聖女は二つの愛に揺れる
ヴィオラは18歳の聖女。白い神殿の中で生涯を過ごし、世界を守るために育てられてきた。彼女はこれまで一度も、自分が誰かを愛していると口にしたことはなかった。
ある日、太陽のように明るく温かな英雄レイが神殿にやってくる。彼はヴィオラの瞳をまっすぐに見つめて言った。「どうか、僕と旅をしてほしい、聖女よ。」その率直さは少し怖いほどだ。レイは魔王を倒し、世界に平和をもたらそうとしている。ヴィオラの胸は高鳴った。
その夜、闇の中から魔王ノクスが姿を現す。「僕と来てほしい、聖女。」彼の声は怒りや恐怖とは無縁で、静かで、どこか悲しげだった。「僕のことを理解できるのは君だけだ」と、傷だらけの手を差し伸べる。
レイとノクス、二人の男がヴィオラに求婚した。世界は揺らいだ。英雄と魔王が同じ女性を愛するなんて、かつてないことだった。
レイはいつも彼女のそばにいる。明るく、強く、毎日「君を守る」と告げる。彼といると心が温かい。でも、ヴィオラはノクスのことが頭から離れない――彼の悲しげな瞳、静かな声、そして彼女にだけ見せる不思議な優しさ。
レイはノクスに激怒する。「あいつは悪だ。君を利用している。」ノクス
聖女は二つの愛に揺れる - 紫の結界と魔王の手——心が、真っ二つに裂けた夜
山脈からの帰還は夕暮れ前だった。
セラフィーナ聖堂の白い石壁が夕陽に染まって、橙色に光っていた。ヴィオラはその色を見ながら、ずっと自室の窓辺に座っていた。膝の上には何も置いていない。ただ、頭の中にあのロンティア山脈の夜が繰り返し浮かんでいた。
焚き火の温かさ。レイの手の甲の感触——指先が触れた瞬間の、あの脈の動き。それと、深夜に耳に届いた旋律。低くて、悲しくて、名前のつけられない何かが混じっていた、あの音。
どちらも本物だった。どちらも今もここにある。
ヴィオラは右手を見下ろした。烙印が、静かに光っている。暴走はしていない。でも、力が落ち着いているとも言えなかった。まるで湖の水面が微かに揺れ続けているような、そんな状態。
(わかりたいの。この気持ちが、何なのか)
夜になった。
月が出た。廊下を巡回する神官の足音が、一定のリズムで遠ざかる。聖堂の大広間からは、就寝前の最後の祈祷の声が低く響いていた。ヴィオラは窓に額をつけて、北の方角をぼんやり見ていた。
その時だった。
白かった。
聖堂を覆う結界——セラフィーナ聖堂を守るために長老会が維持する防護術——が、いつもの白ではなく、紫色に変色し始めた。端から端へ、まるでインクが水に滲むように。あっという間だった。
廊下を走る足音。神官の悲鳴に近い声。「結界が!」「異変だ、結界が染まっている!」怒鳴り声が石廊下に響いて、重なって、聖堂全体が騒然とした。
ヴィオラは立ち上がった。
大広間に向かう。扉を押し開けると——
空気が違った。
重い。冷たい。月明かりとは全く異質な何かが、広間の中心に収束している。白い石柱が紫の光に染まって、影が奇妙な方向に伸びていた。神官たちが壁際に後退している。誰も中央に踏み込めない。
闇が、濃くなった。
形をとった——と言うより、そこにずっといたものが、見えるようになった、と言う方が近かった。黒髪。銀色のメッシュが一筋、光に反射する。灰色の瞳。そして左腕から肩にかけて走る、古い呪紋。皮膚に刻まれた黒い紋様が、薄く脈打っていた。
背が高い。静かだった。まるで嵐の前の空のように、何も動いていないのに全てが緊張していた。
神殿中が、凍りついた。
その男がヴィオラの方を向いた。
瞬間、ヴィオラの胸の奥で何かが——
これだ。
この気配だ。この男から漏れているものが、あの旋律と同じだ。ロンティア山脈の深夜に耳に届いた、低くて悲しい何か。王都の裏庭で北に耳を澄ませた夜に感じた、名前のつけられないあれ。この男だった。ずっと、この男が発していたのだ——そう確信が体を駆け抜けた瞬間、
ガキィン!!
聖剣カリオンが鞘から飛び出した。
「[angry]下がれ!!」
レイが大広間の入口から飛び込んできた。黄金色の髪が乱れ、碧眼が炎のように光っている。警戒態勢のまま聖堂に残っていたらしい——剣を構えて、一切躊躇なく男に向かって踏み込んだ。光属性の魔法が白銀の刀身に宿り、広間を照らす。
斬撃が走る。
ノクスは右手を一つ上げた。
それだけだった。
剣圧ごと受け止めた。手のひらで。刀身に宿っていた光が散って、広間に火花が散る。次の瞬間、レイの体が弧を描いて石壁に叩きつけられた。
ドン——重い衝撃音が広間に響いた。
「[scared]レイ!」
レイが壁から崩れ落ちる。額と口元に血が滲んでいた。それでも聖剣を手放さなかった。目が光を失っていない。
ノクスはレイを一切見なかった。
倒れた勇者には目もくれず、ゆっくりとヴィオラの方に向き直った。戦意が、ない。あれだけ圧倒的な力を見せた直後だというのに、その灰色の瞳には攻撃的なものが何も宿っていなかった。
左手を——傷だらけの左手を、静かに差し出した。
「[serious]魔族は滅びかけている」
低い声だった。感情を排した、淡々とした声。でもその声には——何かが滲んでいた。長い時間の重さのような、諦めと覚悟が混ざり合ったような、何か。
「[serious]暮光の壁が崩れれば、人間も魔族も共倒れになる。止められる力を持つのは——そなただけだ」
ヴィオラは動けなかった。
その声を聞きながら、胸の奥がじわりと、痛いような感覚で満たされていた。レイへの感情とは違う。あの焚き火の夜の温かさとも違う。もっと暗くて、もっと深いところから来る、引力のような何か。
嘘じゃない——と、なぜかわかった。
この男は嘘をついていない。傷だらけの手を差し出しながら、自分の民の滅亡を、感情も伏せずに語っている。それがひどく、本物だった。
「[angry]嘘つきの言葉を聞くな!!」
血を流しながら立ち上がった。壁に手をついて、膝を地面に押しつけて、それでも立った。碧眼がノクスを睨んでいる。
「[angry]魔族の王が、何のつもりで聖堂に入った。お前はヴィオラを利用しようとしているだけだ」
ノクスとヴィオラの間に、体を割り込ませた。
ヴィオラはその瞬間、二人の間に挟まれた。
レイの背中が目の前にある。傷を負っても前に立とうとする、その広い背中。ここまで何度も守ってくれた。山賊の前でも、市場の帰り道でも、この人は迷わずここに立つ。それは本物だ。
でも。
顔を上げると、ノクスの灰色の瞳がこちらを見ていた。怒りも、脅しも、そこにはない。ただ——何かを待っているような目だった。静かで、深くて、底が見えない。
どちらにも嘘がない。
レイの温かさは本物だ。ノクスの悲しみも本物だ。なのに二つは、どうやっても同じ場所に収まらない。
ヴィオラの右掌が、じわりと光り始めた。
静かに。でも確かに。烙印が揺れている——感情が乱れると、力が乱れる。
その時、大広間の奥の扉が勢いよく開いた。
「[cold]これ以上、一歩も動くな」
神官を十数名従えて、バルデスが入ってきた。78歳の老神官は背筋をまっすぐに伸ばし、灰色の瞳でノクスを真正面から見据えていた。両手の間に、白い光が結晶化している——結界術の構えだ。長老会筆頭が自ら術を放つのを、ヴィオラは初めて見た。
光の奔流がノクスを包んだ。
ノクスはそれを正面から受けた。表情一つ変えなかった。力で押しきれる状況だと、ヴィオラには分かった。でもノクスは抵抗しなかった。一歩、また一歩と、静かに後退していく。
闇が、また彼を包み始めた。
消える直前に——
ノクスはヴィオラだけに届く低さで、言った。
「[whispers]お前は誰かを愛したことがあるか」
一拍の間があった。
「[whispers]……私もない。だから分かる。お前の孤独が」
闇が閉じた。
紫色だった結界が、ゆっくりと白に戻っていく。大広間に、重い沈黙が落ちた。神官たちが一斉に息を吐いた。誰かが座り込んだ。
ヴィオラの耳には、その言葉だけが残っていた。
右掌の光が、ぴたりと止まった。
---
「ヴィオラ殿」
バルデスの声は、怒りよりも——恐怖に近かった。
「[serious]大広間の中央に立ちなさい」
神官全員が見ている中で、ヴィオラは中央に立った。バルデスが一枚の羊皮紙を広げた。聖女戒律——聖女に課される七つの戒め。
「[serious]第三戒を読む」
老人の声が、石の天井に響いた。
「[serious]聖女は魔族に心を許すべからず。違反した者は称号を剥奪し、神殿から追放する——」
「[serious]今夜、そなたの右掌が光っていた。魔族の言葉を聞いた時に」
ヴィオラは何も言えなかった。
否定できない。バルデスの言う通りだった。ノクスの声を聞いた時、力が揺れた。感情が、乱れた。それは本当のことだ。
バルデスの顔に、怒りだけではない何かがあった。老いた目の奥に、恐れがある。長年この聖堂を守ってきた人間の——世界が崩れることへの、本物の恐怖。
その詰問が終わらないうちに、レイがヴィオラの手を掴んだ。
強く。
「[serious]騙されるな」
血が滲んだままの唇で、レイが言った。碧眼がヴィオラだけを見ている。その目に宿っているものは——怒りじゃない。怖いのだ、とヴィオラは感じた。何かを失うことへの、剥き出しの恐怖。
「[serious]魔族の王が何を言っても、全部計算の上だ。お前の力を利用しようとしている。俺だけを見ていればいい。俺が守る。絶対に」
握力が強くなった。
ヴィオラの手が、レイの手の中で小刻みに震えた。
レイの言葉は温かい。真剣だ。この人が本気でそう思っていることが、手の温度から伝わってくる。
でも、頭の中からノクスの灰色の瞳が消えない。
お前の孤独が分かる——あの言葉が、耳の奥にある。ノクスは嘘をつけない体質だと、なぜかヴィオラには確信があった。あの目は演技じゃなかった。魔族の王が、傷だらけの手を差し出しながら言った言葉は——本物だった。
レイの握力が強くなるほど、胸の中で二つの感情が引っ張り合う。
レイが好きだ——それは本当だ。
ノクスの悲しみが本物だ——それも本当だ。
どちらも嘘じゃない。どちらも否定できない。
なのにどちらかを選ばなければならない場所に、自分は今立っている。
ヴィオラはレイの顔を正面から見た。その真剣な碧眼を。こんなに傷を負っても前に立ち続けようとする人の顔を。
なのに、正直になれなかった。
「[gentle]……わかりましたわ」
自分の声が、空虚に聞こえた。
18年間練習してきた笑顔を、今夜も作った。唇の端を上げて、目を少し細めて。でも今夜のそれは、これまでより深いところから何かを抑えていた。
レイは少し安心したように、握っていた手を緩めた。
バルデスは何も言わなかった。ただヴィオラの右掌を、一度だけ、静かに見た。
大広間に冷たい空気が流れていた。
神官たちが戻り、足音が遠ざかって、やがて広間は静かになった。白い結界が窓の外でかすかに光っている。もう紫ではない。でも、ヴィオラにはその白さが、少しだけ以前と違って見えた。
右掌を見下ろす。烙印は光っていない。静かだ。でもその静けさは、落ち着いているのではなく——何かをぎりぎりで抑え込んでいるような、そういう静けさだった。
心が、真っ二つに引き裂かれている。
ヴィオラは初めて、その感覚に名前をつけた。これは揺れているのではない。本当に、どちらも本物で、どちらも選べないまま、両方が胸の中に収まっている——それが、痛い。