羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日
白鳥高校のバドミントン部は、部員わずか四人で存続の危機に瀕していた。運動音痴でラケットすらまともに握れない一年生・相馬奏は、思い付きでチームに加わる。顧問の雨宮真也は、かつての全国チャンピオンだったが怪我で挫折した過去を持ち、独特の指導法を掲げる。「不器用なら頭を使え」と。
天性の才能を持つ同級生・月島葵、そして負けず嫌いな先輩・矢部百合と共に、奏はバドミントンの奥深さに目覚めていく。それは単なる技術だけでなく、相手を読む力、空間認識、そして一瞬の判断力の勝負だった。
小さなチームは徐々に力をつけ、地元の大会で驚きの勝利を収めながら、全国大会出場を目指す。しかし、立ちはだかるのは名門のライバル校と、強力なエース・玉木美咲。シングルス、ダブルス、団体戦の三つの形式を通じて、奏はなぜ自分たちがラケットを握るのか、その答えに向き合っていく。
全七話を通して、笑いあり、真の成長あり、ほのかな恋の予感あり、そして勝利とは部活を救うことではなく、自分たちが輝ける場所を見つけることだと気づく深い物語が紡がれる。仲間たちと、秘密を抱える顧問の支えを受け、奏は最後のコートに立つ。
『羽音の轨跡―
羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日 - 埃と羽毛――栄光の墓場に、名前を刻む
シャトルが、天井に刺さった。
正確には刺さったわけじゃない。体育館の蛍光灯カバーに、ものすごい勢いでぶつかっただけだ。それでもカバーの端がパキッとひびを入れる音は、体育館じゅうに響いた。
静寂。
四十人近いクラスメイトが、一斉にこちらを見ている。
相馬湖菜はラケットを構えたまま、そのまま固まった。淡い琥珀色の瞳が、ゆっくりと天井へ向く。蛍光灯カバーのひびを確認する。確認してしまった。
「……ごめんなさい」
誰かが吹き出した。次に別の誰かが笑い、それが連鎖して体育館が緩む。同情と失笑が半分ずつ混ざったような、あの独特の空気。湖菜はよく知っている。体育の授業のたびに、自分が作り出してしまう空気だ。
白鳥高校に入学して、まだ十日も経っていない。
この日の体育はバレーボールのサーブ練習の前に、準備運動として五十メートル走があった。スタートダッシュの瞬間、湖菜の右足が左足に引っかかった。コースを斜めに横断して隣のレーンに侵入し、隣を走っていた男子に謝りながら着地したのが今日の一失目だった。二失目は、ドッジボールを使ったウォーミングアップ。壁に向かって投げたボールが跳ね返り、自分の鼻を直撃した。そして今、三失目。バレーのサーブが、天井を割った。
体育教師の渋い顔が、遠くに見える。
(また、やった)
湖菜は苦笑を浮かべながら、胸の奥で小さく何かが沈んでいく感覚を知っていた。笑っている。クラスメイトが笑っている。自分も笑い飛ばそうとしている。ただ、その笑いの奥底に、どうにも消えないものが澱んでいる。
弟の陸は、サッカーで市の選抜に入っている。父は高校時代に陸上で県大会まで行った。母はバレーボール部のキャプテンだった。
相馬家の中で、自分だけが違う。
バスケのドリブルは自分の甲に叩き込んで転倒した。五十メートル走のタイムは九秒八で学年ワースト。握力は十八キロしかない。体育の成績は五段階中の二で、担任に「もう少し頑張れそうですね」と言われた。「もう少し」ではなく「もっと」と言えない程度には、担任も湖菜の実態を把握しているのだろう。
授業の後半、湖菜は壁際で体育座りをしていた。
となりに、すとんと誰かが座る。
「今日、来る?」
笹野千尋だった。
湖菜の中学からの友人で、一言で言えば「なんでもできる人」だ。背が高く、肩幅がしっかりして、短く切った黒髪がよく似合っている。陸上をやっていたせいか、体のシルエットが均整が取れていて、歩き方からして違う。立ち止まる動作さえも、スポーツ選手みたいにきびきびしている。笑うと少し八重歯が見える。それが可愛らしい印象を足している。
「……どこに?」
「第二体育館」
「何があるの」
「バドミントン部」
千尋はあっさりと言った。湖菜は三秒かけて意味を処理した。
「……私が?」
「そう」
「今日の体育、見てた?」
「見てた」
「蛍光灯、割ったよ」
「ひびが入っただけ」
「実質、割った」
千尋はしばらく黙った。笑いを堪えているのが、横から見てもわかる。口の端がわずかに引きつっている。
「……まあ、そうかもね」
「それでも誘う気が起きる?」
「起きる」
即答だった。湖菜は千尋の顔を見た。千尋は真っ直ぐ前を向いている。体育授業の続きが、遠くで進んでいる。千尋の横顔は、いつもの飄々とした感じじゃなかった。少し、固い。
それが気になった。
---
放課後、第二体育館に足を踏み入れた瞬間、湖菜は空気の質が変わったのを感じた。
埃の匂いがする。湿気を含んだ、古い木の匂い。床の黒ずんだラインが、長い時間をかけて染み込んだものだとわかる。天井から差し込む西日が、舞い上がる埃を光の粒のように見せている。体育館というより、どこかもっと古いもの、たとえば使われなくなった倉庫のような、そういう静けさがあった。
壁に、横断幕がかかっている。
色が褪せている。白地に書かれた文字が、日焼けで判読しにくいほど薄れている。それでもかろうじて読める。「第四十三回インターハイ出場記念 県立白鳥高校バドミントン部」。
(インターハイ、か)
鷺沼県に位置する御影市。県立白鳥高校の創部は四十五年前だと、入学時のパンフレットに書いてあった気がする。全盛期には国内最高峰の舞台――インターハイへ八度出場。最高成績はベスト4。だがそれは二十七年前の話で、今の部員数は……千尋に聞いた話では、四人らしい。
四人。
湖菜は横断幕から視線を落とした。コート二面分の広さがある体育館は、がらんとしている。端に積まれた段ボール箱が気になって近づくと、隙間からトロフィーの台座が見えた。蓋の合わせ目に埃が詰まっている。しまわれてから、相当経つ。
「すごいでしょ」
千尋が隣に立った。
「……廃部になりそう、ってこと?」
「今年の一年で、私たちが入らないと来年から団体戦に出られなくなる」
千尋の声が、今日の体育の時と同じ硬さをしていた。
「鷺沼県の高体連の規定で、部員が三名以下になったら公式戦に出られなくなるの。今は四人いるけど、二年生の先輩が来年卒業したら三人になる。それで私たちが入れば五人になる。廃部を避けるには……」
「最低人数、かつ来年度末までに県ベスト8以上」
「知ってたの?」
「今、聞いた」
千尋が苦く笑った。
「そう。だから、来てほしい」
湖菜は少し考えた。机に向かう時の癖で、指先でスカートの縫い目をなぞる。白鳥高校の制服は、白いブラウスに深緑のリボン、紺のプリーツスカート。入学してまだ十日なのに、もう制服には馴染んでいる気がした。体には馴染んでいないものが多いのに。
「千尋は運動できるじゃない」
「うん」
「私は今日、蛍光灯を割った」
「ひびを入れただけ」
「千尋」
「なに」
「真剣に聞いてる?」
千尋は湖菜の方を向いた。
「してる。だから来てほしいって言ってる」
その目が、真剣だった。笑い飛ばす感じじゃない。いつも飄々としている千尋が、こういう顔をする時は、本当に本気の時だ。湖菜は中学三年間でそれを学んでいる。
「戦力にならないよ、私」
千尋は少し間を置いた。
「戦力かどうかより、存在してくれることの方が大事な時もある」
静かな声だった。体育館の埃っぽい空気の中で、その言葉だけが澄んでいるみたいに聞こえた。
湖菜はしばらく何も言えなかった。
---
部室は第二体育館の裏のプレハブ棟の二階にあった。千尋が引き戸を開けると、日の当たらない薄暗い約十二畳の部屋が現れた。かつてはここも、賞状やトロフィーで壁が埋まっていたのだろう。今は段ボール箱が隅に積まれていて、ホワイトボードには戦術らしき図が書き残されていた。消されないまま、時間が止まっているような部屋だ。
机が一つ、窓際に置かれている。
千尋が引き出しから入部届を取り出した。
「書いて」
「……ペン、ある?」
「ここ」
机の上にあったペンを湖菜は手に取った。キャップを外して紙に当てると、インクが出ない。ノックしてみると、内側でカタカタと乾いた音がした。
「……空だ」
「はい」
千尋がポーチから別のペンを出してきた。受け取る。今度は書ける。湖菜は入部届を手前に引き寄せて、住所欄から丁寧に埋め始めた。机の脚が一本、床から少し浮いているらしい。書くたびにガタ、ガタ、と揺れる。紙がずれる。書き直すたびにずれる。
千尋がじっとそれを見ている。
「……集中してる?」
「してる。机が悪い」
「押さえようか」
「大丈夫」
大丈夫じゃなかった。入部届の姓名欄に差し掛かった瞬間、机がひときわ大きく揺れた。「相馬湖菜」と書くつもりが、「相」の字の「目」の部分がつぶれて、どう見ても「柏」になった。
湖菜は静止した。
「……柏馬湖菜」
千尋が横から見て読み上げた。
「……そう読める?」
「読める」
「書き直す」
「新しい紙、ないよ」
「…………」
千尋があっさりと続ける。
「湖菜、自分の名前くらいは真剣に書いて」
「机が悪い」
「それは認める。でも字が崩れすぎ」
千尋がくすりと笑った。今度は遠慮なく、友達に向ける笑い方だ。湖菜も苦笑を返した。笑いながらも、ペンをしっかり握り直して、「相」の字を丁寧に上から修正する。結果的に少し太くなったが、かろうじて「相馬湖菜」と読めるようになった。
千尋に渡すと、千尋は頷いた。
「よし、受理」
---
体育館に戻ったのは、入部届の控えを受け取った後だった。
帰りに窓の外を少し見た。御影市の北部にある文教地区は、この時間になると人影が少ない。坂道を一本下れば住宅地が広がり、さらに十分歩けば鏡川の河川敷に出る。夕暮れが始まっていた。空が橙色になっている。
体育館を横切ろうとして、湖菜の足が止まった。
壁に、写真が飾られていた。
気づかなかった。来た時は段ボールや横断幕に目を取られていて、気が回らなかった。古い集合写真だ。縦一列に部員が並んでいる。制服は今と同じデザインで、バドミントンのラケットを持っている人もいる。全員が少し誇らしそうな顔をしている。
湖菜は近づいた。
写真の端に、一人だけ少し離れて立っている人物がいた。
男だった。若い。高校生か、大学生くらいに見える。他の部員が全員正面を向いているのに、その人物だけがわずかに横を向いている。視線が、カメラではなくどこか別のものを見ている。遠くを見るような、そういう目をしている。
(……どこかで)
見た気がする。
湖菜は眉を寄せた。どこで見たのだろう。入学式? いや、違う。そもそもこれは古い写真だ。何年前のものかわからないが、かなり前に撮られたものだということはわかる。それなのに。
なぜ、知っている気がするのか。
「湖菜、行こ」
千尋の声がする。湖菜は写真から目を離そうとして、離せなかった。もう一秒だけ、もう一秒だけ、と思いながら男の横顔を見る。何かを確認しようとしているのに、何を確認したいのかわからない。
ただ、引っかかる。
「湖菜?」
「……ごめん、行く」
小さく首を振って、体育館を出た。
---
夜、自室に戻ってから、湖菜は机の上に入部届の控えを置いた。
廊下を通る時、弟の陸の練習着が物干しにかかっているのが見えた。泥がついている。今日も練習があったのだろう。リビングから父の声と陸の笑い声が聞こえた。サッカーの話をしている。相馬家の夕食時は、だいたいそういう話になる。湖菜は静かに自分の部屋に入った。
控えを見る。
「相馬湖菜」の「相」の字が、少し太くなっている。修正の跡が残っている。一度「柏馬湖菜」になりかけた、不格好な自分の名前。
湖菜は椅子に座って、窓の外を見た。御影市の夜は静かだ。住宅地の灯りが遠くに点在している。曇っていて、星は見えない。
(なぜ、振り返ったんだろう)
体育館を出る直前、自分は確かに足を止めた。写真に吸い寄せられるように。
理由がわからない。
あの横顔が、どこかで見た気がするというのも、根拠がない。入学して十日しか経っていない。校内で会った大人といえば、担任と教科担当と教頭くらいだ。写真の人物は今頃いくつになっているか。十年以上前の写真なら、もう三十代か四十代か。
窓の外の灯りを見続けながら、湖菜は別のことを思った。
あの体育館の匂いが、どこかに似ていた。
埃の匂い。古い床材の匂い。使われなくなった時間の重さのような匂い。それがどこに似ているのか、湖菜にはまだわからない。でも確かに、知っている匂いだった。懐かしいとも言えない。怖いとも言えない。ただ、どこかで嗅いだことがある。
控えをしまおうとして、湖菜は少し迷ってから、そのまま机の上に置いておくことにした。
「柏馬湖菜」の修正跡が、蛍光灯の光の下でわずかに浮いている。
明日、あの体育館に行く。
楽しみかどうか、まだわからない。不安が先に立つ。今日の体育授業が脳裏をよぎる。五十メートル走、バレー、バスケ。蛍光灯のひびの音が、耳の奥に残っている。それでも、千尋があの目で言った言葉が、どこかにある。
戦力かどうかより、存在してくれることの方が大事な時もある。
湖菜は深緑のリボンを外して、制服をハンガーにかけた。窓の外で風が吹いたか、カーテンがかすかに揺れた。
廊下から陸の笑い声がまだ聞こえる。
湖菜は部屋の灯りを落とす前に、もう一度控えを見た。不格好な、でも確かに自分の名前が、そこにあった。