ぜんぶ逆さま! スターレイル・ジェンダーパニック
「ハーモニー・オブ・ザ・スフィア」――それは、ある日ふとアストラルエクスプレスに転がり込んできた謎の球体の名前だった。
カエルスがそれを手に取った瞬間、光を放ち――次の瞬間、エクスプレス全体が大混乱に陥った。すべての男性キャラクターは女性に、すべての女性キャラクターは男性に変わってしまったのだ。
カエルス(仲間内で密かに「カエルス子」と呼ばれているが、彼女は激しく否定している)は鏡の前で固まった。長い黒髪、丸みを帯びた瞳、小さくなった手。完全に女の子だった。叫ぼうとしたが、声は高くなってしまい、それが何よりも最悪だった。
冷静さを誇るダン・ヘンは「なるほど」と一言だけ言い放ち、しかし自分の髪が腰まで伸びていることに気づくと、完全に無音の悲鳴を上げた。
男の姿になったブローニャ・セルノフは、にこやかに「実は結構かっこいいかも?」と観察していた。彼女だけが笑顔で、他のメンバー全員から一斉に冷たい視線を浴びることになった。
ナターシャ・ブルツァクは医者として調査を試みたが、若々しい男性の姿になったことで誰も彼女の医療アドバイスを真剣に受け取らなかった。彼女にとっては散々な一日だった
ぜんぶ逆さま! スターレイル・ジェンダーパニック - 揺れる列車と、つないだ手のこと
昨夜のことが、まだ頭に残っていた。
ダン・ヘンが「そうか」と言って出ていった時の背中。その横顔に隠れていた何か。カーフは起きてすぐにそれを頭から振り払おうとして——うまくいかなかった。
(べつに関係ない。昨夜のことは昨夜のことだ)
自分にそう言い聞かせながら、カーフはジャケットの前を合わせて部屋を出た。航行4日目の朝。ベリドット星まであと1日ちょっと。今日はきちんと操舵室で軌道を確認して、何事もなく過ごす。それだけだ。
ところが。
1号車への廊下を歩いていると、パーネス号の床が、ぐらっと揺れた。
「——っ」
手すりを掴む。揺れが収まらない。廊下の照明がわずかに明滅した。床からの振動が足の裏を伝ってくる。低い、うなるような音が列車全体に響いている。
(軌道が乱れてる!)
カーフは手すりを離して走り出した。
――――――
操舵室に飛び込むと、星図ホログラムが乱れていた。
青白い軌道の線がぶれて、エラー表示が操作パネルのあちこちで赤く点滅している。ヤルーロ宙域を抜ける直前の区域——空白域「ヴォイド・リフト」の縁に差しかかったのだ。星間軌道が不安定になる、ベリドット星への道で最も揺れる区間。
カーフは操作席に座って手動制御モードを立ち上げた。右手でスラスタ出力を落とす。左手で軌道追従パラメータを調整する。でも画面のエラーが次々と増えていく。補助軸がずれた。推進角度が±5度以上ぶれてる。両手が足りない。
「[serious]補助軸、右に10度」
声に出したのは、独り言のつもりだった。
カシャン。隣の操作席に、誰かが座った。
見なくてもわかった。
腰まで届く銀色の髪が視界の端に入った。ダン・ヘンだった。走ってきたのか、息が少しだけ乱れている——でも顔はいつも通り、静かだ。補助軸のパネルに手を伸ばして、言われた通りに操作した。
カーフはほんの一瞬、そちらを見た。ダン・ヘンも一瞬だけ、こちらを見た。
目が合った。二人とも、すぐ画面に戻した。
「[serious]推進角度、補正かける」
「[serious]了解」
言葉は最小限だった。それだけで十分だった。カーフが数値を読み上げる前に、ダン・ヘンの手が動いている。カーフが気づいたエラーを、ダン・ヘンはもう直している。逆に、カーフが追いつけない左側のパネルをダン・ヘンがカバーしている。
(…………合ってる。動きが、合ってる)
変なことに気づいてしまった。カーフが思う前にダン・ヘンが動く。ダン・ヘンが動く前にカーフの手がそこへ伸びる。なんか、ずっと一緒に操舵してきたみたいな動き方をしている。
列車の揺れが、少し弱まってきた。
そのとき。
ドタドタドタ、と床を転がる音がした。
二人が同時に振り返った。
廊下から転がり込んできた球体が、操舵室の中央でくるりと一回転して——止まった。
宝玉だ。
ハーモニー・オブ・ザ・スフィア。貨物車の耐衝撃ケースに入れておいたはずが、また転がり出てきた。揺れに乗ってここまで来たのか。表面の星図紋様が、じわりと光り始めた。いつもより強い光だった。これまで見た中で、いちばん強いかもしれない光だった。
操舵室の照明が、一斉に点滅した。
そして——全部、落ちた。
真っ暗。
「[serious]非常電源が——」
声が途切れた。照明が完全に消えている。星図ホログラムも落ちた。窓から入る宙域の光だけが、わずかに青白く部屋を満たしていた。カーフはコンソールの前で手を止めた。暗い。暗い。
頭の中で、何かが引っかかった。
——宇宙。暗い宇宙。何も見えない。声も届かない。どこにいるかもわからない。あの夜、小惑星探査船の事故で——家族がいなくなった夜、一人で宇宙服の中にいた。どこを向いても真っ暗で、声を出しても誰にも届かなくて、そのまま永遠に漂流するのかと——
カーフの手が、震えた。
「[whispers]……また、一人だ」
声になってしまった。小さかったけれど、静かな暗闇の中ではっきり聞こえた。カーフ自身、言うつもりじゃなかった。でも出てしまった。操作する手が止まった。コンソールの前で、体が固まった。
そのとき。
カーフの両手が、気づかないうちに動いていた。ダン・ヘンの腕を、掴んでいた。両手で、しっかりと。
(あ——)
気づいたときには、もう遅かった。
ダン・ヘンは、振り払わなかった。
何も言わなかった。「大丈夫か」も「何してる」も言わなかった。ただ、静かに——カーフの手に、自分の手を重ねた。指が、絡んだ。
「[whispers]いる」
それだけだった。
宝玉の光が、すうっと弱まった。
カチ、カチ、と非常電源が入る音がした。操舵室の照明が一つ、また一つと戻ってくる。星図ホログラムが再起動して、青白い軌道の線が部屋に広がった。軌道の揺れが、静まりかけていた。
光が戻った瞬間——二人は同時に手を離した。
「[serious]軌道安定、確認します」
「[serious]推進出力、正常値に戻している」
二人の声が、まるで重なるように同時に出た。
カーフはコンソールを見ていた。ダン・ヘンもコンソールを見ていた。どちらも相手を見なかった。
しばらくして、カーフが口を開いた。
「[serious]……ちょっと揺れただけだし」
一瞬の間があった。
「[serious]手元が狂っただけだ。私は」
「私も手元が狂っただけだし」
「それ以外の意味はない」
「そんなことないし! そうだし!」
二人とも、ぴたっと黙った。
窓の外で、星間軌道の白い光がゆっくりと流れていた。操舵室に沈黙が落ちた。まともに目も合わせられなかった。それぞれの画面を、必要以上に真剣な顔で見つめていた。
――――――
昼の食堂車は、いつもよりにぎやかだった。
といっても、のは一人のせいだ。
資料室から大きな古い文献を両腕に抱えて、ブローニャが飛び込んできた。短めの紫髪とブラックのメッシュが目を引く。金色の瞳がきらきらしている。男の姿になっても、この人のテンションだけはまったく変わらない。
「[excited]ねえねえ、すごいの見つけたんだけどーっ!!」
トレイを脇に置いて、文献をどさっとテーブルに広げた。ページをめくる手が速い。カーフとダン・ヘンは、さっきから互いになるべく目を合わせていない。ブローニャはそんなこと一切気にせず、文献の一ページを指差した。
「[excited]これ見ろよ! ハーモニー・オブ・ザ・スフィアの表面紋様——宝玉の表面にある星図みたいな模様、あれだな——これがさ、ベリドット星の地下遺構クレイドルで発見されたアミュレット残片の紋様とほぼ完全に一致するってんだぜ!」
カーフは文献を覗き込んだ。
確かに、二つの紋様が並んで描かれている。右側の図が宝玉の紋様、左側がベリドット星の遺構から発掘された破片の紋様。見比べてみると——ほとんど同じだ。細かい線の引き方まで。
「[surprised]これ……本当に同じだ」
「[serious]クレイドル——ベリドット星の地下50メートルに広がる先史文明の遺構だ。第一層は探索許可制になっている」
「[excited]そう! そこに行けば、宝玉の出自と元に戻る方法の手がかりが見つかる可能性があるぜ! しかも文献にはクレイドルの壁面にエネルギー反応を示す紋様があるって書いてあって、宝玉と共鳴するかもしれないって——」
カーフの胸がわずかに浮き上がった。
(手がかりがある。本当に)
リルケノートのヴェステル大書院だけじゃなく、地下遺構にも。元に戻れる。戻れるかもしれない。
ダン・ヘンがコーヒーカップを置いて、静かに口を開いた。
「[serious]ただし——拾得者責任がある」
食堂車の空気が、少し変わった。
カーフはわかっていた。わかっていたけれど、改めて言われると重い。アミュレットに関する慣習——宝玉を拾った者は、効果が解除されるまで管理する義務がある。放棄したり壊したりすれば、効果が永続化する。つまりカーフが宝玉から離れれば、この状態がずっと続く。
「[serious]わかってる。離さない」
即答だった。
ブローニャが文献から顔を上げた。
「[serious]でも遺構に潜るなら宝玉も持っていく必要があるな。入館料が30ルークで、探索許可証を——」
説明の途中で、ブローニャの手がテーブルの上の宝玉に伸びた。資料と見比べるためだろう、ひょいと取り上げようとした瞬間——
「[angry]ちょっと! 触らないで!」
カーフが即座に手を出して宝玉を取り上げた。ブローニャの手を弾くような勢いで。宝玉をしっかり両手で抱えて、ブローニャを睨んだ。
「[sarcastic]……お前、それ普通に資料と見比べようとしただけなんだけど」
「[serious]とにかくだめだ。これは私が持っておく。拾得者責任があるんだから」
「[sarcastic]わかった、わかった。取らないよ」
ブローニャが両手を上げた。カーフは宝玉をジャケットのポケットにしまった。ダン・ヘンがそれを黙って見ていた。
(これは、私の問題だ。私が何とかする)
宝玉のせいで全員の姿が変わった。元に戻す方法を見つけるのは、カーフの役目だ。手放せない。手放さない。ポケットの上から宝玉の形をそっと確かめて、カーフはパンの最後の一口を食べた。
――――――
夜になると、パーネス号は静かになる。
機関室の低い振動音だけが床に伝わってくる。10号車の展望ラウンジに入ると、天井のガラス越しに宙域の星が広がっていた。ベリドット星が近づいてきたせいか、星の配置が少しずつ変わってきた気がする。白い光の中に、ほんの少し緑がかった星が増えてきた。水資源が豊富な惑星系特有の色だ、とどこかで読んだことがある。
カーフは一番端のソファに腰を下ろして、ガラス天井を見上げた。
ポケットの宝玉は今は光っていない。静かだ。昼間の食堂車でのことを思い出す。ブローニャが見つけた手がかり。クレイドルの紋様。明日にはベリドット星に着く。
そして——今朝の、暗闇の中のことも、思い出す。
「[whispers]……いる」という声。指が絡んだ感触。
(べつに何でもない。手元が狂っただけだし)
何度目かわからない言い訳をしていたとき、ラウンジのドアが開いた。
ダン・ヘンだった。
カーフは「来た」と思ってから、「なんで来るとわかったんだ私」と思って、どっちも忘れることにした。ダン・ヘンは当たり前みたいな顔で歩いてきて、隣のソファに——またわざわざ隣に——腰を下ろした。
二人で少しの間、黙って星を見ていた。
窓の外に、軌道の光が白く細く続いている。ヴォイド・リフトの縁を抜けたあとの軌道は、朝より安定していた。静かだった。
ダン・ヘンが、口を開いた。
「[serious]ベリドット星に着いたら——クレイドルの調査は、俺も一緒に行く」
カーフは、一拍置いた。
「[serious]……別に頼んでないけど」
声が、普段より少し小さかった。ガラス窓に自分の顔が映っている。その顔が、なんか——赤い。なんで赤いんだ。カーフは視線を星に戻した。
ダン・ヘンは少し間を置いてから、言った。
「[cold]頼まれてない。俺がそうしたいだけだ」
それだけ言って、立ち上がった。ソファの肘掛けに手を置いて、一度だけカーフを見た。それから、ラウンジを出ていった。
足音が遠ざかる。
カーフは一人になって、ガラス窓に映った自分の顔を見た。
黒髪。丸い茶色の瞳。そして——ぜんぜん隠せていない、赤い頬。
「[whispers]……なんで赤くなってんの私」
誰もいない部屋に向かって、小声でツッコんだ。
ポケットの中で、宝玉がかすかに光った気がした。カーフはポケットの上からそれを押さえた。光は、すぐに消えた。
——そのとき。
食堂車とラウンジを仕切るドアの影で、人影が動いた。
ブローニャだった。金色の瞳が、にやりと細くなる。さっきのやり取りを、しっかり最初から最後まで見ていた。腕を組んで、口の端を上げて——小声で、一人でつぶやいた。
「[whispers]あーあ。これは私が動かないとね」
楽しそうに笑って、ブローニャは食堂車の方へ戻っていった。
展望ラウンジには、カーフだけが残された。
ガラス天井の向こうで、ベリドット星の緑がかった星が、少しずつ近づいていた。