聖女は二つの愛に揺れる
ヴィオラは18歳の聖女。白い神殿の中で生涯を過ごし、世界を守るために育てられてきた。彼女はこれまで一度も、自分が誰かを愛していると口にしたことはなかった。
ある日、太陽のように明るく温かな英雄レイが神殿にやってくる。彼はヴィオラの瞳をまっすぐに見つめて言った。「どうか、僕と旅をしてほしい、聖女よ。」その率直さは少し怖いほどだ。レイは魔王を倒し、世界に平和をもたらそうとしている。ヴィオラの胸は高鳴った。
その夜、闇の中から魔王ノクスが姿を現す。「僕と来てほしい、聖女。」彼の声は怒りや恐怖とは無縁で、静かで、どこか悲しげだった。「僕のことを理解できるのは君だけだ」と、傷だらけの手を差し伸べる。
レイとノクス、二人の男がヴィオラに求婚した。世界は揺らいだ。英雄と魔王が同じ女性を愛するなんて、かつてないことだった。
レイはいつも彼女のそばにいる。明るく、強く、毎日「君を守る」と告げる。彼といると心が温かい。でも、ヴィオラはノクスのことが頭から離れない――彼の悲しげな瞳、静かな声、そして彼女にだけ見せる不思議な優しさ。
レイはノクスに激怒する。「あいつは悪だ。君を利用している。」ノクス
聖女は二つの愛に揺れる - 砕けた腕輪と朝の光——私はまだ、答えを出していない
腕輪の欠片が、まだ足元に散らばっていた。
白く光る粉末が、石床の上でかすかに輝いている。夜明けの光が崩れた天井の隙間から差し込んで、粉末を橙色に染めていた。ヴィオラはその光景をぼんやりと見ていた。右掌の烙印が、静かに熱を持っている。暴走はしていない。制御もしていない。ただ、そこにある。あたし自身のものとして。
ゴトン、と重い音がした。
壁際に崩れていたバルデスが、ゆっくりと体を起こしていた。七十八年分の重さが、その一動作に全部乗っているように見えた。白髪が乱れ、法衣の肩に血が滲んでいる。でも目が開いていた。その灰色の目が徐々に焦点を取り戻し——散らばった腕輪の欠片を見た。ヴィオラの右掌を見た。レイとノクスの両方を、順番に見た。
老神官の口が、ゆっくりと開いた。
「[cold]……聖女戒律、第三戒」
声が震えていた。怒りではなかった。それが余計に、ヴィオラの胸を締めつけた。
「[cold]そなたは自ら、戒律を破った。もはやお前は——聖女ではない」
いつもと同じ言葉の形をしていた。でも違った。声の底に、初めて確かな動揺が混じっていた。このバルデスが、七十八年生きて、初めて迷っているように聞こえた。
ヴィオラの膝が、震えた。
立ち上がろうとして、一度よろけた。石床に手をついて、息を整える。右掌の烙印が温かい。その熱が、背筋を通って足先まで伝わる。
——立てる。
ゆっくりと、立ち上がった。
バルデスの目を、まっすぐに見返した。初めてだった。十八年間、この人の目を正面から見たことがなかった。怖かったから、ではない。自分が間違っているかもしれないと思っていたから。でも今は違う。
「[serious]……バルデス様」
声が震えていた。それでも続けた。
「[serious]あの戒律は、女神ソレイア様の言葉ではありませんわ」
バルデスの眉が、かすかに動いた。
「[serious]三百八十年前——トワイライト戦役が終わった直後に、人間が作ったものです。四十万人が死んだ恐怖の中で、二度とあんな戦いが起きないようにと。その気持ちは分かります。でも」
ヴィオラは右掌を、バルデスに向けて開いた。烙印が静かに光っている。
「[serious]あたしが心を偽っていた時、力は弱まりました。誰の痛みにも触れられなかった。でも昨夜——心を解放した時、力は輝きました。魔獣を消し、レイさんの傷を癒やし、ノクス様の呪紋の侵食を止めた。これが答えだと思います」
声は小さかった。でも揺れていなかった。
バルデスの唇が開きかけた。しかし言葉が出てこなかった。隣に立つ長老たちも、誰も口を開かなかった。この場の全員が昨夜の光を目の当たりにしている。白光が聖堂を包み、魔獣の群れを消し去った、あの圧倒的な輝きを。それを自分の目で見ておいて、反論できる言葉を誰も持っていなかった。
長い沈黙が落ちた。
バルデスは最終的に、目を逸らした。
「[cold]……称号停止は、撤回しない」
かすれた声だった。
「[cold]しかし、追放も……今は執行しない」
それだけ言って、神官に支えられながら退室した。他の長老たちも、無言で続いた。誰もヴィオラを見なかった。認めることも、否定することも、今のバルデスにはできなかった——その事実が、ヴィオラには分かった。
扉が閉まった。
ヴィオラは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ヴィオラ」
横から声が来た。
レイが一歩近づいてきた。昨夜の傷は聖術で塞がっているが、黄金色の髪にまだ血の跡が残っている。碧眼が、ヴィオラをまっすぐに見ていた。その目の奥に、何か痛いものがあった。
長い沈黙だった。
レイは拳を一度、強く握った。指先が白くなるほど。唇も、一度強く噛まれた。
「[sad]……俺は、お前だけを見ていてほしかった」
低い声だった。感情を抑えようとしているのに、それでも滲み出ている声だった。
言葉が落ちた後の空気が重かった。ヴィオラは何も言えなかった。ごめんなさい、とも、ありがとう、とも言えなかった。どちらも嘘になる気がした。
レイはヴィオラから目を逸らさなかった。
「[serious]でも——俺はまだ諦めない」
声が変わった。痛みを飲み込んで、それでも前を向く声に。
「[serious]正々堂々と、お前の心を勝ち取ってみせる。それだけだ」
ヴィオラの胸の奥が、じわりと痛んだ。
レイへの温かさは消えていない。この人の必死さが、今この瞬間、また心を揺さぶっていた。でも同時に——自分はまだ一人を選べないという事実も、変わっていなかった。どちらも本物だから。どちらも否定できないから。
ヴィオラが何かを言おうとした、その時。
静かな足音が近づいてきた。
ノクスだった。
灰色の瞳が、静かにヴィオラに向けられている。昨夜の闇紋術の余韻がまだ左腕に残っているのか、呪紋の線がかすかに脈打っているのが見えた。顔色は蒼白に戻っていたが、昨夜よりは幾分ましだった。
ノクスはヴィオラの前で足を止めた。
傷だらけの指先が、ヴィオラの頬に触れた。
冷たかった。
涙の跡を、静かに拭った。ヴィオラはその冷たさを、頬の上でしばらく感じていた。
「[gentle]……お前は強い。私が思っていたよりずっと」
声は低く、いつもと変わらない静かな調子だった。感情の起伏が少ない、あの声。でも続く言葉に、重みがあった。
「[gentle]だが、まだ終わりじゃない。暮光の壁が崩れかけている。世界は——まだ壊れる途中だ」
ノクスの指が離れた。
その瞬間、ヴィオラの目がノクスの左手首に止まった。
腕輪だった。
呪紋の侵食を抑えていた、あの黒い腕輪。その表面に——深いヒビが入っていた。一本ではなかった。放射状に広がる細かい亀裂が、腕輪全体を覆い始めていた。昨夜の戦いで、無理に闇紋術を使い続けた代償が、そこに刻まれていた。
ノクス自身は、それを口にしなかった。
ヴィオラだけが、その事実を見た。
胸の奥で、何かが冷たく落ちた。腕輪が完全に砕けた時、呪紋の侵食が暴走する——それがノクスの命に直結することを、ヴィオラは知っていた。レイとの会話の中で、一度だけ聞いたことがあった。
でも今は、何も言えなかった。
——
レイとノクスが、互いを見た。
二人の視線がぶつかった。敵意が、空気に満ちた。同じ戦場で並んで戦ったのに、それでもこの二人の間には越えられない何かがある。剣を抜くことはなかった。でも、目が語っていた。お互いに、相手を認めていない。認めたくない。
ヴィオラは、二人の間に一歩踏み出した。
右手を、レイに向けて伸ばした。
左手を、ノクスに向けて伸ばした。
レイの手が、温かく、その手を包んだ。ノクスの手が、冷たく、その手を受け取った。
「[serious]……あたしはまだ、答えを出していませんわ」
静かな声だった。
「[serious]でも、一つだけ分かったことがあります。自分の心から逃げたら——誰も救えない」
レイの唇が、ぎゅっと噛まれた。ノクスの目が、かすかに細くなった。
二人とも、ヴィオラがどちらかを選んだわけではないと分かっていた。でも二人とも、その手を振り払うことができなかった。
崩れた石の隙間から、朝日が差し込んできた。橙色の光が石床を照らし、ヴィオラの右掌の烙印をまっすぐに当てた。烙印は静かに、しかし確かに輝いていた。暴走もなく、抑圧もなく。ただそこに、あたし自身のものとして、光っていた。
——
人々が去った後、ヴィオラは一人で崩れた聖堂の中に残った。
足元を見た。腕輪の欠片がまだそこにある。白い粉末が、朝日の中でかすかに光っている。ヴィオラはその一欠片を拾い上げて、手のひらに乗せた。
黒い欠片が、右掌の烙印のすぐ隣に乗った。
光は欠片を染めなかった。欠片は光を跳ね返さなかった。ただ静かに、同じ手のひらの上に並んでいた。光と闇が、同じ場所に。
それが今のあたしの全部だと思った。
侍女が一人、恐る恐る近づいてきた。聖堂の修繕をどうするかを、おそるおそる尋ねてくる。
ヴィオラは少し考えてから答えた。
「[serious]まず、リヴァルドの暮光砦に報告を送ってください。壁の亀裂が広がっています——それが先です」
侍女が頷いて、足早に去った。
暮光の壁の亀裂は広がっている。長老会はまだヴィオラを認めていない。称号は停止されたままだ。そしてノクスの腕輪には、深いヒビが入っている。全部が未解決で、全部がこれからも続いていく。
ヴィオラは立ち上がった。
崩れた廊下を歩き始めた。石の床に朝日が落ちて、光の筋が足元を照らしている。その光の中を、自分の足で歩く。自分の意志で、次に何をすべきかを考えながら。
バルデスが口を開けなかったことは——初めてのことだった。七十八年生きたあの老神官が、言葉を失った。それは小さな変化かもしれない。でも確かにある変化だった。
手のひらの上の黒い欠片を、ヴィオラは指でそっと閉じた。
捨てなかった。