毒舌令嬢は、なぜか王国で一番モテる
ある朝、アリス・フォン・クレールは目を覚まし、すべてを思い出した。
ここは乙女ゲーム『ローズ・エターナル』の世界。そして彼女自身は――完璧な悪役令嬢だった。黄金の巻き毛、澄んだ青い瞳、完璧な笑顔。ゲームの中で彼女はヒロインを容赦なくいじめ、最終的には追放される。運命づけられたバッドエンドのキャラクター。それが彼女だった。
「これはまずい。本当にまずい。超まずい。」
アリスはパニックになり、破滅を避けようと必死だった。しかし、生まれつきの毒舌が彼女を裏切る。黙っていようとすればするほど、事態は悪化する。自慢するルーカス・ヴァン・エルドリッヒ王子には「それってただの傲慢じゃない?」と返し、舞踏会の音楽家には「そのテンポ、眠くなるわ」と言い、教授には「去年と全く同じ説明を使ってるじゃない」と突っかかる。
そのたびに彼女は頭を抱えて絶望した。しかし、周囲の人々は決して怒らなかった。むしろ笑ったのだ。「彼女、面白い!」「正直すぎる!」「今度は何て言ったの?」と、次第に彼女を好意的に見るようになった。破滅が近いと信じ込んでいたアリスは、ただ青ざめ続けるばかりだった。
最初に完全に夢中にな
毒舌令嬢は、なぜか王国で一番モテる - 悪役令嬢、好感度を下げる作戦を全力で実行する——なぜか全部プラスになって泣きたい
昨日ルーカスから届いた手紙を、アリスは今朝も引き出しにしまったままにしていた。
薔薇園を案内したい。
ゲームのどのルートにも存在しない、あの一文。考えるたびに頭がぐるぐるする。でも今はそれより先にやることがある。
新学期5日目。今日こそ、好感度を叩き落とす。
アリスは大食堂ミラベルのトレーを手にしながら、今日の作戦を頭の中で最終確認した。お行儀よくしなければいい。貴族令嬢らしくない食べ方を見せれば、さすがのルーカスも「ちょっとこれは……」と引くはずだ。完璧な計画だ。
窓際の定位置に座って、周囲を確認する。なぜか今日も隣にルーカスが来た。300席の大食堂ミラベルで毎回同じテーブルに収束するのはどういう引力が働いているのか。アリスは内心で盛大にため息をついた。
「[serious]では始めます」
誰にも聞こえない声で宣言してから、スープのスプーンをぐるぐるとかき混ぜ始めた。貴族のマナーとして、スープは静かに手前から奥にすくうものだ。それをわざと真逆にやる。次にパンをちぎって、少し大きめの塊をそのまま口に押し込む。仕上げに、肘をテーブルに乗せた。
周囲の生徒たちがひそひそし始めるのが分かった。「クレール様が……」「あんな食べ方……」という声が小さく漏れてくる。よし、効いてる。このまま幻滅してもらえれば——
「それ、やりやすそうだな」
ルーカスが柔らかく目を細めた。銀色の髪が昼の光に光っている。そのオッドアイ——右が蒼く、左が赤い——が穏やかにアリスを見た。
「形式に縛られてない令嬢は初めて見た。こんな風に食べてる人、近くにいなかったから」
アリスのスプーンが止まった。
(感心するな!!! 引け!!! 幻滅しろ!!!)
ルーカスがアリスのトレーをちらりと見て、また笑った。
「あ、でもスープを碗から直接飲むのは流石に……」
「[cold]飲もうとしてないわよ!」
思わず返してしまった。ルーカスがおかしそうに肩を揺らす。食堂の周囲の席では、王太子が悪役令嬢にマナーを注意しながらも笑っているという、なかなかレアな光景を、生徒たちが固唾を呑んで眺めていた。
アリスはスプーンを置いて、静かに目の前のシチューを見つめた。湯気が立っている。
(マナー崩し作戦……完全に逆効果)
食欲がきれいに消えた。
---
翌日。
本館ルクスホールの廊下は、午前の授業が終わった後の移動でにぎわっていた。赤煉瓦の壁に沿って、あちこちに花瓶が置かれている。春の季節、中に活けられた薔薇が廊下に甘い香りを放っていた。
アリスは次の授業室へ移動しながら、ルーカスが廊下の窓際の花瓶の前で足を止めているのを見つけた。薄い春の光の中、銀色の髪が透けるように光っている。
「[gentle]綺麗だな」
小さく、ひとりごとのように言った。
アリスの頭の中で何かが弾けた。チャンスだ。薔薇は王国の象徴で、エルドリーシェ王国の貴族たちが大切にする花だ。ここで薔薇を貶せば、少なくとも「趣味が合わない」という印象は与えられる。
アリスは足を止めて、花瓶を観察した。確かに、よく見ると茎の根元が少し黒ずんでいる。
「[sarcastic]あら。その薔薇、根元がもう黒ずんでるわよ」
ルーカスが花瓶の方を向いたまま、首だけこちらに向けた。
「三日後には枯れてるわね。今が一番マシなだけで、盛りはもう過ぎてるわ」
沈黙。
よし、さすがに傷ついた顔をするか——とアリスが待っていたら、ルーカスはしゃがんで根元をじっと見た。それから立ち上がって、少し楽しそうな顔をした。
「本当だ。確かにそうだな」
「……それを見抜いて言ってくれるの、お前くらいだよ。みんな綺麗だと言うだけで終わる」
そこからルーカスは薔薇の品種の話を始めた。王宮ヴァイスローゼ宮殿の庭には50種類以上あるとか、薔薇冠祭——春に国王が最も美しい薔薇を育てた者に冠を授ける祭事——に向けて宮廷の庭師が毎年競い合っているとか、楽しそうにペラペラと。
アリスはその話を聞かされながら、廊下の石床を見つめた。
(なんで薔薇貶しで薔薇トークが始まるの……)
廊下を歩く生徒たちが、王太子と悪役令嬢が花瓶の前で何か楽しそうに話していると認識したらしく、何人かが立ち止まって眺め始めた。
その日の夕方には「クレール様の植物の観察眼がすごい」という噂が学院内を半周していた。
---
翌々日。
アリスは今日こそ完全勝利を確信していた。作戦名・完全無視。廊下でルーカスを見かけたら、接触する前に別ルートを通る。目を合わせない。存在を認識しない。これ以上シンプルな作戦はない。
本館ルクスホールの二階廊下を歩いていたとき、端の方にルーカスが立っているのが見えた。距離はまだ20メートルほどある。アリスはすぐに方向転換して、裏の廊下に折れた。足を速める。完璧だ。完璧な撤退だ。
後ろで足音が速くなった。
アリスはさらに速歩きした。足音も速くなった。アリスは角を曲がった。足音も曲がってきた。
「[laughing]逃げると追いかけたくなるんだが」
廊下の角を曲がった先で、ルーカスが追いついてきた。息一つ乱れていない。185センチの長身が、わずかに楽しそうに肩を揺らしている。
「[sarcastic]……追いかけてくること、知らなかったの?」
「[laughing]お前は知らなかったのか?」
アリスは廊下の壁に背中を向けて、ルーカスを直視した。オッドアイが穏やかに笑っている。こいつ、完全に面白がっている。
近くを通りがかった生徒数人が足を止めて、「王太子殿下が悪役令嬢を廊下で追いかけてる」という状況を目撃した。噂のスピードが倍になった瞬間だった。
その日の昼には、クレール家のアリス様は毒舌だけど絶対に嘘をつかない面白い令嬢という評価が学院内の定説になった。三つの作戦、全滅。
授業中、アリスはこっそり次の手を考え続けた。でも何も思い浮かばなかった。
---
新学期7日目の放課後。
夕方の授業が終わって、アリスは図書館シュテルンビブリオへ向かおうとしていた。蔵書約3万冊の図書館で、2階の奥にアリスが情報収集に使っている閲覧席がある。ゲームの記憶と照らし合わせながら、何か見落としていないかを確認したかった。
本館と魔法実習棟アルカーナの間を通り抜けるのが最短ルートだ。人通りが少ない時間帯でもある。
薔薇の中庭に差し掛かった時、足が止まった。
50品種以上の薔薇が植えられた中庭の奥——石造りの東屋の柱に、人がもたれていた。夕暮れの橙色の光の中、柔らかく乱れた銀色の髪。
ルーカスだった。一人で、空を見上げていた。
アリスは反射的に後退しようとした。気づかれる前に引き返せばいい。図書館へは別のルートもある。合理的な判断だ。
そのとき、ルーカスの声が小さく聞こえた。
「……疲れたな」
独り言だった。
アリスの足が止まった。
ゲームの攻略情報として、ルーカスの孤独設定は知っていた。王族として幼い頃から完璧を求められ、周囲は全員仮面をつけて接してくる——そういう背景。キャラクターシートの文字で。
でも今、夕暮れの東屋に一人でいるルーカスの横顔は、そんな設定の文字とは全然ちがう重さを持っていた。
(立ち去れ。立ち去るべきだ。近づくたびに破滅フラグが育つ)
足が動かなかった。
ルーカスが視線を空から下ろした。そちらに動いた目が、中庭の入口に立ったままのアリスを捉えた。
一秒、沈黙があった。
「[cold]盗み聞きしたわけじゃないから安心しなさい。偶然通りかかっただけよ」
毒舌で誤魔化しながら、なぜか足は東屋の方向に向いていて、石段に腰を下ろしていた。自分でも理由がよく分からなかった。
ルーカスが目を丸くした。それから、どこか力の抜けた顔になった。
「[gentle]……お前が来ると、正直に話していい気がする」
アリスはその言葉を受けながら、頭の片隅でまずいと思っていた。でも体はそこにいた。
---
薔薇の中庭に夕暮れの光が斜めに差している。どこか遠くで鳥の声がした。東屋の石の柱は少し冷たかった。
ルーカスがぽつりぽつりと話し始めた。北方のグレンヴァスト公国との国境問題——王国の北端、フロストヴィント山脈を挟む不安定な境界線のこと。80年前の北境戦争以来ずっと燻っている話で、どう動いても批判が来る。相談できる相手がいない。本音を言える場所がない。
アリスは鋭い毒舌を返そうとした。でも言葉が少しだけ遅れた。
「[serious]……それは確かに、しんどいわね」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。急いで付け足す。
「[sarcastic]まあ、そういう立場を選んだのはあなたじゃないけど」
ルーカスが目を丸くした。オッドアイがアリスをじっと見た。それからゆっくりと、静かに笑った。
アリスは視線を逃がそうとして、東屋の脇に立つ古い石碑に目が止まった。苔むした表面に、紋章が刻まれている。薔薇の意匠と交差した剣を組み合わせた形だった。
(……これ、なんの紋章?)
ゲームの記憶を検索した。ヴァン・エルドリッヒ王家の紋章は薔薇だけだ。クレール家は鉱山と剣の組み合わせだが、形が違う。ゲーム全ルートを思い返しても、この紋章には覚えがない。
気になった。かなり気になった。でも今は聞いている余裕がない。頭の片隅に押し込んで、アリスは立ち上がった。
「[cold]もう行くわよ。王太子が放課後に令嬢と二人で中庭にいたら噂になる。あなたは好きでも、わたしは困るの」
ルーカスが頷いて立ち上がった。夕暮れの光の中、少しだけ温かい顔をしていた。
「[gentle]そうだね。——明日、案内したい場所がある。薔薇の中庭より広い」
「[serious]断る理由を考える時間をちょうだい」
そのまま早歩きで東屋を離れた。薔薇の香りが背中に漂う。石畳を踏む自分の足音がやけにうるさく感じた。胸の奥で何かが静かに脈打っていることに、アリスは気づかないふりをした。
---
夕食を終えて、女子寮リリエンハウスの部屋に戻った。
ゲームの記憶を頭の中で整理しようとしていたとき、ドアの下の隙間から白い封筒が一枚、するりと滑り込んできた。
アリスは封筒を拾い上げた。差出人の名前を確認して、指先が少し強くなった。
ルーカス・ヴァン・エルドリッヒ。
開けると、丁寧な筆跡で短い文章があった。
「明日の放課後、学院の薔薇園を案内したい。東屋の石碑の話もしたい」
アリスはゲームの全ルートを頭の中で高速で確認した。薔薇園でルーカスがヒロインに花を渡すイベントは存在する。どのルートにも共通して出てくる定番のシーンだ。
でも。
悪役令嬢アリスが薔薇園に案内される場面は——どのルートにも、どの分岐にも、一つも、ない。
しかも石碑の話。ゲームの記憶の中に、東屋の石碑なんて要素は存在しなかった。
アリスは手紙を持ったまま、窓の外を見た。夜の中庭に薔薇が静かに揺れている。月明かりが白い花びらを照らしていた。
物語が、ゲームのシナリオから外れ始めている。
それはアリスが求めていたことのはずだ。破滅エンドを回避したかった。ゲームと違うルートを歩きたかった。
でも——ゲームの外に出るということは、ゲーム知識という唯一の武器が使えなくなるということでもある。何が起きるか分からない。破滅フラグがどこにあるか分からない。
手紙を机の引き出しにしまった。返事の文面を考え始めた。断る言葉を、いくつか組み立ててみた。
でも、書けなかった。
窓の外で、夜の薔薇が風に揺れた。なぜ断れないのか、アリスは自分に問わないようにした。その答えがどこに転がっているか、なんとなく見当がついてしまっていたから。