毒舌令嬢は、なぜか王国で一番モテる
ある朝、アリス・フォン・クレールは目を覚まし、すべてを思い出した。
ここは乙女ゲーム『ローズ・エターナル』の世界。そして彼女自身は――完璧な悪役令嬢だった。黄金の巻き毛、澄んだ青い瞳、完璧な笑顔。ゲームの中で彼女はヒロインを容赦なくいじめ、最終的には追放される。運命づけられたバッドエンドのキャラクター。それが彼女だった。
「これはまずい。本当にまずい。超まずい。」
アリスはパニックになり、破滅を避けようと必死だった。しかし、生まれつきの毒舌が彼女を裏切る。黙っていようとすればするほど、事態は悪化する。自慢するルーカス・ヴァン・エルドリッヒ王子には「それってただの傲慢じゃない?」と返し、舞踏会の音楽家には「そのテンポ、眠くなるわ」と言い、教授には「去年と全く同じ説明を使ってるじゃない」と突っかかる。
そのたびに彼女は頭を抱えて絶望した。しかし、周囲の人々は決して怒らなかった。むしろ笑ったのだ。「彼女、面白い!」「正直すぎる!」「今度は何て言ったの?」と、次第に彼女を好意的に見るようになった。破滅が近いと信じ込んでいたアリスは、ただ青ざめ続けるばかりだった。
最初に完全に夢中にな
毒舌令嬢は、なぜか王国で一番モテる - 包囲網、完成しました
昨日の薔薇園の記憶が、頭から消えてくれなかった。
ルーカスに「案内したい」と言われて、本当に連れて行かれた。赤と白の薔薇が咲き乱れる広い庭。夕暮れの光。ゲームのどこにも存在しないシーン。
アリスは女子寮リリエンハウスの鏡を前に、制服のリボンを直しながら頭を整理しようとした。
(あれはゲームの外の出来事。つまり、物語は変わってる)
じゃあ、破滅エンドも変えられるかもしれない。
そう思いたい気持ちはある。でも期待した分だけ裏切られた時がきつい。そういうの、もう十分経験してきた——前世で。
「[cold]今日は誰とも関わらない」
鏡の中の自分に言い聞かせる。浅い紫のボブカットが揺れた。金色の瞳がじっと自分を見ている。
「[serious]新しい顔と関わらない。ルーカスとの距離を昨日より広げる。完璧な計画だわ」
毒舌という武器だけを手に、アリスは寮の部屋を出た。
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本館ルクスホールから図書館シュテルンビブリオへの最短ルートは、訓練場グラディウスの外周通路を抜けていく道だ。人通りも少ない。アリスは足早にそこを通ろうとした。
ところが、柵の向こうから妙な熱気が漂ってきた。
騎士候補生たちが集まっている。生徒がちらほらと柵の外に立ち止まって、中を覗き込んでいる。人の流れに押されて、アリスも気づけば立ち止まる羽目になっていた。
訓練場の中では、早朝鍛錬の仕上げとして演舞が行われていた。
一人、群を抜いて目立つ男がいた。
黒髪に、鮮やかな赤いメッシュが混じっている。片目には黒い眼帯。身長は188センチはあるだろうか。木剣を握る手が大きくて、腕の筋肉が制服の袖をわずかに押し上げている。動きにまったく無駄がない。剣を振るたびに空気が切れる音がした。
周囲の生徒が「フォルクロウ先輩すごい……」「騎士候補のエースでしょ」と囁き合っている。
アリスはその顔を見た瞬間、ゲームの記憶が走った。
(エドワード・フォルクロウ……攻略対象の一人)
頭の中に、ゲームのキャラクター選択画面が浮かぶ。真面目で硬派な騎士候補。一途で誠実。正義感の塊。
(やばい。逃げなきゃ)
アリスが柵から離れようとした——ちょうどその瞬間だった。
エドワードの視線が、演舞の途中でアリスを捉えた。
動きが、止まった。
そのまま数秒。
ガタン、と音がした。
木剣が地面に落ちた。
訓練場に詰めていた騎士候補生十数名が、全員同時に振り返った。そして一斉に爆笑した。
「フォルクロウが剣落とした!?」
「令嬢に見惚れて!?」
「ありえない!!」
笑い声が訓練場に反響する。エドワードは顔が真っ赤になりながら木剣を拾い上げた。その耳まで赤い。
アリスは反射的に口が動いた。
「[sarcastic]騎士候補がその程度? 敵が美人だったら負けるの、この王国どうするのかしら」
訓練場の笑い声がさらに大きくなった。
エドワードが猛烈な勢いで柵の方へ歩いてきた。顔が赤い。耳も赤い。首まで赤い。
「ち、違う! 俺は別に——あなたのために見ていたわけじゃなくて、その、殿下のために、いや、王国の、王国のために——!」
まったく意味が通っていない。
「[sarcastic]殿下と王国のために見惚れたのね。なるほど、愛国心ね」
「[angry]そういうことじゃない!!」
「じゃあどういうことなの」
「そ、それは——!」
エドワードが口を開けたまま固まった。言葉が出てこない。また笑い声が上がる。
(破滅フラグが加速してる……! でも止められない……!)
アリスは笑顔を保ちながら内心で叫んでいた。
足を動かそうとした、その時。
訓練場の端で、静かに立っている人物と目が合った。
白銀のショートヘア。透き通った水色の瞳。172センチくらい。ルーカスの荷物の入った鞄を両手で持って、訓練場の隅に控えていた。騒ぎをまったく表情を動かさずに眺めていた——その視線が、アリスの方を向いた。
二人の目が、ぴったり合った。
次の瞬間、その青年の耳の先が、じわっと赤くなった。みるみるうちに頬まで染まる。そして素早く視線を足元に落とした。首まで赤くなっている。
アリスの頭の中で、ゲームの記憶が猛烈な速度で走った。
(セバスティアン・アルヴィン……ルーカスの従者見習い……攻略対象の一人……!!!)
攻略対象一覧が脳内に展開される。ルーカス、エドワード、セバスティアン——まだいたはずの攻略対象の名前を必死に検索する。
(駄目だ、四人目の名前が出てこない。でも今それより問題がある。攻略対象が同時に二人も増えた!!!)
アリスは視線を伏せて、とにかく歩き出そうとした。
足元がふらついた。
訓練場の柵に、手をついた。
「[scared]大丈夫ですか!!」
エドワードが柵の向こうから叫んだ。また訓練場で笑い声が起きた。
「[cold]大丈夫よ。あんたは演舞に戻りなさい」
「でも——!」
「[sarcastic]騎士候補が柵越しに令嬢の心配してる姿、絵になると思う?」
周りがまたドッと笑う。エドワードが歯を食いしばって戻っていった。顔は依然として真っ赤だった。
アリスは柵から手を離して、足早に通路を進んだ。
笑顔を顔に張り付けたまま、頭の中は嵐だった。
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昼食。
大食堂ミラベルの窓際、300席の中でアリスの定位置となっているテーブル。今日は早めに来た。一人で静かに食べて、速攻で離脱する計画だ。
ところが。
テーブルに近づいたら、すでにルーカスが座って待っていた。
柔らかい銀色の髪。わずかに乱れた前髪の下で、右が蒼く左が赤いオッドアイが穏やかに笑っている。
「[gentle]早かったね、アリス」
(なんで先に来てるの!!!)
逃げるタイミングが消えた。アリスはトレーを持ったまま、正面の席に座るしかなかった。今日の日替わり定食はポトフとライ麦パンだ。湯気が立っている。食欲が少し下がった気がした。
ルーカスが話しかけてきた瞬間——
「失礼します」
テーブルの横に、エドワードが立った。制服が正しく着直されている。表情はほとんど無表情に近いが、耳がまだ少し赤い。
「[serious]護衛任務の確認で参りました」
「護衛任務?」
「[serious]殿下の昼食時の安全確認です」
ルーカスが「そうだっけ」という顔をした。エドワードは無視して、テーブルの周辺に立った。立った、のだが、どうしてもアリスの方向に視線がいく。いくたびに前を向き直す。それを繰り返している。
そこへ、セバスティアンが来た。ルーカスの食事を運んで、テーブルの端に控える形になった。水色の瞳がアリスの方向を向く。アリスが気づくと、また足元に落ちる。向く、落ちる、向く、落ちる。
アリスはポトフのスプーンを持ったまま、三人の状況を横目で確認した。
ルーカスは余裕の笑みで話しかけてくる。エドワードは前を向いたり戻したりしている。セバスティアンは目線の往復をやめられない。
三人が一つのテーブルを囲んでいる。
食堂の周囲がざわつき始めた。視線を感じる。たくさんの視線。
(このテーブル、どう見ても異様だわ……)
アリスは静かに、ポトフに集中しようとした。温かくていい匂いだ。普通においしい。でも全然味がわからない。
「[gentle]今日は調子どう?」
「[cold]最悪よ」
「それは大変だ」
ルーカスが笑った。全然大変そうな顔をしていない。
エドワードが「……大丈夫か」と呟いた。小さく、かすかに。アリスの方を向いていた。すぐ前に向き直した。
セバスティアンが無言のままルーカスのカップに紅茶を注いだ。その手がわずかにぶれた。紅茶が少しこぼれた。慌てて布巾で拭く。耳が赤い。
「[sarcastic]……ねえ、わたしのことは放置してくれていいのよ、みんな」
三人が、微妙に反応した。ルーカスが苦笑い。エドワードが固まった。セバスティアンが布巾を持ったまま動かなくなった。
食欲が完全に消えた。
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午後の授業の合間、本館ルクスホールの廊下をアリスが歩いていると、前から二人の令嬢が連れ立って歩いてきた。楽しそうに話している。
「聞いた? 今日の昼食の話」
「クレール様のテーブルに三人集まったやつ? もう食堂全体で見てたわよ」
「しかも騎士候補のフォルクロウ先輩が訓練中に木剣落とした話、もう学院外まで漏れてるって」
アリスの足が、少し遅くなった。
「えっ、どこまで?」
「ノイマルクト広場の市場にまで届いてるって誰かが言ってたけど」
令嬢たちはアリスに気づかないまま通り過ぎていった。
アリスは廊下の壁に背中をつけた。
ノイマルクト広場——王都クロンシュタールの庶民の市場。食料品や日用品が並ぶあの場所は、噂の発信源として王国随一の速度を誇る。学院の噂があそこまで届くということは、貴族社会の耳にはもうとっくに入っているか、今この瞬間届こうとしているかのどちらかだ。
ゲームの知識が警告を鳴らした。
社交界追放令——王族または大貴族会議フェアヴァルトゥングの決議により発動される、貴族社会からの永久追放制度。発動の前提として、噂が大貴族会議の耳に届いていることが必要だ。クレール家の令嬢が三人の男を同時に引き付けているという話が、貴族の館の食卓で語られ始めたら——
(この段階からが、本当の危険ゾーン)
前世の記憶の中では、ゲームのここからが破滅エンドへの加速フェーズだった。
でも、ゲームと違う展開がすでに起きている。ルーカスとの薔薇園、今日のエドワードとセバスティアンとの鉢合わせ、これはどのルートにも存在しない状況だ。
だから破滅エンドも変わっているかもしれない。変えられるかもしれない。
でも、だからこそ——どこに地雷があるかが、わからない。
廊下を歩く生徒たちが、アリスの脇を通り過ぎていく。誰も気にしていない。普通の午後。なのに頭の中だけが忙しかった。
アリスは深呼吸して、次の授業室へ向かって歩き始めた。足取りが少し重かった。
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夕食前、女子寮リリエンハウスに戻ったアリスは、自分の部屋のドアの前で立ち止まった。
ドアノブの下の床に、一輪の花が置かれていた。
薔薇ではなかった。高級な花でもなかった。白い、小さな野の花。名前のわからないくらいシンプルな一輪。摘んできたばかりのように、茎がまだしっかりしていた。差出人の名前はない。リボンもメモもない。ただ、そこに置いてあった。
アリスはしゃがんで、花を拾い上げた。
白い花びらが五枚。柔らかい黄色の花芯。特別でもない、でも丁寧に選んだことだけはわかる、そういう一輪だった。
午前の訓練場が、頭に浮かんだ。白銀の髪。水色の瞳。耳まで赤くなって、視線を床に落としたセバスティアン・アルヴィン。
確証はない。でも直感がそう言っている。
ルーカスは手紙を書く。エドワードは顔を真っ赤にして飛んでくる。でもセバスティアンは——声も出さずに、ただ花だけを置いていく。
アリスは少しの間、花を見つめた。
(捨てようかな)
捨てなかった。
部屋のドアを開けて、中に入った。小さな机の上に花を置いた。それから、なんでそうしたんだろうと自分に突っ込んだ。
「[sad]……わたし、だいぶ末期かもしれないわ」
誰も聞いていない部屋の中で、小さく呟いた。
窓の外は夕暮れで、王都の空が橙色に染まっていた。どこかで鐘の音が遠く聞こえる。街がゆっくりと一日を終えていく、その音だった。
噂がノイマルクト広場に届いているなら、大貴族会議フェアヴァルトゥングの耳には時間の問題だ。十二の貴族家の当主たちがその話を聞いた時、クレール家のアリスについて何を思うか——
ゲームの知識では、そこからの加速は早い。
でも、ゲームと今は違う。
違うはずだ。たぶん。きっと。……そうであってほしい。
アリスは机の上の花を一度だけ見てから、窓の外に視線を戻した。
砂時計の砂が減っている感覚がある。見えない砂時計の、見えない砂が、確実に落ちていく音がする気がした。
次に何かが動き出す前に、手を打たなければならない。
でも何を。どうやって。誰が相手で、どこから崩せばいい。
アリスはまだ、その答えを持っていなかった。