あなたのための最後の音
春野奏汰は26歳のピアノの天才だ。彼の演奏を聴いた者は皆、その音楽が魂の奥深くに直接届くと言う。
しかし奏汰は誰にも言えない秘密を抱えていた――彼には残り1年の命しかないのだ。
3か月前、治療法のない末期の診断を受けた奏汰は、運命を受け入れ、世界から身を引き、小さな東京のアパートに引きこもり、ピアノからも遠ざかっていた。
そんな彼の人生に、一人の女性が無理やり入り込んでくる。
28歳の舞台監督、葉山理緒。業界では冷徹な完璧主義者として知られているが、その落ち着いた表情の奥には、いつも何かが燃えている。
「最後の舞台に立ってほしい」と彼女は言う。「あなたの遺産にふさわしいコンサートを作らせて。世界が決して忘れないものを。」
奏汰は拒絶する。死にゆく者がスポットライトを浴びるべきではないと信じていた。
だが理緒は諦めない。毎日、彼のアパートのドアの外で楽譜を読み続ける。雨の日も、風の日も、文句一つ言わずに。
その頑固さが、少しずつ奏汰の心の扉を開き始める。
リハーサルが始まる。二人だけの親密な空間で、理緒は奏汰の一音一音に全神経を集中させる。感情の揺れを見逃さず、完璧にな
あなたのための最後の音 - 廊下の体温——六日目の雨
雨の音が、ずっと聞こえていた。
カーテンの端を、わずかに指でめくる。それが奏汰にとって唯一の外との接点だった。朝から続く梅雨の雨が目黒川沿いの緑を濡らし、エントランスの庇を叩いていた。傘のない人間は、普通あの下に立ち続けることはしない。
でも、一人だけいた。
傘を持っていない。白いシャツが雨に濡れて肩に張り付いている。濃い紫色の長い髪——それが雨に濡れて黒く見えた。背筋がまっすぐで、首を少しだけ上向きにして、マンションの壁面を見上げるような角度で立っている。エントランスの管理室から、田辺昭一が出てきた。田辺の白髪混じりの頭が見えた。何か言っている。女性が答えている。田辺が首を振る。申し訳なさそうな仕草だ。しかし女性は動かない。
奏汰はカーテンを戻した。
(楽譜の人だ)
根拠はなかった。でも確信があった。あの三冊の楽譜——ショパン、ドビュッシー、シューマン——をあの廊下に置いていった人間の気配が、あの女性の立ち方の中にあった。諦めないという、静かな頑固さが。
インターホンが鳴ったのは、それから五分後だった。
奏汰は動かなかった。ソファに背を預けたまま、天井を見ていた。二度目の音。三度目。四度目。それから止まった。
代わりに、ドアの向こうから音がした。
紙の音だった。ぱさ、と何かが床に置かれる音。それから、ページをめくる音が、低く断続的に続く。廊下の冷たい石の上に、誰かが座り込んでいた。
奏汰はその音を、壁に背をもたれながら聞いていた。目を閉じると、廊下の空気が冷たいことが想像できた。六月の梅雨、防音仕様のドア越しでも、あの廊下が冷えていることはわかった。
(何がしたい)
でも立ち上がらなかった。
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二時間が経った。
ページをめくる音は途絶えなかった。奏汰は台所で水を飲み、薬を飲み、またソファに戻った。携帯は依然として画面を下に向けて置いてある。外から差し込む雨の光だけが部屋にあった。
ドアを開けたのは、自分でも理由のよくわからない衝動だった。ただ、このまま何時間でも廊下に座り続ける人間がいるという事実が、部屋の空気の中にじわじわと侵食してくるようで、奏汰はそれを追い払いたかったのかもしれない。
廊下に、女性が座っていた。
直接、冷たい石の床の上に。膝を揃えて、薄い膝掛け代わりのジャケットを脚に乗せて、楽譜を広げていた。奏汰が最初に廊下で見つけたもの——ショパンのバラード第1番——を、膝の上で開いていた。濡れた髪が頬に張り付いたまま、乾きかけて少しだけウェーブを取り戻している。左頬に、薄い泣きぼくろがあった。顔を上げた瞬間、琥珀色の目が奏汰を見た。鋭い。でも冷たいわけではない。何かを見極めようとする、静かな熱を持った目だった。
「[serious]葉山理緒と申します。舞台演出家をしております」
床に座ったまま、少しも慌てずに名乗った。声は落ち着いていて、感情の揺れがなかった。自分の置かれた状況の滑稽さに、まるで気づいていないような顔で。
「[cold]春野奏汰さんに、最後のステージを踏んでいただきたいのです。あなたの集大成となるコンサートを、私が作ります」
奏汰は何も言わなかった。
ただ女性の顔を見ていた。濃い紫色の髪。165センチほどの背丈。その小柄な体が冷たい廊下の床に二時間座り続けていたことを、体のどこかが教えていた。それなのに、表情には崩れが一つもない。仕事の話をしているときの完璧主義者の顔だ。
それが奏汰の何かに触れた。火をつけるような触れ方で。
「[angry]最後って言葉が好きですね」
声が、自分でも思ったより荒かった。
「死ぬとわかっている人間を舞台に上げて、何がしたいんですか。感動を消費したいですか。それとも、同情を売りたいですか」
女性——葉山理緒は、顔色を変えなかった。眉一つ動かさなかった。ただ奏汰を見つめて、一拍置いてから口を開いた。
「[cold]死ぬから弾くんじゃないわ」
「生きている今しか弾けないから弾くんです。死は理由じゃない。今が理由よ」
奏汰の中で、何かが一瞬、静止した。
怒りの勢いが、的を外した矢のように行き場を失った。三ヶ月間、奏汰を縛り続けてきた言葉——死、余命、終わり——そのどれでもない方向から、この女の言葉は来た。奏汰はそれを言語化できないまま、ドアを閉じた。
バン、と少し大きな音が出た。
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翌日も、理緒は来た。
その翌日も来た。
奏汰はインターホンに応じなかった。廊下の音に耳を傾けながら、スマートフォンで「葉山理緒」の名前を検索し始めた。
出てきた記事の見出しを、奏汰は順に読んでいった。演劇専門誌の短評。業界フォーラムの書き込み。そして——五年前の記事。
初の大劇場公演、「カーテンコールの向こう側」公演初日中止。
記事の内容は短かった。主演俳優の突然の降板と演出上の問題が重なり、公演は初日に中止となった。業界誌は「準備不足」「演出家の経験不足が露呈」と書いた。「冷血な完璧主義者が、人心を掌握できなかった結果」という匿名のコメントが業界フォーラムに残っていた。葉山理緒、当時23歳。その後半年間、仕事が途絶えたとある。
奏汰は画面をスクロールする手を止めた。
(なぜ、こんな経歴の人間が自分に執着する)
どこを検索しても、その答えが出てこない。コンサートの演出実績もない。クラシック音楽との接点も記事には見当たらない。ただ小劇場の演劇を、五年前の挫折の後に、小さな劇場で、一本ずつ積み上げてきた記録だけがあった。
奏汰はふと、ノーブルアーツのウェブサイトを開いた。
所属アーティストの一覧。南青山に本社を構える、クラシック音楽専門のマネジメント事務所——奏汰がかつて看板アーティストとして属していた組織。創業者の城之内雅臣が率い、所属アーティスト約45名。国内クラシック業界でトップ3に入る影響力を持つ、その事務所の公式ページに、春野奏汰の名前はまだあった。
プロフィールページを開くと、「現在活動休止中」という一行が目に入った。
活動休止。
充電期間として、桐島玲が処理した言葉だ。フィルハーゲン症候群という病名は、どこにも書かれていない。春野奏汰が三ヶ月前に余命告知を受けたという事実は、どこにも書かれていない。自分の体が、マネジメント上の言葉に置き換えられて、引き出しの中にしまわれていた。
胃の奥に、鈍い不快感が残った。
奏汰は画面を閉じて、窓の外に目を向けた。廊下の方向。今日も理緒はそこにいる。ページをめくる音がかすかにする。
なぜこの女が来るのか、まだわからない。でも彼女を調べる中で、別の引っかかりが奏汰の中に生まれていた。ノーブルアーツとの契約。活動休止という処理。自分はまだ、法的にあの事務所に縛られているのかもしれない——その可能性が、頭の隅で、静かに燃え始めていた。
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6月9日、夕方。
梅雨の雨が、一日の中で最も強くなる時間帯があった。窓ガラスを叩く音が変わった。奏汰はリビングで横になっていて、その音の変化で目が覚めた。
廊下の音が、ない。
ページをめくる音がしない。午後から続いていたはずの、あの低い紙の音が消えていた。奏汰は横になったまま、耳を澄ませた。雨音だけ。廊下の気配が、いつもと違う。止まっているのではなく、崩れているような——
奏汰は立ち上がった。
自分でも驚くほど素早く。確認するためだけに、という言い訳を頭に用意しながら、ドアのノブに手をかけた。細く、慎重に開ける。
廊下の床に、理緒が倒れていた。
正確には倒れきってはいなかった。壁に背をもたれさせて、脚を床に投げ出した格好で座り込んでいた。楽譜を胸に抱えたまま。頭が少し前に傾いている。顔が赤かった。呼吸が浅くて、速かった。
奏汰は一秒、動かなかった。
(田辺さんに任せれば)
でも田辺昭一の管理室は一階で、今この雨音の中では気づかない。このまま放置すれば、倒れた状態で発見されて余計な騒ぎになる。救急車を呼ぶことになれば、マンションの他の住人が出てくる。奏汰は三ヶ月間、隣人の顔すら見ていなかった。騒ぎになれば——
奏汰はしゃがんで、理緒の肩に手を置いた。
熱かった。衣服越しにわかるほど、体温が上がっていた。
「[gentle]……入ってください」
自分の声が、三ヶ月ぶりに誰かを招く言葉を発したことに、奏汰は言い終わってから気づいた。
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理緒をソファに寝かせた。
濡れた上着を脱がせて、膝掛けを引き出してきた。台所で水を汲んで、傍らに置いた。薬棚を開けて、解熱剤を探した——奏汰自身のために処方されている薬ではなく、市販の解熱剤。いつか必要になると思って買っておいたものが、奥の棚にあった。
これらの動作を、奏汰は一つ一つ、丁寧にこなしていった。
三ヶ月間、誰かのために何かをする、という動作をしていなかった。携帯の着信を無視し、ドアを開けず、ただ一人で病気と過去と残り時間を抱えて、この部屋の中で静止していた。その静止がいま、他者の体温一つで、少しだけ動き始めていた。
気づいたのは、解熱剤の包装を開けている途中だった。
(三ヶ月ぶりだ。こういうことをするのが)
誰かのために水を汲む。誰かのために毛布を探す。当たり前の動作が、奇妙に新鮮だった。それが奏汰の中に、何かを静かに呼び起こしていた。不快ではない。むしろ——名前のつけにくい、ぬるい感覚だった。
理緒は眠っていた。高熱の、浅い眠りだった。眉根が少し寄っていて、唇が乾いている。楽譜はソファの脇に置いた。ショパンのバラード第1番。奏汰が最初に廊下で見つけたあの楽譜を、彼女は六日間、毎日抱えて来ていた。
深夜になった。
雨がゆっくりと弱まっていた。奏汰はソファから離れた場所の床に座って、膝を立てて、部屋の暗がりをぼんやりと見ていた。理緒の体温が少し下がってきたのが、呼吸の落ち着きからわかった。
その時、理緒が呟いた。
眠りの中から、意識のない言葉が零れた。
「[whispers]……あの音が……あの時の音が……」
それだけだった。続きはなかった。
奏汰は動かなかった。
計算した言葉ではない。意識があれば絶対に言わないような、無防備な言葉だった。あの音、という言葉が、奏汰の胸の中で静かに広がった。
自分の音楽が、誰かの記憶の中に、まだ生きている。
三ヶ月間、その事実を奏汰は考えたことがなかった。ノーブルアーツのウェブサイトの「活動休止」という文字の向こうで、自分が弾いてきた音楽が誰かの中に残っているという、その単純な事実を。
奏汰はゆっくりと顔を上げた。
部屋の向こうに、スタインウェイが見えた。蓋の閉じたグランドピアノ。黒い艶面が、雨上がりの薄明かりを静かに反射している。
それを見たまま、奏汰は夜明けまで動かなかった。胸の底に、針の先ほどの小さな明かりがともっていた。痛みに似た、温かさだった。