ぜんぶ逆さま! スターレイル・ジェンダーパニック
「ハーモニー・オブ・ザ・スフィア」――それは、ある日ふとアストラルエクスプレスに転がり込んできた謎の球体の名前だった。
カエルスがそれを手に取った瞬間、光を放ち――次の瞬間、エクスプレス全体が大混乱に陥った。すべての男性キャラクターは女性に、すべての女性キャラクターは男性に変わってしまったのだ。
カエルス(仲間内で密かに「カエルス子」と呼ばれているが、彼女は激しく否定している)は鏡の前で固まった。長い黒髪、丸みを帯びた瞳、小さくなった手。完全に女の子だった。叫ぼうとしたが、声は高くなってしまい、それが何よりも最悪だった。
冷静さを誇るダン・ヘンは「なるほど」と一言だけ言い放ち、しかし自分の髪が腰まで伸びていることに気づくと、完全に無音の悲鳴を上げた。
男の姿になったブローニャ・セルノフは、にこやかに「実は結構かっこいいかも?」と観察していた。彼女だけが笑顔で、他のメンバー全員から一斉に冷たい視線を浴びることになった。
ナターシャ・ブルツァクは医者として調査を試みたが、若々しい男性の姿になったことで誰も彼女の医療アドバイスを真剣に受け取らなかった。彼女にとっては散々な一日だった
ぜんぶ逆さま! スターレイル・ジェンダーパニック - 鏡を覆う布と、止まらない鼓動
胸が、うるさい。
ドクン、ドクン。
布を一枚はさんでいるのに、鏡の存在を感じる。パーネス号8号車。カーフ・ルメーナの部屋は、いつもと同じ木目調の壁に囲まれていた。真鍮の飾りがついた小さなランプ。狭いけれど整然としたベッド。そして——鏡。
ぜんぶ同じなのに、ひとつだけ違う。
鏡に、布がかかっている。
カーフは布の端を、ちょっとだけつまんだ。少しだけ、ほんの少しだけ、めくる。
映っていたのは、見慣れない顔だった。
丸くて明るい茶色の瞳。長い黒髪がゆるくうねって肩から胸元まで落ちている。細い体。小さな手。パーネス号の探索用ジャケットが、なんとなくサイズが合ってない気がする。軽装の宇宙ブーツだけはいつもと同じだけど、それでもどこか……ちぐはぐだ。
女の子だ。どう見ても、女の子。
「[angry]……は?」
高い声が出た。それがまたショックで、カーフは布を勢いよく引き戻した。
ため息が漏れる。
数日前のことを思い出す。列車の廊下を歩いていたら、どこからかコロンと転がってきたやつがいた。直径8センチくらいの球体。表面に、星図みたいな細かい紋様が浮かんでいる、きれいな宝玉だった。
拾った。それだけだ。
次の瞬間、キラッと光って——パーネス号の全員が変わった。
ハーモニー・オブ・ザ・スフィア。あとで調べてわかった名前。古代のアミュレットの一種で、製造者も製造時期もまったく不明。そして触れた者の「心の中でいちばん気になっている相手」に反応して光るらしい、という性質。
カーフは布の端をぎゅっと握った。
(心の中で、いちばん気になっている、相手)
ちがう。ちがうちがう。絶対ちがう。
べつにそんな相手なんていない。ただ拾っただけだ。たまたま反応しただけだ。うっかり光っただけだ。絶対そう。
カーフは深呼吸して、部屋を出た。
――――――
食堂車は5号車にある。
パーネス号の廊下を歩いていると、木目調の壁と真鍮の手すりが続く。全長220メートルの列車のうち、居住区は7号車から9号車あたり。この辺は乗員同士がよくすれ違う場所だ。
今日は——なんか、妙にざわついてる。
食堂車の扉を開けた瞬間、カーフは足を止めた。
いつもと違う声がいくつも飛び交っている。自動調理機がいつもどおりパンを焼いているのに、なんか雰囲気がおかしい。座席20席のうち、何席かに見慣れないような見慣れているような人たちが座っていた。
みんな、カーフと同じ状況だ。
白衣を着た若い男性が、データパッドを前に難しい顔をしていた。ナターシャだ。いつもは落ち着いた女性医師なのに、今は「若手の新米お兄さん」にしか見えない。向かいの席の患者らしき乗組員が、なぜかそわそわしている。
「[serious]これを見てください。症状の記録をまとめました」
低い声。本人にとって相当慣れてないはずの声で、ナターシャはデータパッドを差し出した。
乗組員は目を泳がせた。
「[scared]え、あの、先生……ってことですよね?」
「[cold]そうです。ナターシャ・ブルツァクです。信じてもらえないのは困ります」
つらそうだった。カーフは心の中でちょっとだけ同情した。
窓際の席では、男の子の姿になったブローニャが、コーヒーを飲みながらニコニコしていた。いつも穏やかで、資料室の管理もきっちりこなす人なのに、今は短髪でがっしりした体格になっている。なのに表情だけはいつもと変わらない。
「[excited]これはこれでかっこいいかもしれませんね」
誰かが向こうから「お前だけなんで楽しそうなんだ」と言っていた。
カーフは自動調理機からパンを一個とって、端の席に座った。パン1個、3ルーク。パーネス号の食事代は安い。食べながら、食堂車を見渡す。
みんな、混乱してる。
それが——カーフのせいだ。
パンの味が、あまりしなかった。
(私が触ったせいで、全員こうなった)
わかってる。アミュレットの拾得者責任、という慣習がある。宇宙各地に存在する古代のアミュレットを見つけた者は、効果が解除されるまで管理する義務がある。放棄したり壊したりすると効果が永続化する、という言い伝えもある。だから宝玉は手放せない。ケースに入れても、なぜかケースから転がり出てくる始末だ。
全部、カーフが拾ったところから始まった。
(私が何とかしないと)
パンを全部食べきって、立ち上がった。
――――――
3号車の資料室は狭い。
蔵書約1200冊が壁一面に並んでいて、真鍮のランプが温かい光を落としている。ブローニャが管理しているせいか、本の並びはきっちり整っている。カーフはその棚の前に立って、片っ端から背表紙を確認した。
アミュレット。古代遺物。ハーモニー・オブ・ザ・スフィア。
一冊引き出す。パラパラ読む。関係ない。戻す。次の一冊。また関係ない。戻す。
窓の外を、星が流れていった。パーネス号が今航行しているのはヤルーロ宙域——直径約120光年の範囲に有人惑星が7つ点在する宙域だ。星間軌道と呼ばれるエネルギーの道に沿って列車が走っている。窓からは、その軌道がうっすら光の線として見えることがある。今もかすかに白い光が窓枠の外を流れていた。
カーフはその光を一瞬だけ見て、また本に戻った。
誰かに相談する、という選択肢は最初から頭になかった。
なんでかは、わからない。昔からそうだ。家族を失った日のことを、ときどき思い出す。小惑星探査の事故だった。一瞬のことで、何もできなかった。何もできなかった自分に気づいてから——弱さを見せたら終わり、って思うようになった。泣いても、誰かに頼っても、失ったものは戻らなかった。だったら、自分でやるしかない。
それ以来、ずっとそうしてきた。
本を一冊、また引き出した。
そのとき、目に入った一行があった。
——ベリドット星リルケノート、ヴェステル大書院。アミュレット専門家在籍。
カーフはその行を指でなぞった。一度だけ読み直した。それで決めた。
ベリドットに行く。そこで調べる。元に戻す方法を見つける。
本を棚に戻して、資料室を出た。誰にも言わずに。
――――――
操舵室は1号車だ。
先頭車両まで歩くと、いつもより廊下が長く感じる。星図ホログラムが常時展開されている操舵室のコンソールの前に立って、カーフはベリドット星への航路を入力し始めた。ここから星間軌道を使って約5日。ヴェステル大書院に専門家がいる。大丈夫だ。何とかなる。
コツン。
足元で何かが当たった。
見ると、球体が一個、コロコロと転がってきて、カーフのブーツに当たって止まっていた。
宝玉だ。
ハーモニー・オブ・ザ・スフィア。11号車の貨物車の耐衝撃ケースに入れておいたはずなのに、またここまで転がってきた。表面の星図紋様が、薄い光をじわっと放っている。
カーフの胸が、ドクンと大きく跳ねた。
(また、光ってる)
宝玉の性質が頭に浮かぶ。心の中でいちばん気になっている相手に反応して、光る。
(まさか。また誰かのことを……?)
「[serious]……偶然だ」
声に出して言った。高い声が操舵室に響いた。
宝玉はすぐに光をやめた。でもカーフの鼓動は、しばらく収まらなかった。胸の奥で何かがじくじくと脈打ち続けている。コンソールの画面に手を置いても、指先がかすかに震えていた。
(絶対に偶然だ。あの宝玉、感度が高すぎる。ちょっとしたことで反応してるだけだ。私には気になる相手なんていない。いない、いない、絶対いない)
航路の入力を再開した。数値を打ち込む手がいつもより不器用だった。ミスタイプして、消して、もう一度打ち直す。
なんでもないのに、鼓動だけがうるさかった。
――――――
10号車の展望ラウンジは、天井がぜんぶガラス張りだ。
ソファが6脚と、小さなカウンターバー。今は誰もいない。カーフは一番端のソファに座って、頭を後ろに傾けた。
星空が広がっている。
ヤルーロ宙域の星々は、地球の夜空よりずっと近く、ずっと多い。白い光、青い光、ぼんやりとした光の帯。その中を、パーネス号の星間軌道がかすかな光の線として続いている。窓ガラス越しに、軌道の光がわずかに揺れて見えた。
きれいだとは思う。でも今は、あんまりそれどころじゃない。
「[serious]べつに、誰のことも好きじゃない」
声に出して言った。誰もいない部屋に向かって。
自分に言い聞かせるみたいに。
でも——頭の中に、ちらっと顔が浮かんだ。
操舵を時々一緒にやる、あの人。いつも涼しい顔をしていて、余計なことはあんまり言わなくて、でもなんか……気になる。なぜか目で追ってしまう。さっき操舵室でコンソールを触っていたとき、「いつもここで操舵してるよな」ってなんとなく思った。それだけだ。それだけのはずだ。
(ちがう。ただそれだけだ)
振り払おうとした。でも消えない。
「[angry]だから、好きじゃないって言ってるんだって」
また声に出して言ったら、自分の高い声にまたびっくりした。こんな声、まだ慣れない。変わる前はもう少し低かったのに。
ため息をついて、膝を抱えた。
ガラス天井の向こうで、星が流れた。流星か、それとも軌道虫——レイルワームと呼ばれるエネルギー体生物が軌道に触れた光か。どっちかわからない。でも、細い光の線がすっと消えていった。
カーフはそれをぼんやり見ていた。
(元に戻る方法は「自分の気持ちに正直になること」、らしい)
調べたときに出てきた情報だ。でも詳細はわからない。どうやったら「正直になった」ことになるのか。誰かに言葉で言えばいいのか。ただ自分の中で認めればいいのか。まったくわからない。
それに——そもそも「気持ち」なんてない。ないんだから、正直になりようがない。
ドクン。
またうるさい。
カーフは膝に顔を埋めた。暗くした視界の中で、鼓動だけが響いていた。否定して、打ち消して、また顔が浮かんで、また否定する。それを何度も繰り返していたら、窓の外の光が少し変わった気がして、顔を上げた。
星の流れ方が、さっきとは違う。
ベリドット星への航路、ちゃんと入力できてたかな。少し心配になってきた。明日確認しよう。リルケノートのヴェステル大書院、院長はトビアス・ケルンという老学者らしい。愛想は悪いけど知識は一級品、と文献にあった。うまく話を聞けるかどうか。入館料は5ルークで、蔵書8万冊——
そのとき。
足元で、かすかに光った。
「[surprised]っ」
宝玉だ。いつの間にかラウンジの床に転がっていた宝玉が、淡い光を放っている。またさっきと同じ光だ。でも今度は、ちょっと違う。さっきより、光が長く続いている。
カーフは立ち上がった。宝玉から視線を外して、ラウンジの入り口を向いた。
廊下が続いている。
誰もいないはずの廊下。
でも——足音が聞こえる。
コツ、コツ、コツ。ゆっくり、でもはっきりした足音が、こちらに近づいてくる。
宝玉の光が、足音に合わせるように揺れた。
カーフの鼓動が、また大きくなった。
足音は、近づいてくる。