聖女は二つの愛に揺れる
ヴィオラは18歳の聖女。白い神殿の中で生涯を過ごし、世界を守るために育てられてきた。彼女はこれまで一度も、自分が誰かを愛していると口にしたことはなかった。
ある日、太陽のように明るく温かな英雄レイが神殿にやってくる。彼はヴィオラの瞳をまっすぐに見つめて言った。「どうか、僕と旅をしてほしい、聖女よ。」その率直さは少し怖いほどだ。レイは魔王を倒し、世界に平和をもたらそうとしている。ヴィオラの胸は高鳴った。
その夜、闇の中から魔王ノクスが姿を現す。「僕と来てほしい、聖女。」彼の声は怒りや恐怖とは無縁で、静かで、どこか悲しげだった。「僕のことを理解できるのは君だけだ」と、傷だらけの手を差し伸べる。
レイとノクス、二人の男がヴィオラに求婚した。世界は揺らいだ。英雄と魔王が同じ女性を愛するなんて、かつてないことだった。
レイはいつも彼女のそばにいる。明るく、強く、毎日「君を守る」と告げる。彼といると心が温かい。でも、ヴィオラはノクスのことが頭から離れない――彼の悲しげな瞳、静かな声、そして彼女にだけ見せる不思議な優しさ。
レイはノクスに激怒する。「あいつは悪だ。君を利用している。」ノクス
聖女は二つの愛に揺れる - 炎と星の夜——届かない手と、名前のない感情
バルデスから渡された書状は、ヴィオラのローブの袖の中に折り畳まれたまま入っていた。
旅の範囲の制限が、びっしりと列挙されていた。北方には行けない。暮光の壁には近づけない。聖術暴走の兆候があれば即座に許可を取り消す——あの細かい字体を思い出すたびに、胸の奥にじくりとした重さが滲む。それでも許可は許可だ。今朝、ヴィオラは初めて「一泊する旅」に出る。
王都ソレイユの大門が、後ろで閉まる音がした。
「[gentle]寒くないか」
レイが隣から声をかけてきた。黄金色の短髪が朝の光を弾いて、その碧眼がヴィオラをちらりと確認する。あの真っすぐな目は、大広間で求婚宣誓をした時も、市場を歩いた時も、変わらない。いつでも迷いがない。
「[gentle]大丈夫ですわ。ありがとう」
街道に出ると、空が急に広くなった。神殿の石壁がなければ、こんなに空は大きいのか——毎回思う。足の下の土が、石畳とは違う柔らかさを持っている。少し湿っている。草の匂いがする。書物で読んだ「野外」という言葉が、今また体に入ってくる感覚。
レイは道中ずっと、ヴィオラの隣を歩いた。街道沿いの村を通るたびに、農具を持った村人が手を振る。子どもが走り寄ってくる。レイはその一つひとつに応えながら、ヴィオラに説明した。あの畑は麦だ、収穫は秋だ、あの水車はミレーヌ河の支流を使っている——話し方は短くて断定的だが、声のトーンが穏やかだった。
ヴィオラの緊張が、少しずつほぐれていく。
でも——一度、旅商人の男がヴィオラに道を尋ねてきた時、レイが自然に二人の間に体を割り込ませた。声も出さず、表情も変えず、ただそこに入った。旅商人は少し驚いた顔をして、レイに道を聞き直してから去っていった。
ヴィオラはその動作の素早さを見た。
守ってくれた——そう思う。でも市場の帰り道に騎士を遠ざけたあの目の冷たさが、頭の片隅に、また浮かんだ。
(……どっちが本当のあなたなんだろう)
答えは出ないまま、山の稜線が遠くに見えてきた。ロンティア山脈——エルディナ大陸を南北に縦断する主脈の一部だ。麓に近づくにつれて、道が細くなる。木々が高くなる。空気が少し冷たくなる。
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その声を聞いたのは、山道が岩肌に沿って曲がった先だった。
「誰かっ……助けてください!」
女の声だった。緊張した、でも必死な声。レイが一瞬で足を止めた。ヴィオラも同時に立ち止まる。
岩の影に、人が倒れていた。中年の男性が地面に横たわり、その横に妻らしい女性と小さな子どもが二人、身を寄せ合っていた。男性の脇腹と肩に、布が巻いてある。血が滲んでいる。刀傷だ。
「山賊に……山賊に、やられて」
レイがすでに聖剣カリオンに手をかけていた。
「[serious]ヴィオラ、頼む」
短い言葉だった。それだけで全部わかった。ヴィオラはすぐに男性のそばに膝をついた。右掌を傷口の上にかざす。
烙印が光る。
次の瞬間——痛みが来た。
刃物が肉に入った感触。鈍い、重い、引き裂かれるような痛みが、ヴィオラの右脇腹に流れ込む。思わず奥歯を噛んだ。唇が内側から割れそうになる。でも手は動かさない。光を保つ。感情を平らにする。痛みだけを受け取って、流す。
その間、背後でガキンという金属音がした。
振り返る余裕はなかった。でも聞こえた——剣が空気を切る音、重い足音、それから山賊らしき男の怒声が一つ、そして短い衝撃音。沈黙。また剣音。また沈黙。
それが繰り返されて、やがて全部止まった。
男性の傷が塞がっていく感触がした。痛みが薄れる。光が落ち着く。ヴィオラは深く息を吐いた。手が少し震えている。右脇腹のあたりに、まだ鈍い残痛がある。
「[gentle]もう大丈夫ですわ」
妻が泣きながら夫に触れた。子どもが父親の顔をのぞき込む。男性が目を開けた。
「[gentle]怪我は」
いつの間にかレイがすぐ後ろに立っていた。聖剣は鞘に収まっている。山賊たちの姿はなかった。逃げたのか、退散したのか——どちらにしても、この場にはもういない。
ヴィオラは首を振った。
「[gentle]大丈夫ですわ」
レイの碧眼が、ヴィオラの右手を見た。少し赤くなっている指先を。何か言おうとした顔をしたが、何も言わなかった。
ヴィオラはその沈黙の中で、少し前に感じた引っかかりとは全く別のことを思っていた。
レイが山賊たちを追い払っていた間も、ずっとヴィオラの近くにいた気配がした。背後に立っていた。退路を守るように。ヴィオラが治癒に集中できるように。
この人は本当に、守ることに迷わない人だ——そう思った時、胸の奥で何かが静かに、確かな形をとった。
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日が傾いてきた頃、山の斜面にテントを張った。
焚き火を起こすのはレイが担当した。枝を集めて、火打ち石を使って、淡々と作業をする。その手の迷いのなさは戦いの時と同じだった。あっという間に火が起きる。山の夜は冷えるから、炎のそばは温かかった。
しばらく二人で炎を見ていた。
ロンティア山脈の中腹から見下ろすと、はるか南にソレイユの灯りが小さく見える。白亜の聖堂のある街。自分が生まれてからずっといた場所。こんなに遠くから見るのは初めてだった。小さい。あんなに大きかったのに、ここからは親指ほどしかない。
「[serious]……カリオンを引き抜いた日のこと、覚えてるか」
静かな声だった。
ヴィオラは顔を向けた。レイは火を見たまま話していた。
「[serious]台座から剣が抜けた瞬間、光が出た。すごい光だった。周りにいた人間が全員、声を上げた。俺だけが——何も言えなかった」
炎が揺れた。薪がぱちりと音を立てる。
「[serious]剣が手の中に収まって。その重さを感じた瞬間、世界の全部が自分の肩に乗ってきた気がした。国中の人間の期待が。魔王を倒せっていう声が。本当に怖かった」
ヴィオラは何も言わなかった。言えなかった。
「[serious]でも逃げたくなかった。誰かが守らなければって、そう思った。それだけだ」
最後の言葉は、静かすぎるくらい静かだった。
ヴィオラは炎を見ながら、自分の右手を見下ろした。烙印が、ほんのり光っている。
聖女として神殿に生まれた瞬間から、世界の均衡を背負わされてきた。誰に選ばれたわけでもなく、ただ右手に光の烙印が現れたという理由だけで。感情を抑えろと言われた。愛するなと言われた。18年間、そうしてきた。
同じ重さを知っている人間が、ここにいる。
その事実が、じわりと胸に染みた。
気づけばヴィオラは手を伸ばしていた。レイの手の甲に、そっと触れた。
レイの動きが止まった。
ヴィオラも止まった。
火の音だけが続いていた。レイがゆっくりと顔を向ける。その碧眼が丸くなっていた。頬が——赤い。炎のせいではない色が、そこにあった。
二人の間の沈黙が、言葉より深く何かを伝えていた。
その瞬間だった。
ヴィオラの指先から、微かな光が滲み出た。
ソレイア聖術の光——淡く、白く、制御を外れた揺れ方をしている。暴走の予兆だ。感情が揺れると力が乱れる。わかっていた。でも今この瞬間まで、自分の胸がこれほど大きく動いていることに気づいていなかった。
ヴィオラは素早く手を引いた。
光が消える。
レイは気づいていない。ただ赤い顔のまま、少し照れたように視線を星空に逃がしていた。
ヴィオラは自分の手を膝の上に置いた。指先がまだ温かい——レイの手の温度が残っている。それと同時に、自分の胸の奥がひどく怖かった。
(あたしの心が揺れると、力が乱れる)
バルデスが言っていた言葉が、頭の中で繰り返す。感情の乱れを正してください。それが分かっているのに、今夜のヴィオラには、その「乱れ」を止める気がまるで起きなかった。
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焚き火が落ち着いた深夜、レイはテントの中で眠っていた。
ヴィオラは眠れずにいた。
空を見上げる。星が多い。王都の上空よりずっと多く見える。街の灯りがない分、夜空が深い。ロンティア山脈の空気は冷たくて、吐く息が白くなる。膝を抱えて、毛布を肩にかけた。
しばらく静かだった。
それから——聞こえた。
旋律、というより感覚。北方から、風に乗って来る何か。低くて、悲しくて、胸を締めつける。王都ソレイユの神殿の裏庭で聞いた、あの音と同じものだ。でも今夜は神殿からではない。山の中にいる。それでも届く。
ヴィオラは右手を胸に当てた。
レイの手を握った時の温かさが、まだそこにある。確かな感触で。それと——この旋律が胸に刺さる感覚。
全く違う種類のものだ。
どちらも嘘ではない。どちらも自分の中から来ている。レイへの温かさと、この旋律への何か。その「何か」には名前がない。誰に向けられているかも、まだ分からない。分からないまま、それはここにある——ヴィオラの胸の奥で、確かに動いている。
ヴィオラは膝を抱えなおした。
旋律が、静かに遠ざかっていく。
どちらの感情も、今夜は答えが出なかった。
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翌日の帰路、山道を抜けてロンティア山脈の北端に近い場所まで来た時、ヴィオラの目が止まった。
遠くの空の色が、少し変わっている場所がある。
暮光の壁——トワイライト戦役後に張られた大結界だ。帯状の薄紫色の光が大陸北部を横断している。王都ソレイユから北東へ260キロ、辺境都市リヴァルドを越えてさらに北へ20キロの場所。その光に、細い線が走っていた。
亀裂だ。
人ひとりが通れるかどうかというほどの細さ。でも確かにそこにある。帯状の薄紫の中に、一本の傷みたいに、光が欠けている。
ヴィオラは足を止めた。
書物で読んだことがある。暮光の壁は聖女の命と引き換えに張られた結界だ。壁が朽ちれば、人間も魔族も共倒れになりかねない——。これは報告しなければならない。バルデスに。長老会に。すぐに。
そう思った瞬間、前を歩いていたレイが振り返った。
満面の笑顔だった。
「[excited]今日はどうだった。初めて野外で一泊しただろう」
屈託がない。昨夜の焚き火の赤い顔はどこへ行ったのか、今のレイは普段通りに明るい。
「[gentle]またいつでも来よう。絶対に」
その笑顔の前で、ヴィオラは口を開けなかった。
壁の亀裂のことを言おうとした。でもレイの笑顔が、言葉を飲み込ませた。
昨夜の旋律のことも言えない。聖術が暴走しかけたことも言えない。そして——あの亀裂のことも。
ヴィオラはただ頷いた。
「[gentle]……そうですわね」
笑顔を作った。唇の端を上げて、目を少し細めて。18年間、それを練習してきた。穏やかに見せることを。感情を内側に収めることを。
レイが前を向いて歩き出す。その背中を見ながら、ヴィオラは一歩遅れてついていった。
三つの秘密を胸に抱えたまま、王都への石畳の道を歩く。右掌の烙印が、誰にも見えないほど微かに揺れていた。