羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日
白鳥高校のバドミントン部は、部員わずか四人で存続の危機に瀕していた。運動音痴でラケットすらまともに握れない一年生・相馬奏は、思い付きでチームに加わる。顧問の雨宮真也は、かつての全国チャンピオンだったが怪我で挫折した過去を持ち、独特の指導法を掲げる。「不器用なら頭を使え」と。
天性の才能を持つ同級生・月島葵、そして負けず嫌いな先輩・矢部百合と共に、奏はバドミントンの奥深さに目覚めていく。それは単なる技術だけでなく、相手を読む力、空間認識、そして一瞬の判断力の勝負だった。
小さなチームは徐々に力をつけ、地元の大会で驚きの勝利を収めながら、全国大会出場を目指す。しかし、立ちはだかるのは名門のライバル校と、強力なエース・玉木美咲。シングルス、ダブルス、団体戦の三つの形式を通じて、奏はなぜ自分たちがラケットを握るのか、その答えに向き合っていく。
全七話を通して、笑いあり、真の成長あり、ほのかな恋の予感あり、そして勝利とは部活を救うことではなく、自分たちが輝ける場所を見つけることだと気づく深い物語が紡がれる。仲間たちと、秘密を抱える顧問の支えを受け、奏は最後のコートに立つ。
『羽音の轨跡―
羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日 - 脳を使え――顧問は眠ったまま目覚めている
入部届の「相」の字が、まだ少し太い。
ペダルを漕ぎながら、湖菜はそのことを何度も思い返していた。修正の跡が残った自分の名前。「柏馬湖菜」になりかけた、不格好な入部届。あの夜は結局それを机に置いたまま眠れずにいて、気がついたら朝になっていた。
それより気になるのは、写真の横顔だ。
体育館の壁に貼ってあった、古い集合写真。他の部員が全員カメラを向いている中で、一人だけ少し外を見ていた若い男。どこかで見た気がすると思いながら、結局何も確かめられないまま帰った。
(誰なんだろう、あれ)
白鳥高校の校舎が坂の上に見えてくる。朝の光が窓ガラスに反射して、少し眩しい。四月の空気はまだ少し冷たくて、自転車のスピードを上げると頬に風が当たる。
昨日千尋に言われた言葉も、頭の隅でぐるぐるしている。
「戦力かどうかより、存在してくれることの方が大事な時もある」
何度思い返しても、うまく消化できない。嬉しいのか、複雑なのか、自分でもよくわからない。
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「遅い」
千尋はすでに第二体育館の前廊下で待っていた。白鳥高校の制服に深緑のリボン、体育館バッグをひざに乗せてしゃがんでいる。湖菜の姿を見るなり立ち上がって、さっさと扉に手をかけた。
「遅くないよ、ちょうどいい時間」
「ちょうどじゃない、三分オーバー」
「計ってたの」
「感覚で」
扉が引かれた。
昨日と同じ埃の匂い。古い床材と、どこか湿った空気。西日の代わりに朝の光が細く差し込んで、舞い上がった埃が光の中をゆっくり動いている。コート二面分のがらんとした空間は、人の声を吸い込んでしまうみたいに静かだった。
窓際に、人がいた。
パイプ椅子に座って、文庫本を膝の上に開いている。銀が混じった黒髪の短髪。灰色の目は本のページに落ちていて、二人が入ってきても視線が上がらない。白鳥高校の教師らしいシャツの上に薄いジャケットを羽織っているが、なんとなく、その人物がこの空間に属しているというより、たまたまそこに置かれているような印象があった。
身長は高い。百七十八センチくらいだろうか。座っていても姿勢はいいが、どこかに力が抜けていて、脱力しているのか落ち着いているのか判断しにくい。
「あの、すみません」
返事がない。ページをめくる音だけがする。
千尋が湖菜を見た。湖菜は千尋を見た。
「あのー!」
「……聞こえてる」
低くて平坦な声だった。顔は上がらない。本を読んだまま、一言だけ返す。
「ラケット歴は」
「ないです、二人とも。昨日入部届を出した相馬湖菜と、笹野千尋です」
「素振り百回。話はそれから」
それだけ言って、また本に戻った。
千尋が湖菜の肩を小突く。「ラケット、あそこ」と目で示す。壁際のラック——昨日は気づかなかったが、練習用のラケットが数本立てかけてあった。湖菜は一本取って、手に持ってみた。
軽い。予想より、ずっと軽い。ただ、どう持てばいいのかが全然わからない。グリップの部分を握るのだろうということだけは推測できる。
「あの、先生」
「なんだ」
「入部初日なので、ケーキとかウェルカムムードとかそういうのは……」
「体育館内での飲食は禁止だ。ケーキのクリームがコートの床に落ちると滑走性が変わる。シャトルの羽根に油脂が付着するとバランスが狂う。歓迎会は外でやれ」
本から目を上げずに、淡々と言いきった。千尋が「……はい」と素直に返事をした。
湖菜は小声で千尋に言った。「本当にこの人が顧問?」
千尋が小声で返した。「らしい」
「本当に?」
「らしいってば」
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千尋の素振りは、見ていて素直に「うまい」と思った。リズムがある。腕の振り方に無駄がない。体の軸がほとんどぶれない。陸上で鍛えた体幹が、こういうところで出るのだろう。
問題は湖菜の方だった。
一回目。ラケットを振った瞬間、腰から崩れた。蛍光灯に当たりそうになって慌ててラケットを引いたら、今度は自分の足首に当たった。痛い。
二回目。今度は慎重に振った。スローモーションみたいな素振りになった。
三回目。「こんなもんかな」と少し力を込めて振り下ろした瞬間、グリップがするりと手から抜けた。
ラケットが、壁に向かって一直線に飛んでいった。
ガコン。
プレハブの壁に当たって、床に落ちた。静寂。
「……」
千尋が振り向いた。目を細めている。笑いを堪えている顔だ。
「湖菜、凶器になってる」
「わかってる」
「死亡事故が出る前に握り直せ」
本から目を上げずに、やはり淡々と言った。湖菜は赤面しながらラケットを拾いに行った。千尋の肩が小刻みに揺れているのが視界の端に見えた。笑ってる。
四回目も崩れた。五回目は空振りした。六回目に今度は反対側の壁際まで飛んでいった。さっきより遠くまで飛んだ。
「さっきより飛距離が伸びた」
「進化してるんだか退化してるんだかわからない」
ただ、その混乱の中で、湖菜が気づいていないことがあった。
雨宮慎也が、いつの間にか文庫本から顔を上げていた。
本はまだ膝の上にある。ページも開いたままだ。でも視線は、もうそこにはない。灰色の目が、静かに湖菜を見ている。表情は変わらない。無愛想なまま、そっけないまま。ただ目だけが、何かを追い始めていた。
湖菜はまた素振りをする。体軸が崩れる。でも——ラケットが飛んでいった先の壁を、湖菜の視線がちらりと捉えていた。飛んでいく前に、もう落下地点を見ていた。打てていない。でも、どこに落ちるかはわかっている。
雨宮の中で、何かが静かに引っかかった。
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「ちょっと来い」
急に声がした。湖菜と千尋が同時に振り返る。雨宮が文庫本を閉じていた。椅子から立ち上がる。立ち上がった時、右膝をわずかに後から出す仕草があったが、湖菜はその瞬間を逃さなかった——というより、その不自然さが勝手に目に入ってきた。
「相馬」
「は、はい」
緊張すると早口になる癖が出そうで、湖菜は意識的にゆっくり返事をした。雨宮が体育館の隅に置いてあった機械に手を伸ばした。古い機械で、表面が少し錆びている。シャトルマシン——シャトルを自動で打ち出す練習用の機器だ——と湖菜は理解した。雨宮が電源を入れる。低い駆動音が始まる。
「目を閉じろ」
「……え?」
「閉じろ。10本打つ。落下地点を指で差せ。ラケットは持たなくていい」
千尋が「え、何の罰ゲームですか」という顔をした。口には出さなかったが、表情にそのままそう書いてあった。湖菜も、罰ゲームにしか聞こえなかった。
でも雨宮の声に冗談の気配がゼロだったので、湖菜は目を閉じた。
暗くなる。体育館の駆動音が、目を閉じた途端に大きく聞こえる。床の感触が足の裏から伝わってくる。少し滑りやすい場所に立っていることがわかる。
シュッ、という空気を切る音がした。
湖菜の右手が動いた。コートの右後方、斜め奥。指が差す。
カン、と床にシャトルが落ちた。
湖菜が指した場所の、二十センチ横だった。
二本目。今度は左の前方。指を差す。カン。十五センチのずれ。
三本目。また右。今度は差した場所から三十センチ離れていた。外れた。
四本目、五本目。湖菜は音に集中した。シャトルが空気を切る音は、角度によって微妙に違う。速いほど鋭く、遅いほどやわらかい。そこに、昨日体育館に入った時に目に焼き付けたコートの空間イメージが重なる。天井の高さ、壁までの距離、光の入り方。閉じた目の裏に、体育館の立体的な地図がある。
六本目、七本目。ずれが少なくなってきた。
八本目——今度は差した場所のほぼ真下に落ちた。
千尋の息遣いが変わった。さっきの「罰ゲーム」という顔が、いつの間にかなくなっていた。目が少し丸くなっている。
九本目。外れた。十本目、また当たった。
「目を開けろ」
湖菜は目を開けた。まぶしかった。シャトルが床のあちこちに転がっている。
「……えっ」
千尋が小さく声を出した。「待って、これ——」と言いかけて止まった。「超能力なの?」という言葉が続きそうな顔だったが、出てきたのは「……どういうこと?」だった。
雨宮はしばらく黙っていた。
何秒か、本当に何も言わなかった。灰色の目が、床に散らばったシャトルと湖菜を交互に見ている。ただ見ている。その沈黙が少し長くて、湖菜は自分が何か間違えたのかと思い始めた。
「……先生?」
雨宮が湖菜の正面に、一歩踏み出した。距離が縮まる。百七十八センチの男が正面に立つと、体格の差が実感としてくる。見下ろされる、というより、真剣に見られているという感覚があった。
「運動音痴か」
「……はい、かなり」
「だったらその分だけ脳を使え」
声は相変わらず低くて平坦だった。叱咤でもない。慰めでもない。ただ、確認するように言われた。報告みたいな言い方だった。
「お前の目は、コートの全部を見ている」
湖菜は何も言えなかった。
否定じゃない、とわかった。でも褒め言葉とも違う。自分に「何か」があると言われたのは、たぶん初めてで、その「何か」の輪郭がまだぼやけていて、うまく受け取れなかった。
胸の奥で何かがゆっくり動いた。じわりとした感覚。嬉しいのか、プレッシャーなのか、区別がつかない。
「ラケット持て」
「あ、はい」
湖菜がラケットを持ち直す。さっきと同じようにグリップを握ると、雨宮が無言で後ろに回った。
湖菜の背後に立った雨宮が、湖菜の右手に手を重ねた。
静かな動きだった。力を込めていない。ただ、角度を確かめるように、ラケットのグリップを持った湖菜の手に、雨宮の手がそっと重なる。指先が湖菜の握り方を少しずらす。「ここじゃなくて、ここに力点を置く」というような動きで、完全に指導の動作だった。
雨宮の表情も声も一切変わらない。
湖菜の呼吸が、一瞬だけ止まった。
雨宮の手が確かだった。力を込めていないのに、どこに当てればいいかが皮膚から直接わかってくる感じがした。大きな手だ、と思った。なんでそんなことを思ったのかわからない。ただ、思った。
「……あの、あ、あのっ」
意味のない言葉が出た。早口になった。緊張すると早口になるという自分の癖が、最悪のタイミングで発動した。
「何だ」
「……体育館、寒いですね」
「……四月だ」
「そう、ですね、四月ですね」
「空調がないからな」
「そうですよね、空調がないから」
雨宮が静かに手を離した。
一メートル離れた場所で、千尋が二人を見ていた。ラケットを脇に抱えたまま、何も言わない。「あ」という顔をしていた。口を少し開けたまま、視線だけが動いていた。
湖菜は前を向いたまま、自分の右手を見た。
グリップの握り方が、さっきと変わっている。何が変わったかを説明するのは難しいが、確かに何かが変わった。
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練習が終わった頃、外はもうだいぶ明るかった。
雨宮が体育館の出口に向かって歩いている。湖菜はシャトルを拾いながら、なんとなくその歩き方を目で追った。
おかしい。
右足の踏み出し方が、左足と微妙に違う。体重を乗せる角度が少し浅い。歩幅を無意識に均一にしようとしているが、右のステップの瞬間だけ、ほんのわずかに着地が慎重になる。
怪我をしている——か、過去にした怪我が残っている。
湖菜はその観察を、自分でも気づかないうちにしていた。コートの空間を読む目が、日常の動作の中にある非対称を、勝手に拾っていた。
「先生、お疲れ様でした!」
千尋が元気よく声をかけた。雨宮は振り返らず、片手を一度だけ上げた。そのまま出口を抜けていく。ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
千尋が湖菜の横に来た。
「どうだった?」
「……何が?」
「全部」
湖菜はしばらく考えた。
「わからない。でも、なんか……思ってたのと違った」
千尋が少し笑った。さっき「あ」という顔をした時の話をするかと思ったが、千尋は何も言わなかった。代わりに「片づけて帰ろ」とだけ言って、シャトルを集め始めた。
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自転車のペダルを踏みながら、湖菜は「脳を使え」という声を、頭の中で繰り返していた。
何度繰り返しても、怒られた感じがしない。否定じゃない。でも褒めるとも違う。ただ、見つけたものを言葉にしたような言い方だった。
(脳を使え。お前の目は、コートの全部を見ている)
運動音痴なのは本当だ。五十メートル走は学年ワーストで、握力は十八キロしかなくて、素振りをすればラケットが壁に飛んでいく。それは変わらない。でも今日雨宮に言われたのは、その話じゃなかった。
別の角度から、別の何かを見た、という話だった。
「そうか」じゃなくて「だったら」に続いていた。
坂を下る。夕方に近い空が、少し橙がかってきている。鏡川の方向に目をやると、川面が光っているのが遠くに見えた。白鳥高校から徒歩十分の河川敷——まだ行ったことがない場所だが、なんとなく夕暮れ時に歩いてみたい気がした。
家に着いて、自転車を停めて、玄関を開けると弟の陸がリビングで練習着を畳んでいた。
「おかえり、姉ちゃん。部活?」
「そう」
「バドミントン部って、強いの?」
「……強くない。でも昔は強かった」
陸が「ふーん」と言って練習着を持って二階に上がった。
湖菜は自分の部屋に入って、鞄を床に置いた。机の上に、昨夜置いた入部届の控えがある。「相」の字が少し太い。修正の跡。
壁際に学校のパンフレットが積んであって、その上に今日の諸々が折り重なって座り込んでいく感じがした。閉眼テスト。シャトルの音。脳を使えという声。そして、右手の感触。
それと、雨宮の歩き方。
右足を、かばっていた。
写真の横顔を思い出した。集合写真の端で、一人だけ外を向いていた若い男。カメラを見ていない目が、どこか遠くを見ていた。
今日の雨宮慎也と、あの横顔が、湖菜の頭の中で重なりかけた。輪郭が合いそうで、まだ合わない。確信にはならない。
答えは出ない。
でも湖菜は机の前に座って、窓の外を見ながら、初めてはっきりと思った。
明日、また体育館へ行きたい。
義務じゃない。千尋の頼みに応えるためでもない。あの体育館に戻りたい。あの埃の匂いの中で、もう一度ラケットを握りたい。「脳を使え」と言った声をもう一度聞きたいのか、それとも右足をかばう歩き方の答えを探したいのか、自分でもよくわからない。
その感情が何なのか、まだ湖菜には名前がなかった。
ただ、控えの修正跡を指でなぞりながら、湖菜はゆっくりと思った。
あの横顔は、きっと雨宮慎也だ。そしてあの目が、今日と同じ目だとしたら——何かを見ていた目だとしたら——あの写真が撮られた時、彼はもうこの体育館でこうして誰かを観察していたのかもしれない。
答えの出ない問いを抱えたまま、湖菜は窓の外の春の夕暮れを見ていた。