あなたのための最後の音
春野奏汰は26歳のピアノの天才だ。彼の演奏を聴いた者は皆、その音楽が魂の奥深くに直接届くと言う。
しかし奏汰は誰にも言えない秘密を抱えていた――彼には残り1年の命しかないのだ。
3か月前、治療法のない末期の診断を受けた奏汰は、運命を受け入れ、世界から身を引き、小さな東京のアパートに引きこもり、ピアノからも遠ざかっていた。
そんな彼の人生に、一人の女性が無理やり入り込んでくる。
28歳の舞台監督、葉山理緒。業界では冷徹な完璧主義者として知られているが、その落ち着いた表情の奥には、いつも何かが燃えている。
「最後の舞台に立ってほしい」と彼女は言う。「あなたの遺産にふさわしいコンサートを作らせて。世界が決して忘れないものを。」
奏汰は拒絶する。死にゆく者がスポットライトを浴びるべきではないと信じていた。
だが理緒は諦めない。毎日、彼のアパートのドアの外で楽譜を読み続ける。雨の日も、風の日も、文句一つ言わずに。
その頑固さが、少しずつ奏汰の心の扉を開き始める。
リハーサルが始まる。二人だけの親密な空間で、理緒は奏汰の一音一音に全神経を集中させる。感情の揺れを見逃さず、完璧にな
あなたのための最後の音 - 蓋の閉じた音——六月、目黒川沿いの沈黙
右手の薬指が、震えていた。
洗面台の鏡の中で、春野奏汰は自分の指をじっと見ていた。歯ブラシを持ったまま、ただ見ていた。
薬指と小指。その二本だけが、ほんのわずかに、でも確実に、意志とは関係なく揺れている。
三ヶ月前まで、この手でピアノを弾いていた。
奏汰はゆっくりと歯ブラシを置き、右手を持ち上げた。細く引き締まった指。178センチの体格に不釣り合いなほど、繊細に見える手だ。黒い短髪が寝癖でやや乱れている。眼鏡のレンズ越しに、透明感のある青い目が鏡の中の自分を映している。左手の薬指には、小さな焼け跡のような痣があった。
震えは止まらなかった。
(わかってる。止まらないことは、わかってる)
奏汰は眼鏡を外して、洗面台に置いた。ぼやけた視界の中で、鏡の自分がすこし遠くなる。こういうとき、眼鏡を外す癖があった。遠くを見るような気持ちになれるから。
フィルハーゲン症候群。
その名前を、奏汰は頭の中でもう何百回も繰り返していた。国内で確認された患者は累計で約120名。発症率は100万人に1人以下。末梢神経と中枢神経の両方が徐々に壊れていく病気で、確立された治療法はない。最初は指先の微細な震えと感覚の鈍さから始まり、やがて腕、脚と広がっていき、最終的には呼吸する筋肉にまで影響が出る。
ピアニストにとって、指が動かなくなることは——技術の問題じゃない。
それは、死だ。
四谷坂上メディカルセンターの神経内科、遠山和彦医師の穏やかな声が耳の奥に残っている。「告知から平均余命は12ヶ月から18ヶ月です。個人差はありますが」。奏汰はその言葉を聞いたとき、なぜかすごく落ち着いた顔でいられた。自分でも驚くくらい。泣きもしなかった。「そうですか」と言って、立ち上がった。
あれから三ヶ月。
残り、約九ヶ月。
奏汰は眼鏡をかけ直し、洗面所を出た。
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レジデンス・ヴェルデ目黒の5階角部屋は、今日も静かだった。
目黒川から徒歩3分。閑静な住宅街の中に建つ、地上7階建てのマンション。奏汰はここに一人で住んでいる。2LDKで68平方メートル、家賃は月18万円。防音仕様の部屋は、外の音をほとんど遮断する。
リビングに入ると、スタインウェイD-274が目に入った。
グランドピアノ。鍵盤の蓋は閉じられたまま。ピアノ椅子はいつのまにか壁際に押しやられていて、ピアノから離れたところに置かれている。天板の黒い艶面には、ほんのわずかにほこりが積もり始めていた。
カーテンの隙間から、6月の朝の光が細く差し込んでいる。その光がピアノの黒い表面に反射して、細い線を描いていた。奏汰はそれを見て、遮光カーテンをもう少しだけ閉めた。
テーブルの上には、小さな瓶が二列に並んでいる。神経症状を和らげる薬と、眠れない夜のための睡眠補助薬。それと、空のペットボトルが三本。ゴミ箱に捨てに行くのが面倒で、そのままにしてある。
携帯は画面を下に向けて置いてあった。
奏汰はそれをちらりと見て、また目を逸らした。最後に確認したのは一週間前。そのとき98件の不在着信があった。今はもっと増えているだろう。マネージャーの桐島玲からも、音楽雑誌の記者からも、昔の同僚からも。みんな春野奏汰のピアノを心配しているか、次の予定を聞きたいか、どちらかだ。
春野奏汰という人間のことを心配している人間は、たぶん一人もいない。
奏汰はソファに座って、窓の外を見た。
目黒川沿いの緑が、初夏の風に揺れている。桜の季節はとっくに終わって、葉が青々としていた。川沿いの遊歩道を、ランニングしている人が一人通り過ぎた。
季節は、自分には関係なく進んでいく。
そういうものだ、と奏汰は思った。
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6月1日の昼すぎ、宅配便が来た。
インターホンが鳴って、奏汰はしばらく無視しようとした。でもまた鳴った。録音メッセージが流れる前に、奏汰は渋々立ち上がった。
玄関のドアを開けたのは、三ヶ月ぶりだった。
配達員がニコリともせずに端末を差し出してくる。奏汰はサインして、段ボール箱を受け取った。ドアを閉めようとして——足元に気づいた。
廊下の床に、一冊の楽譜が置いてあった。
薄い冊子。表紙にはドイツ語の文字。ショパン、バラード第1番、ト短調。奏汰はそれをしばらく見下ろして、足でそっとドアの脇に寄せた。踏まないように。それだけ気にして、ドアを閉めた。
差出人は不明だった。
ポストのチラシかなにかが飛んできたのだろう、と奏汰は思った。そういうことにした。
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翌6月2日の朝。
奏汰は薬を飲もうとして、水を取りに玄関脇のドア付近を通った。そこに楽譜がもう一冊増えていた。昨日の楽譜の上に、重ねて置いてある。
ドビュッシー、版画。
奏汰は動きを止めた。
これはチラシじゃない。誰かが意図的に置いていった。
ドビュッシーの版画は、奏汰がレパートリーにしていた曲だ。五年前に録音したCDにも収録されている。この曲を選ぶということは、自分のことを知っている人間が置いていったということだ。
奏汰は楽譜を拾い上げようとして、やめた。代わりに背を向けて、キッチンへ歩いた。
(無視すればいい)
水を飲んで、薬を飲んで、ソファに戻った。
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6月3日の朝、三冊目があった。
シューマン、子供の情景。
今度は玄関のドアを開けてもいない。ドア越しのインターホンのカメラで確認した。廊下の床に、白い冊子が一冊、丁寧に置かれていた。昨日からある二冊の上に、きちんと揃えて積まれている。
子供の情景。奏汰が17歳でウィーン国際ピアノコンクールに出たとき、アンコールで弾いた曲だ。2位だったけれど、あの夜のアンコールのことを雑誌が取り上げた。「子供の情景の第7曲、トロイメライの余韻が会場に数分間満ちていた」と書かれた。
三曲全部、自分にとって意味のある曲だ。
奏汰はしばらく、カメラの映像を眺めていた。廊下には誰もいない。楽譜だけが、静かに積まれている。
(誰だ)
答えは出なかった。
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三日目の深夜、奏汰は眠れなかった。
ベッドに横になって、天井を見ていた。睡眠補助薬は飲んだ。でも目が冴えたままだった。暗い部屋の中で、目黒川沿いの風の音だけが聞こえる。
頭の中で、三冊の楽譜がぐるぐると回っていた。ショパン、ドビュッシー、シューマン。どれも自分が弾いてきた曲。どれも、誰かが意図的に選んだ曲。
気がついたら、ベッドから起きていた。
暗いリビングを歩いて、ピアノの前に立った。
スタインウェイD-274。奏汰が音楽事務所のノーブルアーツを通じて手配した、コンサート用のフルサイズグランドピアノ。ピアノの世界ではスタインウェイのD-274が最上位モデルで、世界中のコンサートホールで使われている。南青山の事務所から話が来たとき、奏汰はこのピアノを選んだ。
三ヶ月間、一度も蓋を開けなかった。
窓からの月明かりが、ピアノの黒い艶面に反射している。88鍵が蓋の下で眠っている。奏汰はしばらくその前に立っていた。ただ立っていた。
衝動、と呼ぶしかない何かが、奏汰の腕を動かした。
指が鍵盤の蓋にかかった。ゆっくりと持ち上げる。88鍵が月光を受けて浮かび上がった。白と黒が交互に並んで、静かに光っている。
奏汰はピアノ椅子を引いてきて、座った。
ショパンのバラード第1番。その冒頭の左手の和音から始めよう、と思った。ゆっくりでいい。一音でいい。
左手を鍵盤の上に置いた。同時に、右手も添えた。
その瞬間。
右手の薬指と小指が、小刻みに震えた。
最初はいつもの振戦だと思った。でも今夜は違った。鍵盤に触れたことで何かが引き金になったのか、震えが激しくなった。意志とは関係なく、二本の指が揺れる。薬指が隣の鍵盤を叩いた。小指も同じように。
ドン、と——音楽じゃない音が、部屋に響いた。
ただの、事故みたいな音だった。
奏汰は即座に両手を鍵盤から離した。そして鍵盤の蓋を、両手でパンと叩き閉じた。音がリビングに響いて、すぐ消えた。
静寂が戻ってきた。
奏汰は床に膝をついた。右手を目の前に持ってきて、じっと見る。薬指と小指の震えは、まだ続いていた。
弾けない。
弾かないでいたのと、弾けないのは、違う。三ヶ月間、ずっと弾かないことにしていた。でも今夜、初めてわかった。もうそれは、選択じゃない。できない、に変わっていた。
部屋の隅に、白い封筒が見えた。四谷坂上メディカルセンターの封筒。その中に診断書が入っている。「告知から平均余命12〜18ヶ月」という文字が書いてある。三ヶ月がすでに過ぎている。残り九ヶ月。
でもフィルハーゲン症候群は、死が来る前に指が動かなくなる。九ヶ月全部、弾けるわけじゃない。
奏汰は震える右手を、膝の上でゆっくりと握りしめた。
泣けなかった。
三ヶ月かけて学んだことがあるとすれば、泣いても何も変わらないということだけだった。
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暗いリビングで、奏汰はしばらく動かなかった。
8歳のとき、全日本ジュニアピアノコンクールで最年少優勝した。新聞に名前が載った。両親が泣いた。師匠の藤原清隆先生が、珍しく微笑んだ。あの人は厳しかった。ウィーン・フィルで客演もした元ピアニストで、奏汰に対してはいつも高い要求を突きつけてきた。でもあの夜だけは、優しく笑ってくれた。
藤原先生はもう亡くなった。
17歳のウィーン国際コンクール。22歳のサントリーホールでのデビューリサイタル。2000席が即日完売して、終わったあと8分間スタンディングオベーションが続いた。音楽雑誌に「十年に一人の才能」と書かれた。それからは年間15本から20本のコンサート。録音CDが出て、ノーブルアーツ事務所との契約で全部スムーズに回っていた。
その間ずっと、友人と呼べる人間がいなかった。
コンクールという世界では、他のピアニストは敵か比較対象のどちらかだ。学校に普通に通ったことがなかったから、同世代の友達もいない。両親は奏汰の才能を愛していたけれど、奏汰自身のことを愛していたのかどうかは、今もよくわからない。
ピアノがあれば、孤独じゃなかった。
ピアノを失ったら——何が残るのか、奏汰にはわからなかった。
告知から三ヶ月、ノーブルアーツの桐島玲が「体調不良による活動休止」として外に発表した。本当のことは誰も知らない。携帯の着信98件、全部、春野奏汰のピアノに向けられたものだ。春野奏汰という人間に関心を持って電話してきた人間は、たぶんゼロだ。
窓の外で、目黒川沿いの葉が揺れていた。
6月の夜風が、川の上を流れていく。
奏汰はゆっくりと立ち上がって、また窓の外を見た。深夜の遊歩道を、自転車が一台通り過ぎた。ライトが川面を照らして、すぐ消えた。
視線が、玄関のドアに向かった。
廊下に三冊の楽譜が積まれている。明日の朝、四冊目があるかもしれない。
誰かが、自分のことを知っている。自分のレパートリーを知っている。そして毎日、諦めずに楽譜を置いている。
それが何を意味するのか、奏汰にはまだわからなかった。考えたくなかった。
でも——震える右手を左手でそっと包んで——奏汰は目を閉じた。
明日の朝。また玄関を開けるとき、そこに何があるのかだけは、少しだけ気になっていた。