にゃんこ人間と恋の大作戦
早川澪(22歳)は大学生で、5年間にわたり猫のクロを溺愛してきた。爪切りやお風呂は無理やりだったけれど、それも愛情の証だと自分に言い聞かせていた。
ある朝、目を覚ますと見知らぬイケメンが隣で寝ている。細めた目で彼女を見つめ、「5年間の恨み、全部返してもらう」と言う。
クロが人間になってしまったのだ。黒瀬玲という名前の、背が高く低い声で、澪が彼にしてきたことをすべて覚えている超イケメンに。
こうして二人の混沌とした、逃げ場なしのルームメイト生活が始まる。玲はささいな復讐を次々と仕掛ける。お気に入りのぬいぐるみを隠し、友達に恥ずかしい話をばらし、牛乳を全部飲み干す。すべては猫の論理による過去の恨み返しだ。イライラするけど、笑えるし、なぜかちょっと可愛い。
問題は?澪が困っていると玲は我慢できずに助けに入る。守り、頭を撫でる――そして自分の手を見つめてまるで裏切られたかのように戸惑うのだ。
一方、幼なじみの村田誠は長年密かに澪に想いを寄せていて、ついに告白のタイミングだと決意する。澪のクラスメイト坂本ひなたは玲を一目見て、「変な猫男」に宣戦布告。
四人、未解決の感情、そして最大の
にゃんこ人間と恋の大作戦 - 嵐の水曜日——消えかけた玲
夜が明けた。
澪は目を開けた。
いつもと違う感じがした。何かが、ない。
手をのばした。玲の布団。冷たい。
(玲?)
起き上がった。6畳の部屋をぐるっと見回す。キャットタワーの横。キッチン。ユニットバスのドア。
いない。
枕元を見たとき、気づいた。黒い毛が3本、シーツの上に落ちていた。
猫の毛だ。
澪の体が固まった。それから、ものすごい速さで玄関に向かった。ドアを開けた。廊下。薄暗い。朝の6時前。アパートはしんとしている。
廊下の端に、人影があった。
壁に背をあずけて、座り込んでいる。黒髪。181センチの体が、なんか縮んで見えた。
「[scared]玲!」
駆け寄って、膝をついた。
玲の右手を見た瞬間、声が出なくなった。
右手が、猫の前足になっていた。黒い毛が生えて、指が丸まって、人間の手じゃない。左耳の上には黒い猫耳がにょきっと生えていた。
玲は青白い顔で澪を見た。金色の目が、いつもより大きく見えた。
「[whispers]……戻りかけてる」
たった一言だった。
澪は玲の腕をつかんだ。冷たかった。引っ張って立たせた。玲はふらっとした。澪が支えた。二人で部屋に戻った。
ドアを閉めた。
タオルを取り出して、玲の猫の前足を包もうとした。うまく巻けない。手が震えていた。何度やっても結び目がほどける。
そのとき。
猫の前足が、タオルをぎゅっと握った。
「[laughing]……」
笑いが出た。泣きそうなのに笑いが出た。
猫が踏み踏みするやつだ。あのムニュムニュするやつだ。玲は気づいて、すぐに手を引っ込めようとした。でも澪がタオルごと握り返した。
「[cold]……やめろ」
「[gentle]やめない」
タオルを結んだ。今度はちゃんと巻けた。
澪は玲の手を持ったまま、ちょっとだけ下を向いた。
(クロがいなくなるのが怖い、じゃない)
胸の奥で、何かがはっきりした。
(玲がいなくなるのが怖い)
窓の外で、ミナセ市の朝が少しずつ明るくなっていった。
* * *
昼すぎ、インターホンが鳴った。
「[scared]えっ」
玲は布団の上に座っていた。猫耳はまだある。右手はタオルで包んである。
画面を見た。誠だった。
柔らかく茶色がかった髪。穏やかな緑色の目。右手に小さな花束を持っていた。澪は3秒固まってから、インターホンを取った。
「[gentle]えっと……ちょっと待って、誠くん」
「[serious]あ、うん。大丈夫だよ」
玲に向かって小声で言った。
「[scared]隠れて」
「[cold]嫌だ。俺がなんで隠れる必要がある」
「[scared]お願い!」
玲は立ち上がった。廊下に出ようとした。
ドアを開けた瞬間、誠がそこに立っていた。
沈黙。
誠の目が、玲の左耳の猫耳に止まった。タオルで包まれた右手に止まった。花束を持つ手が、ぴくっとした。
「[scared]これはえっとその、コスプレ! コスプレだよ!」
「……澪」
誠は澪を見た。穏やかな緑の目が、いつもより真剣だった。
「[serious]俺に、隠してることあるよね」
澪の口が止まった。
(話せない。話したら玲が——でも嘘をついたら誠くんを——)
誠はやさしい声で続けた。
「[gentle]怒ったりしないから。ただ、知りたいんだ」
その声が、澪の胸に刺さった。
そのとき、玲が誠の花束をじっと見た。首をちょっと傾けた。
「[cold]……それ、食えるのか」
「……え?」
「花束」
「[surprised]食べ……ません」
「[cold]じゃあ何のためにある」
「えっと……気持ちを、伝えるためです」
玲は3秒考えた。
「[cold]意味がわからない」
澪は泣きたいのか笑いたいのかわからなくなった。
* * *
玄関の前で、三人がいた。
誠は澪を見ていた。澪は何も言えなかった。
「[serious]澪、僕は……」
そのとき、玲が口を開いた。
開いたが、音が出なかった。
玲は自分の喉に手をあてた。また口を開いた。かすれた音だけが出た。声じゃない。それだけで全部分かった。声が、出なくなっていた。
玲の金色の目が驚いた顔をした。
それを見た澪の中で、何かが切れた。
「[crying]玲……!」
澪は玲を抱きしめた。廊下で、誠がいる前で、関係なかった。
玲の肩の幅が、昨日より少し小さい。体温が高い。背中に手を当てると、なんか違う。骨の感触が変わってきている。
「[whispers]玲、玲、玲……」
名前を呼び続けた。
玲は声が出ない。だからじっと澪の顔を見ていた。金色の目が、何かを言おうとしていた。何を言いたいのか、澪にはわからなかった。それが余計に怖かった。
澪のスマホが光った。
ひなたからのメッセージだった。
「明日、玲くんに告白する! 絶対成功させるから応援してて!😤」
澪は泣いた顔のまま、スマホの画面を見た。
告白する相手が、今自分の腕の中で消えかけている。ひなたはそれを知らない。その事実がじわっと胸に広がった。
「[serious]……俺に、できることがあれば言ってくれ」
誠は静かに言った。
澪は首を振った。首を振るしかできなかった。
誠の手のひらが、ポケットの上でぎゅっと閉じるのが見えた。
玲が口を動かした。声は出なかった。でも澪には分かった。「うるさい」って言おうとしてる。いつもの顔だった。澪はもっと強く抱きしめた。
誠は玲を見た。それからぽつりと言った。
「[surprised]……猫?」
誰も答えなかった。
* * *
夜になった。
誠は帰っていた。部屋には澪と玲の二人だけ。
玲の猫耳は消えていた。右手も人間の手に戻っていた。でも顔色が悪かった。口の悪い強がりが、どこかに行っていた。
玲はベッドの端に座って、窓の外を見ていた。
ハヅキ橋の方角だ。猫のころ、何度も脱走して一人で行っていた場所。
「[cold]……俺はどうせ猫だ」
低い声だった。澪の方を向いていなかった。
「人間のふりをしていただけだ」
間があった。
「[cold]お前は……あの男と一緒にいたほうがいい」
「[angry]そんなの関係ない!」
玲は窓の外を向いたままだった。
「[angry]玲は玲でしょ! 猫でも人間でも、玲は玲じゃん!」
玲は答えなかった。
ハヅキ橋の方角を見ている横顔が、どこかここから消えることを覚悟しているように見えた。
澪は床にへたり込んだ。膝を抱えた。
(どうすればいいんだろう)
涙が出た。止まらなかった。声を殺して泣いた。
あの男と一緒にいたほうがいい、という言葉が頭の中で繰り返された。それって、俺はお前の隣にふさわしくない、ってことだ。澪にはわかってしまった。
(ふさわしくないって、何の話)
胸が痛かった。
クロのことが好きだった。猫のクロが。5年間ずっと一緒にいたクロが。でも今この胸が痛いのは、玲が消えるかもしれないからだ。玲のことが、怖いくらい、大事だった。
(あたし、玲のこと……)
部屋の電気を消した。暗くなった。窓から街明かりが入ってくる。
玲は窓際に座ったままだった。
澪はベッドに倒れ込んで、膝を抱えたまま泣き続けた。
涙でぼやけた視界の中で、ミナセ市の夜が静かに続いた。
いつの間にかうとうとしかけたとき、気配がした。
ベッドの端に、何かが座った。
澪はそっと目を開けた。玲が、布団の端にちょこんと座っていた。体を小さくして、膝を抱えて。
昨日の夜の猫式謝罪と、全く同じ形だった。
澪は何も言わなかった。指摘する気力もなかった。
でも。
(いてくれてる)
目を閉じた。玲の体温が、布団の端からかすかに伝わってくる。
明日の朝、ひなたが告白してくる。誠への説明もまだできていない。玲がなぜ猫に戻りかけているのか、原因は何も分からない。全部、そのままだ。
何も解決していない夜が、ゆっくりと明けていこうとしていた。