にゃんこ人間と恋の大作戦
早川澪(22歳)は大学生で、5年間にわたり猫のクロを溺愛してきた。爪切りやお風呂は無理やりだったけれど、それも愛情の証だと自分に言い聞かせていた。
ある朝、目を覚ますと見知らぬイケメンが隣で寝ている。細めた目で彼女を見つめ、「5年間の恨み、全部返してもらう」と言う。
クロが人間になってしまったのだ。黒瀬玲という名前の、背が高く低い声で、澪が彼にしてきたことをすべて覚えている超イケメンに。
こうして二人の混沌とした、逃げ場なしのルームメイト生活が始まる。玲はささいな復讐を次々と仕掛ける。お気に入りのぬいぐるみを隠し、友達に恥ずかしい話をばらし、牛乳を全部飲み干す。すべては猫の論理による過去の恨み返しだ。イライラするけど、笑えるし、なぜかちょっと可愛い。
問題は?澪が困っていると玲は我慢できずに助けに入る。守り、頭を撫でる――そして自分の手を見つめてまるで裏切られたかのように戸惑うのだ。
一方、幼なじみの村田誠は長年密かに澪に想いを寄せていて、ついに告白のタイミングだと決意する。澪のクラスメイト坂本ひなたは玲を一目見て、「変な猫男」に宣戦布告。
四人、未解決の感情、そして最大の
にゃんこ人間と恋の大作戦 - 復讐開始!猫の恨みは怖いぞ——ツナマヨおにぎり3個と財布の使い方
朝、目が覚めた瞬間から、何かがおかしかった。
ベッドサイドに手を伸ばす。いつもそこにあるはずのものが、ない。
澪はのっそり上半身を起こして、テーブルの上を見た。クロ柄のぬいぐるみ——鼻の部分が少し色あせた、5年間の付き合いの相棒——が、消えていた。
「[surprised]あれ?」
まだ半分寝ながらキッチンへ向かう。昨日買った牛乳でカフェオレを作ろうと冷蔵庫を開けると、パックがある。でもやけに軽い。振ってみると、音がしない。
空だった。
飲んだ記憶がない。というか昨日の夜は半分以上残っていたはずだ。
澪はパックを握りしめたまま振り返った。床に布団を敷いて寝ていた玲が、もう起きていた。キャットタワーの横に腕組みして立って、澪をじっと見ている。金色の目が、面白そうに細くなっていた。
「[sarcastic]牛乳、うまかったぞ」
「[angry]飲んだの!? 全部!?」
「猫は牛乳が好きだ」
「[angry]人間だって言ったじゃん今!」
そこでスマホが目に入った。充電ケーブルにつながったまま、画面がついている。
ロック画面の壁紙が変わっていた。
昨日まで桜の写真だったはずの場所に、黒猫の顔がドアップで映っている。眉間にしわを寄せて、カメラを真正面から睨みつけているその表情——見覚えがある。爪切りの直後に撮った写真だ。3年前くらいの。クロが一番不機嫌だった顔。
「[surprised]……あたしのスマホ、触ったの」
「[sarcastic]復讐の第一弾だ。文句あるか」
玲はキャットタワーの上段——もともと大型猫用のスペース——に腕をかけて、涼しい顔で言った。
ぬいぐるみの消失、牛乳の全滅、待ち受けの差し替え。三連コンボ。
澪は空の牛乳パックを持ったまま、深呼吸した。
「[angry]返して。ぬいぐるみ」
「[cold]嫌だ」
「[angry]どこに隠したの!」
「さあな」
玲は答えながら、当然のようにこちらに歩いてきた。そしてすっと澪の顔の前に手を差し出す。
「[serious]で、今日はどこへ連れて行く」
「[surprised]……え」
「人間社会とやらを見ておきたい。案内しろ」
怒りと呆れが同時に澪の中を通り過ぎた。5年分の恨みを返すと言っておきながら、この人は今ものすごく自然に、連れて行けと要求している。
(猫って基本こういう生き物だったな……)
澪はため息をついて、クローゼットを開けた。
* * *
玄関で最初の事件が起きた。
玲が棚のスニーカーを手に取って、しばらく眺めていた。裏返したり、横から見たり、鼻に近づけて匂いを嗅いだり。そして床に置いて、紐を結ばずにそのまま足を突っ込もうとした。
「[surprised]ちょっと待って。紐、結んでない」
「必要か」
「脱げるよ!」
「[cold]こんな複雑なものが足に必要な理由が分からない。猫の足はシンプルだった」
玲は本当に心底不満そうな顔をしていた。人間の靴というシステム全体に対して、根本的な疑問を持っているらしい。
澪はしゃがんで、玲の靴ひもを結んであげた。
指を動かしながら、左右のひもを交差させて、輪を作って引っ張る。子供のころ何度も練習した動作。澪が手を動かしている間、玲が無言でじっと見下ろしていた。
そのまま顔を上げると、玲と目が合った。
金色の目が、間近にある。
澪はなんとなく急いで立ち上がった。顔が少し熱かった。
「[serious]結び方、見ておけよ。次は自分でやって」
「……見ていた」
玲は短くそう言って、目をすっと逸らした。
* * *
ナルセ電鉄のミナセ駅——1日に約2万8000人が乗り降りする橋上駅舎——に向かう途中、澪は玲が「橋のエレベーターのボタンをどう押すか」をじっと観察しているのに気づいた。
乗ってみると、玲がボタンの前に立った。
そして人差し指ではなく、手のひら全体をぺたっとパネルに押し当てた。
ボタンが4つ同時に光った。
隣に乗り合わせたサラリーマンが固まった。澪も固まった。
「[angry]一個だけ押して! 一個!」
「[surprised]なぜ一個なんだ。これは全部光ったぞ」
「光ればいいわけじゃないの! 行き先が全部バラバラになるから!」
サラリーマンが静かにボタンを押し直してくれた。澪は深々と頭を下げた。玲はサラリーマンの動作を今度こそ真剣に見ていた。
「[cold]……なるほど。一点を押す。覚えた」
「[sarcastic]遅い!」
* * *
カゲロウ通り商店街のアーケードに入ると、平日の午前らしい落ち着いた空気が漂っていた。昭和の名残のある天井が低くて、果物屋のおじさんが店先をほうきで掃いている。コーヒーの匂いが喫茶ランプのほうから流れてきた。
「[serious]ここに寄っていこうか。喉、渇いてない?」
玲が鼻をひくっとさせた。
「[serious]まず向こうだ」
向こうを見ると、ハコマート——コンビニ——の看板が見えた。
玲は迷いなくそちらへ向かう。自動ドアが開いた瞬間、冷えた空気と一緒に、ツナマヨの匂いが漂ってきた。
澪が気づいた時には、玲は冷蔵のおにぎりコーナーの前に立っていた。手に取ったのはツナマヨ。また取った。もう一個。
3個、レジに持っていった。
若い店員さんが金額を読み上げた。
「390円になります」
玲が止まった。
動かない。
レジの前で、金額を言われて、完全に固まっていた。財布を出そうともしない。そもそも財布を持っていない。そもそも「支払う」というシステムを実感として理解していない顔だった。
後ろに並んでいたお客さんが2人、3人と増えていく。
「[cold]……お前がやれ」
「[angry]なんで当然みたいに言うの!」
こそこそと小声でやり取りしながら、澪は財布を出した。390円。今月また出費が増えた。
「[angry]猫だから金なんか持ったことないって、それはわかった。でも今は人間だから財布は必要なの。わかった?」
「[cold]わかった。お前が持て」
「[angry]あたしが持つって意味じゃない!」
玲はツナマヨおにぎりを1個開けながら、全く悪びれない顔で歩き始めた。
その横顔を見ながら、澪はふっとため息をついた。
(あたし、何やってるんだろ)
でも怒る気持ちと一緒に、別の記憶が頭をよぎった。
5年前の秋。雨の日。ミナセ駅の南口のあたりで、段ボール箱の陰に黒い塊がいた。びしょびしょで、骨と皮だけで、近づいたら思い切り威嚇してきた。ちっちゃいくせに、怖がりなくせに、必死に背中を丸めて声だけは大きかった。
あのクロが、今こうしてツナマヨをもぐもぐ食べながら隣を歩いている。
「[whispers]……変なの」
独り言だった。玲には聞こえなかったと思う。
* * *
夕方、喫茶ランプに二人で入った。
カウンター8席、テーブル4卓の小さな店。豆を挽く音がして、コーヒーの香りが濃い。マスターの倉橋じいさん——白髪で、ちょっとだけ腰が曲がっていて、でも目がきらきらした65歳——がカウンターから顔を上げた。
そしてにっこり笑った。
「[gentle]澪ちゃん、いらっしゃい。あれま——今日は一人じゃないねえ」
「[sarcastic]あ、あの、これは知り合いで」
「[gentle]知り合い。ほお。若くてかっこいい知り合いねえ」
「[gentle]ついに春が来たか、猫連れのお嬢さんに」
「[angry]猫は関係ない! いや関係あるけど、そういう意味じゃなくて!」
澪が真っ赤になって否定している間、玲は無言で歩いていた。店の奥、窓際のテーブルに、一直線に向かう。他の席は空いているのに。角の席でも、中央でもなく、窓の真横の、2人掛けの小さなテーブル。
そこに座った。
当然のように。
澪は倉橋じいさんに「コーヒー2つください」と頼んで、玲の正面に座った。
「[serious]窓際しか座らないの、猫のときから一緒だね」
「[cold]偶然だ」
「この席で外を見てたもんね。あたしがここに来るたびに」
「[cold]知らねぇよ。黙れ」
玲は窓の外を向いた。カゲロウ通りの夕方。商店のシャッターが半分閉まって、自転車が通り過ぎて、街灯が一個ずつ灯り始めている。
その横顔は、さっきまでの不機嫌な顔じゃなかった。
ただ、静かだった。
倉橋じいさんがコーヒーを持ってきた。玲がひと口飲んで、すぐに顔をしかめた。
「[serious]苦い」
「猫舌だもんね」
「[cold]猫舌というな」
「事実じゃん」
「[cold]……うるさい」
でも玲はコーヒーを置いて、また窓の外を見た。口の端が少しだけ下がって、眉の力が抜けている。怒っているわけじゃない。ただ、外を見ている。
澪はそっと玲の横顔を見た。
5年前、雨の中で拾ったとき、あの黒猫はこんな顔をしていたっけ。怖がりで、威嚇して、でも膝の上に乗ってきたときはずっと外を見ていた。窓の外の、何かを見ていた。
(復讐したいのはわかる。でも)
本当に嫌いだったら、ここにいないんじゃないか。そんな気がした。
* * *
ランプを出ると、夜のカゲロウ通りは落ち着いていた。街灯の橙色が石畳に伸びている。二人で並んで歩いた。
ミナセ駅を過ぎて、ハヅキ川に向かう道を歩く。橋が見えてきた。ハヅキ橋——欄干が低くて、川面が近くに見える橋。
「[serious]玲って、ここ来たことある?」
玲が少し間を置いた。
「[cold]さあな」
川面を見た。夜の水面が、街灯の光をゆらゆらと反射していた。玲の金色の目がそこに向いて、何かを見ているような、見ていないような表情だった。
その直後。
澪の足が橋のつなぎ目の段差を踏んで、前に体が傾いた。
あっ、と思った瞬間——
玲の手が伸びていた。
何も考えていなかったと思う。反射だった。澪の腕をつかんで、引き戻す。猫が飛び掛かるみたいな、迷いのない動き。
二人とも止まった。
玲の手が、澪の腕をつかんだまま。橋の上、川の音だけが聞こえる。
どちらも動かなかった。
澪の頬が熱くなった。玲が手を離した。
「[cold]本当によく転ぶな、お前は」
「[whispers]……ありがとう」
声がかすかだった。玲は前を向いて歩き始めた。澪も歩いた。二人の間に10センチくらいの隙間ができたまま、黙って橋を渡った。
胸の奥で何かが速く打っていた。名前のつけ方がわからない感覚だった。
コーポ月見台の坂道を登る。アパートの電灯が見えてきた。
「[cold]……明日も俺が先に起きてたら、どうするんだ」
ぼそっと、玲が言った。
「[serious]その時はまた叫ぶ」
玲が鼻で笑った。
口の端が少し上がっているのを、澪は気づかなかった。
コーポ月見台203号室の鍵を開けて、部屋に入る。いつもの6畳、いつもの狭さ。キャットタワーがどんと立っていて、玲が先に上がり込んで床に座る。
ベッドに倒れ込みながら、澪は天井を見た。
明日、大学で誠やクラスメイトに何て説明すればいい。「遠い親戚」なんて言い訳が通じるのか。玲が大学の学食に乗り込んできたらどうなるのか。財布の使い方をいつ教えるのか。靴ひもは次は自分で結べるのか。
問題が多すぎる。
でも澪はなんとなく、そのまま目を閉じた。
夜のハヅキ川の音が、まだ耳の奥に残っている気がした。