羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日
白鳥高校のバドミントン部は、部員わずか四人で存続の危機に瀕していた。運動音痴でラケットすらまともに握れない一年生・相馬奏は、思い付きでチームに加わる。顧問の雨宮真也は、かつての全国チャンピオンだったが怪我で挫折した過去を持ち、独特の指導法を掲げる。「不器用なら頭を使え」と。
天性の才能を持つ同級生・月島葵、そして負けず嫌いな先輩・矢部百合と共に、奏はバドミントンの奥深さに目覚めていく。それは単なる技術だけでなく、相手を読む力、空間認識、そして一瞬の判断力の勝負だった。
小さなチームは徐々に力をつけ、地元の大会で驚きの勝利を収めながら、全国大会出場を目指す。しかし、立ちはだかるのは名門のライバル校と、強力なエース・玉木美咲。シングルス、ダブルス、団体戦の三つの形式を通じて、奏はなぜ自分たちがラケットを握るのか、その答えに向き合っていく。
全七話を通して、笑いあり、真の成長あり、ほのかな恋の予感あり、そして勝利とは部活を救うことではなく、自分たちが輝ける場所を見つけることだと気づく深い物語が紡がれる。仲間たちと、秘密を抱える顧問の支えを受け、奏は最後のコートに立つ。
『羽音の轨跡―
羽音の轨跡―運動音痴が全国を目指す日 - 廃部通告とシャトルの海
川面に揺れる光のことを、まだ引きずっていた。
昨日の帰り道、鏡川の水面に橙色が溶けていくのを見ながら、湖菜はしばらく立ち止まっていた。葵の深い紫色の瞳が、夕暮れの川に重なる感じがして。ペダルを踏む足が重かった。
今朝もその重さが、まだ体のどこかに残っている。
自転車のハンドルを握る手が、いつもより少しだけ力んでいる。文教地区の緩い坂を上がりながら、湖菜は深く息を吸った。空気が湿っていた。梅雨前の、少しだけ青臭い朝の匂い。
第二体育館に入ると、雨宮がもういた。
珍しかった。いつもは湖菜たちが揃ってから来るか、文庫本を膝に乗せたまま半眠状態で待っているか、そのどちらかだ。でも今朝の雨宮は、黒板に何かを貼っている途中だった。銀が混じる黒髪の後ろ姿。体育館の空気が、少しだけ違う。
「来たか」
振り返らずに言った。黒板には、A4の紙が数枚、磁石で留めてある。湖菜はラケットバッグを壁際に置いて、近づいた。
表は、地区予選の組み合わせ表だった。
見た瞬間、目が止まった。でも理由に気づく前に、引き戸が開いて千尋と葵が一緒に入ってきた。
「先生、今日早くないですか」
千尋が朝から元気よく言う。葵は「おはよ」と短く笑って、湖菜の隣に並んだ。
雨宮がポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「全員来たな。校長・藤堂からの文書だ」
無表情で読み上げた。
『来年度末までに鷺沼県高等学校バドミントン大会において県ベスト8以上の成績を収めることを、バドミントン部の活動継続の条件とする。これが達成されない場合は、来年度末をもって廃部とする』
体育館が、静かになった。
扇風機が低い音を立てている。それだけが、動いている。
湖菜は黒板を見た。組み合わせ表の、右上のブロックに目が行く。そこに書かれている文字を、確認するまでもなく知っていた。
翠嶺学園。
「え、ちょっと待ってください」
千尋が手を挙げた。
「廃部って、これ本物の話ですよね。冗談とかじゃなく」
「冗談で校長の文書を読み上げるほど暇じゃない」
「そうですよね!!」
千尋が変に納得している間、湖菜は葵の方をちらりと見た。
葵はラケットバッグのグリップを、両手で持っている。ぎゅっと。指の関節が、白くなりかけている。その手が、昨日より力んでいる。組み合わせ表から、目が離れていない。
雨宮が、翠嶺学園の戦力資料を取り出した。
「初戦の相手について説明する」
淡々と読み上げ始めた。部員三十二名。年間予算、八百万円——鷺沼県内で強化指定を受けた翠嶺学園が、バドミントン専用に投じる金額だ。白鳥高校のほぼ百倍になる。専用コート六面の「翠嶺アリーナ」。エース、玉城美咲のスマッシュ最高速度、二百八十六キロ。
「ちょっと待ってください」
千尋がまた手を挙げた。
「のぞみより速くないですか」
雨宮が一秒止まった。
「のぞみより遅い」
「そこじゃなくて!!」
千尋のツッコミが体育館に響いた。湖菜は思わず口元が緩みかけた。千尋はいつもそうだ。どんな重い空気でも、ちゃんとボールを拾う。
でも、笑いが引いた直後の沈黙は、さっきより重かった。
「……無理だよ」
声が、小さかった。
湖菜はすぐに気づいた。葵の声じゃない、と思った。正確には、練習中の葵の声じゃない。昨日まで聞いていた、軽やかで少し自嘲的な、あの声じゃない。もっと底の方から出てきた音だ。
「翠嶺系列のクラブに、中学の時——」
葵が口を開いて、途中で止まった。それ以上言葉が出てこないんじゃなくて、言葉を途中で飲み込んだ。湖菜にはそれが分かった。葵の喉が、一回だけ動いた。
葵はラケットバッグを掴んで、歩き出した。
「葵」
千尋が呼んだ。でも葵は止まらなかった。引き戸が開いて、閉まった。金属のレールが軋む音。
雨宮は、呼び止めなかった。
湖菜はそれを見ていた。呼び止めない、という選択の重さを。ただ見送っているんじゃない。待っている目だ。昨日の練習中、葵のショットの乱れを見ていた時の目と、同じ質をしている。
走り出した。
「相馬」
名前を呼ばれた。短く、静かに。
「今夜は追うな」
一瞬、足が止まった。
先生はそう言っている。でも——湖菜の中で何かが揺れた。葵のあの声が、まだ耳に残っている。飲み込まれた言葉の続きが、どこかにあるはずで。
走った。
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校門前まで出た時、葵はもういなかった。
夕方でもないのに、文教地区の通りには人が多かった。自転車を押す学生、徒歩の通行人、遠くから聞こえる車の音。その中に、赤紫色の髪は見えなかった。
湖菜は立ち止まって、通りを見渡した。
見えない。頭の中でコートを十六に割る癖が出た。でも今はコートじゃない。校門から延びる通りに格子を当てても、答えが出てこない。見えることと、変えられることは、ちゃんと違う。あの人が教えてくれたことだ。
廃部通告。翠嶺学園との初戦。葵の「無理だよ」。それが、頭の中で順番もなく重なった。格子が、崩れていく感じがした。
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夜、自室の机の前で湖菜はしばらく何もしなかった。ノートを開いたまま、一行も書けずにいた。
母の声が廊下から聞こえて、湖菜は立ち上がった。
「お母さん、ちょっといい」
奈津美が顔を出した。四十五歳、パートから帰ったばかりの、少し疲れた顔。
「どうした、珍しい」
湖菜は少し迷ってから、言った。
「何の取り柄もないのに、続けていいのかなって思って」
奈津美がドア枠にもたれた。笑わなかった。
「湖菜は、好きなことを見つけるのが遅いだけだよ」
「え」
「でも、見つけたら絶対に離さない子だった。小さい頃から。一回好きってなったら、ずっとそれ触ってるじゃない」
奈津美が廊下に戻っていく音がした。
湖菜は机に戻って、椅子に座った。
「好きなことを見つけたら」——その言葉が、部屋の中でゆっくりと広がった。反響する、という感じではない。静かに、胸の奥に沈んでいく。
(私は、好きなんだ)
初めて言葉として認識した気がした。バドミントンが、じゃなくて——あのコートに立っている時間が。シャトルを追いかけて、見失って、また拾いに行く、あの時間が。
胸のあたりが、じわりと熱くなった。
驚いたまま、湖菜はしばらくそれを抱えていた。窓の外は暗くて、遠くで弟の陸の部屋から何かゲームの音が漏れていた。それだけが聞こえていた。
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翌朝、湖菜が第二体育館に着いた時、鍵はまだかかっていた。
昨日雨宮から預かっている合鍵で開けた。引き戸を引くと、昨日と同じ空気が出てきた。埃と床材の匂い。でも今朝は、まだ誰もいない体育館がひとまわり広く感じられた。
壁際のシャトルマシン——雨宮が私費で買った中古の機械——の前に立った。十八万円したと聞いていた。少し傷がついていて、操作パネルが日焼けしている。
電源を入れた。
目を閉じて、コートに立つ。
最初にやったテストのことを思い出した。目を閉じたまま、シャトルの落下地点を指で示せ、と言われたあの日。答えが出た瞬間に雨宮が椅子から立ち上がった。あの瞬間を、今朝なんとなく繰り返したくなった。理由は自分でもよく分からない。ただ、来たかった。
シャトルが飛んできた。
指先で、空気を切る感触を追う。落ちた場所を指す。——合ってる。もう一球。また合う。少しずつ体が動き始める。足が動く。まだぎこちないけど、確かに動いている。
調子に乗ってきた、と思った瞬間に手が滑った。
操作パネルに肘が当たった。数字が変わった。最高速の設定に、なっていた。
「あ」
マシンが唸った。シャトルが、勢いよく飛び出し始めた。連射。一球、二球、三球。止まらない。湖菜は操作パネルを触ろうとしたが、どのボタンか分からない。焦るほどに分からない。シャトルがコートに降り注いでいく。床が白くなっていく。
電源コードを引き抜いた。
静かになった。
コートの真ん中に、シャトルが散乱していた。百本近くある。白い羽根が床に散らばって、朝の光の中で小さく光っている。湖菜はその中心に、膝をついていた。
引き戸が開く音がした。
雨宮だった。荷物を持って入ってきたところで、止まった。コートを見回す。床一面の白。膝をついている湖菜。雨宮の灰色の瞳が、状況を一秒で把握した。
「何をした」
「練習してました」
三秒、沈黙があった。雨宮が床を見て、天井を見て、また床を見た。
「片付けろ」
それだけ言って、荷物を置いた。
湖菜はシャトルを拾い始めた。一本ずつ拾って、ケースに戻す。床に散らばった白い羽根を集めていく。その隣に、雨宮が来た。しゃがんで、一緒に拾い始めた。
珍しい、と思った。こういう作業を雨宮がするのを、湖菜は見たことがなかった。
「昨日、葵を追ったな」
追いかけっこをしながら言うセリフじゃない、と湖菜は思った。でも雨宮の声は、責めているわけじゃなかった。確認している声だ。
「見失いました」
「そうか」
湖菜はシャトルを一本拾って、ケースに入れた。また一本。隣で雨宮も同じことをしている。
「先生の見立てより、私には追う理由がありました」
静かに言った。
雨宮の手が、一瞬だけ止まった。
「葵さんのブレを、見ていた時の先生の目と」湖菜は続けた。「昨日、呼び止めた時の声が、同じだったから」
シャトルを拾いながら、前を向いたまま言った。
「先生は葵さんを待つんだと思いました。だから、私が行こうとしたんです」
雨宮がしばらく黙っていた。
床の一点を見ながら、シャトルを拾っている。それから、口を開いた。
「お前の目は本当に使い物になってきた」
同じ言葉だった。以前も言われた言葉。でも声が、少し違った。
何が違うのか、うまく説明できない。ただ、湖菜の皮膚がそれを受け取った。前より、近い場所から来た声だという感じがした。距離じゃなくて——もっと別の何かが、一ミリだけ動いたような。
朝の光が、天井の低い体育館に斜めに差し込んでいた。窓から入る夏前の光が、コートの床に細長く落ちている。その光の中で、二人でシャトルを拾っている。静かだった。扇風機もまだついていない。外の音が遠い。
湖菜は手を動かしながら、胸の奥が少し騒ぐのを感じていた。昨夜、母の言葉の後に気づいたこと——「好き」という感触——が、今ここで別の形をしている気がした。バドミントンへの「好き」と、この時間への「好き」と、もう一つ何か、うまく言葉にならないものが混ざっている。
顔が、少し熱い。
シャトルを拾う手を止めずに、湖菜はそのことに気づいている。名前をつけられないまま、それでも確かにそこにあるものを、どこかに仕舞っておく場所が見つからなくて。
その時、引き戸が勢いよく開いた。
バン、という音。
「おはようございまーす!!」
千尋だった。ラケットバッグを肩にかけて、元気よく体育館に踏み込んできて——床一面の白いシャトルを見た。膝をついて作業している湖菜を見た。その隣に雨宮がいるのを見た。
「あっ」
千尋の顔が、一拍の間に三段階くらい変わった。何かを理解した顔、何かを察した顔、何かを決めた顔。
「……すごい量ですね、シャトル」
何事もなかったように言った。ラケットバッグを壁際に置いて、そのまましゃがんで、シャトルを拾い始めた。空気が変わった、というより、千尋が空気を持ってきた感じがした。
「手伝います。なんか百本くらいありますよね、これ」
「九十七本だ」
「数えてたんですか」
「見れば分かる」
「さすがです!!」
千尋が何の悪意もない笑顔で言った。雨宮が何も答えなかった。湖菜はシャトルを一本拾いながら、少しだけ笑った。
三人でシャトルを拾う音だけが、しばらく続いた。
葵はまだ来ていない。でも、雨宮の目はやっぱり「待っている」目をしているはずだと、湖菜は思った。確認しなくても、分かる。そういう目だということが。
夏前の朝の光が、少しずつコートを動いていく。拾い集められていく白い羽根の数が増えるにつれて、体育館の床が少しずつ戻っていく。九十七本。全部集まった時に、今日の練習が始まる。そしてその日のうちに、葵は帰ってくるはずだと——湖菜は根拠のない確信を、小さく胸の中に置いていた。