毒舌令嬢は、なぜか王国で一番モテる
ある朝、アリス・フォン・クレールは目を覚まし、すべてを思い出した。
ここは乙女ゲーム『ローズ・エターナル』の世界。そして彼女自身は――完璧な悪役令嬢だった。黄金の巻き毛、澄んだ青い瞳、完璧な笑顔。ゲームの中で彼女はヒロインを容赦なくいじめ、最終的には追放される。運命づけられたバッドエンドのキャラクター。それが彼女だった。
「これはまずい。本当にまずい。超まずい。」
アリスはパニックになり、破滅を避けようと必死だった。しかし、生まれつきの毒舌が彼女を裏切る。黙っていようとすればするほど、事態は悪化する。自慢するルーカス・ヴァン・エルドリッヒ王子には「それってただの傲慢じゃない?」と返し、舞踏会の音楽家には「そのテンポ、眠くなるわ」と言い、教授には「去年と全く同じ説明を使ってるじゃない」と突っかかる。
そのたびに彼女は頭を抱えて絶望した。しかし、周囲の人々は決して怒らなかった。むしろ笑ったのだ。「彼女、面白い!」「正直すぎる!」「今度は何て言ったの?」と、次第に彼女を好意的に見るようになった。破滅が近いと信じ込んでいたアリスは、ただ青ざめ続けるばかりだった。
最初に完全に夢中にな
毒舌令嬢は、なぜか王国で一番モテる - 王太子、追跡中につき
昨日のことを、アリスはまだ引きずっていた。
毒舌で嫌われるはずが、逆に人気者になった。完璧な作戦が初日で崩壊した。今朝も女子寮リリエンハウスの鏡を前に、深呼吸を三回繰り返した。
今日こそは、うまくやる。
昨日の反省点は「毒舌が刺さらなかった」ではなく、「面白がられた」だ。つまり今日からは無表情作戦に切り替える。誰とも目を合わせない。話しかけられたら短く返す。感情を一切出さない。壁になる。完璧な壁に。
アリスは制服の赤い薔薇のブローチを指でなぞって、寮を出た。
本館ルクスホール——王立学院ステラ・マグニフィカの主要講義棟で、政治学や礼法の授業が行われる赤煉瓦の建物——に向かう廊下はすでに生徒たちで賑わっている。アリスは視線を床に落として、人の流れに乗った。うまくいっている。誰も話しかけてこない。
よし。これでいい。
廊下の角を曲がった、その瞬間だった。
ドン、とぶつかるかと思ったが、相手の足がすっとよけた。アリスが顔を上げると——そこに、見覚えのある顔があった。
柔らかい銀色の髪。わずかに乱れた前髪の下から覗く、左右で色の違う瞳——右が蒼く、左が赤い。185センチの長身。学院の制服ではなく、王家の紋章が入った上質な衣装を着た青年が、穏やかに微笑んでいた。
ゲームで何百回と見たスチル画像と、まったく同じ顔。
ルーカス・ヴァン・エルドリッヒ。王太子殿下その人だった。
廊下の両側にいた生徒たちが、一斉に立ち止まって深く礼をする。ざわ、と空気が変わった。それでもルーカスの視線はアリスから動かない。穏やかな、でも真っ直ぐな視線。
アリスの頭の中で、ゲームの知識が猛スピードで走り出した。
(これが破滅フラグ第一段階。王太子がアリスに直接接触してくるイベント。ゲームの通りなら、ここから転落が加速する——)
逃げたい。でも王族相手に逃げたら不敬で詰まる。黙ってやり過ごすか? でも目が合ってしまった。今更下を向いても遅い。
「クレール家の令嬢か」
ルーカスが静かに言った。声は穏やかだが、廊下全体に通る。「噂は聞いていた。少し話せるか——まず、教室を聞いてもいいかな」
アリスの顔の筋肉が、必死に無表情を維持しようとした。維持できた。完璧な無表情だ。
「[cold]ご随意に」
短く返した。
ルーカスが少し目を丸くした。それから、口元がほんの少しゆるんだ。おかしそうな笑い方だった。
廊下の両側で、生徒たちがそれぞれ息を呑む音が聞こえた気がした。
—
授業開始前のアリスの教室は、ルーカスが入ってきた瞬間に完全に凍りついた。
全員が立ち上がり、礼をする。椅子を引く音。衣擦れの音。そしてしん、と静まり返る。
アリスだけが座っていた。椅子から動かず、ゲームの知識を総動員して撃退プランを組み立てながら。
(いい。これでいい。冷たく当たれば帰るはず。礼すらしなかった不敬令嬢として王太子の記憶に刻まれれば——そもそも近づきたくない相手だと思ってもらえれば——)
「少し話せるか、クレール嬢」
ルーカスがアリスの席の横まで来て、穏やかに声をかけた。
アリスは立ち上がった。正面から向き合う。教室の全員の視線が、針のように刺さる。
「[sarcastic]王太子殿下がわざわざ教室にいらっしゃるなんて、よほどお暇なのね」
空気が瞬時に氷点下になった。
王族への不敬は処罰対象になりうる。エルドリーシェ王国では、そういう社会だ。周囲の生徒たちが全員青ざめる気配がわかった。担任教師がドア口で固まっている。
ルーカスは——目を丸くした。
次の瞬間、声を上げて笑った。
「はは——っ、こんなことを面と向かって言う人間は初めてだ」
笑い声が教室に響く。おかしくて仕方ないという顔だ。それから、アリスの隣の空席を確認して、当然のように腰を下ろした。
アリスの内心が絶叫した。
(ゲーム通りだ! 好感度が上がってる! 毒舌が完全に逆効果!)
「[sarcastic]殿下がそこに座ると担任の先生が困ります」
追撃した。
「先生も怒れないから余計困ります。殿下はそういう、周りに気を遣わせることに無頓着なタイプなの?」
ドア口の担任教師が「ひっ」という声を出した。
ルーカスがきょとんとした。それから、また笑う。今度は少しだけはにかんだ顔だった。
「そういう言い方をされたのも初めてだ。もっと聞かせてくれ」
アリスの第二の矢も第三の矢も、全部笑いに変換された。
教室の生徒たちは凍りついたまま、王太子が悪役令嬢の毒舌に嬉しそうな顔をしている様子をただ目撃していた。授業が始まっても担任教師は挙動不審で、板書の文字が二度ほど間違えた。
アリスは席に座りながら、内心で静かに頭を抱え続けた。
—
昼休みになった瞬間、アリスは机から立ち上がって大食堂ミラベルに向かった。
作戦は「素早く食べて退場」だ。300席ある食堂の窓際一番端を確保して、誰も来ない前に食事を終える。
食堂の入口を三歩入ったところで、後ろから声がかかった。
「ちょうど良かった。一緒にどうか」
アリスは足を止めた。振り返ると、ルーカスが自然な顔で立っている。
300席の大食堂ミラベルが、全席いっせいにこちらを見た気がした。実際に、あちこちで食事の手が止まっている。王太子とクレール家の令嬢が並んで昼食をとる——その光景が瞬時に全員の目に焼き付いた。
(最悪だ。でも断れない。断り方が下手だとそれはそれで話題になる……)
アリスは窓際の席に向かった。ルーカスが隣に座る。
トレーに乗った日替わり定食——シチューとパン、それに紅茶——を前にして、アリスは頭を回転させた。
退屈作戦だ。ゲームに出てくる政務の複雑な話を振って、ルーカスに「面倒な相手だ」と思わせて去らせる。それしかない。
「[sarcastic]殿下、最近グレンヴァスト公国との国境交渉はどうなっているの? ご存知かしら」
ルーカスが「ああ、あれか」と苦い顔をした。
よし、退屈した顔だ——とアリスが思った次の瞬間。
ルーカスは視線を少しだけ落として、静かに話し始めた。
「北境の問題は、正直一番頭が痛い」
「介入すれば国内の利権争いに巻き込まれる。静観すれば弱腰と批判される。どっちに転んでも批判は来るんだが——誰に相談しても、本音で返ってきたことが一度もない」
アリスは聞き流そうとした。でも聞き流せなかった。
ルーカスの声に、芝居の気配がなかった。王族が他人に見せるような「演じた悩み」じゃなくて、本当に誰かに聞いてほしかった言葉みたいだった。
(聞いてどうする。これは退屈作戦のはずだろ——)
「[sarcastic]それはあんたが周りに本音を言わせないからじゃないの」
口から出た。
ルーカスが顔を上げる。その顔が、少しだけ柔らかくなった。
「そう、だね。だからお前と話すのが面白いんだ」
アリスはスプーンを持ったまま固まった。
退屈作戦——完全に失敗した。むしろ向こうが喜んでいる。食堂の全員がこちらを見ている。紅茶が湯気を立てている。シチューが冷めていく。
アリスは静かに、トレーを見下ろした。
(なんでわたしが退屈作戦で機嫌よくさせてるの……)
—
午後の授業がどうにか終わった頃、アリスは人通りの薄くなった時間帯を選んで薔薇の中庭に向かった。
本館と魔法実習棟アルカーナに挟まれた小さな中庭に、50品種以上の薔薇が咲いている。春の夕方の光が斜めに差して、白と淡いピンクの花びらを橙色に染めている。甘い香りが風に乗ってくる。
ここはゲームで「告白スポット」として有名な場所だ。今の時間帯は生徒が少ない。
アリスはベンチに座って、ようやく長い息を吐いた。
やっと一人だ。
「やっぱりここにいた」
アリスは勢いよく振り返った。
ルーカスが中庭の入口に立っていた。白い薔薇の垣根を背に、少しだけ照れたような顔で。
「[sarcastic]……殿下は人の後をつけるご趣味があるの」
アリスは立ち上がって、帰ろうとした。
「王太子として問題では?」
「少しだけ」
ルーカスの声が、さっきと少し違う音をしていた。
アリスの足が止まった。
「こんな風に一人で来られる場所が、俺にはほとんどない」
芝居ではなかった。声に計算の匂いがしない。
アリスは振り返らないまま、ルーカスの声を聞いた。
「王族として幼い頃から、常に誰かに見られていた。俺の発言は全部そのまま政治になる。お世辞と追従しか返ってこない日常で——」
ルーカスは薔薇の花を一輪、指先で軽く触った。柔らかく触れて、すぐ離す。
「本音で話してくれる人間が、これまでいなかった」
アリスはゲームの設定でルーカスの孤独を知っていた。知識として。攻略キャラの背景として。でも今、夕暮れの薔薇の中庭で、目の前で語られた言葉は——設定書の文字とは重みが違った。
胸の奥に、何かが小さく引っかかった。
こいつ、ゲームのキャラじゃない。本当に生きてる人間だ、という感覚。
アリスはその感傷を、すぐに押しのけた。感傷に浸るのは危険だ。これが破滅フラグだ。
「[sarcastic]だからわたしに絡むの。迷惑よ」
「ああ」
ルーカスが笑った。さっぱりした顔で。
「お前は本音しか言わないから」
二人はしばらく、薔薇の中庭にいた。
アリスは優しい言葉を一言も言わなかった。ルーカスも無理に話しかけてこなかった。夕暮れの光が薔薇の上を滑って、橙から紫へと変わっていく。どこか遠くで夕の鐘の音がした。
帰るタイミングを、完全に逃したことに気づいたのはかなり経ってからだった。
寮に戻る道で、アリスは小声で自分に毒づいた。
「[sad]……馬鹿みたい、わたし」
—
夕食を終えて女子寮リリエンハウスの部屋に戻ると、廊下の向こうから令嬢たちの声が漏れ聞こえてきた。
「ねえ聞いた? 王太子殿下がクレール家の令嬢にずっとついて回ってたって」
「昼食も一緒だったらしいわよ。ティーリヒトのローザさんが言ってたって——」
喫茶サロン・ティーリヒト——ブリュムヘン通りにある貴族令嬢御用達のサロンで、元宮廷侍女の店主ローザが情報を集めていることで有名な場所——の名前が出た瞬間、アリスは廊下から部屋の中に滑り込んでドアを閉めた。
午前の教室から昼食の食堂まで、今日の出来事が全部あのサロンの情報網に乗ったらしい。この速さは、エルドリーシェ王国の貴族社会の怖いところだ。噂は瞬時に広まる。学院内での評判がそのまま社交界の評判になる。大貴族会議フェアヴァルトゥングに名を連ねるクレール家の令嬢が王太子と行動を共にした——それだけで十分な話題になる。
アリスは床にへたり込んで、今日の失敗を一個ずつ数えた。
無表情作戦——失敗。毒舌撃退——逆効果。退屈作戦——逆に喜ばれた。立ち去ろうとした——帰り損ねた。
ゲームの知識を持った転生者として、破滅を回避するために打てる手は全部打った。全部裏目に出た。
(どうして……どうしてこうなるの……)
その時。
ドアの下の隙間から、白い封筒が一枚、すっと滑り込んできた。
アリスは封筒を拾い上げた。差出人の名前を確認して、手の中で封筒が少しだけ歪んだ。
ルーカス・ヴァン・エルドリッヒ。
封を開けると、丁寧な筆跡で短い文章が書かれていた。
「明日、学院の薔薇園を案内させてほしい。今日の中庭より、ずっと広い場所を知っている」
アリスはゲームの記憶を全力で検索した。
薔薇園に案内されるイベント——ヒロインが案内されるシーンはある。どのルートにも存在する定番のイベントだ。でも悪役令嬢のアリスが案内される場面は、どのルートにも、どのシナリオにも——
ない。
アリスは手紙を握ったまま、動けなかった。
ゲームのシナリオが、少しずつ変わり始めている。
それが朗報なのか。凶報なのか。破滅エンドへの道から外れているのか、それとも別の形の破滅に向かっているのか——まったく、判断がつかない。
アリスは部屋の天井を見上げた。夜のリリエンハウスはひっそりと静かで、廊下の向こうの令嬢たちの声ももう聞こえない。
手の中の手紙は、ゲームにはないイベントの招待状だ。
どうする。断るか。断ったとして——またどこかで捕まる気がする。今日みたいに。
アリスはため息をついた。盛大に、誰にも聞かれない部屋の中で。
「[sad]……ゲームの知識、全然役に立たないじゃない」
手紙を床に置いて、アリスはそのままごろんと横になった。
薔薇の中庭でルーカスが「本音しか言わないから」と笑った顔が、まぶたの裏にちらついた。押しのけようとしたのに、うまくいかない。
明日の答えを決めなければならない。でも今夜は、その答えを出す自信が、まったくなかった。