もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~
巨大な宇宙戦艦が光の矢を放つ遠未来の銀河――ラインハルト・フォン・ミューゼルは、残酷な陰謀によって親友キルヒアイスを失おうとしていた。しかし、運命のその日、キルヒアイスは奇跡的に生還する。
「無事でよかった……!」
涙の再会もつかの間、ラインハルトの周囲で異変が起こり始める。貴族たちの間で囁かれる不穏な噂、銀河を揺るがす大戦の幕開け、そして何より、姉アンネローゼに暗殺の魔の手が迫っているかもしれないという衝撃の事実! 野望と権力が星々のように激突する中、ラインハルトはキルヒアイスと共に巨大な敵へ立ち向かわねばならない。
だが、真実に近づくほど、二人は巧妙に仕組まれた死の罠へと深く堕ちていく……。果たしてラインハルトの運命は? そして、二人の友情は最後まで輝き続けるのか? 胸躍る、感動の銀河スペクタクル、ここに開幕!
もし、キルヒアイスが生きていたら~銀河英雄伝説IF~ - 絶望の底で燃える炎——覚醒の夜
冷たい床だった。
軍務省の地下にある小部屋。窓はない。空調の唸りだけが、死んだように静かな空間を満たしている。
ラインハルト・フォン・ミューゼルは、床に膝をついていた。
燃えるような黄金の髪が、汗と埃で額に張り付いている。漆黒の軍服は皺だらけで、左胸の銀のブローチだけが無機質な光を鈍く反射させていた。
「……命令により、上級大将ラインハルト・フォン・ミューゼルの指揮権を一時停止する。査問が終了するまで、当該将校は軍務省指定区画より外出禁止とする」
担当将校の声が、鉄の扉の向こうから響いた。
ラインハルトは答えない。蒼い瞳は床の一点を見つめたまま、瞬きすらしない。
戦死者、推定八千人以上。
数字が頭の中でぐるぐると回る。
キルヒアイスが倒れる瞬間。肩から噴き出した血。深紅の髪が床に広がって——敵に引きずられながら、一度だけ振り返ったあの視線。
(よかった。ラインハルト様が、無事で——)
そんな目だった。自分の痛みより、自分のせいで動きを縛ってしまうことを謝るような、そんな目だった。
ドッ。
鈍い音。
ラインハルトは拳を壁に叩きつけていた。
二度、三度。骨が軋む感触。指の皮が破れて、白い壁に赤い染みが滲む。
「くそ……」
声にならない声。
四度目の拳を振り上げた瞬間——動きが、止まった。
壁に押しつけた拳が、力を失ってずるりと落ちる。
額を壁に押しつける。冷たい。じわりと冷たさが肌に這う。
怒鳴ることすら、もうできなかった。殴ることすら。
ただ、冷たい壁に額を押しつけて、そのまま動かなくなった。
本当に、すべてを失ったのだ。
艦隊も。姉も。親友も。
——いや。
親友はまだ「いる」。生きている。殺されてはいない。
そう思うことだけが、ラインハルトの意識を闇の底からつなぎ止めていた。
* * *
どれくらい経っただろう。
時間の感覚が、すでにない。空調の唸りだけが、相変わらず部屋を満たしている。
床には損害報告書の束が散らばっていた。
撃沈百三十隻。大破二百八十隻。戦死者八千超。
数字の羅列。紙の上に並んだ名前の群れ。
その中の一枚が、空調の風でひらりと捲れた。
食料配給申請書。補給が滞っていた証拠の一枚だ。
ラインハルトの指が、その紙を摘んだ。
「……お前たちには、本当に迷惑をかけた」
かすれた声。
彼はその紙を、丁寧に折り畳んで棚の上に置いた。床に散らばった他の書類を乱暴に掻き分ける手とは、まるで違う動きで。
キルヒアイスが引きずられながら呟いた言葉。
「データ」。
その単語だけが、頭の中で繰り返し響く。
なぜ、あの瞬間に。なぜ自分の名前ではなく、データという言葉を託したのか。
ラインハルトの指が、床の損害報告書を一枚、また一枚とめくっていく。
ロイテンベルクでの戦闘記録。クリューガーが送信した全作戦データ。その中身を思い出そうとする。
「……通信識別コード」
呟いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
帝国正規艦隊の通信識別コード——それを奪った敵は、帝国軍になりすまして、どこへでも侵入できる。
首都ヴァルトハイゼンにさえも。
ラインハルトは立ち上がった。
「クーデターだ」
自分の排除ではない。艦隊を潰したのは陽動だ。真の目的は、首都星系を武力で制圧すること。
ゼークヴァルト門閥同盟は、皇帝の座そのものを狙っている。
彼は床の書類をひっくり返した。戦闘中の敵艦隊の動き。退避方向。ワープ起動のタイミング。冷却時間のインターバル。
(どこに消えた。どこにキルヒアイスを連れて行った)
頭の中の声は、キルヒアイスの声だった。
あの日——前線基地で、キルヒアイスが渡した兵站記録の断片。
「ラインハルト様、この座標は何に使うんですか」
「後で調べる」
結局、調べずに終わった記録。
シュラーゲン岩礁。ロイテンベルク星系から二光時の距離にある、無人岩石帯。
ラインハルトの手が止まった。
記録には、この岩礁への物資輸送の痕跡があった。
食料。医療品。拘束具。
拘束具。
「……そうか」
ラインハルトは目を閉じた。
キルヒアイスは、あの時すでに気づいていたのだ。この座標が怪しいと。自分がすぐに動かなかったせいで、この情報は死に体になっていた。
それでもキルヒアイスは、何も言わなかった。
いつもそうだ。
自分のせいではないと、自分の至らなさを嘆くことなく、ただ静かに、次に必要なものを用意してくれる。
今も——遠く離れた敵の要塞の中でも、キルヒアイスが残してくれた情報が、自分を動かしている。
「待っていろ」
ラインハルトは立ち上がった。
指揮権停止。艦隊なし。仲間なし。権限なし。
あるのは、自分の判断力と、アンネローゼの侍女が使っていた秘密通信回線の端末だけだ。
彼はその端末を取り出し、帝都に残る艦隊の整備士数名に短く連絡を入れた。
「ブリュンヒルトの残存戦力から、単独潜入用の小型艇を一隻、用意できるか」
返信は数秒で来た。
「可能です。しかし上級大将、現在指揮権停止中です。これがバレたら——」
「危険だ。断っていい」
しばしの沈黙。
「……それは上級大将が決めることじゃないです」
ラインハルトは、一瞬だけ口元を歪めた。
(お前たちは、本当に——)
言葉にはしなかった。
彼は端末を閉じ、軍服の襟を正す。
扉に手をかけ、迷わず外へ出た。
* * *
ハンガーは暗かった。
非常灯だけが点る広大な空間に、一隻の小型艇が静かに佇んでいる。ブリュンヒルトの艦載艇を改造したものだ。装甲は薄いが、ワープ航法は可能。
ラインハルトはコンソールに手を置いた。
座標を入力する。シュラーゲン岩礁。敵要塞の推定位置。
出発の直前——もう一度だけ、端末を取り出した。
アンネローゼの後宮にある秘密回線に、短いメッセージを送信する。
必ず迎えに行く。待っていてくれ。
送信ボタンを押そうとして、指が止まった。
頭の中に浮かんでいるのは、姉の顔ではなかった。
深紅の髪の、穏やかな微笑み。
「ラインハルト様、ご無事で——」
あの日、倒れながらも自分を心配した声。
ラインハルトは目を閉じて、送信ボタンを押した。
誰に向けた言葉なのかは、自分でも曖昧だった。
* * *
エンジンが起動する。
低く唸るような振動が、船体全体を包んだ。
ラインハルトの頭の中で、走馬灯のように記憶が流れる。
幼い頃、星空の下で交わした約束。
「俺たちで銀河を取るんだ」
傷だらけで前線基地に戻ってきたキルヒアイス。
「ラインハルト様が無事で、本当によかった」
姉の袖口に残っていた打ち傷の跡。
「何も心配しなくていいから」——そう言って、全部を一人で抱え込もうとした姉。
そして——キルヒアイスが引きずられながら、一度だけ振り返ったあの視線。
全部、この瞬間に繋がっている。
ラインハルトは顔を上げた。
迷いはなかった。
「お前に、もう一度だけ待たせる」
誰にも届かない言葉。
艦艇がワープに入る。
星々が光の線に変わり、視界が歪み、空間そのものが折り畳まれていく。
暗転。
シュラーゲン岩礁の敵要塞内で、キルヒアイスが生きているかは不明だ。
クーデター決行まで、あと何時間かも分からない。
ラインハルトには艦隊も後ろ盾もなく、逃げ場もない。
たった一人で敵の本拠地に飛び込む——どう考えても無謀な、それしか道のない戦いが、今、始まろうとしていた。Noveliaとは?
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