聖女は二つの愛に揺れる
ヴィオラは18歳の聖女。白い神殿の中で生涯を過ごし、世界を守るために育てられてきた。彼女はこれまで一度も、自分が誰かを愛していると口にしたことはなかった。
ある日、太陽のように明るく温かな英雄レイが神殿にやってくる。彼はヴィオラの瞳をまっすぐに見つめて言った。「どうか、僕と旅をしてほしい、聖女よ。」その率直さは少し怖いほどだ。レイは魔王を倒し、世界に平和をもたらそうとしている。ヴィオラの胸は高鳴った。
その夜、闇の中から魔王ノクスが姿を現す。「僕と来てほしい、聖女。」彼の声は怒りや恐怖とは無縁で、静かで、どこか悲しげだった。「僕のことを理解できるのは君だけだ」と、傷だらけの手を差し伸べる。
レイとノクス、二人の男がヴィオラに求婚した。世界は揺らいだ。英雄と魔王が同じ女性を愛するなんて、かつてないことだった。
レイはいつも彼女のそばにいる。明るく、強く、毎日「君を守る」と告げる。彼といると心が温かい。でも、ヴィオラはノクスのことが頭から離れない――彼の悲しげな瞳、静かな声、そして彼女にだけ見せる不思議な優しさ。
レイはノクスに激怒する。「あいつは悪だ。君を利用している。」ノクス
聖女は二つの愛に揺れる - 光と闇の誓い——腕輪を砕いた夜明け
右手が、ずっと冷たかった。
三日間、ヴィオラはその感触を覚えていた。封印の腕輪——長老会が施した術の結晶——が右手首に食い込んで、そこから先の感覚を奪い続けていた。右掌の烙印は光らない。力は通じない。あたしはただの、窓のない部屋に閉じ込められた女の子だった。
夜明けの光が、扉の隙間から細く差し込んだ。
ヴィオラは膝を抱えて壁にもたれていた。眠れなかった。三日間、まともに眠れていない。泣きすぎた夜が一つ、泣く力もなくなった夜が二つ。今は涙も出ない。ただ目が腫れていて、頬が引きつっていた。
扉が開いた。
「[cold]審問の時間です」
二人の神官が、無言で両脇に立つ。ヴィオラは立ち上がった。膝が笑った。壁に手をついて、ゆっくり体を起こす。石の床に散らばった腕輪の……違う、まだ腕輪は外れていない。足元には何もない。ただ冷たい石があるだけだ。
廊下を歩く。
審問の間は聖堂の中央にある。白い石柱が並ぶ、天井の高い部屋。毎朝の祈祷に使う大広間とは別の、儀式のための空間。ヴィオラはその廊下を、十八年間何度も歩いてきた。でも今日の廊下は、同じ場所なのに違って見えた。石の色が暗い。空気が重い。それとも、あたし自身が変わったのかもしれない。
(ノクスの声が、まだ耳に残っている)
お前を縛っているものは、女神の言葉じゃない。
その言葉と、あの三日間で考え続けたことが、頭の中で静かに渦巻いていた。トワイライト戦役で命を捧げた先代聖女の話。愛を禁じた戒律は、三百八十年前に人間が作ったもの。女神ソレイアの言葉ではない——その確信は、まだ萌芽に過ぎなかったけれど、確かにそこにあった。
審問の間の扉が、重い音を立てて開く。
中に入った瞬間、空気が変わった。
五人の長老が一列に並んでいた。白い法衣、深い皺、硬い目。中央に立つバルデスは、七十八年分の重さを背筋に背負って、ヴィオラを正面から見据えていた。怒りより恐怖。あの目の奥にあるのは、世界が崩れることへの本物の恐れだと、ヴィオラは知っていた。
「[cold]開廷する」
その声が響いた——
その瞬間だった。
ドォォォン!!!
天井が、落ちた。
石の塊が三つ、四つ、一気に崩れ落ちる。粉塵が噴き上がり、視界が白く濁る。長老の一人が悲鳴を上げた。神官の走る足音。また轟音。また崩落。
「[scared]結界が——!」
「[scared]暮光の壁の亀裂から——魔獣が!!」
来た。
セラフィーナ聖堂の白い廊下に、それは溢れ込んでいた。黒く歪んだ体。爪。牙。人の形をしていない何か——暮光の壁、大陸北方を人間と魔族に隔てる古い結界に生じた亀裂から、魔獣の群れが流れ込んでいた。一体、二体じゃない。廊下が埋まっている。結界術が次々に破られる音が、石の壁越しに響いてくる。
長老たちが動いた。四人が身をひるがえして出口へ走る。
バルデスだけが動かなかった。両手に白光を結晶化させ、術の構えを取った。魔獣の一体が彼に向かって飛びかかる——バルデスが放った結界術が直撃した。魔獣の体が弾かれる。でも次の一体が来た。そのまた次も。老神官の体が——壁に叩きつけられた。
ドン。
重い音がして、バルデスが崩れ落ちた。動かない。
「[angry]下がれ!!」
審問の間の入口から、聖剣カリオンの白銀が閃いた。
レイだった。黄金色の髪が乱れ、碧眼が炎のように燃えている。剣を構えたまま飛び込み、ヴィオラの前に立つ。刀身に光属性の魔法が宿り、一閃——魔獣の体が両断される。
「[serious]ヴィオラ、そこを動くな!!」
ヴィオラは動けなかった。
封印の腕輪。右手首に食い込む、その存在を強く意識した。力を通そうとする。烙印に意識を集中させる——びりっ、と痛みが腕を走り、力は跳ね返された。聖術は発動しない。ヴィオラは何もできない。
レイが戦っていた。
一体を斬る。二体を弾く。三体が同時に来る。聖剣の光が散る。でも数が多すぎた。魔獣の爪がレイの肩を引き裂く。血が飛んだ。それでもレイは後退しない。また斬る。また斬る。右腕に爪痕が増えていく。脇腹に傷が増えていく。
ヴィオラの胸が締めつけられた。
(あたしがここにいるから——)
違う。そうじゃない。でも足が動かない。レイのそばを離れることができない。この人が血を流しているのに、あたしは何もできない。
魔獣が一体、ヴィオラに向かって飛びかかった。
「[angry]——ッ!!」
レイが体ごと割り込んだ。直撃を腕で受けて、石床に叩きつけられる。
ドゴッ。
重い音がした。ヴィオラの喉から声が出なかった。
レイが立ち上がった。顔が血だらけだった。黄金色の髪が赤く染まりかけている。傷が多すぎる。それでも剣を手放さなかった。立った。ヴィオラの前に立って、剣を構えた。
そして——振り返った。
その目に、涙が光っていた。
「[serious]……ヴィオラ」
聖女様、ではなかった。
あたしの名前を、この人は初めて呼んだ。そのことに気づいた瞬間、胸の奥で何かが動いた。レイはずっと聖女様と呼んでいた。最初の日から、ずっと。その呼び方が変わった瞬間の重さが、体の芯まで伝わる。
「[serious]俺は……お前が好きだ」
血を流した唇が、かすれた声を絞り出した。
「[serious]聖女だから、じゃない。力があるから、じゃない。お前が、ヴィオラだから——好きなんだ」
ヴィオラの頬に、涙が伝った。
泣く気力なんてもうないと思っていた。でも涙は来た。止まらなかった。レイの碧眼が、血と涙でぼやけて見えた。
その時——
聖堂の奥の闇が、凝縮した。
濃くなった。重くなった。黒い霧のような闇紋術が、廊下を埋める魔獣の群れを薙ぎ払っていく。次々に。止まらない。魔獣の体が消えていく。
ノクスが、いた。
黒髪に銀のメッシュ。灰色の瞳。白い法衣の破れた神官たちがいなくなった審問の間の奥に、静かに立っていた。左腕の呪紋が激しく脈動している——使うたびに侵食が加速する、あの紋様が。黒い霧が腕から肩へ、肩から首筋へと広がっていく。蒼白だった肌が、灰色に変わり始めていた。
苦しいはずだった。
それでもノクスは眉をひそめながら、また一体の魔獣を薙ぎ払った。また一体。また一体。
灰色の瞳がヴィオラを捉えた。
「[gentle]……お前を守るために来た」
低くて静かな声だった。感情を排しているのに、その言葉だけが重かった。
「[gentle]理由はいらない。お前がいるだけで——十分だ」
ヴィオラは動けなかった。
右にはレイがいた。血まみれで、傷だらけで、それでもあたしの前に立って剣を握っている。左にはノクスがいた。呪紋の侵食が進んで肌が灰色に変わりながら、それでも闇紋術を放ち続けている。
光と闇が、同時にあたしを守っていた。
その光景が、目に焼きついた。
(どちらも本物だ)
ずっと知っていた。ずっと、分かっていた。でも認めることができなかった。認めれば誰かを傷つけると思っていた。聖女の戒律に縛られていると思っていた。あたしには選ぶ権利がないと思っていた。
でも。
血を流すレイを見た。肌が灰色になっていくノクスを見た。
あたしが心を偽り続けることで——守れるものは、何もない。
封印の腕輪が、右手首でじわりと輝き始めた。
内側から何かが来ている。力が——感情の高まりに反応して、押し寄せてくる。
ヴィオラは左手で腕輪を掴んだ。
長老会が施した封印。聖女戒律の象徴。三百八十年間、聖女を縛ってきた鎖。それを、あたし自身の意志で——
「[serious]……でも、ここで止まったら」
声が震えた。
「[serious]あたしは何のために、ここに生まれてきたの」
引っ張った。
ミシ——
軋む音がした。腕輪にひびが入る。光が漏れ出す。もっと強く引く。腕が痛い。それでも離さない。離せない。
パン!!
腕輪が砕けた。
光の粉になって散った。細かい粒が空気の中に溶けていく。封印が、消えた。
右掌の烙印が——爆発した。
ズドォォォォン!!
白光が聖堂全体を包んだ。壁から天井から、崩れた石の隙間から、光が溢れ出す。ヴィオラの体を中心に広がっていく。止まらない。制御しようとしなかった。これまで抑えてきた力が、全部、一気に外に出た。
魔獣が一体、消えた。
また一体、消えた。
廊下を埋めていた黒い群れが、白光に触れるたびに浄化されて消えていく。悲鳴を上げる間もなく。一体ずつ。全部。
レイの肩の傷が、塞がっていくのが見えた。腕の爪痕も。血が引いていく。ヴィオラの力が届いている。
ノクスの左腕の呪紋が——静まっていた。脈動が止まった。灰色だった肌が、ゆっくりと蒼白に戻っていく。完全に治癒したわけじゃない。でも侵食が、一時停止した。
光と闇を同時に癒す力。
心を偽らなかったことで初めて発動した——これが、ソレイア聖術の真の姿だった。
やがて、光が収まった。
聖堂に静寂が戻ってきた。崩れた石の隙間から、夜明けの光が差し込んでいた。橙色の朝の光が、粉塵の中に細い筋を作って、石床に落ちている。
ヴィオラは右掌を見つめた。
烙印が、静かに輝いていた。暴走はしていない。でも抑え込まれてもいない。ただ、そこにある。あたしの手の中に。あたし自身の力として。
膝が震えた。
ガクン、と力が抜けた。石床に座り込む。腕輪の欠片が足元に散らばっていた。白く輝く粉末が、夜明けの光を反射してきらきらと光っている。
レイとノクスが同時に、一歩近づいてきた。
それぞれの方向から。一歩ずつ。どちらも止まらない。
ヴィオラは右掌を見たまま、その気配を感じていた。二人の影が、左右から伸びてくる。
その時、審問の間の奥で——音がした。
低い呻き声。バルデスが、壁から体を起こしていた。白髪が乱れ、法衣に血が滲んでいる。でも目は開いていた。その灰色の目が、徐々に焦点を取り戻していく。散らばった腕輪の欠片を見た。ヴィオラの右掌を見た。レイとノクスを——同時に見た。
老神官の顔が、白紙のように変わった。
意識が戻ってきた老人の口が、ゆっくりと開く——何かを言おうとしていた。夜明けの光の中で。瓦礫の中で。壊れた封印の粉末が、まだ空気の中に漂っていた。