にゃんこ人間と恋の大作戦
早川澪(22歳)は大学生で、5年間にわたり猫のクロを溺愛してきた。爪切りやお風呂は無理やりだったけれど、それも愛情の証だと自分に言い聞かせていた。
ある朝、目を覚ますと見知らぬイケメンが隣で寝ている。細めた目で彼女を見つめ、「5年間の恨み、全部返してもらう」と言う。
クロが人間になってしまったのだ。黒瀬玲という名前の、背が高く低い声で、澪が彼にしてきたことをすべて覚えている超イケメンに。
こうして二人の混沌とした、逃げ場なしのルームメイト生活が始まる。玲はささいな復讐を次々と仕掛ける。お気に入りのぬいぐるみを隠し、友達に恥ずかしい話をばらし、牛乳を全部飲み干す。すべては猫の論理による過去の恨み返しだ。イライラするけど、笑えるし、なぜかちょっと可愛い。
問題は?澪が困っていると玲は我慢できずに助けに入る。守り、頭を撫でる――そして自分の手を見つめてまるで裏切られたかのように戸惑うのだ。
一方、幼なじみの村田誠は長年密かに澪に想いを寄せていて、ついに告白のタイミングだと決意する。澪のクラスメイト坂本ひなたは玲を一目見て、「変な猫男」に宣戦布告。
四人、未解決の感情、そして最大の
にゃんこ人間と恋の大作戦 - 目覚めたら隣にイケメン——5年分の恨み、返してもらうぞ
「[surprised]……え」
声が出たのか出なかったのか、自分でもわからなかった。
布団の隣。そこに見知らぬ男がいた。
黒髪。長い手足。すっと通った鼻筋。寝顔なのに、妙に整った顔。澪は数秒固まって、そっとその顔を見た。知らない人だ。絶対に知らない人だ。でも——
(なんか、この雰囲気……)
窓から4月の朝日が差し込んでいた。コーポ月見台203号室。6畳の部屋。キャットタワーがどんと窓際に立って、猫用おもちゃが床にいくつか転がっていて、クロのお気に入りのくすんだ水色のクッションが窓の下に置いてある。いつもの部屋。いつもの朝。
ただし一点だけ、決定的におかしい。
クロがいない。
かわりに、知らないイケメンがいる。
「————!」
悲鳴を上げた。叫んだ、たぶん。気がついたら澪はキャットタワーの後ろに回り込んでいた。壁に背中を押しつけて、ポケットからスマホを引っ張り出す。
手が震えている。
「[scared]だ、誰!? なんで部屋にいるの! 不法侵入! 警察呼ぶから!」
男が目を開けた。
ゆっくりと、眠そうに。寝起きの人間がするみたいに、少し間があって。それからのろのろと上半身を起こして——澪を見た。
金色の瞳だった。
琥珀みたいな、薄い金色。その色を、澪は知っている。
(クロの……目と、同じ色だ)
男はしばらく澪を見ていた。何も言わずに。ただじっと、落ち着き払って。その視線が、なんというか——
猫みたいだった。
値踏みするような、でも気まぐれな、あの感じ。
「[serious]……起こしたか」
低い声だった。
澪は壁から離れられなかった。スマホを構えたまま固まっている。男は乱れた黒髪を手で軽く払って、部屋の中をゆっくり見回した。キャットタワー。猫のおもちゃ。水色のクッション。そして澪。
「[cold]ずいぶん散らかっているな」
「[angry]そんなこと言ってる場合じゃない! 誰なの!」
男は澪の方に視線を戻した。
左耳の後ろに、小さな傷跡があった。
澪の手から力が抜けかけた。その傷の位置。野良猫だったクロが子猫のころ、どこかで怪我をしてきた傷。いつもその耳の後ろを撫でてやるたびに指に引っかかった、あの傷跡と——
同じ場所にある。
「[whispers]ク……クロ?」
声が震えた。
男は眉を少し動かした。それだけで、あとは表情を変えずに澪を見ている。澪は壁から半歩だけ出て、おそるおそる聞く。
「[scared]ありえない。猫が人間になるなんて、ありえないから。そんなの絶対おかしいから」
「[serious]……そうだな」
「[scared]でもその目の色と、耳の傷と……」
男——玲は、少し間を置いた。
澪がクロとだけ共有していた秘密がある。夜、一人暮らしで部屋が静かすぎる夜に、クロを膝に乗せてこっそり歌っていたオリジナルの子守歌。メロディも歌詞も全部でたらめで、ただリズムが気持ちいいだけの、誰にも聞かせたことのないあの歌。
玲がそれを口ずさんだ。
音程もリズムも、完璧に合っていた。
澪の足から力が抜けた。その場にへたり込んで、スマホが手から滑り落ちる。カタン、と小さな音。
「[sarcastic]5年分の恨み、全部返してもらうぞ」
低くて、静かな声だった。
澪は床に座ったまま、玲を見上げた。
玲は澪を見下ろしていた。181cmの長身。昨日まで猫だったとは思えない、整った顔立ち。黒髪には光の当たり具合によって少しだけ赤みが混じっているのが見えて、金色の瞳は細められている。腕を組んで、表情はほぼ無表情——だけど口の端が少しだけ上がっていた。
(勝ち誇ってる……)
澪はぼんやりそう思った。猫の時からだ。爪切りが終わったあと、プイとそっぽを向きながら尻尾を立てて歩いていくあの感じ。人間になっても、全然変わっていない。
「[surprised]ちょっと待って。5年分の恨みって何。爪切りのこと? お風呂のこと? あれは全部クロのためだったんだけど」
「[cold]全部覚えている」
「[scared]全部!?」
玲はゆっくりと瞬きをした。それだけで何も言わない。沈黙が重かった。
澪は頭を抱えた。爪切り、入浴、頬ずり、記念写真、猫用の誕生日ケーキを強引に食べさせようとしたあの事件——全部覚えているというのか。
(終わった)
窓の外、カゲロウ通りの商店街のほうから車の音がした。いつもの朝の音。ミナセ市はのんきに動き始めている。ナルセ電鉄の踏切の音が遠くから聞こえた。
そこで澪は気がついた。
「[surprised]待って待って——時間! 何時!?」
スマホを拾い上げる。画面を見て青くなった。8時17分。1限は9時。バスで8分、徒歩25分——間に合わない。走れば間に合うかもしれない。
澪は立ち上がった。バッグをひっつかんで、パーカーを頭からかぶる。玲がじっとそれを見ていた。
「[angry]帰ってきたら話す! いや話す前にいろいろ聞くことがある!」
「[sarcastic]……急いで転ぶなよ」
「[angry]うるさい!」
ドアを開けた。
廊下に人がいた。
岸本タエ——このコーポ月見台の大家、78歳——がにこにこしながら立っていた。小さくて丸くて、白いエプロンをつけている。手には洗濯物のかごを持っていた。
「あら、澪ちゃん。おはよう」
「[surprised]あ、タエさん、おはようございます! ちょっと今日急いで——」
タエの視線が澪の肩越しに部屋の中を見た。
玲が腕を組んでドアにもたれている姿が見えたはずだ。
一瞬の沈黙。
「[surprised]……あら」
タエは目を細めて、ゆっくり微笑んだ。
「[gentle]彼氏? いつの間に。かっこいいわねえ」
「[scared]ち、違います! えっと、その、遠い親戚で!」
「[gentle]親戚? あら、でも男の子が同じ部屋に泊まってたら彼氏よねえ」
タエはマイペースにうなずいている。全くぐらつかない笑顔だった。澪は耳まで赤くなって振り返った。
玲はドアにもたれたまま、腕を組んで一部始終を眺めていた。その口の端が、さっきよりもう少し上がっている。
「[sarcastic]……遠い親戚、か」
低い声で、小さく言った。
「[sarcastic]なかなか苦しいな」
「[angry]うるさーーーい!」
ミナセ市の4月の朝に、澪の声が響き渡った。カゲロウ通り商店街のほうで、スズメが一斉に飛び立つ音がした。
タエはくすくす笑いながら洗濯物のかごを持ち直した。
「[gentle]仲良しねえ。若い子はいいわ。朝から元気で」
タエがのんきに廊下を歩いていく。澪は顔を両手で覆った。
遅刻しそう。クロが人間になっている。大家に彼氏だと思われた。3つの事実が頭の中でぐるぐる回る。
走り出した。
* * *
コーポ月見台の丘を下る道は、春の朝日でぽかぽかしていた。ツキミ台の小さな公園の横を通り過ぎると、ブランコが一つゆれていた。風のせいだろう。
澪は駆け足で商店街のアーケードに入った。カゲロウ通り。全長350メートル、昭和っぽいアーケードが残っている商店街。開店前の店が多くて、シャッターが並んでいる。喫茶ランプだけ、もうドアが開いていた。コーヒーのにおいがした。
(今日はバイトない日だ)
すり抜けるように通り過ぎながら、澪はふと思った。倉橋さんが今日もカウンターで豆を挽いているはずだ。週2回ここで手伝いのバイトをしている。時給1020円。今月はこれに玲の食費が加わるかもしれない——
(加わるって何。同居するの? え、するの?)
走りながら頭が追いつかなかった。
ナルセ電鉄の踏切が見えてきた。ミナセ線の踏切。赤いランプが点滅している。遮断機が下りた。
澪は走るのをやめて、遮断機の前に立った。
電車が通り過ぎていく。
がたん、ごとん。がたん、ごとん。
静かになった。
パーカーのポケットに手を突っ込むと、何か硬いものが指に当たった。
(……何これ)
取り出す。薄いカードだった。青っぽい色。表を向けると——マイナンバーカードだった。
顔写真のところを見た。
今朝部屋にいたイケメンの顔が、そこにあった。
氏名欄。
「黒瀬 玲」。
住所欄。コーポ月見台203号室。
澪は遮断機の前で固まった。
電車はもう行った。遮断機が上がっていた。でも足が動かない。
猫が人間になった。それだけでもう十分おかしい。でもこれは——誰が作ったのか。本物なのか偽物なのか。黒瀬玲という人間は、この世界に存在していたのか。
4月の朝日がカゲロウ通りのアーケードに当たって、きらきら光っていた。
澪の頭の中が、ぐるぐる回った。
クロが人間になった。マイナンバーカードがある。大家に彼氏だと思われた。5年分の恨みを返すと言われた。全部覚えていると言われた。爪切りも、お風呂も、頬ずりも、子守歌も——全部。
帰ったら何が待っているのか。
澪はマイナンバーカードをポケットに戻して、遮断機をくぐった。
遅刻は確定だ。
トウヨウ大学のキャンパスまで、バスで8分。そのバスに乗れるかも怪しい。でもなぜか、足取りは重くなかった。
胸の奥で、何かが速く打っていた。
それが何なのか、澪はまだわかっていなかった。