もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~
巨大な宇宙戦艦が光の矢を放つ遠未来の銀河――ラインハルト・フォン・ミューゼルは、残酷な陰謀によって親友キルヒアイスを失おうとしていた。しかし、運命のその日、キルヒアイスは奇跡的に生還する。
「無事でよかった……!」
涙の再会もつかの間、ラインハルトの周囲で異変が起こり始める。貴族たちの間で囁かれる不穏な噂、銀河を揺るがす大戦の幕開け、そして何より、姉アンネローゼに暗殺の魔の手が迫っているかもしれないという衝撃の事実! 野望と権力が星々のように激突する中、ラインハルトはキルヒアイスと共に巨大な敵へ立ち向かわねばならない。
だが、真実に近づくほど、二人は巧妙に仕組まれた死の罠へと深く堕ちていく……。果たしてラインハルトの運命は? そして、二人の友情は最後まで輝き続けるのか? 胸躍る、感動の銀河スペクタクル、ここに開幕!
もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~ - 星空の約束、忍び寄る影
艦隊旗艦ブリュンヒルトの執務室は、補給物資差し押さえから一週間、重苦しい空気に沈んでいた。
ラインハルトは端末の書類データを一枚一枚、冷たい蒼い瞳でなぞっていく。帝国補給局からの非公式ルートで取り寄せた内部決裁文書だ。隣ではキルヒアイスが同じように書類を精査している。深紅の髪の若者は相変わらず穏やかな表情を浮かべているが、時折、左胸をかばうように小さく身じろいだ。まだ銃創が癒えきっていないのだろう。
その痛みを押して彼がここにいることを、ラインハルトは知っている。だが、そのことには触れなかった。
「……あったぞ」
ラインハルトの指が止まった。画面に映る差し押さえ命令書。その末尾に押された承認印。
「フィッシャー伯爵家、私設法務官、ヴィルヘルム・クロイツァー」
キルヒアイスが顔を上げた。
「ゼークヴァルト門閥同盟の傘下ですね。伯爵はクラウゼヴィッツ公爵の遠縁にあたります」
「ふん。やはりあの連中か」
ラインハルトは短く鼻を鳴らした。ゼークヴァルト門閥同盟。三十の名門貴族家が連なる保守派の大連合体。盟主クラウゼヴィッツ公爵は私兵艦艇八千隻を擁し、帝国内でラインハルトの台頭をもっとも敵視している勢力だ。
先日のキルヒアイス暗殺未遂事件——ディルクシュナイダー秘密情報局が関与したあの狙撃も、門閥同盟の息がかかっているに違いない。
「しかし、これだけでは公式な告発には弱い。私設法務官の印など、『事務的な手続きの一環』で言い逃れできる」
キルヒアイスは小さくうなずいた。
「ええ。ですが、この書類を持ち出してくれた下士官には、ちゃんと礼を言わないと」
その言葉に、ラインハルトは少しだけ表情をゆるめた。経理担当の下士官——若い男で、書類を非公式に持ち出すリスクを承知で協力してくれたのだ。
しばらくして、その下士官が執務室に呼ばれた。まだ二十歳そこそこの、そばかすの目立つ若い兵士だ。彼は緊張で指先を震わせながら、ラインハルトの前に立った。
「ご苦労だった。資料、確かに受け取った」
「は、はい! お役に立てて光栄です、上級大将!」
「……礼を言う」
ラインハルトが珍しく素直にそう言うと、下士官は一瞬、きょとんとした。それから、みるみるうちに顔が赤くなっていく。耳の先まで真っ赤だ。
「め、滅相もございません! ぼ、僕なんかのために、上級大将がお礼なんて……!」
「お前の協力がなければ、この書類は手に入らなかった。それは事実だ」
下士官はもう、何を言っていいかわからないという顔で直立不動になった。キルヒアイスがくすりと笑う。
「そんなに緊張しなくていいんだよ。ラインハルト様は、ちゃんと人の働きを認める方だから」
ラインハルトはわずかに横を向いて、「……余計なことを言うな」 と呟いた。その声には、いつもの冷徹さはなかった。
その日の夕刻。キルヒアイスは一人、艦内の通信室で端末に向かっていた。
帝国補給局の古い名簿をスクロールしながら、彼はある名前を探し当てる。カール・ハーゼ。士官学校時代の同期で、今は補給局に勤務する下士官だ。キルヒアイスは彼が信頼できる男だと知っていた。
左胸が、ずきりと疼いた。
キルヒアイスは眉をひそめ、無意識に手を傷の上に置く。再生医療で傷口は塞がったが、神経の回復にはまだ時間がかかる。医者からは「しばらくは無理をするな」と言われていた。
だが、ラインハルトの危機を前に、自分の身体を気遣っている余裕はなかった。
彼はハーゼに秘密通信を送った。
返信はすぐに来た。ハーゼはキルヒアイスの依頼を——補給差し押さえの背後関係を探ってほしいという依頼を——引き受けてくれた。それどころか、彼はすでに独自に集めていた情報を提供してきた。
その内容を読んで、キルヒアイスの穏やかな目が、すっと細められた。
「……これは」
一時間後、執務室に戻ったキルヒアイスの顔には、いつもの温かい微笑みはなかった。
ラインハルトはそれだけで、ただならぬ情報だと察した。
「話せ」
「過去三年間、同じ手口で七人の若手将官が兵站を断たれ、失脚させられていました」
キルヒアイスは端末の画面をラインハルトに向ける。そこには、ハーゼが送ってきた情報がずらりと並んでいた。日付、標的となった将官の名前、遮断された補給物資のリスト、そして——彼らがその後どうなったか。
左遷。更迭。戦死——おそらくは、意図的に支援を断たれた結果の。
「全員、俺たちと同じように新興の勢力で、門閥とは縁のない者たちばかりだな」
「ええ。つまり、これは即興の嫌がらせじゃない。マニュアル化された組織的な締め上げです」
ラインハルトの指が、机の縁を強く掴んだ。
マニュアル通り、か。
ならば次は、艦隊そのものを解体にかかってくるはずだ。補給を断ち、物資不足に追い込んだ後で、『戦闘継続能力に問題あり』として艦籍の再編を言い渡す。そうなれば、ラインハルトは一つの艦隊も持たない提督——名ばかりの上級大将に成り下がる。
「よく調べたな、キルヒアイス」
「いえ、協力してくれたのはハーゼです。彼は……命がけで情報を流してくれました」
キルヒアイスの声が、最後だけ少しだけ沈んだ。彼はハーゼを危険にさらしたことに罪悪感を抱いている。それをラインハルトに悟られたくなくて、彼はすぐにいつもの微笑みを浮かべた。だが、その笑顔の奥に小さな影がさしているのを、ラインハルトは見逃した。
深夜——。
旗艦ブリュンヒルトの艦橋には、もう誰もいなかった。
ほかの士官たちは全員、休憩か仮眠につき、オペレーター席も無人だ。照明は落とされ、艦橋全体がぼんやりと青白い非常灯に浮かび上がっている。ただ、前方の巨大なガラス越しに、無数の星々だけが冷たく輝いていた。
司令席に一人、ラインハルトが座っていた。
背もたれに深く寄りかかり、ただ星を見つめている。漆黒の軍服が闇に溶けて、燃えるような黄金の髪だけが、星明かりを受けてぼんやりと浮かんでいた。
静かな足音が近づいてくる。
「やっぱりここだった」
キルヒアイスがマグカップを二つ持って立っていた。湯気の立つそれからは、ほのかに茶の香りがする。
「ダージリンだ。あいにくアッサムはまだ届いてなくてね」
「……お前の淹れる茶なら、種類は問わない」
ラインハルトがカップを受け取る。一口含んで、小さく息をついた。キルヒアイスはその隣に、少しだけ距離を置いて立つ。ガラスの向こうの星野が、二人の前にどこまでも広がっていた。
しばらく、どちらも黙っていた。
艦内の微かな駆動音だけが、低く響いている。
「キルヒアイス、覚えているか」
突然、ラインハルトが口を開いた。
「昔——まだ帝都の屋根の上に登って、夜空を眺めていた頃のことを」
キルヒアイスは少し驚いて、それから微笑んだ。
「覚えていますよ。あなたはいつも、星を見ながら『いつかあの星を全部、俺たちのものにしよう』って言ってました」
「ああ」
ラインハルトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。それは提督の顔ではなく、幼い日の少年の顔だった。
「あの頃は、何も持っていなかった。姉さんは連れて行かれた。身分も金もない。でも、夜空だけは、どこからでも見えた」
「今では、あなたは上級大将です。艦隊も、旗艦もある」
「だが、今日わかっただろう。失脚させられた七人の将官——そいつらも、かつては艦隊を持っていた。権限も、地位もあった。なのに、あいつらは、文書の印鑑一つで全部を奪われた」
ラインハルトの声は冷静だったが、その奥には押し殺した怒りがあった。
「俺たちが今持っているものだって、結局は同じだ。奴らが本気になれば、いつでも取り上げられる」
「ラインハルト様」
キルヒアイスは静かに言った。
「それでも、あの頃よりは、ずっと前に進んでいます。少なくとも、僕たちはまだ二人で立っている」
ラインハルトはキルヒアイスの顔を見た。深紅の髪。穏やかな緑の瞳。暗殺未遂で瀕死になったというのに、この男の優しさはまったく変わっていない。
「……お前は、あの頃から全然変わらないな」
「そうでしょうか」
「変わらないさ」
ラインハルトは少し照れたように星を見上げた。
「だから俺は、前に進める。お前がそばにいる限り、どんなに補給を断たれても、どんなに陰謀で締め上げられても——やってみせるさ」
「銀河を、俺たちのものにするんだ」
その声には、あの屋根の上で星を見上げていた少年の熱が、そのまま息づいていた。
キルヒアイスは深くうなずくと、静かに自分のマグを掲げた。
「……その時まで、僕はあなたのそばにいます」
カチン、とマグが触れ合う小さな音が、静かな艦橋に響いた。
それは、乾杯と呼ぶにはあまりにささやかな音だった。
でも、その音は、銀河のどこよりも確かな二人の約束だった。
翌朝——。
ラインハルトはいつもより早く執務室に入った。
昨夜の星空と、キルヒアイスとの会話が、まだ胸の中に温かく残っている。だが、端末を起動した瞬間、彼の表情が変わった。
緊急通信の着信ランプが、赤く点滅していた。
送信元は、帝都後宮。暗号レベルは、プライベート——つまり、公式の軍事通信ではない。
ラインハルトの指が、ほんの一瞬だけ震えた。
それを開く。
差出人は、姉アンネローゼの侍女。
内容を読み進めるうちに、ラインハルトの顔から血の気が引いていった。蒼白を通り越して、まるで死人のような白さになった。
同時刻、キルヒアイスは艦内の通路を歩いていた。朝の点検を終え、ラインハルトに報告するため執務室へ向かう。
扉の前に立った時、中から物音一つしないことに気づいた。
いつもなら、端末を叩く音か、書類をめくる音ぐらいは聞こえるはずだ。
「ラインハルト様、おはようございます」
ノックの後、声をかけた。
返事がない。
キルヒアイスは少しの間を置いてから、静かに扉を開けた。
執務室の中は異様な静寂に包まれていた。
ラインハルトは司令席に座り、端末の画面を見つめたまま微動だにしない。その手には一枚の通信文が握られ、かすかに震えている。
「……何があったんです」
ラインハルトは答えない。
キルヒアイスは近づき、その手から通信文をそっと取り上げた。そして、内容を読んで、彼の顔色も変わった。
——アンネローゼ様の夕食に、微量の神経毒が混入されていました。
——私が事前にカップの底の異物に気づいたため、お口には入りませんでした。
——ですが、誰が仕組んだのかはまったくわかりません。
——怖くて、宮廷警備には報告できません。
「そんな……」
ラインハルトの唇が、かすかに動いた。
「俺のせいだ」
「ラインハルト様」
「俺が目立ちすぎたせいで、アンネローゼ姉さんが狙われた。艦隊を潰せないとわかったから、今度は姉さんを——」
声が、震えている。
いつも冷徹な仮面をかぶっている二十歳の提督は、今、ただの弟の顔になっていた。最愛の姉が、具体的な毒の危険にさらされたという事実の前で、彼のカリスマも戦術も、まったく無力だった。
「あなたのせいじゃない」
キルヒアイスはしっかりとした声で言った。
「悪いのは、こんな手段を使う者たちです。それに、侍女が気づいてくれた。アンネローゼ様はまだご無事です」
「だが、次はいつ成功するかわからない。それに、俺には——何もできない」
ラインハルトの手が、ぎゅっと握りしめられる。後宮の法律——外部からの直接接触は一切禁止されている。姉に会いに行くことも、電話をかけることも、手紙を出すことさえも、上級大将の権限では不可能だった。
敵はそこを正確に突いてきたのだ。
後宮内部にまで手を伸ばすことのできる権力。それは、門閥同盟の最上層部か、あるいは——
キルヒアイスは、かける言葉を探した。だが、どんな言葉も、この状況では薄っぺらく感じられてしまう。
彼はただ、黙ってラインハルトのそばに立っていた。
艦隊を失脚させる陰謀。補給を断つ腐敗貴族。過去に潰された七人の将官。そして——今、具体的な毒の危険にさらされた姉。
一枚ずつ、壁が迫ってくるようだった。
見えない壁だ。正攻法では超えられない壁が、二人の前にそびえ立っていた。
ラインハルトは、握りしめていた手を開き、自分の掌を見つめた。
それは震えていた。怒りか、絶望か、それとも無力感か。
そして、彼はその手を、ふたたび強く握りしめた。Noveliaとは?
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