羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日
白鳥高校のバドミントン部は、部員わずか四人で存続の危機に瀕していた。運動音痴でラケットすらまともに握れない一年生・相馬奏は、思い付きでチームに加わる。顧問の雨宮真也は、かつての全国チャンピオンだったが怪我で挫折した過去を持ち、独特の指導法を掲げる。「不器用なら頭を使え」と。
天性の才能を持つ同級生・月島葵、そして負けず嫌いな先輩・矢部百合と共に、奏はバドミントンの奥深さに目覚めていく。それは単なる技術だけでなく、相手を読む力、空間認識、そして一瞬の判断力の勝負だった。
小さなチームは徐々に力をつけ、地元の大会で驚きの勝利を収めながら、全国大会出場を目指す。しかし、立ちはだかるのは名門のライバル校と、強力なエース・玉木美咲。シングルス、ダブルス、団体戦の三つの形式を通じて、奏はなぜ自分たちがラケットを握るのか、その答えに向き合っていく。
全七話を通して、笑いあり、真の成長あり、ほのかな恋の予感あり、そして勝利とは部活を救うことではなく、自分たちが輝ける場所を見つけることだと気づく深い物語が紡がれる。仲間たちと、秘密を抱える顧問の支えを受け、奏は最後のコートに立つ。
『羽音の轨跡―
羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日 - 白翼、揃う――「私はあなたのショットが見える」
シャトルを全部拾い終えた頃には、体育館の外からもう部活動の音が聞こえてきていた。
サッカー部の掛け声。どこかで陸上部が走っている足音。
第二体育館の中は相変わらず静かで、扇風機だけが低い音を出している。
「九十七本、全部あった」
千尋がシャトルケースのふたを閉めて、満足そうに言った。湖菜はそのケースを壁際に並べながら、葵のラケットバッグがかかっていたフックに目を向けた。
今日は、そこに何もない。
フックは、ただ壁に出っ張っているだけだ。
「……始めようか」
「うん」
二人でコートに入った。ラケットを持つ。千尋がサーブの構えをとって、シャトルを上げる。
湖菜は頭の中でコートを割った。十六のマス。自分の今いる位置。千尋の位置。シャトルの落下地点——。
「静かすぎてシャトルの音が怖い」
シャトルが飛んでくる前に、千尋がぼそりと言った。
確かに、そうだった。昨日まではコートに四人いた。足音が複数あった。声が飛び交っていた。今日は二人で、扇風機の音と、自分たちのシューズが床を擦る音しかない。
「壁に当てれば音が増えますよ」
言ってから、少し後悔した。そういう意味じゃなかったな、と思ったけど、千尋はすでに「たしかに!」と頷いていた。
次の一球。湖菜はラケットを振り——盛大に空振りして、シャトルが壁に直撃した。
ガンッ、という音が体育館に響き渡った。
千尋が爆笑した。
「音、確かに増えた!!」
「……ねらったわけじゃないです」
壁際に座っていた雨宮が、顔を上げた。本から目を離して、壁を三秒ほど見て、また本に戻った。何も言わなかった。
その三秒の沈黙が、千尋をさらに笑わせた。湖菜も口元が緩む。
笑いが引いた後、二人の動きに昨日までより少しだけ張りがあった。丁寧に構える。丁寧に見る。丁寧に動く。葵がいないぶん、それぞれが一段、力んでいる。
雨宮の視線が時折、コートの引き戸の方へ流れることを、湖菜はちゃんと捉えていた。声には出さないし、頭も動かさない。ほんの少し目線の角度が変わるだけ。でも、湖菜にはわかった。
あの人は、待っている。
練習を続けた。シャトルの軌道を頭の中で追う。足が動き始める。まだぎこちないけど、昨日よりは確かに動いている。千尋も着々と精度を上げていて、サーブが三本に二本はコートに入るようになってきていた。
——そのとき、引き戸が音を立てた。
金属のレールが軋む、独特の音。
湖菜は思わずそちらを向いた。逆光の中に、人影が立っている。
身長は高い。百七十センチ前後。漆黒の長い髪がストレートに下りていて、肩にラケットバッグをかけている。体育館の薄暗い光の中で、その人物の目が湖菜たちを見回した。鋭い金色の瞳だった。
「……戻ってきた」
誰に言うともなく、短く言った。
「矢部百合です」と続けた。「二年。先輩になる」
千尋が湖菜にそっと耳打ちした。「幽霊部員じゃなくて、幽霊……じゃなかった!」
百合がそれを聞いていた。少しだけ口の端を上げた。
「似たようなもんだった」
そのひと言で、この人がどういう人間かがわかった気がした。湖菜はそう思った。照れもせず、言い訳もせず、ただ事実として「似たようなもんだった」と言える人。
雨宮は一言も驚かなかった。本をパタンと閉じて、立ち上がった。
「着替えてこい」
「はい」
百合が更衣室の方へ歩いていく。その背中を見ながら、湖菜は雨宮をちらりと見た。雨宮はシャトルマシンの設定を確認している。表情は変わっていない。でも、さっきまでとは少し違う空気がある。
待っていたとは言っていない。知っていたとも言っていない。でも——この人は確かに、百合が戻ってくることを知っていた。
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ノック練習が始まった。
百合のスマッシュは、本物だった。
ラケットを振り上げて、シャトルを叩き込む。その打球が床に突き刺さるたびに、換気扇がびりびりと震えた。湖菜の足元まで空気が揺れる気がした。
「体育館が鳴いてる」
千尋がぽつりと言った。
百合が少し笑った。苦笑、という感じの笑い方だった。
「このボロ体育館で県内上位とか、笑えるよな」
自嘲のようでいて、でも投げやりじゃない。この場所でやるしかないって知っている人の言い方だった。
雨宮が湖菜に向いた。
「百合のスマッシュが来る前に、落下地点を声で言え」
「え、声で?」
「そうだ。右奥、とか。センター前、とか。打つ前に言え」
わかりました、と言いながら、湖菜はラケットを構えた。百合がサービスラインに立つ。ラケットを引く。体重が前に乗る。
「右奥」
百合が打った。シャトルは、右奥に突き刺さった。
「センター前」
また打つ。また合った。
十本、二十本。ずれることもあった。でも三十本を過ぎた頃から、何かが噛み合い始めた。湖菜の言葉と百合の打球が、ほとんどタイムラグなく一致するようになっていた。
胸の奥で、じわりと何かが広がった。
自分の読みが、誰かの腕と繋がっている。頭の中の地図が、コートの現実と一致している。それだけじゃない——自分が言葉を出すたびに、百合のラケットが動く。まるで、自分がコートの設計図みたいな感覚。
こういうことか、と思った。「脳を使え」とあの人が言っていた意味の、新しい形が見えた気がした。
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練習が終わった頃、体育館の外は夕方の光になっていた。
雨宮が百合に向かって、短く言った。
「去年一人でいた頃の話をしてやれ」
百合が少し黙った。雨宮はそれ以上何も言わずに、ラケットバッグを持って先に体育館を出ていった。
引き戸が閉まる。
三人になった。
百合が壁際に座って、足を伸ばした。湖菜と千尋もその近くに腰を下ろす。扇風機の音だけが回っている。
「部員がゼロになった日のこと、覚えてる」
千尋が「ゼロ?」と小さく繰り返した。
「私が一年の終わりに、最後の三年生が引退した。二年に上がったら、私一人になってた。顧問もいなかった。正式には雨宮が来るまで空白期間があって、その間ずっと一人でここに来て素振りしてた」
「なんで続けたんですか」
百合がすこし間を置いた。
「やめたら認めることになるから」
「何を」
「それが、自分でもよくわからなかった。学校に対してなのか、誰かに対してなのか、自分への意地なのか。今もたぶん、全部混ざってる」
湖菜は何も言えなかった。百合の声は淡々としていた。感傷的じゃない。ただ、事実を並べている。その淡々とした言い方が、逆に胸に刺さる。
「お前らが入ったって聞いた時」百合が続けた。「正直ほっとした。泣きそうになった」
照れもなく、言い訳もなく、ただそう言った。
千尋の目が、少し赤くなった。
「先輩、泣いてよかったんですよ」
「今さら言うな」
百合が笑って、目尻を指の甲でさっと拭った。笑い声と、涙を拭う仕草が同じ一秒の中に収まっていた。
千尋が「えっ、泣いてる!」と言いかけて、「あっ、今さら言うなって言われた」と自分でツッコんだ。百合が「そうだよ」と笑った。湖菜も笑った。
笑い声が体育館に響いて、扇風機の音に混ざった。
この人がここにいる理由が、今はっきりわかった気がした。
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百合と千尋が先に部室へ向かった。
湖菜は一人でホワイトボードの前に立って、残っていた戦術図をイレーザーで消していた。コート分割の格子と、矢印が何本か。消すたびに白い線が薄くなっていく。
引き戸が開いた。雨宮だった。
「まだいたか」
「片付けていました」
雨宮が黙ってホワイトボードの横に立った。湖菜はイレーザーを動かしながら、少し迷ってから口を開いた。
「先生は、百合さんが戻ってくることを知っていたんですか」
「知っていたとは言っていない」
「待っていたとも言っていない、ということも言っていない、ですね」
雨宮が少しだけ湖菜の方を見た。
「先生は答えの周りを言葉で囲って、中心だけ言わない」
静かに言った。責めているわけじゃない。ただ、観察したことをそのまま声にしただけ。
雨宮がホワイトボードの消し残りを、人差し指で示した。右端の小さな格子の跡。
湖菜はそこを消した。イレーザーを動かしながら、横顔に視線があることに気づいた。じっと見ている。どういう目なのか確認しようとして、でも視線を合わせる前に雨宮が窓の外に目を向けた。
夕方の光が体育館の床に斜めに落ちている。それが、さっきより少し赤くなっていた。
頬が、少し熱い。
尊敬だ、と思った。でもその言葉を当てはめようとするたびに、どこかで形が合わなくなる。さっきの百合の話を聞きながら「待っていた」という事実を知ったこと、今ここで横顔を見ながら感じていること——それが全部混ざって、ひとつの名前に収まらない。
湖菜はイレーザーをトレイに置いた。ホワイトボードが、きれいに白くなっていた。
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夕暮れの住宅地は、静かだった。
御影市の住宅地は白鳥高校から自転車で十分ほどの距離にある。区画が整理された細い道が続いて、どの家もほとんど同じ高さの壁と門があって、この時間はどこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。
湖菜は自転車を止めて、ある表札の前に立った。
月嶋、とある。
手が動かなかった。インターホンのボタンを見たまま、三秒、五秒と経っていく。
何を言えばいいのか、正直まだわからなかった。「元気?」は違う。「また来て」も違う。「廃部になる」は、今じゃない。じゃあ何を——。
でも、来た。ここまで来た。それは事実だ。
押した。
チャイムが鳴って、二十秒ほどで玄関の明かりがついた。扉が開いた。
葵だった。
パーカーにスウェット、という格好で、深い紫色の瞳がわずかに大きくなった。湖菜を見て、それからもう一度湖菜を見た。
「……なんで来たの」
「来たかったから来ました」
葵が少しだけ黙って、「入る?」と言いかけて、「玄関でいい?」と言い直した。湖菜は「はい」と答えた。
二人は玄関の段差に並んで座った。葵が先に膝を抱えた。湖菜も同じようにした。夕暮れの住宅地の空気が、少しひんやりしていた。
しばらく、何も言わなかった。
遠くで車が通る音。どこかの家でテレビがついている。虫が鳴き始めていた。
「中学の決勝、負けた」
葵が先に言った。湖菜は動かなかった。
「セットカウント二対一で、最終セット私が勝ってた。十七点まで先行した。そっから崩れた」
「崩れた、というのは」
「ショットの角度が全部狂い始めた。狙ってないところに飛ぶ。体が覚えてるはずの動きが、なんか違う形で出てくる。怖かった」
少しの間。
「体が覚えているのに?」
「覚えてるのに、出てこない。恐怖が先に来るから。追い詰められたって気づいた瞬間から、もう全部狂ってた。練習でできてたことが全部、信用できなくなる感じ」
葵の声は、いつもの軽やかさがなかった。でも震えてもいない。ただ、底の方に落ちた場所から、正確に言葉を拾い上げている声だった。
「だから私、大事な場面でどうせまた崩れる。翠嶺が出てきた瞬間に思った。あそこの系列クラブに、あの頃の相手がいた。また同じことが起きる」
沈黙。
湖菜はしばらく、その沈黙の中にいた。葵の言葉が、頭の中でゆっくりと形を持っていく。体が覚えているのに、恐怖に食われる。見えているのに、動けない——それは、湖菜自身がずっと抱えてきたことと、根が似ているような気がした。形は違う。でも根が似ている。
「私は動けない」
静かに言った。
「運動が苦手で、力もない。コートの格子は頭に描けても、足はなかなかそこに行かない。今もまだそうです」
葵が湖菜の横顔を見た。
「でも」湖菜は続けた。「あなたのショットがどこに飛ぶか、見える」
葵の動きが止まった。
「ラケット面の角度。体重の乗り方。打つ前の一瞬の静止。全部合わせると、どっちに飛ぶか、打つ前にわかる。今日の練習でも、百合さんので実際にやってみて、ちゃんと合った」
「……それ、本当に?」
「本当に」
葵がまた黙った。湖菜も黙った。夜の虫の声が、少しずつ増えていた。
「だから一緒にやろう」
「え」
「あなたが見えない部分を、私が言葉にする。追い詰められてラケット面がぶれたら、言う。狙えるコースがあったら、言う。あなたの恐怖が来る前に、私が先に言葉を置く」
葵の目に、光が滲んだ。
湖菜は葵の横顔を見ていた。泣くかもしれない、と思った。でも泣かせたくて言ったわけじゃない。ただ、本当にそう思っていることを、言わなかったら後悔すると思ったから言った。それだけだった。
「……一人でいるより、ましかもな」
葵がぼそりと言った。目を拭って、少し笑った。さっきまでとは違う笑い方だった。目の奥まで、ちゃんと動いていた。
「明日、来ますか」
葵が空を見た。夕暮れが終わって、空に一番最初の星が出ていた。
「行く」
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翌朝。
第二体育館の朝は、光の入り方が独特だ。高い位置についた横長の窓から、斜めに差し込む光が床に長い四角を作る。埃が光の中でゆっくり動いている。
湖菜は一番早く来た。次に千尋が来て、すぐに百合が来た。
三人でシャトルマシンのそばに立って、引き戸を見ていた。雨宮がケースを運びながら横目でその様子を見て、何も言わなかった。
引き戸が、音を立てた。
葵が入ってきた。ラケットバッグを肩にかけて、赤紫の髪が朝の光を受けている。深い紫色の瞳が体育館を見回して、三人のところで止まった。
「遅い」
百合が開口一番に言った。腕を組んで、でも口の端はわずかに上がっている。
「待ってたよ」
千尋が手を振った。高く、ぶんぶんと。
湖菜は何も言わなかった。ただ葵の隣に、一歩、移動した。
葵がラケットバッグをフックにかけた。ラケットを取り出す。コートに入る。湖菜はその隣に立ちながら、葵のラケット面を横目で確認した。
ブレがない。
昨日とは違う。きれいに、真っ直ぐ、前を向いている。
その事実が、言葉にならないまま胸の奥に広がった。安堵、というには少し温かすぎる。喜び、というには少し静かすぎる。でも確かに、何かがそこにあった。
雨宮がシャトルマシンのスイッチを入れながら、四人を一瞥した。
「今日から団体戦の編成で動く」
——団体戦の編成とは、五試合制のことだ。シングルス三本、ダブルス二本。県大会で勝ち上がるには、そのうち三本を取らなければならない。四人しかいない白鳥高校バドミントン部が、それを組む。
湖菜は頭の中でコートを展開した。十六の格子。葵の立ち位置。百合の立ち位置。千尋の軌道。自分がどこに言葉を置くか。
まだ何も始まっていない。地区予選は、この先にある。翠嶺学園は、その先にある。でも今この瞬間、四人が同じコートに立っている。
それだけで、昨日とは違う朝だった。