスが彼の肩を軽く叩く。
「ご苦労だった。下がっていいよ」
「は、はいっ!」
下士官はぎこちない敬礼をして、慌てて部屋を出ていった。今度も角度は間違っていたが、キルヒアイスはもう直さなかった。
執務室には、ラインハルトとキルヒアイスの二人だけが残された。
ラインハルトは星図を広げた。帝都周辺の宙域図。その一点——グラーフェンシュタイン第二惑星の座標を、指でトンと叩く。
「姉さんがここに置かれれば、俺は動けなくなる」
「はい。それが敵の狙いです。あなたを感情で動かし、判断を鈍らせることが」
「……分かってる」
短い返事だった。
彼の蒼い瞳が、星図を見つめている。しかしその目は、いつもの冷徹な光を失っていた。代わりに宿っていたのは——初めて見る、本当の意味での怖さだった。
キルヒアイスはその表情を見て、悟った。
(ラインハルト様が、これほど追い詰められている)
彼は何かを言おうとした。しかし言葉が見つからない。どんな言葉も、この状況では薄っぺらく感じられた。
「移送は、明日の早朝だな」
「……はい」
「マイアーも、明日には発つ」
「はい」
「……打つ手がない」
その声は、かすかに震えていた。
キルヒアイスは、静かにラインハルトの隣に立った。何も言わず、ただそばにいる。それが、彼にできる唯一のことだった。
執務室の窓の外では、帝都オスティアーデの夜景が広がっていた。無数の灯りが瞬き、人々の生活が続いている。しかしその光は、この部屋の中の暗さを照らすことはなかった。
夜が明けるまで、あと数時間。
二人は、ただ黙って星図を見つめ続けていた。Noveliaとは?
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