あなたのための最後の音
春野奏汰は26歳のピアノの天才だ。彼の演奏を聴いた者は皆、その音楽が魂の奥深くに直接届くと言う。
しかし奏汰は誰にも言えない秘密を抱えていた――彼には残り1年の命しかないのだ。
3か月前、治療法のない末期の診断を受けた奏汰は、運命を受け入れ、世界から身を引き、小さな東京のアパートに引きこもり、ピアノからも遠ざかっていた。
そんな彼の人生に、一人の女性が無理やり入り込んでくる。
28歳の舞台監督、葉山理緒。業界では冷徹な完璧主義者として知られているが、その落ち着いた表情の奥には、いつも何かが燃えている。
「最後の舞台に立ってほしい」と彼女は言う。「あなたの遺産にふさわしいコンサートを作らせて。世界が決して忘れないものを。」
奏汰は拒絶する。死にゆく者がスポットライトを浴びるべきではないと信じていた。
だが理緒は諦めない。毎日、彼のアパートのドアの外で楽譜を読み続ける。雨の日も、風の日も、文句一つ言わずに。
その頑固さが、少しずつ奏汰の心の扉を開き始める。
リハーサルが始まる。二人だけの親密な空間で、理緒は奏汰の一音一音に全神経を集中させる。感情の揺れを見逃さず、完璧にな
あなたのための最後の音 - ドアの向こうの音——六月二十二日、ショパンが鳴る
右手の指が、まだ少し固かった。
昨夜から三日が経った。正確には、前の夜に理緒が部屋を出てから七十二時間以上、奏汰はほとんど動いていなかった。蓋を閉じたスタインウェイD-274の前に座り込み、黒い艶面に自分の輪郭が映るのをただ見ていた。ゴミは出なかった。宅配便のチャイムが鳴っても、立ち上がれなかった。
六月二十二日の朝は、曇っていた。
窓から差し込む光が、いつもより白く、薄かった。目黒川の水音は聞こえない。部屋の中に音はなく、奏汰の呼吸だけが静かに続いていた。
鍵が回る音がした。
玄関の方からだった。奏汰は顔を上げた。合鍵の音は、乾いた金属音で、部屋の沈黙を小さく割った。
田辺昭一だった。
白髪交じりの短髪に、穏やかな顔。目尻の深い皺がいつもの笑顔の形をしていたが、今朝は笑っていなかった。ただ、静かに部屋の中を見回した。リビングに座り込む奏汰を見た。一瞬、何かが田辺の顔を過ぎった。しかし田辺は声をかけなかった。
「[serious]三日間、ゴミが出ませんでしたのでね」
ただそれだけを言い、田辺は台所に向かった。
奏汰は止める言葉が出なかった。出て行けと言う気力も、ここは自分の部屋だと主張する理由も、今の奏汰の内側には見当たらなかった。ただ、田辺の後ろ姿を見ていた。
冷蔵庫が開く音。田辺がしばらく中を探る音。それから鍋が火にかかる小さな音。出汁の匂いが、少しずつ部屋に広がり始めた。
三ヶ月間、この部屋に誰かが作った食事の匂いが満ちたことはなかった。
やがて田辺が木椀を二つ、テーブルに置いた。奏汰の向かいに静かに座った。
奏汰は椀を見た。味噌汁だった。豆腐と若布が入っていた。湯気が細く立ち上って、すぐに空気に溶けていった。
「[gentle]私も昔、会社を辞めようとした時期がありましてね」
田辺が言った。奏汰を見ずに、椀の上の湯気を見ながら。
「[gentle]三十八の頃でしたか。部署が変わって、仕事が合わなくて。毎朝、玄関の前で十分間立ち止まっていましたよ。行く気力が出てこない。でも行かないわけにもいかない。そういう朝が、半年くらい続きました」
奏汰は何も言わなかった。椀を持ったまま、湯気を見ていた。
「[gentle]それから十年後に、妻が逝きましてね。胃の病気でした。それからは、この管理人の仕事だけが私を繋いでいました。大げさに聞こえるかもしれませんが、本当にそれだけでしたよ」
田辺は味噌汁を一口飲んだ。
「[gentle]春野さん。あなたのピアノは壁越しに聞こえていましたよ。去年までは——毎晩」
奏汰の手が、止まった。
壁越しに。毎晩。
その言葉が、理解よりも先に身体に当たった。防音仕様の部屋だった。漏れるはずがないと思っていた。不完全な音が、欠けた音楽が、頼んでいない誰かに届いていた——三年間、すぐ隣で。
田辺の目が、椀の縁に落ちていた。奏汰の方を見ていなかった。見ていないことが、田辺の気遣いだった。
奏汰の目が赤くなった。涙は出なかった。出す前に、奥の方で固まった。ただ喉が狭くなって、椀を持つ両手に力が入った。
二人は向かいに座ったまま、しばらく黙っていた。味噌汁の湯気が細くなり、やがて消えた。
---
田辺が帰り際に言った。
「[gentle]あの音がなくなって——このマンションは随分静かになりましたね」
それだけだった。ドアが静かに閉まった。
奏汰は一人でリビングに残った。テーブルの上に、田辺が使った椀が残っていた。洗われていた。田辺は帰る前に、二つとも洗って水を切っていた。その小さな事実が、なぜか奏汰の中で長く残った。
静かになりましたね。
田辺の言葉が、部屋の中でゆっくり形を変えていった。業界の言葉ではなかった。記事の言葉でも、桐島玲の言葉でもなかった。ただ壁の向こうで三年間、奏汰の音を聴き続けていた一人の人間の、静かな一言だった。
奏汰はスタインウェイの前に立った。
蓋の黒い艶面に、自分の顔が映っていた。目の下が落ちていた。頬が薄かった。三日間、ほとんど食べていなかった。それでも——蓋の前に立っている自分が、そこにいた。
指を蓋の上に置いた。冷たかった。まだ、開けなかった。しかし三日前と何かが違った。三日前は開けることを想像できなかった。今は、想像している。それだけの違いが、奏汰には小さくなかった。
---
午後になった。
雲が少し薄くなり、窓から淡い光が差し込んできた。奏汰は椅子に座ったまま、目を閉じていた。理緒の番号を表示したスマートフォンを手の中に持っていたが、発信ボタンは押していなかった。
エントランスのオートロックが解除される音が、遠くで聞こえた気がした。気のせいかもしれなかった。
しかしインターホンは鳴らなかった。
ノック音もなかった。
代わりに——声が来た。
ドアの向こうから、低く、静かな声が。
「[serious]五年前の話をします」
理緒の声だった。奏汰は立ち上がった。
「[serious]カーテンコールの向こう側——初日中止になった夜のことです。ロビーで観客に頭を下げて、スタッフに謝って、一人で帰って。誰からも連絡が来なかった。一週間、二週間。やがて一ヶ月。半年間、電話は鳴らなかった。私が何かを壊したのかと思いました。でも何を壊したのか、分からなかった」
奏汰はドアの前に立った。向こう側に理緒がいる。インターホンを押さず、ノックもせず、ドアに何かをつけたまま話している——額だと、声の低さと近さで分かった。
「[serious]その頃、赤坂の通りを歩いていたら音楽が聞こえました。ホールの扉が少しだけ開いていて、誰かが弾いていた。立ち止まって、聴きました。誰の演奏か知らなかった。ただ、聴いているうちに泣いていました。なぜ泣いているのか分からないまま泣いていた。半年間凍っていたものが、その音だけで溶けた。あとで調べたら、春野奏汰という名前でした」
声が少し揺れていた。しかし途切れなかった。
奏汰は柱に背をもたせかけた。両手を体の横に落とした。眼鏡の奥で、目が濡れ始めていた。
「[serious]だからコンサートは恩返しだと思っていました。あなたの音楽への。あなた自身ではなく、音楽への——そう言い聞かせていました。でも」
一拍、沈黙があった。
ドアの外の気配が、わずかに変わった。
「[sad]もう、そうじゃないんです。あなたの音楽が好きなんじゃない。あなたが好きなの」
奏汰の胸の奥で、何かが静かに崩れた。
「[sad]あなたが弾いても弾かなくても、そばにいたい。でも——あなたが弾かないのは嫌です。だってあなたは、弾いている時が一番あなただから」
最後の言葉は、少しだけかすれていた。
廊下は静かだった。理緒の声が終わって、沈黙だけが残った。奏汰は柱に背をつけたまま、動かなかった。三ヶ月間、玲の言葉が作った恐怖の中に閉じていた何かが、今、理緒の言葉によって別の場所から照らされていた。
死ぬことへの恐怖ではなかった——生きている間に何も残せないことへの恐怖だった。ずっとそこから逃げていた。逃げ続けていた。その核心が、今、ドアの向こうの声の中で形を持った。
涙が落ちた。声は出なかった。頬を伝って、顎の先から、床に。
奏汰は目を拭わなかった。
それから——手を、ドアノブに向かって伸ばした。
---
解錠音が鳴った。
ドアが内側から開いた。
理緒がそこにいた。濃い紫色のロングヘアが少し乱れていた。琥珀色の瞳が赤く、左頬の薄い泣きぼくろの下が濡れていた。
奏汰の目も赤かった。
二人は向かい合ったまま、しばらく何も言わなかった。廊下の蛍光灯が、淡い白い光を落としていた。理緒の表情が、奏汰には読めなかった。自分の表情も、おそらく読めないだろうと思った。
奏汰は先に視線を逸らした。
それから、右手をゆっくりと理緒の方へ伸ばした。
つかむのではなかった。そっと触れる形で——理緒の手の甲に、指先が当たった。
理緒は手を引かなかった。
奏汰は理緒の手を、静かに取った。自分の震える右手で、包むのではなく、ただ握る形で。それから振り返らずに、リビングへと歩き出した。理緒がついてきた。扉は開けたままだった。
スタインウェイD-274の前に立った。
奏汰は一拍置いた。初夏の曇り空が窓から落ちていた。部屋は静かだった。蓋の黒い艶面に、二人の輪郭が並んで映っていた。
蓋を開けた。
八十八の白鍵と黒鍵が、薄い午後の光を受けた。理緒は奏汰の少し後ろに立ったまま、動かなかった。
奏汰は椅子を引いて座った。眼鏡を外して、テーブルの端に置いた。それから鍵盤の上に、両手を置いた。
右手の薬指が、微かに震えていた。
完璧な演奏はできない。それは分かっていた。三日間動かなかった指が、どれだけ応えてくれるかも分からなかった。それでも奏汰は、最初の和音のポジションに指を置いた。
ショパンのバラード第一番。ト短調。理緒がこの部屋の扉の前に最初に置いていった楽譜の曲だった。
押した。
ト短調の重い和音が部屋に広がった。
理緒が目を閉じた。
続きに進む。右手が走る。旋律が始まる——三小節目で薬指が一瞬だけ滑った。ミスタッチ。音が欠けた。奏汰は止まらなかった。指が途中で引きつりかけた。それでも押し続けた。旋律が欠けながら、しかし続いた。
理緒の頬を、涙が伝っていた。
五年前、赤坂のホールで扉の隙間から聴いた音と同じだった。震えていても、不完全でも——同じ音だった。この人の指から鳴っている、その事実だけが、理緒の全身に届いていた。
廊下で、足音がした。
田辺昭一が五階の廊下を通りかかった時、奏汰の部屋の扉が開いたままになっているのに気づいた。その隙間から、ピアノの音が流れ出していた。不完全な、しかし確かな音楽が。
田辺はその場に立ち止まった。
一秒、二秒——目を細めた。目尻の深い皺が、やわらかく動いた。
それからゆっくりと、エレベーターの方へ戻っていった。
音楽は続いていた。