あなたのための最後の音
春野奏汰は26歳のピアノの天才だ。彼の演奏を聴いた者は皆、その音楽が魂の奥深くに直接届くと言う。
しかし奏汰は誰にも言えない秘密を抱えていた――彼には残り1年の命しかないのだ。
3か月前、治療法のない末期の診断を受けた奏汰は、運命を受け入れ、世界から身を引き、小さな東京のアパートに引きこもり、ピアノからも遠ざかっていた。
そんな彼の人生に、一人の女性が無理やり入り込んでくる。
28歳の舞台監督、葉山理緒。業界では冷徹な完璧主義者として知られているが、その落ち着いた表情の奥には、いつも何かが燃えている。
「最後の舞台に立ってほしい」と彼女は言う。「あなたの遺産にふさわしいコンサートを作らせて。世界が決して忘れないものを。」
奏汰は拒絶する。死にゆく者がスポットライトを浴びるべきではないと信じていた。
だが理緒は諦めない。毎日、彼のアパートのドアの外で楽譜を読み続ける。雨の日も、風の日も、文句一つ言わずに。
その頑固さが、少しずつ奏汰の心の扉を開き始める。
リハーサルが始まる。二人だけの親密な空間で、理緒は奏汰の一音一音に全神経を集中させる。感情の揺れを見逃さず、完璧にな
あなたのための最後の音 - 壊れていく指——六月二十日、崩壊の二日間
六月二十日の朝は、静かすぎた。
前の夜のことを、理緒はまだ引きずっていた。奏汰の部屋から帰ったのは日付が変わる直前で、目黒川沿いの道に人影はなく、水音だけが足元に続いていた。あの夜、奏汰は電話をかけてきた——四回のコール、繋がらなかった。理緒がそれに気づいたのは、代々木上原の事務所に戻り、キャンセル通知の一通目を開いた後のことだった。着信履歴を確認した瞬間、喉の奥が締まった。折り返すべきだったのか、それとも——。その問いは今朝もまだ答えを持っていない。
事務所は六畳ほどの小さな部屋で、壁一面に貼られた構成図と、窓際の作業机だけがある。朝八時過ぎ、理緒は椅子に座ってノートパソコンを開いた。受信トレイに、前夜から届き続けているメールの件数が見えた。
十七件。
一通ずつ開いた。映像制作会社からのもの、演劇プロデューサーからのもの、照明スタッフの派遣会社からのもの。文体はそれぞれ異なるが、内容は同じだった。スケジュールの調整が必要になった。企画を白紙に戻したい。今後の契約について再考したい。
再考。
その言葉が、理緒の目の前で静かに光を放つ活字として並んでいた。
スマートフォンが鳴ったのは、十一通目を開いた直後だった。
「[serious]片桐さん」
シアター・イリスの劇場主——片桐義明、五十八歳。下北沢で三十年、小劇場を守り続けてきた男。理緒の挫折後も、ほとんど唯一と言っていいほど声をかけ続けてくれた人物。その声が、電話口で詰まっていた。
「[sad]理緒……昨夜、連絡が来た」
ノーブルアーツの城之内雅臣——会長本人からだと、片桐は言った。声を低くして、ゆっくりと。葉山理緒との取引を続けるならば、ノーブルアーツとの提携関係に影響が出る、という内容だった。
「[sad]お前の才能を信じている。それは変わらない。ただ——組織を守らなければならない立場というのが、俺にもある。分かってくれ」
分かっている、と理緒は言った。声は震えなかった。
電話を切って、スマートフォンをデスクに置いた。指先が、画面の端に触れたまま離れなかった。
城之内が動いた。桐島玲が城之内を動かした。個人の嫌がらせではない——業界ごと、組織ごと、理緒の名前を消しにかかっている。それが今日の午前中に起きたことの意味だった。
理緒は窓の外を見た。代々木上原の六月の空が、白く曇っていた。
午後になって、仕事仲間からメッセージが届いた。スクリーンショット付きで。
SNSの投稿だった。アカウント名は英数字の羅列で、特定できない。文章は短く、しかし丁寧に書かれていた——五年前に公演を潰した演出家が、今度は余命宣告を受けたピアニストを舞台に利用しようとしている、と。固有名詞は出ていない。でも業界関係者が読めば、誰のことか分かる。
理緒はそのメッセージを三回読んだ。四回目は読まなかった。スマートフォンを伏せて、演出ノートを開こうとして——開けなかった。
ページに走るはずの線が、浮かばなかった。
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夜、奏汰のマンションに向かった。
エレベーターの中で鏡を見た。目の下に、濃いクマがあった。三日ほど前からだ。隠す余裕がなかった、というよりも、隠す必要を考えられなかった。今夜の稽古だけが、今日という日の中で唯一、意味を持つ場所だった。
奏汰が扉を開けた時、その目がすぐに理緒の顔の一点に止まった。
「[serious]……顔色が悪い」
「[cold]少し疲れているだけですわ」
奏汰は何も言わなかった。ただ、ドアを大きく開けて、中に通した。
リビングに入ると、スタインウェイD-274がいつものように部屋の中央に鎮座していた。蓋は開いている。奏汰が三日前から自分で開けるようになっていた。その変化が、理緒には小さな、しかし確実な光のように見えていた。
奏汰はピアノの前に座った。楽譜を開く。ショパンのバラード第一番——ト短調。今週から取り組んでいる曲だった。
稽古が始まった。
奏汰の演奏は今夜、最初から少し違った。集中が、どこかで途切れる感じがした。第二変奏の終わりで、右手の動きがわずかに乱れた。聴いていなければ気づかないほど小さな、しかし理緒には聞こえた乱れだった。
理緒は演出ノートにペンを走らせた。走らせながら、今日起きたことを頭の外に出し続けた。城之内の名前。片桐の詫びる声。SNSの文章。キャンセルメールの件数。それらが繰り返し頭の中に戻ってくるたびに、理緒は視線を楽譜に戻した。
奏汰は時々、弾きながら理緒の方を見た。チラリと、それだけ。理緒はそのたびに、ノートに目を落とした。
稽古の中盤、理緒のスマートフォンが振動した。
奏汰がちょうど第三変奏に入ったところだった。理緒は演奏中の隙に、テーブルの上の端末を取った。差出人不明。メッセージ本文はない。添付ファイルだけがあった。
PDFだった。
開いた瞬間、理緒の目が文書の上部に走った。四谷坂上メディカルセンター。神経内科。主治医・遠山和彦。患者名——春野奏汰。
フィルハーゲン症候群の診断書だった。
数値が並んでいた。運動神経伝導速度、筋電図所見、感覚閾値——理緒にはその数字の医学的意味が分からない。しかし最後の行に、日本語で書かれた一文があった。手指の機能障害は現在の進行速度を前提とすると、三ヶ月から五ヶ月以内に日常生活動作に影響する水準に達する見込み。
添付されたテキストメッセージは短かった。——彼の指はあと数ヶ月で動かなくなります。あなたのコンサートは、彼に恥をかかせるだけです。
理緒はスマートフォンを伏せた。
奏汰の演奏が続いていた。第三変奏の旋律が、部屋に広がっている。
理緒は奏汰の背中を見た。それから鍵盤に移った。視線が、奏汰の右手の指先に釘付けになった。薬指。小指。中指。白鍵と黒鍵の上を動く、その指先が、今この瞬間も音を作り出している。あと三ヶ月から五ヶ月。
コンサートの計画を立てた時、理緒は奏汰の余命を知っていた。最後の舞台を作る——その使命感が動機だと思っていた。五年前、奏汰のピアノに救われた。その音楽への恩返しだと。しかし今、物的証拠として数値を突きつけられた瞬間に、その確信の足元が揺れた。
これは本当に奏汰のためなのか。それとも——五年前の挫折から逃げ続けてきた自分が、もう一度「完璧な演出」を証明したいだけなのか。あるいは。それとも——奏汰自身への何かを、理緒はずっと見ないふりをしていたのではないか。
その問いに、答えを持てなかった。
スマートフォンを演出ノートの下に滑り込ませ、理緒は再び顔を上げた。奏汰の演奏が続いていた。右手の指が、鍵盤の上を動いていた。理緒の目は、その指先から離れなかった。
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第三変奏の後半に差し掛かった時だった。
音が、止まった。
止まったのではない——止まらされた。奏汰の右手が、鍵盤の上で大きく跳ねた。薬指と小指が引きつるように折れ曲がり、中指が追うように痙攣した。三本の指がバラバラに動いて、意志と無関係な音が三つ、ほとんど同時に空気を割った。それきり——動かなくなった。
奏汰は両手を鍵盤から引き離した。右手を膝の上に落とした。見た。三本の指が、硬直したまま、戻ってこない。
部屋の音が、消えた。
理緒は立ち上がっていた。椅子の音が鳴った。奏汰の右手に向かって、一歩、踏み出した。手を伸ばした——その瞬間。
ドン、という音がした。
奏汰が両手でピアノの蓋を叩き閉じた音だった。鍵盤が消えた。黒い蓋が、部屋の空気を圧した。奏汰は椅子を蹴るようにして立ち上がり、ピアノに背を向けた。振り向かない。肩が、細かく震えている。
「[angry]見るな」
声が、震えていた。
「[crying]僕の指が壊れていくところを——お前に見せたくない」
理緒は動けなかった。
奏汰の横顔が、わずかに見えた。透明感のある深い青色の目から、涙が伝っていた。声を出さずに、ただ涙だけが落ちていた。プロのピアニストが人前で泣いている——その事実が、理緒の喉を塞いだ。
一歩、踏み出した。奏汰の背に向かって。
「[cold]出て行ってくれ」
背を向けたまま、言った。声が低かった。命令ではなく、懇願でもなく——ただそれだけが、今の奏汰に言える言葉だった。
理緒は荷物を取った。演出ノートを畳んだ。スマートフォンをポケットに入れた。動作の一つ一つが、異常なほどはっきりと感じられた。扉に向かって歩いた。廊下に出た。
扉が閉まった。音が、背後で静かに響いた。
理緒はその場に立ち止まった。扉に手を当てた。冷たかった。ノックはしなかった。数秒、そのままでいた。それからエレベーターに向かって歩き出し、一度だけ振り返った。廊下の端に、奏汰の部屋の扉が閉じたまま並んでいた。
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理緒が去った後、部屋に音楽はなかった。
奏汰は床に崩れ落ちた。蓋を閉じたスタインウェイを背に、膝を折って座り込んだ。震える右手を目の前にかざした。薬指と小指と中指——三本が、まだ完全には戻っていなかった。指の腹を見つめた。この指が、四年前のサントリーホールで二千人の観客を黙らせた指だ。十七歳でウィーン国際コンクールの鍵盤を打った指だ。
今は、鍵盤の上で固まって動かなかった。
理緒に見られた。泣くところを見られた。叫んで、追い出して——その全部を、見られた。
羞恥が、恐怖より先に来た。それが奏汰をさらに深く押し込んだ。
震える右手を両手で包んだ。額を膝につけた。泣き声は出なかった。三ヶ月間、泣き声の出し方を忘れた。涙は出た。膝の上に落ちた。それだけだった。
窓の外で、初夏の雨が降り始めた音がした。静かな、細い雨だった。部屋の沈黙の中で、その音だけが生きていた。
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六月二十一日の朝、理緒はレジデンス・ヴェルデ目黒を訪れた。
インターホンを押した。応答がなかった。もう一度、押した。沈黙。ドアをノックした。沈黙。一階の管理室の扉が開いて、管理人の田辺昭一が廊下に顔を出した。白髪交じりの、穏やかな顔をした男だった。
「[gentle]葉山さん……大丈夫ですか」
「[cold]大丈夫です。ありがとうございます」
理緒は頭を下げて、立ち去った。
代々木上原の事務所に戻ったのは午前十時を少し過ぎた頃だった。壁の構成図が、入った瞬間に目に入った。フィオーレ・ホールの座席図。照明プラン。楽曲の流れを示す矢印と書き込み。奏汰のために作ったものが、壁一面に貼られたままだった。
スマートフォンが鳴った。
業界誌の記者からだった。テキストメッセージで来た。内容は短く、丁寧で、冷たかった——葉山理緒氏が余命宣告を受けたピアニストを利用してコンサートを企画しているという記事を、明日掲載予定です。コメントがあれば本日中にお知らせください。情報源は匿名の関係者です。
理緒はメッセージを読んだ後、端末をデスクに置いた。
仕事はない。奏汰の扉は閉じている。SNSの中傷は広がっている。記事が出れば、業界での信用は消える。
理緒は壁の構成図を見た。
その瞬間、何かが頭の奥で像を結んだ。五年前の夜。初めての大劇場公演——カーテンコールの向こう側。公演初日のロビー。スタッフのマイクが拾ったアナウンス。観客の顔。翌日の業界誌。見出しの文字列。半年間、誰からも連絡の来なかった日々の、あの部屋の静けさ。
全部が、一度に戻ってきた。
身体が、震え始めた。
あの時と同じだ——という声が、内側から聞こえた。全てが壊れていく。仕事が消えて、信用が消えて、そばにいようとした人間は扉を閉めて——あの時と、全部、同じだ。
理緒は構成図から目を逸らそうとした。逸らせなかった。
震えを止めようとした。止められなかった。
デスクの端に手をついた。指先が、白くなるほど押しつけられていた。壁の構成図が、視界の中で揺れた。揺れているのは紙ではなく、理緒の目だった。
それでも——その目は、構成図の上のある一点から、離れなかった。
ショパンのバラード第一番の楽曲名が、そこに書かれていた。奏汰がまだ弾けていた昨夜の稽古の、あの第三変奏の箇所に。理緒の手書きの文字で、矢印と共に書き込まれていた一言——ここで全部が変わる、と。