聖女は二つの愛に揺れる
ヴィオラは18歳の聖女。白い神殿の中で生涯を過ごし、世界を守るために育てられてきた。彼女はこれまで一度も、自分が誰かを愛していると口にしたことはなかった。
ある日、太陽のように明るく温かな英雄レイが神殿にやってくる。彼はヴィオラの瞳をまっすぐに見つめて言った。「どうか、僕と旅をしてほしい、聖女よ。」その率直さは少し怖いほどだ。レイは魔王を倒し、世界に平和をもたらそうとしている。ヴィオラの胸は高鳴った。
その夜、闇の中から魔王ノクスが姿を現す。「僕と来てほしい、聖女。」彼の声は怒りや恐怖とは無縁で、静かで、どこか悲しげだった。「僕のことを理解できるのは君だけだ」と、傷だらけの手を差し伸べる。
レイとノクス、二人の男がヴィオラに求婚した。世界は揺らいだ。英雄と魔王が同じ女性を愛するなんて、かつてないことだった。
レイはいつも彼女のそばにいる。明るく、強く、毎日「君を守る」と告げる。彼といると心が温かい。でも、ヴィオラはノクスのことが頭から離れない――彼の悲しげな瞳、静かな声、そして彼女にだけ見せる不思議な優しさ。
レイはノクスに激怒する。「あいつは悪だ。君を利用している。」ノクス
聖女は二つの愛に揺れる - 白い神殿の聖女——光の烙印と溢れる祈り
右手が、また光っていた。
小さく、でもはっきりと。朝の祈祷が始まる前から、ヴィオラの右掌の烙印はじわりと熱を持っていた。
(おかしい。なんで今朝は)
ヴィオラはローブの袖で右手をそっと覆う。純白の布地に銀の刺繍が施されたそのローブは、聖女の証だ。18年間、ずっとこれを着てきた。着替えるたびに思う。これは衣装じゃなくて、鎧なんだな、と。
廊下を歩く。靴が白い大理石を打つ音が、高い天井に吸い込まれていく。
セラフィーナ聖堂の朝は静かだ。でもその静けさは、空っぽな静けさじゃない。200人近い神官と侍女が、声を立てずに動き回っている。燭台の蝋を取り替える神官、香炉を運ぶ侍女、祈祷の間の床を磨く下働きの少年。誰もがそれぞれの仕事をこなしながら、まるで息を合わせるみたいに、空間のリズムを作っている。
ヴィオラはその廊下をゆっくり歩く。
壁には歴代聖女の肖像画が並んでいる。最初の聖女から数えて、ヴィオラで12代目だ。絵の中の彼女たちは全員、穏やかな表情をしている。揺るぎない、静かな目。感情をきちんと内側に収めた顔。
(みんな、こんな顔してたのかな。本当に)
ヴィオラは自分の顔が今どんな表情をしているか、少し気になった。でも廊下に鏡はない。
祈祷の間の扉が見えてくる。両開きの大きな扉は、すでに少し開いていた。中から、お香の匂いが漂ってくる。
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祈祷の間は広い。
ヴィオラが一番好きな景色は、この部屋の天井だ。高さ60メートルの聖堂を彩るステンドグラス。女神ソレイアが涙を落とし、その涙が大地に染み込んで白い石の神殿が生えた——1200年前の建国神話が、色とりどりのガラスで描かれている。朝の光が差し込むと、床一面に色が広がる。青、金、緑、赤。ヴィオラの白いローブにも、その色が落ちる。
今朝も、その光がきれいだった。
(……普通の朝だ)
ヴィオラはそう思いながら祭壇の前に立つ。右手の烙印がまた、ほんの少し熱くなる。
間もなく信徒たちが入ってきた。約300人。老人、子ども、怪我をした兵士、病人。毎朝この時間、ソレイユの市民はセラフィーナ聖堂に来る。聖女の祈祷は市民にも開放されている。それがこの聖堂の決まりだ。
「聖女様、よろしくお願いします」
最初に来たのは、右腕を布で吊った中年の男性だった。ヴィオラは軽く頷き、右掌を男性の腕にかざす。
烙印が光る。
そして——痛みが来た。
骨が折れる感覚。鈍くて、重い。右腕の芯から疼くような痛み。ヴィオラはそれを黙って受け取る。唇を少し噛む。表情は変えない。
ソレイア聖術は、こういう力だ。
触れた対象の痛みや病が、聖女自身の体に流れ込む。感情を平らにしておけば力は安定する。でも弱い。強い力を出したいなら——愛する人に向けて使えばいい。そのとき威力は何十倍にもなる。でも制御が効かなくなる。だから聖女は感情を抑えて生きることを求められてきた。愛さない。好きにならない。ずっとそうしてきた。
ヴィオラ自身も、それが正しいと信じてきた。
次の信徒。老婆の背中。重くて鈍い痛みが流れ込む。
その次は、熱を出した子どもだった。頭が割れそうなほど熱い感覚。
ヴィオラは一人ひとりを丁寧に癒す。右掌が光るたびに、痛みが蓄積していく。でも表情は穏やかなままだ。これも18年間ずっとやってきたことだから。
手のひらの光が、また揺れた。
(あれ)
ヴィオラは眉をひそめる。
揺れ方がいつもと違う。ちらちら、というより、どこか遠くに引き寄せられるみたいな揺れ方。何かを探しているみたいな。
(何に反応してるんだろう)
祈祷は続く。ヴィオラはその違和感をとりあえず心の隅に押し込めた。
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最後の信徒を癒し終えて、ヴィオラは一息ついた。
その瞬間だった。
右掌が——爆発した、という言い方が近い。
突然、強烈な光が溢れ出した。制御する間もなかった。白い光が祈祷の間全体を飲み込む。ヴィオラは両手で右掌を押さえるが、光は指の隙間から漏れ続ける。
パキン、という音。
石柱にヒビが走った。
次の瞬間、天井のステンドグラスが一気に砕け散る。
悲鳴。
色とりどりのガラスの破片が、300人の信徒の頭上に降り注ぐ。神官たちが叫びながら人々をかばう。混乱。椅子が倒れる音。子どもの泣き声。
ヴィオラは右掌を押さえたまま、その場に立ち尽くした。
光が消えた。
静寂。
床にガラスが散らばっている。光の粉みたいなものが、ゆっくりと舞い上がっている。割れたステンドグラスの穴から、朝の光が細い筋になって差し込んでいた。
誰も大きな怪我はしていないようだった。でもヴィオラには、それを確認する余裕もなかった。右掌がまだ熱い。でも光はもう出ていない。
(何が、起きた)
「ヴィオラ様」
低い声だった。
振り返ると、白髪の老人が立っていた。長老会筆頭バルデス。78歳。背筋をまっすぐに伸ばし、ゆっくりとした動作で信徒たちの間を歩いてくる。神官たちが道を空ける。
バルデスの顔は、怒っていなかった。
それが逆に怖かった。
怒りじゃなくて——恐怖だった。深い、骨の髄まで染み込んだような恐怖の色が、その灰色の瞳に浮かんでいた。
「皆を外へ」
静かな声だった。でも全員が動いた。神官が信徒を誘導し、数分で祈祷の間はヴィオラとバルデスだけになった。
バルデスはヴィオラの前に立ち、割れたステンドグラスの残骸を一瞥してから、ゆっくりと口を開く。
「[serious]聖術暴走は、感情が乱れている証拠です」
「[scared]……分かっています」
「分かっているならば、なぜ」
ヴィオラは答えられなかった。
バルデスは続ける。声は低く、抑制されていた。でもその言葉の一つひとつに、重みがある。
「[serious]聖女戒律、第三戒。聖女は魔族に心を許すべからず。——あなたはご存知ですか、380年前に何が起きたか」
「[serious]トワイライト戦役。8年間で、40万人が死んだ」
「そうです。人間と魔族、双方合わせて40万人。当時の聖女が命と引き換えに大結界を張り、魔族を大陸北方に封じました。その結界が今も暮光の壁として存在している」
バルデスの目が、少し遠くなった。
「[sad]私はその記録を、全て読みました。一人ひとりの名前が書かれた死者の記録を。40万という数字ではなく、40万の人生を。……聖術が暴走すれば、あの惨劇が再び起きる可能性がある。あなたの力は、それほど大きい」
ヴィオラはバルデスを見た。
この老人は悪人じゃない、とヴィオラは知っている。怖いのだ、本当に。あの戦争の重さを知りすぎていて、それが恐怖として骨の中に残っている。だからこそ、どんな小さな揺らぎも見逃せない。
「[serious]感情の乱れを正してください、ヴィオラ様。聖女に与えられた7つの戒めは、あなたを縛るためにあるのではありません。世界を守るためにある」
「[whispers]……はい」
バルデスは頷き、踵を返した。足音が遠ざかる。扉が静かに閉まる。
ヴィオラはしばらくその場に立ったまま、床のガラスを眺めていた。
(感情が乱れている)
でも、何に揺れているのか、自分でも分からなかった。
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午後、ヴィオラは自室の窓から外を眺めていた。
部屋の窓からは王都ソレイユが一望できる。白い石灰岩の建物が整然と並んだ街。通りを行き交う人々は小さく見える。ミレーヌ河——大陸を流れる長い川の支流が、午後の光を反射してきらきら光っていた。中央市場の方から、かすかに喧騒が聞こえてくる。
ヴィオラはこの景色を18年間見てきた。
外出には長老会の許可が要る。それがここのルールだ。国王と同格以上の地位を持つ聖女は、自由に街を歩けない。書物の中にしかない、ソレイユの市場。ミレーヌ河の川沿いを歩く人々。ヴィオラには、全部が窓の向こうの話だ。
ふと、窓枠に小さなクモが巣を張っているのに気づいた。白い糸が、朝露をまだ残してきらきら光っている。ヴィオラはそれをしばらくぼんやり見つめた。クモは気にする様子もなく、巣の中心にじっとしている。
(お前は自由だな)
そんなことを思った。バカみたいだけど、本当にそう思った。
聖女の恋愛は、個人の問題じゃない。聖女の力は愛する人の方向に強くなる。だから聖女が誰を選ぶかは、国家の問題だ。世界の問題だ。求婚者は聖堂の大広間で公の宣誓をしなければならない——それも決まりだ。長老会が政治的に相手を選ぼうとしている空気は、ヴィオラにも十分伝わっている。
全部知っている。全部分かっている。
だから諦めてきた。
でも今日の右掌の感触が、まだ消えない。暴走した光の感触が、じんわりと残っている。
(あの光は、何に引き寄せられたんだろう)
ヴィオラには答えがなかった。
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夜になった。
月が出ていた。
ヴィオラは神殿の裏庭に一人立っていた。白い石畳の庭は、月明かりだと別の場所みたいに見える。昼間はただの白い石なのに、夜は青みがかって冷たく光る。
長老会に「外出」はできないが、神殿内の裏庭ならいい。ここは許されている場所だ。
ヴィオラは北の空を見上げた。
エルディナ大陸の北方には、暮光の壁がある。トワイライト戦役後に張られた大結界。帯状の薄紫色の光が大陸を横断していて、人間は通れるが魔族は通れない。その壁の向こうには、ノワール荒原と魔族の領域がある。
全部、書物で読んだ話だ。
王都ソレイユから北東へ260キロ、辺境都市リヴァルドを越えてさらに北へ20キロ。最近、その壁に亀裂が生じているという噂も耳に入っていた。でもそれも、書物と長老会の言葉を通じて知った話。
ヴィオラには実感がない。
風が吹いた。
北から来る風だった。ひんやりして、少し湿っている。ヴィオラは目を細めた。
そして——聞こえた。
音、というよりは、感覚だった。
楽器の音じゃない。人の歌声でもない。もっと直接的に、胸の真ん中に届く何か。低くて、悲しくて、でも怒っていない。ただそこにあるだけ、みたいな。静かな、でも確かな何か。
ヴィオラは足を止めた。
胸が締めつけられた。
泣きたい、という感覚に近かった。でも悲しいわけじゃない。理由が分からない。今まで感じたことのない感覚だった。誰かがそこにいるみたいな、でも誰もいないのに、みたいな。
しばらく立ち尽くしていた。
風がやんだ。
旋律も——消えた。
ヴィオラは右掌を胸に当てた。烙印は静かに光っている。今は暴走していない。ただ、淡く、温かく。
(なんだったんだろう)
答えは出なかった。
星が出ていた。ヴィオラは長い間、その場に立っていた。
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次の朝、廊下でばったり侍女のリナに会った。リナはヴィオラより3つ年下で、聖堂の中でも特にそわそわしやすいタイプだ。
「[excited]ヴィオラ様!噂、聞きましたか!?」
ヴィオラは少し目を細めた。
「[gentle]おはよう、リナ。何の噂」
「[excited]街中で広まってるんです。聖剣カリオンの勇者が——あの勇者様が、セラフィーナ聖堂に向かってるって!」
ヴィオラは少し考えた。
聖剣カリオン。2年前、150年ぶりに抜かれた伝説の剣。白銀の刀身に光をまとった、勇者だけが持てる剣。その称号を持つ者は歴史上12人しかいない。身体能力が常人の5倍になり、光属性の魔法を使え、一国の将軍級の権限と年間6000リーラの報酬を得る。全部、書物で読んだ。
「[serious]……本当に来るの」
「[excited]みたいです!街の人が騒いでて、市場あたりはもう大変なことになってるって!ヴィオラ様、どうされますか!?」
「[gentle]ありがとう、リナ。少し考えてみる」
リナは期待で目をきらきらさせながら走っていった。廊下にその足音が遠ざかる。
ヴィオラは窓の外を見た。
確かに、街が少し騒がしい。通りを行き交う人の数が多い。遠くから笑い声が聞こえる。何かを待っている、みたいな空気。
ヴィオラは右掌を見た。
烙印は今日も静かに光っていた。
(また暴走するかもしれない)
そう思うと、少し怖かった。バルデスの言葉が頭に残っている。感情の乱れ。制御。世界の均衡。
でも——昨夜の旋律が、頭の奥でまだ鳴り続けていた。
消えていなかった。
北から来た、あの静かで悲しい何か。名前もないのに、ヴィオラの胸のどこかに引っかかったまま、ずっとそこにある。
窓の外、街の喧騒がゆっくりと大きくなっていく。
ヴィオラはしばらくそこに立ったまま、窓の外から目を離せなかった。