羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日
白鳥高校のバドミントン部は、部員わずか四人で存続の危機に瀕していた。運動音痴でラケットすらまともに握れない一年生・相馬奏は、思い付きでチームに加わる。顧問の雨宮真也は、かつての全国チャンピオンだったが怪我で挫折した過去を持ち、独特の指導法を掲げる。「不器用なら頭を使え」と。
天性の才能を持つ同級生・月島葵、そして負けず嫌いな先輩・矢部百合と共に、奏はバドミントンの奥深さに目覚めていく。それは単なる技術だけでなく、相手を読む力、空間認識、そして一瞬の判断力の勝負だった。
小さなチームは徐々に力をつけ、地元の大会で驚きの勝利を収めながら、全国大会出場を目指す。しかし、立ちはだかるのは名門のライバル校と、強力なエース・玉木美咲。シングルス、ダブルス、団体戦の三つの形式を通じて、奏はなぜ自分たちがラケットを握るのか、その答えに向き合っていく。
全七話を通して、笑いあり、真の成長あり、ほのかな恋の予感あり、そして勝利とは部活を救うことではなく、自分たちが輝ける場所を見つけることだと気づく深い物語が紡がれる。仲間たちと、秘密を抱える顧問の支えを受け、奏は最後のコートに立つ。
『羽音の轨跡―
羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日 - 別格の羽根――葵は笑いながら
ノートの最後のページの余白は、まだ空いたままだった。
あれから数日が経つ。倉庫で見てしまった走り書き——「膝が持てば」——の四文字が、練習中もふとした瞬間に頭の端に浮かんでくる。答えを出そうとするたびに、答えのない場所へ転がり落ちていく感覚。湖菜はその感覚を、とりあえず棚の上に置いておくことにしていた。今は、足を動かすことの方が先だ。頭で理解したことを、体に覚えさせることの方が。
第二体育館の空気は今日も同じだった。埃と汗が混ざった、少しだけ金属臭のする空気。西日が床の節に斜めに差して、コート2面分の広さがいつもより少し狭く見える。扇風機が低い音を立てて回っている。夏はまだ先だが、体を動かすと額に汗が滲む季節になっていた。
「行くよ」
千尋がシャトルを高く上げた。
湖菜はラケットを構えた。頭の中でコートを十六のマスに割る。自分は今、どのマスにいる。千尋は今、どこにいる。シャトルが落ちてくる先は——。
九番マス。
足が、動かない。
シャトルが湖菜の右横を通り過ぎて、床に落ちた。
「……考えてた」
「また?」
「ちゃんと考えてた」
千尋が真顔で言った。
「透明人間になる練習してる?」
「……してない」
「三本連続で棒立ちだったよ」
「わかってる」
ラケットを握り直す。手のひらにじっとり汗をかいている。頭の中では十六マスが綺麗に動く。シャトルの軌道が、落下点が、自分が向かうべき場所が——全部見える。見えているのに、足がそこへ向かわない。脳から信号を送っても、体が「はい」と言わない。
(わかってる。わかってるのに)
練習を始めてもう何日になる。理論は理解した。雨宮の説明を書き留めたノートは、もう三ページ目に入っている。でも、コートに立つたびに体は石になる。千尋はそんな湖菜の隣で着々と動きを覚えていく。サーブの精度が上がり、フットワークにリズムが生まれてきている。陸上で鍛えた体幹が、バドミントンという競技に少しずつなじんでいく様子がよくわかる。
自分には、それがない。
次の一球。今度こそ——と思った瞬間、ラケットが空を切った。シャトルは湖菜の左肩の上を悠々と飛んでいった。
(また)
ラケットを下げる。床を見る。ラケットのグリップを、必要以上にきつく握っていることに気づいた。指の関節が白くなっている。
——そのとき、体育館の引き戸が音を立てて開いた。
金属レールが軋む音。夕方の光が長方形に切り取られて、床に落ちる。逆光の中に人影が立っていた。
肩にラケットバッグをかけている。背が高い。163センチくらいか。赤紫色の髪が肩の下でゆるくウェーブしていて、夕光を浴びてすこし茶色がかって見える。深い紫色の瞳が、薄暗い体育館の中をさっと見回した。
表情は明るかった。口の端が上がって、親しみやすい笑顔を作っている。でも湖菜の目は、その瞳の奥を一瞬だけ捉えた。
目だけが、笑っていない。
「あの——ここ、バドミントン部の練習場所、ですよね」
声は柔らかかった。丁寧だが、どこかさらりとしている。雨宮がノートから顔を上げた。灰色の瞳が新入りを一秒だけ見る。
「そうだ」
「入部したいんですけど」
「理由は」
少しだけ間があった。
「廃部になったら困るので」
雨宮はまたノートに視線を戻した。
「ロッカーは奥から三番目。着替えてこい」
「……はい」
それだけだった。歓迎の言葉もなく、自己紹介を求める声もなく。来た。入部する。着替えろ。それだけで完結した。千尋が湖菜に小声で言った。
「先生、毎回こんな感じなの?」
「うん」
「一言で終わるの、才能だよ」
湖菜は少し笑った。でも視線は更衣室へ続くドアの方へ向かっていた。「廃部になったら困るので」。その言葉の選び方が、少し引っかかる。嘘をついているわけではないと思う。でも、それだけでもない気がした。
——数分後、葵がコートに戻ってきた。
ラケットを手に持って、コートの中央に自然に立つ。立ち方だけで、わかる。重心の位置。足の開き方。ラケットを持つ手の角度。それが全部、湖菜や千尋のものとは違う。練習してきた体が持つ、自然な構えだった。
「少し打っていいですか」
「好きにしろ」
葵は軽くシャトルを上げた。それだけで、体育館の空気が変わった気がした。
スマッシュ——ではなく、コントロールショットだった。コートの角ぎりぎりに落ちる、低くて鋭いドロップ。続いてクリア。ふわりと高く上がって、コート奥深くへ。次の瞬間にはもうネット際、ネット上すれすれのヘアピン。弧を描くシャトルの軌道が、湖菜の目にはっきりと見えた。
落下点。着地のマス。次の返球先。
全部見えているのに、そこへ行けない。湖菜は棒立ちのまま、葵のショットを目で追い続けた。
千尋が呟いた。
「……やばい」
「うん」
「レベルが違う」
「中学で地区大会ベスト8らしい」
「ベスト8って……うちの部の今の実力で試合になる?」
「試合どころじゃない」
正直に言った。千尋が「そうだよね」という顔をした。
雨宮がノートを閉じて立ち上がった。
「湖菜。葵と打ってみろ。打てなくていい。読むことだけに集中しろ」
湖菜はラケットを持ったまま、コートに入った。葵と向き合う。163センチの体。赤紫の髪。深い紫の瞳が、湖菜をまっすぐに見ている。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
葵がシャトルを上げた。
最初の一球——コート奥。わかった。二球目——ネット前。わかった。三球目——右サイド。わかった。体は動かない。全部見ているだけだ。でも、湖菜の口が小さく動いていた。落下点を、声に出さずに言葉にしていた。左奥。右前。センター。
ほぼ、全部当たっていた。
四球目、五球目、六球目——七球目。
「止まれ」
雨宮が手を上げた。ラリーが止まる。葵がシャトルを持ったまま、ゆっくりと湖菜の方を見た。不思議そうに、目を細めている。
「今、全部言ってたな」
「……言葉に、してただけです。打ててないです」
「知ってる」
短い肯定。雨宮はそれだけ言ってからメモを取るためにコートを離れた。ホワイトボードの前へ歩いていく。その隙に、葵が湖菜に向き直った。
「打てないのに、全部見えてるの?」
湖菜は答えにくくて、少し視線を落とした。
「見えてる、だけで——」
「羨ましい」
静かな声だった。
湖菜は顔を上げた。葵はまだ湖菜を見ている。笑顔だ。親しみやすい、柔らかい笑顔。でも、その言葉の重さが、笑顔と一致していなかった。羨ましい。その言葉が何を意味するのか、湖菜にはまだわからない。でも何か——何か、言葉の裏に詰まっているものがある気がした。
沈黙が二人の間に落ちた。
「詩的な空間になってるよ、なんか」
千尋がコートの外から声をかけた。葵が振り返って、少し笑った。湖菜も苦笑を返した。場の空気が、ふわりと解けた。でも湖菜の胸の奥には、葵の「羨ましい」という言葉が引っかかったまま残っていた。温かさとざわめきが同時にある、落ち着かない感覚。
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練習の中盤、三人でラリーを続けながら、湖菜はずっと葵のショットを目で追っていた。
速い。正確だ。コートを広く使う。千尋が必死で追いかけても、葵の返球はいつも半歩先にある。でも——。
湖菜は眉をわずかに寄せた。
コートの右後方深く。そこへ返球が必要になったとき、葵のラケット角度が、ほんの少しだけぶれる。落下点がわずかにずれる。一度だけではない。同じ状況が繰り返されるたびに、同じ場所で、同じようにぶれる。
千尋は気づいていない。ラリーを続けながら、全力で動き回っている。雨宮はホワイトボードにマーカーを走らせながら、何も言わない。見えていないのか。見えているけど言わないのか。
葵はぶれた直後に、すぐ笑顔に戻った。何事もなかったように次のショットへ移る。その切り替えが、自然すぎて逆に目立つ。
三度繰り返した。右後方への返球。ぶれ。笑顔。
(見てしまった)
湖菜は記憶に刻んだ。葵のショットの乱れと、その直後の笑顔を。同じページに並べて。
「球拾いのリズム、一定ですか?葵さん」
唐突な質問だった。葵がシャトルを拾いながら首をかしげた。
「……どういう意味?」
「なんかリズムがあるのかなって思って。音楽的に」
「そうかな」
「ありそう。タン、タン、タン、みたいな」
「……わからないけど」
湖菜はその二人のやり取りを聞きながら、少し肩の力が抜けた。千尋のまったく別方向の観察が、場の緊張を軽くしてくれる。こういうところが、千尋という人間のうまいところだ。意図的かどうか、いつもわからないけれど。
練習が一段落して、千尋と葵が着替えのために更衣室へ向かった。
体育館に、湖菜と雨宮だけが残った。
湖菜はラケットをケースに戻してから、一度だけ倉庫の方を見た。あのノートが、まだ段ボールの下にある。「膝が持てば」の走り書きが、まだそこにある。
——倉庫へ入った。扉を引く。埃の匂い。薄暗い空間。段ボールを退かして、古い大学ノートを取り出す。最後のページを開く。走り書き。「膝が持てば」。四文字。湖菜はそれを確認してからノートを閉じ、元の場所に戻した。箱を重ねた。
体育館に戻ると、雨宮がホワイトボードの前にいた。葵のショットの軌道図を描いているらしく、マーカーが滑る音がする。湖菜は少し迷ってから、雨宮の隣まで歩いた。
ノートを、ホワイトボードの台に置いた。
「これ——先生が書いたやつですか」
雨宮が手を止めた。数秒だけ、ノートを見た。湖菜は視線を雨宮の横顔に向けたまま待った。
「倉庫にあった」
「はい」
雨宮はマーカーのキャップをはめた。それからノートの表紙を、指先で軽く叩いた。叩いた、というより、確かめた——そういう触り方だった。
「全日本選手権に出たことがある。シングルスで三位だった」
天気予報を読んでいるみたいな声だった。
「二十四の時に右膝の前十字靱帯を切った。手術したが、競技に戻れなかった。引退した」
続きがある気がして、湖菜は何も言わなかった。でも、続きは来なかった。雨宮はそれだけ言って、またホワイトボードに向き直った。栄光と喪失が、同じ温度で並んでいた。
(三位。全日本の、三位)
全日本選手権——日本バドミントン協会が主催する国内最高峰の大会だ。年間参加者が三千人を超える、プロも大学のトップも実業団の選手も出る大会で、上位八人が「入賞」と呼ばれる。その三位。
それを失った話を、雨宮は今と同じ声で話した。
反論も慰めも、出てこなかった。出せなかった。何を言っても、あの平板な声が持っていた重さに届かない気がした。体育館に沈黙が落ちた。西日が傾いて、床の黄色みが増している。扇風機の音だけがある。
「今日、葵の右後方への返球、見てたか」
話が移った。唐突に、でも自然に。雨宮がホワイトボードのある点を指で示した。
「見てました」
「どこがどう崩れた」
「ラケットの角度が、少しだけ閉じる方にずれます。三回とも同じタイミングで」
雨宮がマーカーのキャップを外した。ホワイトボードに矢印を一本引く。湖菜が言った場所に、正確に。
「……そうか」
口の端が、わずかに動いた。それだけだった。でも湖菜は、今日初めてその動きを見た気がした。雨宮がホワイトボードへ向き直る。銀が混じった黒髪の短髪。灰色の瞳の横顔。
湖菜の目は、自然に下へ行った。
右足。左足。右足——。
着地が浅い。かばっている。右膝。今日もそうだ。練習中も、歩くときも、ずっとそうだった。でも今は、それが前とは違う重さを持っている。「前十字靱帯を切った」。「競技に戻れなかった」。その言葉を知った上で見る右足の一歩が、まるで別のものに見えた。
湖菜は目を伏せた。
見えてしまう。見たくなくても。
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更衣室から千尋と葵が戻ってきた。四人で体育館の鍵をかけた。引き戸を閉めて、外に出る。夕方の空が橙色に染まっていた。
「今日から四人ですね!」
千尋が高らかに宣言した。葵が呆れた顔で振り返る。
「急に何」
「いや、四人になったから。記念すべき日じゃないですか」
「……増えたのは事実だけど」
「増えたじゃないですか!!」
「それ今も言ったよね」
葵が苦笑した。千尋が悪びれずに「やっぱり記念ですよ!」と返す。雨宮は鍵をポケットに収めながら、小さく背を向けた。
「来週から走り込みの距離を伸ばす」
それだけ言って、歩き出す。湖菜は一瞬その背中を目で追ってから、視線を右足に落とした。着地が浅い。かばっている。今日も、同じだ。
「先生のこと、気になるの?」
小声だった。葵が湖菜の耳に近い位置で、静かに問う。湖菜は反射的に首を振った。
「違います」
葵が笑った。柔らかく、親しみやすい笑い方。でも——湖菜の目がそこを捉えた。目の奥が、笑っていない。体育館の中で見たのと、同じ笑い方だった。
「そっか」
それだけ言って、葵は視線を前に戻した。二人の間に、ほんの少しだけ何かが流れた気がした。うまく言葉にならない。でも——それぞれが何かを抱えているという、無言の共鳴みたいなもの。
湖菜は胸の奥が少しだけ騒ぐのを、持て余した。
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帰り道、鏡川の河川敷を自転車で走った。
鏡川——御影市の中央を東西に流れる、川幅四十五メートルの川だ。夕暮れ時は橙と紫が混ざった空が水面に映って、白鳥高校から徒歩十分のこの道が、少しだけ違う場所に見える。
千尋はもう先に帰っていた。湖菜は一人でペダルを踏みながら、今日見たものを静かに数えた。
四つ。
葵のショットの乱れ。右後方への返球、三度。同じ場所、同じぶれ方。
葵の目。笑顔の中で、笑っていない目の奥。
雨宮の言葉の平板さ。全日本三位と膝の話が、同じ声で並んでいた。
雨宮の右足。今日も、かばっていた。
見ることが武器だと、あの人は言った。頭で描いた地図は、地面を歩いて初めて地図になる、とも言った。見て、読んで、計算して、それが自分の戦い方だと——。
(でも)
見えてしまうことが、痛みを伴うことを、湖菜は今日初めて知った。
葵の乱れを見てしまった。葵の目を見てしまった。雨宮の言葉の重さを受け取ってしまった。雨宮の右足を見てしまった。見たくて見たわけじゃない。ただ、目が拾ってしまった。
ノートの余白が、頭の片隅にある。まだ何も書いていない一行分のスペース。今日書くべき言葉があるとしたら、それは何だろう。
水面に夕日が溶けていく。橙色が少しずつ薄くなって、川の色が濃くなっていく。葵の紫色の瞳が、夕暮れの水面に重なった気がして、湖菜はペダルを踏む足を少しだけ強くした。