聖女は二つの愛に揺れる
ヴィオラは18歳の聖女。白い神殿の中で生涯を過ごし、世界を守るために育てられてきた。彼女はこれまで一度も、自分が誰かを愛していると口にしたことはなかった。
ある日、太陽のように明るく温かな英雄レイが神殿にやってくる。彼はヴィオラの瞳をまっすぐに見つめて言った。「どうか、僕と旅をしてほしい、聖女よ。」その率直さは少し怖いほどだ。レイは魔王を倒し、世界に平和をもたらそうとしている。ヴィオラの胸は高鳴った。
その夜、闇の中から魔王ノクスが姿を現す。「僕と来てほしい、聖女。」彼の声は怒りや恐怖とは無縁で、静かで、どこか悲しげだった。「僕のことを理解できるのは君だけだ」と、傷だらけの手を差し伸べる。
レイとノクス、二人の男がヴィオラに求婚した。世界は揺らいだ。英雄と魔王が同じ女性を愛するなんて、かつてないことだった。
レイはいつも彼女のそばにいる。明るく、強く、毎日「君を守る」と告げる。彼といると心が温かい。でも、ヴィオラはノクスのことが頭から離れない――彼の悲しげな瞳、静かな声、そして彼女にだけ見せる不思議な優しさ。
レイはノクスに激怒する。「あいつは悪だ。君を利用している。」ノクス
聖女は二つの愛に揺れる - 窓のない部屋——剥ぎ取られた聖女と、闇から届く声
右手が、まだ震えていた。
あの言葉が、頭から離れない。
——私もない。だから分かる。お前の孤独が。
ヴィオラは朝の祈祷の間に立ちながら、その声を追い出そうとしていた。烏のように黒い短髪が、夜明けの光の中に静かに沈んでいる。信徒たちの顔が前に並んでいる。いつもの三百人。いつもの白い衣。いつもの祈りの声。
——大丈夫。いつも通りにやればいい。
右掌の烙印に、力を通す。
その瞬間だった。
光が、溢れた。
止まらない。制御が、どこかへ消えた。感情がどこかで決壊している。ノクスの灰色の瞳が脳裏に浮かぶ。レイの手の温もりが指先に残っている。どちらも消えない。どちらも払えない——
ドォォォン!!
石柱が根元から崩れた。一本。また一本。粉塵が噴き上がり、天井の石が剥落する。神官の悲鳴。信徒たちが転倒しながら逃げ惑う。三本目の柱が倒れ、その衝撃で祭壇の燭台が吹き飛んだ。
崩れ落ちる石の中で、神官二人が瓦礫に飲まれた。
「やめ——」
両手で光を押さえようとする。でも止まらない。烙印が焼けるように熱い。感情の乱れが力に変わって、自分でも制御できない巨大な何かになっている——
やがて、力が消えた。
静寂。
粉塵の中に、祈祷の間の残骸が広がっていた。崩れた石柱。割れた床。逃げ遅れた信徒が壁に張り付いて動けない。瓦礫の中から神官二人が引き出されていく。一人は肩から血が流れ、もう一人は意識がなかった。
ヴィオラの膝が、折れた。
ガクン、と床に両手をついた。掌に石の粉が刺さる。手が震えている。あたしが、やった——その事実が、頭の中で何度も繰り返した。
――
バルデスが動いたのは、すぐだった。
セラフィーナ聖堂の大広間。長老会の五人が、ヴィオラを取り囲む形で並んでいた。八十近い老体が、しかし誰一人揺らいでいなかった。バルデスは中央に立ち、ヴィオラを正面から見据えていた。白髪、深い皺、灰色の目——その目に今日は、いつもと違う何かがあった。怒りだけではない。恐怖が、そこに混じっていた。
「[cold]魔王の言葉を聞いた時——そなたの右掌が光った」
声が石の天井に響く。
「[cold]心を動かしたのか。答えなさい、ヴィオラ」
ヴィオラは口を開いた。
「動かして——」
その瞬間、頬が熱くなった。
なぜ。なぜ今。体が言葉を先に知っている。声が小さくなる。視線がバルデスから外れる。正面を向こうとするのに、目が逸げる。震えが唇に出た。
五人の長老が、その変化を黙って見ていた。
誰も何も言わなかった。ただ見ていた。沈黙が、ヴィオラの体を全部読んでいく。頬の赤さを。震える声を。視線の逃げ場のなさを。
バルデスが、ゆっくりと息を吐いた。
「[cold]証拠は十分だ」
ヴィオラは唇を噛んだ。歯が、唇の内側に食い込む。自分の体に裏切られた——その屈辱と恐怖が、同時に胸を満たした。
「[cold]聖女権限の一時停止。外出禁止。勇者レイとの接触禁止。三日後、審問を行う」
一拍の間があった。
「[cold]審問で有罪と判断された場合——称号剥奪と、神殿追放」
知識としては知っていた言葉だった。書物で読んだことがあった。聖女戒律第三戒の末尾に書かれている罰則として。
でもその言葉が、自分に向けられた瞬間。
十八年間が、崩れる音がした。
――
神官二人に挟まれて、廊下を歩く。
セラフィーナ聖堂の奥へ。奥へ。石の廊下が細くなっていく。扉が重くなっていく。やがて突き当たりの扉が開いた。
窓がなかった。
四方を石壁に囲まれた、小さな部屋。明かりは天井の小さな魔法灯だけ。ベッドと水差しと、木の椅子一つ。それだけだった。
扉が閉まった。
鍵の音が、石廊下に響いた。
足音が遠ざかる。静寂。ヴィオラは部屋の真ん中に立ったまま、動けなかった。
ここが、どこかすら、よく分からなかった。
――
叫び声が聞こえたのは、しばらく経ってからだった。
「[angry]ヴィオラを解放しろ!! あれは事故だ、彼女を閉じ込める理由がどこにある!!」
石壁を隔てて、声だけが届く。レイだ。その叫びは大広間の方向から来ていた。廊下を踏み鳴らす足音、扉を開ける勢い——全部、音だけがここに届いた。
ヴィオラは壁に近づいた。手を当てる。冷たい石の感触。
「[cold]勇者よ」
バルデスの声が、遠くから聞こえた。
「[cold]お前の感情もまた——聖女を惑わせている原因の一つだ」
沈黙があった。
レイの叫びが、止まった。
次に聞こえたのは、聖堂の外だった。
石壁を殴る音。
一度。二度。三度。そして続く。止まらない。拳が石を打ち続ける鈍い音が、ヴィオラの部屋の壁越しに伝わってくる。振動として。温度として。
レイが、そこにいる。
ヴィオラは壁に額をつけた。
(レイ——)
石壁の向こうに彼がいる。それしか分からない。声を出しても届かない。壁に手を当てても届かない。ただ殴打の音が続いている。それがやがて、湿った音に変わった。
血が出ている——と、ヴィオラには分かった。
それでも音は続いた。止まらなかった。レイという人間の、怒りの全部がそこにあった。
ヴィオラは壁から離れた。石の床に膝をついた。膝が痛かった。でもそれより、胸の方がずっと痛かった。
――
昼が来た。夕方が来た。
夜が来た。
扉から差し込む光が細くなり、やがて消えた。魔法灯の青白い明かりだけが部屋に残る。
扉の前に誰かが来たのは、外が騒がしくなった頃だった。足音が一つ止まった。扉の向こうで、息を潜める気配がある。小さな声が漏れた——「ヴィオラ様……」と。知っている声だった。侍女の一人の声だ。ヴィオラの長旅の準備を手伝ってくれたことのある、あの子の声。
でも、すぐに別の足音が近づいた。
「[cold]戻りなさい。長老会の命令だ」
侍女の足音が遠ざかった。
その騒ぎの気配だけが、ヴィオラにも届いていた。
王都で何かが起きている。石壁の向こうで、自分について何かが決まっていく。称号、居場所、信頼——全部が、自分の手の届かないところで動いている。その感覚が、じわじわと、冷たいものとして胸に広がっていた。
王都ソレイユの酒場や宿で人々が何を話しているか、ヴィオラには知る術がない。でも分かる。昨夜、聖堂の結界が紫に変わったのを見た神官がいた。あの色が、街の誰かの口に入れば——
聖女が魔王に堕ちた。
その言葉が広まっているに違いなかった。
ヴィオラは石の床に膝を抱えて座った。
――
深夜になった。
魔法灯が最も暗くなる時間帯。外からの音も消えた。石壁の部屋には、自分の呼吸の音しかない。
そこに、声が届いた。
低い声。扉も壁も越えて、闇を通って来る。
「[whispers]お前を縛っているものは——女神の言葉じゃない」
ヴィオラの体が固まった。
「[whispers]380年前に、人間が勝手に作った鎖だ」
ノクスだ。あの声だ。物理的な壁を越えて届く、あの低くて静かな声。
ヴィオラは動けなかった。膝を抱えたまま、壁のどこかに目を向けた。声はどこからともなく来ていた。方向がない。闇そのものが喋っているような、そういう届き方をしていた。
「[whispers]お前は——自分の心すら、自分のものにできないのか」
その言葉が、何かを壊した。
静かな一言だった。責めているわけじゃない。嘲笑っているわけでもない。ただ問いかけているだけ。でもそれがひどく、深いところに刺さった。
十八年間守ってきた聖女であることの意味が——崩れていく音がした。
感情を抑えろと言われた。愛するなと言われた。力のために生きろと言われた。誰かを守るために、自分の心を後回しにすることが当然だと、そう思って生きてきた。それが正しいことだと。
「[whispers]……分かって、いますわ」
声が出た。かすれていた。
「[whispers]でも、どうすれば——」
言葉が続かなかった。答えを知らないからじゃない。答えを知っているのに、言葉にする勇気がないから。
ノクスは何も答えなかった。
その沈黙の中で、涙が来た。
止まらなかった。声を立てずに泣こうとしたが、喉から音が漏れた。肩が震えた。手の甲で口を押さえた。でも止まらない。こんなに泣いたのは、いつ以来だろう——
聖女として誰かの痛みに泣いたことはあった。治癒術を使う時に、他者の傷を受け取って流す涙。それは何百回もあった。
でも今流れているのは、自分の痛みだ。
誰の傷でもない。あたし自身の痛みで、あたし自身が膝を折っている。これが初めてだった。十八年間で、初めてのことだった。
レイを想えば、胸が温かくなる。あの焚き火の夜の手の感触。傷を負っても前に立ち続ける背中。本物だ。
ノクスを想えば、胸が痛い。傷だらけの手を差し伸べた灰色の瞳。長い年月の重さを持つ声。それも本物だ。
どちらを認めても、誰かが傷つく。どちらかを否定すれば、あたし自身が嘘になる。
その地獄を、一人で抱えたまま、石の床に崩れた。
――
泣き疲れた。
どれほど時間が経ったか分からない。頬が床についていた。石の冷たさが、頬に染みる。魔法灯の青白い光だけが、部屋を照らし続けていた。
ぼんやりと、頭に浮かぶものがあった。
地下二層の祈祷室。ルミエール地下聖堂の、女神ソレイアの壁画が描かれた部屋。その壁画の隣に、もう一つの絵があった。色が薄れた、古い絵。三百八十年前の聖女の姿。
トワイライト戦役——人間と魔族が八年間戦い、双方合わせて四十万人が死んだ戦争。それを終わらせるために命と引き換えに大結界を張り、暮光の壁を生み出した女性。
書物には、彼女は全てを捧げたとだけ書かれていた。
でも今のヴィオラには、別の問いが浮かぶ。
——あの聖女も、誰かを愛していたのではないか。
愛したからこそ、あれほど強い結界を張れたのではないか。
バルデスが制定した聖女戒律は三百八十年前、トワイライト戦役の直後に作られた。命を捧げた先代聖女の力の源が愛であったなら——愛を禁じた戒律は、何を守っているのか。
まだ答えは出ない。
でも、泣き腫らした目の奥に、小さな何かが灯った。
——愛は、罪ではないかもしれない。
その確信はまだ萌芽に過ぎない。根拠もない。証拠もない。ただ、直感として、そこにある。
三日後に審問が来る。
その日までに、ヴィオラはここで一人、答えを見つけなければならない。石壁の中で、窓もなく、光も届かないこの部屋で。