にゃんこ人間と恋の大作戦
早川澪(22歳)は大学生で、5年間にわたり猫のクロを溺愛してきた。爪切りやお風呂は無理やりだったけれど、それも愛情の証だと自分に言い聞かせていた。
ある朝、目を覚ますと見知らぬイケメンが隣で寝ている。細めた目で彼女を見つめ、「5年間の恨み、全部返してもらう」と言う。
クロが人間になってしまったのだ。黒瀬玲という名前の、背が高く低い声で、澪が彼にしてきたことをすべて覚えている超イケメンに。
こうして二人の混沌とした、逃げ場なしのルームメイト生活が始まる。玲はささいな復讐を次々と仕掛ける。お気に入りのぬいぐるみを隠し、友達に恥ずかしい話をばらし、牛乳を全部飲み干す。すべては猫の論理による過去の恨み返しだ。イライラするけど、笑えるし、なぜかちょっと可愛い。
問題は?澪が困っていると玲は我慢できずに助けに入る。守り、頭を撫でる――そして自分の手を見つめてまるで裏切られたかのように戸惑うのだ。
一方、幼なじみの村田誠は長年密かに澪に想いを寄せていて、ついに告白のタイミングだと決意する。澪のクラスメイト坂本ひなたは玲を一目見て、「変な猫男」に宣戦布告。
四人、未解決の感情、そして最大の
にゃんこ人間と恋の大作戦 - 秘密の同居、バレそうでバレない——キッチン大惨事と猫耳カチューシャ
水曜の昼、カフェテリア・ミドリは満席に近かった。
窓際の2人席に座った澪は、日替わり定食のから揚げをつつきながら、なんとなく上の空だった。向かいの友人——文学部の同じゼミ生、中村——がじっと澪を見ていた。
「[serious]澪さ、最近なんか楽しそうだよね」
「[surprised]え?」
から揚げを落としそうになった。
「顔がさ、なんか違うんだよ。ちょっとふわふわしてる」
「[scared]そ、そんなことないよ! 全然! 全然そんなことない!」
否定する声が大きすぎた。隣のテーブルのグループが一瞬こっちを見た。澪は耳の先まで熱くなって、ご飯を口に詰め込んだ。
「[surprised]……なんで怒ってるの」
「怒ってないよ! 怒ってないからね!」
「怒ってる時の顔してる」
まずい。どんどんボロが出ていく。
(何か話題を変えなきゃ)
「[serious]そういえば来週のゼミのレポートどうする?」
「唐突すぎる」
「[serious]提出期限来週の火曜だよ? もうやった?」
中村が呆れた顔で箸を置いた。
「分かった分かった。彼氏でもできたんでしょ」
「ちが——」
(違う……よね? 違うよね? でも、なんて言えばいいのか)
ペット……いや、同居人……いや、その、元々猫で人間になった……。
どれも口から出る前に引っかかって、止まる。澪は結局、口をもごもごさせてからみそ汁を飲んだ。
「……どうしよう」
ほぼ独り言だった。中村が「それ答えになってないよ」と笑った。
澪は笑い返しながら、頭の片隅でずっと玲のことを考えていた。今ごろ何してるんだろう。一人でちゃんとしてるだろうか。
* * *
その頃、玲はミナセ市を歩いていた。
コーポ月見台を出てから、特に行き先を決めずにぶらぶらした。ミナセ駅の南口を抜けて、ハヅキ川のほうへ向かう。川沿いの遊歩道に出ると、ジョギングしているおじさんとすれ違った。犬を連れた女の人が「行くよ、チョコ」と引っ張っていた。小型犬が玲の足元をくんくん嗅いだ。
玲はその犬を一瞥して、川のほうを向いた。
川面が光っている。水の流れる音がする。
(……落ち着く)
そう思った瞬間、玲は自分の思考にムッとした。猫の頃、何度か脱走してここに来ていた。あの感覚と同じだ。つまりこれは猫のくせが残っているというだけで、別に——
「……知らねぇよ」
独り言を言って、川沿いのベンチに腰をおろした。
しばらくそこにいた。水の音を聞いていた。空が青かった。
* * *
ハヅキ川から戻るついでに、カゲロウ通りを歩いた。
アーケードの中は昼間でも少し薄暗くて、果物屋の店先にみかんが積んであった。玲がふと足を止めたのは、しおり堂の前だった。古本屋。ドアは開いていて、店の外に木製の棚が置いてある。棚の上や軒下に、猫の置物がいくつも飾られていた。
店主の戸川——白髪を後ろで束ねた小柄な女性——が、店先の猫の置物をやわらかな手つきで丁寧に撫でていた。陶器の黒猫の置物だった。
玲は足を止めて、その様子をじっと見た。
(俺はもう猫じゃない)
そう思う。それは事実だ。今の自分は人間で、あの置物みたいに無言で棚の上に座っているわけじゃない。
でも。
あの手の動き——頭から首のあたりを、ゆっくり撫でるその動き——を見ていると、なんか知らないが、胸のあたりがくすぐったいような、悔しいような、うまく言えない気持ちになった。
戸川が顔を上げた。玲と目が合った。
「いらっしゃい。何かお探しですか」
「[cold]……いや」
玲は一言だけ言って、そこから離れた。
5分くらい、あの前に立っていた気がした。何も買わなかった。ただ見ていた。
(俺は猫じゃない)
それだけは確かだ。
でも確かめるように心の中で言うのは、なんでなんだろうと、玲は少しだけ思った。
* * *
木曜の夜、澪がコーポ月見台の階段を上ったとき、すでに変な匂いがした。
廊下に焦げの匂いが漂っている。203号室のドアに近づくほど濃くなる。
(……え)
ドアを開けた。
キッチンのコンロ周りに黒い煙の痕。鍋の底が真っ黒。フライパンの中に炭みたいな何かがへばりついていた。野菜くずが床に散乱している。にんじんと思われるものが3個、まな板の横に転がっていた。
玲がキャットタワーの横に腕を組んで立っていた。
「[cold]失敗した」
「[angry]何やってるの!!」
「料理というものを試みた」
「試みた結果がこれ?! 火事になったらどうするの!」
澪はバッグを床に投げて、換気扇をつけた。窓を開ける。冷たい夜風が入ってきた。鍋を流しに移して、フライパンを見る。中の黒いかたまりはもはや原形をとどめていなかった。
「これ何作ろうとしたの」
「炒め物だ。野菜と、あと魚の缶詰を入れた」
「ツナ缶?」
「そうだ」
やっぱりツナ缶なんだ、という気持ちと、それより火を消し忘れたんだろうか、という気持ちが同時に来た。澪はため息をついて玲の方を向いた。
「[serious]ガス、ちゃんと消した?」
「消した。煙が出て焦げくさくなったから消した」
「それ消すタイミング遅い!!」
玲はむっとした顔をした。
「[cold]俺はコンロというものを使ったことがなかった。それは当然だ」
「そうだけど!」
わかってる。猫だったから料理なんかしたことない。でも一人でやろうとして、失敗して——
澪が口を開こうとしたとき、玲がぼそっと言った。
「[whispers]……お前が毎日、俺のために飯を用意してくれてたのは知ってる。ずっと」
澪の口が止まった。
「[whispers]だから、今度は俺が」
玲は壁の方を向いていた。耳の端が少し赤い。腕を組んだまま、なんとなく視線をそらしている。いつもの偉そうな顔じゃなくて、どこか照れくさそうな——澪は初めてそういう顔を見た気がした。
(あ)
怒る言葉が、途中でどこかへ行った。
胸のあたりが、ドキンと鳴った。
「[gentle]……バカだよ、玲は」
「[cold]知ってる」
「事前に一言言ってくれたら、教えてあげられたのに」
玲は黙った。それだけで何も言わない。澪は笑いをこらえながら、ゴム手袋を引っ張り出してフライパンを洗い始めた。
「[serious]手伝って。一人じゃ無理だから」
しばらく間があった。
「……わかった」
二人でキッチンを片付けた。玲はスポンジの使い方がぎこちなかったけど、言われた通りにやっていた。床の野菜くずを澪が拾って、玲が鍋を洗った。30分くらいかかった。
結局その夜は、ハコマートで買ってきたおにぎりを並んで食べた。玲はツナマヨを2個。澪はおかかを1個と梅を1個。
台所に腰を下ろして、二人でもぐもぐ食べた。特に何もしゃべらなかった。でも変な感じじゃなかった。
* * *
土曜の昼、澪は玲をカゲロウ通り商店街に連れ出した。
玲が外を歩くたびに、道行く人が振り返る。黒髪で181センチで顔がいいから、目立つのは仕方ない。女の子が2人、玲を見てから澪を見て、それから澪をもう一度見た。
「[serious]なんでこんなに見られるの」
「俺に聞くな」
「顔のせいだよ……」
玲は特に気にしていない様子で、商店街のアーケードの中を歩いていた。果物屋の前でみかんをじっと見て、鮮魚店の前では足を止めてさんまの干物を鼻でくんくんしかけて澪に止められた。
「[angry]嗅がないで! お店の人に変な人だと思われる!」
「[cold]いい匂いだ」
「だとしても!」
アーケードの真ん中あたりに、小さな雑貨店があった。猫グッズを扱っている店で、澪がたまに立ち寄る場所だ。ショーウィンドーに小物がいろいろ飾られている。猫の形のピアス、肉球のコースター、そして——
「[excited]あ、見て! かわいくない?」
ショーウィンドーの隅に、猫耳カチューシャが飾ってあった。ふわふわした黒い耳がついている。
玲の顔がすっと変わった。
「[cold]猫への侮辱だ」
「え、そう? かわいいと思うけど」
「あんなものをつけて喜ぶのは、猫を理解していない連中だ」
「[laughing]じゃあ玲がつけてみてよ。似合うと思うけどな」
玲が澪を見た。目が少し細くなった。
「[cold]絶対に嫌だ」
「なんで? 黒い耳だし、髪の色と合ってると思う」
「[cold]お前は本当に俺を——」
「似合うって」
玲は口を閉じた。何かを言おうとして、止まった。耳の先がほんのりと赤くなっていた。澪はそれを見てまた笑った。
結局澪は店に入って、そのカチューシャを買ってしまった。580円。玲はずっと外で待っていた。
「[serious]なんで買ったんだ」
「かわいかったから」
「[cold]捨てろ」
「嫌」
玲はそれ以上何も言わなかった。でも、澪が袋を持って歩き出したとき、玲がその袋をちらっと横目で見たのを、澪は気づいた。
捨てろとは言わなかった。それだけは確かだ。
* * *
日曜の夜、スマホが鳴った。
画面に「ママ」と出ていた。
玲が食後にキャットタワーの上段に腕をのせてぼーっとしていた。澪は「ちょっとごめん」と小声で言って、そっと廊下に出た。
「[gentle]もしもし、ママ?」
「元気? ご飯ちゃんと食べてる?」
「[gentle]食べてるよ。元気だよ」
「勉強は?」
「してる、してる」
少し間があった。
「クロも元気?」
澪の返事は、考える前に出た。
「[serious]……うん、元気だよ」
電話を切ってから、廊下でしばらく立ち尽くした。夜の廊下は少し寒かった。階下から岸本タエさんのテレビの音が聞こえてくる。
クロも元気。
そう言った瞬間の、胸のチクッとした感覚。嘘をついたわけじゃない——クロは元気だ。ただ人間になっているだけで。でも何かが引っかかった。
(ずっと一人だったとき、クロがいてくれた。でも今は)
玲がいる。うるさくて、口が悪くて、すぐ文句を言う。それでもなんか、全然寂しくない。
その気持ちの変化に、澪はまだはっきりした名前をつけられなかった。
部屋に戻ると、玲がキャットタワーの上段にあごをのせて、目をとろんとさせていた。
「[laughing]……何してんの」
「[cold]日向ぼっこの名残だ。夜でもここにいると落ち着く」
「猫じゃん」
「[cold]猫じゃない」
澪はくすくす笑いながらベッドに倒れ込んだ。天井を見る。部屋の電球が白くて丸い。
(変な毎日だなあ)
でも悪くない、と澪は思った。
* * *
月曜の朝、澪はバッグを肩にかけて玄関に立った。スニーカーを履いて、ドアノブに手をかける。
「[whispers]行くな」
布団の上から、ぼそっとした声だった。
澪は振り返った。玲が床の布団の上に座って、視線をそらしていた。腕を組んでいる。いつもの不機嫌な顔のように見えるけど、耳の先がほんの少し赤い。
「[gentle]猫のころもそうだったよ、玲は。朝、あたしが出かけようとすると鳴いてたもん」
「[cold]……知らねぇよ」
「行ってくるね」
玲は舌打ちして、そっぽを向いた。澪はドアを開けて外に出た。
階段を下りながら、なんとなく振り返りたい気持ちを堪えた。変なの、と自分で思う。
* * *
アパートの部屋で、玲は窓際に移動した。
ガラス越しに、澪の後ろ姿が見えた。黒いショートヘアが揺れている。バッグを肩にかけて、丘を下る坂道を歩いていく。ツキミ台公園の横を通り過ぎて、小さくなって——
澪の姿が角を曲がって見えなくなった。
玲はしばらくそのまま、窓の外を見ていた。
ふと、右手を見た。
指先が——ほんの一瞬だけ——細く尖っていた。爪のように、鋭く。
次の瞬間には、もとの人間の手に戻っていた。
玲は何も言わなかった。ただ、その右手をじっと見つめた。窓の外では、ミナセ市の月曜の朝が、静かに動き始めていた。