にゃんこ人間と恋の大作戦
早川澪(22歳)は大学生で、5年間にわたり猫のクロを溺愛してきた。爪切りやお風呂は無理やりだったけれど、それも愛情の証だと自分に言い聞かせていた。
ある朝、目を覚ますと見知らぬイケメンが隣で寝ている。細めた目で彼女を見つめ、「5年間の恨み、全部返してもらう」と言う。
クロが人間になってしまったのだ。黒瀬玲という名前の、背が高く低い声で、澪が彼にしてきたことをすべて覚えている超イケメンに。
こうして二人の混沌とした、逃げ場なしのルームメイト生活が始まる。玲はささいな復讐を次々と仕掛ける。お気に入りのぬいぐるみを隠し、友達に恥ずかしい話をばらし、牛乳を全部飲み干す。すべては猫の論理による過去の恨み返しだ。イライラするけど、笑えるし、なぜかちょっと可愛い。
問題は?澪が困っていると玲は我慢できずに助けに入る。守り、頭を撫でる――そして自分の手を見つめてまるで裏切られたかのように戸惑うのだ。
一方、幼なじみの村田誠は長年密かに澪に想いを寄せていて、ついに告白のタイミングだと決意する。澪のクラスメイト坂本ひなたは玲を一目見て、「変な猫男」に宣戦布告。
四人、未解決の感情、そして最大の
にゃんこ人間と恋の大作戦 - 四角関係、はじまりの火曜日——ツナマヨおにぎりは握りつぶされました
月曜の夜のことを、澪はまだ引きずっていた。
布団に顔を埋めて「やばい……」とつぶやいたあの瞬間。玲の頬がかすかに赤くなっていたあの顔。ベッドの上で何度か寝返りを打ったけど、あの場面が消えてくれなかった。
(あれって、どういう意味だったんだろ)
火曜の朝、大学に向かいながら澪は空を見上げた。10月らしい青空。ミナセ駅から北口のバスに乗って、トウヨウ大学のキャンパスに着いても、まだちょっとぼんやりしていた。
1号館の3階、第2演習室——澪のゼミが使う教室——に入ると、木製の椅子がずらりと並んでいた。窓から中庭のケヤキの木が見える。澪は窓際から2列目の席にバッグを置いて、ノートを取り出した。
「[surprised]あ、澪! 久しぶり!」
声がして振り返ると、茶色がかったふんわりしたショートヘアの男の子が手を上げながら近づいてきた。穏やかな緑色の目。にこにこしている。村田誠だ。
「[gentle]誠くん! 久しぶりだね」
誠はすっと隣の席に滑り込んで、バッグを置いた。
「[serious]えっと……最近どう? 全然会えなかったから、ちょっと心配してたよ」
澪はほっとした。誠といると、こういう感じになる。普通で、ちゃんとしていて、安心できる。玲との毎日がずっとドタバタしていたから、この「普通」がすごく落ち着いた。
「[gentle]あー、ちょっとバタバタしててさ。でも元気だよ」
「[serious]そっか。……なんか、楽しそうだよね、最近の澪」
誠がちょっと遠慮がちに言った。澪は「え?」と聞き返した。
「[serious]いや、雰囲気がちょっと……いつもより明るいというか」
澪はなんと答えていいかわからなくて、ノートのページをぱらぱらめくった。楽しい、か。そうなのかも。玲がうるさくて、口が悪くて、いろいろ大変で——でも確かに、毎日が賑やかだった。
(そんな顔に出てたの、あたし)
「[laughing]そう? そんなことないよ!」
誠は少し間を置いて、手のひらをひざの上でこすった。緊張すると汗をかく癖、昔から変わっていない。
「[serious]えっと……今日、昼、一緒に食べない?」
澪は特に考えなかった。
「[gentle]うん、いいよ」
誠の顔がぱっと明るくなった。
* * *
昼12時すぎ、カフェテリア・ミドリは混んでいた。席数220のうち、もう半分以上が埋まっている。澪と誠は窓際の2人席に並んでトレーを置いた。日替わり定食のチキンソテー480円。
「[serious]えっと……最近、何かあった? その、生活面とか」
「[gentle]生活面?」
「あ、いや、なんとなく聞いてみただけで……」
誠がもごもごした。澪はから揚げ……じゃなくてチキンソテーを口に入れながら、玲のことをどう説明しようか一瞬だけ考えた。でも何も思いつかなかった。
そのとき、澪の視線が窓の外をなんとなく流れた。
——中庭のケヤキの木の下に、見覚えのありすぎる背中があった。
黒髪。181センチ。腕を組んで、木にもたれかかっている。金色の目がこっちを、いや、2階のカフェテリアの窓をじっと見上げていた。
(な——)
「[surprised]ちょっと待って!!」
澪はトレーを置いて席を立った。誠がびっくりして「え?」と声を上げた。カフェテリアを走り抜けて、1階に降りて、中庭に飛び出る。
「[angry]な、なんで来てるの!! 大学に来ないでって言ったじゃん!!」
玲はあっさり言った。
「[cold]言ったか? 俺は聞いてない」
「言ったよ!! 絶対言った!!」
「[cold]お前が昼になっても帰らないから来た」
「帰る必要ないんだよ! 大学生は大学で昼ごはん食べるの!!」
玲は澪の怒鳴り声をひょいと受け流して、中庭に集まってきた学生たちをぐるっと見渡した。金色の目が半分細くなっている。澪も周りを見る。何人かがこっちをちらちら見ていた。
そのとき、澪の腕をがっしり掴む手があった。
「[excited]ねえねえ澪ちゃん!! あの人、誰!? めちゃくちゃかっこよくない!?」
鮮やかな紅色のロングヘアを三つ編みにした女の子が、目をキラキラさせて澪に迫っていた。明るいラムネ色の瞳。笑うと八重歯が見える。坂本ひなた——澪と同じ文学部1年のクラスメイトだ。
(あ、まずい)
ひなたはすでに玲に向かって歩き出していた。全く迷っていない。直進だ。
「[excited]ね、名前なんていうの? どこの学部?」
玲が澪を見た。金色の目で、ゆっくりと。助けを求めているのか、呆れているのか、よくわからない顔で。
「[cold]黒瀬玲。学部はない」
「[surprised]え、じゃあ社会人? 年いくつ?」
「[cold]23だ」
「[excited]えーかっこいい! あたし18なんだけど、年上もぜんぜんアリなの! あたしの名前は坂本ひなた! 覚えてくれると嬉しいな!」
玲がひなたを見た。それから澪を見た。何か言いたそうな顔をして、でも何も言わなかった。
「[serious]えっと……澪……あの人、誰?」
遅れてカフェテリアから出てきた誠が、玲を見て動きを止めていた。穏やかな緑色の目が、珍しく固まっている。
澪は深呼吸した。
「[scared]えっと、その……ペット……じゃなくて、えっと……同居人……?」
一瞬の間があった。
「「[surprised]同居人!?」」
誠とひなたが全く同時に叫んだ。周りにいた学生が3人、ぱっとこっちを見た。
「[scared]ち、ちがっ、説明が難しくて!」
「[serious]……同居人って、どういうこと」
誠の声が少し低くなった。澪は真っ赤になった。
「[excited]澪ちゃんの家に住んでるってこと!? すごい! 毎日会えるじゃん!」
ひなたはぴょんと跳ねた。方向が完全に違う。
玲はその騒ぎを横目に見ながら、澪の顔を静かに見ていた。じとっとした金色の目。さっきの「ペット……じゃなくて」という言葉を確実に聞き取っていた。
「[cold]……ペット扱いしようとしたな、今」
「[scared]してない!! してないよ!!」
昼休みの中庭に、澪の叫び声が響いた。
* * *
解散した後、誠がぎこちなく澪に声をかけた。
「[serious]えっと……今日の夜、ファミレスに行かない? コやってるから。話したいことがあって」
澪は事情がよくわからないまま「うん……」と答えた。誠はほっとしたような、どこかもやもやしたような顔で頷いた。手のひらをポケットにこすりつけていた。
* * *
午後のゼミが終わった直後だった。
「[excited]ねえ聞いた!? 澪ちゃんのところに超イケメンが住んでるんだって!」
ひなたが同じゼミの学生たちに屈託なく話しかけていた。悪意はゼロだった。単純に面白い話だと思っている顔だった。
澪はその場でフリーズした。
(ひなたちゃん……!!)
1時間もしないうちに噂は広まった。帰り支度をしていると、別のクラスメイトに声をかけられた。
「[serious]澪さん、同棲してるって本当?」
澪の顔が青くなった。廊下を歩くたびに視線を感じた。「あの人じゃないの」「イケメンらしいよ」という声が聞こえた気がした。
(どうしよう……どうしよう……)
* * *
その頃、玲はカフェテリアの端のテーブルにいた。
ハコマートで買ったツナマヨおにぎりの包装を開けながら、昼の場面を思い返していた。澪と誠が窓際に並んでいたあの席。誠が澪にドリンクを手渡した場面。
俺は猫だ。
人間の恋愛など関係ない。
そう思った瞬間、誠がドリンクを渡したときの澪の笑顔が頭に浮かんできた。無意識に手に力が入った。
ぐしゃ。
ツナマヨおにぎりが手の中で潰れた。
玲は数秒、手の中の惨状を見つめた。ツナとマヨネーズがラップの内側に広がっていた。
「[cold]……包装が悪かった」
誰もいない。でも一人で言い訳を言っていた。
玲はそのまま立ち上がって、大学の廊下をうろつき始めた。澪を探していた。澪を探している自分に気づいて、少しムッとした。それでも足は動いた。
廊下の角で澪が「どうしよう……」と呟きながら歩いているのが見えた。
「[cold]どこ行く」
澪がびくっとした。
「[angry]ちょっと! 大学には来ないで! って何回言えばわかるの!!」
「[cold]……お前が他の男と飯を食っているのが、気に食わなかっただけだ」
澪が固まった。
廊下の空気が変わった気がした。
「[surprised]……それって……え、それってどういう意味……?」
玲は自分が言ったことの意味を一秒後に理解した。
「[cold]……忘れろ」
目を逸らした。耳の先が微妙に赤い。
澪の胸の中で何かが急いで脈を打ち始めた。うるさい。すごくうるさい。玲の顔も、どう見ても少し赤かった。
二人してしばらく黙り込んだ。廊下を学生が通り過ぎていった。
* * *
夜、コーポ月見台203号室。
澪はベッドに突っ伏した。顔をシーツに押し付けたまま、足をばたばたした。
(気に食わなかっただけ、って何……!? 何それ……!!)
部屋が静かだった。玲の気配が向こうにある。
しばらくして、すっと足音がした。
ベッドの端に、何かが近づいてくる気配。
澪がそっと顔だけ上げると——玲が布団の端にしゃがんで、丸くなっていた。膝を抱えて、体を小さくして、目を逸らしたまま。
澪はその姿を見た瞬間、全部わかった。
これは謝りの姿勢だ。猫のころからずっと、クロが何かやらかしたときにとる、あの謝り方だった。クローゼットの陰とか、ソファの端とか、体を小さくして丸まって、澪が怒るのをじっと待っていた。
「[cold]……すまなかった。大学に行ったのは、やりすぎだった」
短い言葉。目はまだ逸らしている。
「[laughing]……それ、猫のころと全く同じ謝り方だよ」
笑いが止まらなかった。くすくす、じゃなくて、もっとちゃんとした笑いが出てきた。
「[cold]うるさい」
「猫のとき、爪とぎでソファボロボロにしたあとも、こうやって丸まってたもん。全然変わってない」
玲は何も言わなかった。でも口の端が、かすかに上がっていた。
澪の笑いがぴたりと止まった。
玲の頬が、赤い。さっき廊下で見たのとは違う、もっとはっきりした赤さで。目が逸れたまま。何かを言おうとして、言えない顔。
澪の胸がもう一度、大きく鳴った。
(……やばい)
二人してしばらく黙り込んだ。部屋の電球の白い光。窓の外のミナセ市の夜。玲がゆっくりと床に移動して、布団の端に座り直した。
澪はベッドに顔を埋めた。
「[whispers]やばい……」
「[cold]何がだ」
「なんでもない」
玲は何も言わなかった。でも澪の布団から少しだけ離れて、それでも部屋の中でいちばん澪に近い場所に座っていた。
澪はシーツの中で目を閉じた。
(明日、誠くんとファミレスに行く。玲はそれを知ってる。あの顔を思い出したら——)
どうなるんだろう。
答えが出ないまま、部屋の外でミナセ市の夜が静かに続いていた。