灰になるまで
両親の罵り合いで朝が始まる——そんな日常に慣れきった少年・葛葉律。ヤクザの組長の息子として、この街の底辺地区アッシュランドで生まれ育った彼は、暴力が支配する環境の中で、ただ一つ「頭でここを出る」ことだけを目標に生きている。学年トップの成績、進学校への進学。それが彼の描いた脱出のシナリオだった。
だがある日、路地裏で繰り広げられる暴力を目の当たりにした律の胸の奥で、長い間押し殺してきた「何か」が疼き始める。右手の甲に残る古い火傷の痕。それは、彼がまだ名前を知らない衝動の証だった。
これは、灰色の街に生まれた一人の少年が、暴力と知略の狭間で自分自身の正体に気づいていく物語。ハードボイルド・ノワールの空気を纏いながら、静かに、しかし確実に「灰になるまで」燃え尽きる運命へと向かっていく——。
灰になるまで - 金と弱みと、選ばれた者の脆さ
東雲工業高校の朝は、鉄と油と汗の匂いで始まる。校舎の壁は灰色に煤け、廊下のリノリウムは何年も張り替えられていない。窓ガラスにはひびが入り、補修用のテープが貼られたままだった。
律は教室の窓際、一番後ろの席に座っていた。
外を眺めているようで、教室内の視線の動きを数えている。誰が誰の靴を見て視線を落とすか。誰が誰の財布の膨らみを盗み見るか。東雲工業高校に来て一年、律はこの教室の力学を、指の関節の数ほど正確に把握していた。
「おい、葛葉。今日の分、用意できたか」
前の席から、日焼けした肌の男が振り返った。三村という。同じクラスの不良で、律から金を借りている一人だった。三村の目は、律の顔色をうかがっている。喉仏が、一度だけ上下した。
律は鞄の奥から、黒い表紙の帳面を取り出した。手のひらに収まる大きさ。中には、日付と名前、金額、返済期限が、律の几帳面な字で並んでいる。
「ああ」
律は帳面を開き、三村の名前を指でなぞった。
「今日が返済期限だ。元金三万、利息四千。合わせて三万四千」
「わかってるって。ほら」
三村はポケットから、くしゃくしゃになった札束を出した。律は受け取ると、指で素早く数え、帳面に「返済済み」と書き込む。三村の肩が、わずかに下がった。
「律さん、今日もすげえっすね」
教室の入り口から、よく通る声が飛んできた。将志だった。金髪に近い茶色の短髪を刈り上げ、日焼けした肌に明るい茶色の目。右腕には、律の文字を崩した小さな刺青。左耳には安全ピンのピアス。笑うと大きな口が裂ける。
将志は律の机の前に来ると、周囲の生徒を押しのけるようにして座った。
「三村の奴、律さんに金借りてたんすか? ちゃんと返しました?」
律は答えず、帳面を鞄の奥に戻した。将志の声に、教室中の視線が集まる。律は視線を数えなかった。視線など、この街ではただの空気だ。
「将志。お前、あれからどうだ」
律の声は、いつも通り平坦だった。感情の欠片も乗っていない。だが、将志にはそれが「仕事の確認」だとわかる。
「バッチリっすよ! アッシュランドの賭博場、あの辺りの噂、ぜんぶ調べました!」
将志は声を潜めた。律の右腕として、情報収集と取り立てを担って一年。将志は律の指示を忠実に実行する駒だった。
「で、どうだった」
「それがっすね——」
将志が身を乗り出した、その時だった。
教室のドアが開き、担任の男が入ってきた。五十代の、痩せた男。名は森川。工業科の教員で、生徒たちからは「モリケン」と呼ばれている。森川は教室を見回し、律の姿を一瞬だけ見た。そして、すぐに視線を外した。律は、森川の視線が外れるまでの秒数を、頭の中で数えていた。
東雲工業高校の教師たちは、律に距離を置いている。
理由は単純だ。律がヤクザの息子だから。そして、一年前の傷害事件で保護観察処分を受けたから。さらに、今は校内で金貸しをしているという噂が、教師たちの耳にも届いていた。
だが、誰も律を止めない。
この学校では、金を貸すことも借りることも、暴力を振るうことも振るわれることも、すべて「日常」だった。
森川は教壇に立ち、出席を取る。律の名前が呼ばれた時、律は小さく手を上げた。森川はそれを見て、すぐに次の名前へ移った。
(この学校に来て、正解だった)
律は心の中で呟いた。
東雲工業高校は、偏差値三十八の底辺校。玲明学園のような進学校とは、すべてが違う。だが、律にとっては、この学校の方が都合が良かった。
ここでは、金と力がすべてを決める。
成績の良さなど、誰も気にしない。律の頭脳は、テストの点数ではなく、人を動かすために使われる。
(暴力より金。金より弱み)
律は、その原則を、この一年で徹底的に磨き上げてきた。
自分では手を汚さない。直接殴ることも、直接脅すこともない。金を貸し、利息を積み上げ、返済に困った者を支配する。中学時代に律の周りに寄ってきた不良たちは、今や律の金と頭脳を当てにして集まってくる。
律は、彼らを「駒」として使う。
情報を集めさせ、取り立てをさせ、時に弱みを握らせる。すべては、律がこの街を出るための資金と力を蓄えるためだ。
(父のようなヤクザにはならない)
律の脳裏に、剛の顔が浮かぶ。酒で赤らんだ顔。だらしなく開いたシャツ。古い刺青。
(あんな風には、ならない)
律は、右手の甲を見た。古い火傷の痕。直径二センチの、ストーブに触れた痕。あの日から、この痕は律の一部になっていた。
昼休み。
律は屋上に出た。
東雲工業高校の屋上は、生徒たちのたまり場だった。タバコの吸い殻が散らばり、壁には落書きがびっしり。だが、律が来ると、周囲の生徒たちは自然と距離を取った。律はその距離の分だけ、フェンス際の風通しのいい場所を確保した。
律はフェンスに背をつけ、将志から報告を聞いた。
「で、例の情報だが」
「はい。玲明学園の制服を着た奴が、アッシュランドの賭博場に出入りしてるって噂は、マジでした」
将志は声を潜め、真剣な顔で言った。
「名前は御崎透。玲明学園の二年生で、親父さんがマウント・シオン銀行の頭取だそうです」
律の目が、わずかに細くなった。
マウント・シオン銀行。グランヴェルド区に本店を構える地方銀行で、預金残高は約二兆八千億円。頭取の御崎誠一郎は、政財界に太いパイプを持つ大物だ。
(銀行頭取の息子が、アッシュランドの闇賭博場に)
律は、その情報の価値を、瞬時に計算した。
「賭博場のどこだ」
「葛葉組がやってる『カジノ・アッシュ』って賭博場っす。あそこに、週に二、三回は来てるらしいっすよ」
「うちの組の賭博場か」
律は小さく呟いた。
葛葉組が運営する闇賭博場「カジノ・アッシュ」。アッシュランドの廃ビル地下にある、客の入りがまあまあの賭博場だ。律の父、剛の組がシノギの一つとして運営している。
(父の組の賭博場に、銀行頭取の息子が通っている)
律の頭の中で、計画の輪郭が形を成し始めた。
「それで、御崎って奴、賭けに負けて借金してるって話だ」
「そうっす! 負けを取り返そうとして、どんどん金を上乗せしてるらしいっす! もう借金が百万を超えてるって噂です!」
将志は興奮気味に言った。
律は、将志の熱狂を冷めた目で見た。
「お前、その御崎って奴を、実際に見たか」
「いや、まだ直接は。でも、賭博場の連中から話は聞きました」
「どんな奴だ」
「えーと、見た目は真面目そうな優等生って感じらしいっす。眼鏡かけてて、いつも制服着てて。でも、賭けに負けると早口で言い訳するらしいっすよ。『次は勝てる』『僕は選ばれた人間だ』って」
律は、将志の言葉を頭の中で反芻した。
(選ばれた人間、か)
律の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「将志」
「はい!?」
「お前、玲明学園の門前まで行ったことはあるか」
将志は首を傾げた。
「ないっす。あんな上品な場所、俺みたいなのが行ったら通報されるっすよ」
「そうか。俺もない」
律は、かつて目指していた学校の名前を、静かに口にした。
玲明学園。偏差値七十二の進学校。ノースゲートにある私立の名門。律が本来進むはずだった場所。
(一度も、中に入ったことがない)
律は、その事実を、不思議な気持ちで受け止めた。
「明日、行くぞ」
「え、どこにっすか!?」
「玲明学園の門前だ。御崎って奴の顔を、この目で見る」
将志の顔が、ぱあっと明るくなった。
「マジっすか!? 俺も行っていいんすか!?」
「お前が情報を取ってきたんだ。連れて行ってやる」
「やった! 律さんと一緒に玲明学園! なんかドキドキするっす!」
将志は無邪気にはしゃいでいる。律は、その姿を見ながら、心の中で呟いた。
(こいつは、俺の駒だ)
(だが、忠実な駒だ)
律は、将志の忠誠心を、この一年で何度も確認してきた。将志は、あの夜、律が愛を助けるために三人の男を殴り倒した現場を目撃して以来、律を兄貴分として慕っている。
(利用できるものは、すべて利用する)
律は、将志の肩を軽く叩いた。
「お前はよくやってる。これからも頼むぞ」
将志の顔が、これ以上ないほど輝いた。
「任せてくださいっす! 俺、律さんのためなら何でもします!」
律は、将志の熱狂を背に受けながら、屋上のフェンス越しにアッシュランドの街並みを見下ろした。錆びた給水塔、干された作業服、曲がりくねった路地。その全部が、律の視界の端で、小さく息をしていた。
(この街を出る)
(そのための、大きな手札になるかもしれない)
律の胸の奥で、静かな興奮が湧き上がっていた。
翌日。
律と将志は、ノースゲートの玲明学園の門前まで足を運んだ。
アッシュランドからバスで三十分。グランヴェルド区を抜け、シオン山地の麓へ向かう。景色は一変した。
道は広く、街路樹が整然と並び、建物はどれも新しく、清潔だった。歩いている人々の服装も、アッシュランドとは違う。スーツを着た男、上品なワンピースを着た女、制服を着た子供たち。
「うわ……ここがノースゲートっすか。空気が違うっすね」
将志が、きょろきょろと周囲を見回しながら言った。
律は答えず、玲明学園の門前に立った。
校舎は四階建てで、白い壁が陽光に輝いている。門には警備員が立ち、生徒たちは整然と登校していた。男子は紺のブレザー、女子は紺のスカートに白いブラウス。みな、上品で、穏やかで、どこか浮世離れした雰囲気をまとっている。
(ここが、俺が本来来るはずだった場所)
律は、その光景を、遠い目で眺めた。
だが、感慨はなかった。
玲明学園への道は、あの夜、完全に消えた。今さら何を思うでもない。律は、ただ、御崎透という男を観察するために、ここに来ていた。
「律さん、あいつっすかね?」
将志が、小声で言った。
律は、将志の視線の先を見た。
校門から、一人の男子生徒が歩いてくる。整った黒髪の爽やかなショート。細い銀縁眼鏡。二重まぶたの黒い瞳。身長は低く、百六十五センチほど。制服を着こなし、上品な笑みを浮かべている。
(あれが、御崎透か)
律は、御崎の姿を、頭のてっぺんから足の先まで観察した。
御崎は、友人らしき生徒と並んで歩いていた。時折、笑い声を上げ、肩を叩き、得意げな表情を見せる。その姿は、どこからどう見ても「育ちの良いお坊ちゃん」だった。
だが、律の目は、御崎の右の小指を見ていた。
(嘘をつくとき、右の小指が震える)
将志から得た情報。御崎透は、嘘をつくとき、右の小指が震える。
今、御崎は笑っている。だが、その笑顔は、目が笑っていない。
(表面上は上品。内側は脆い)
律は、御崎の笑顔の奥にある「何か」を見抜いた。
「あいつだ。御崎透だ」
「マジっすか!? あの優等生ヅラの奴が、闇賭博で借金してるんすか!?」
「そうだ。ああ見えて、賭け事に弱い」
律は、御崎が校門をくぐり、校舎へ消えていくまで、じっとその背中を見つめていた。
(標的は、定まった)
律は、心の中で、静かに呟いた。
その夜。
律は、将志を「カジノ・アッシュ」へ送り込んだ。
目的は、御崎透の賭博狂いと借金の証拠を掴むこと。将志に命じたのは、御崎の言動を記録することだった。
「律さん、任せてください。俺、あのボンボンの一挙手一投足、ぜんぶ覚えてきます!」
将志は、そう言って、アッシュランドの夜へ消えていった。
律は、自室で待った。
六畳の部屋。ベッドと勉強机、本棚。本棚には、経済学と心理学の本が並ぶ。壁の向こうからは、今夜も両親の罵り合う声が聞こえていた。
「お前のせいで、組の面目は丸つぶれだ!」
「あんたが無能だからでしょうが!」
ガシャン、と酒瓶が割れる音。
律は、その音を聞きながら、机に向かって帳面を開いた。
(この家を出る)
(そのための金を、貯める)
律は、帳面に書き込まれた数字を見つめた。
金貸しの利息で、月に十万から十五万。学校での貸し付けと、将志を通じた取り立てで、少しずつではあるが、確実に資金は増えている。
(だが、まだ足りない)
律は、御崎透のことを考えた。
銀行頭取の息子。闇賭博で借金。選ばれた人間という傲慢。
(こいつを、どう使うか)
律の頭の中で、計画が組み上がっていく。
数日後。
将志が、律の部屋にやって来た。
「律さん! 御崎の奴、ぜんぶ記録してきました!」
将志は、興奮した様子で、一枚の紙を差し出した。
律は、その紙を受け取り、目を通した。
将志の字は汚いが、内容は詳細だった。
御崎透は、カジノ・アッシュに来るたびに、まず丁半博打で勝負する。勝つと得意げに笑い、周囲に「うちの銀行が」と自慢話を始める。負けると、早口で言い訳を並べる。
「次は勝てる。僕は選ばれた人間だ。こんな場所で負けるはずがない」
「今日は調子が悪いだけだ。明日は倍にして取り返す」
「父が言ってた。勝負はタイミングだって」
そして、負けが込むと、顔を青ざめさせ、震える声で胴元に金を借りる。
「あの、ちょっと、次で絶対に取り返すから……もう少しだけ……」
律は、将志の記録を読み終えると、静かに紙を折りたたんだ。
「上出来だ」
将志の顔が、ぱあっと輝いた。
「マジっすか!? 褒められた! 律さんに褒められた!」
将志は、子犬のように尻尾を振って喜んでいる。
律は、その姿を見ながら、次の手を考えた。
(御崎の弱点は、見栄と賭け事への依存。そして、父の権威への依存)
(こいつを、追い詰める)
律は、将志に命じた。
「御崎の借金の証文を、手に入れろ。賭博場の胴元から、写しを取ってこい」
「証文っすか!? あれ、胴元が厳重に管理してるって聞きましたけど……」
「金を積め。三万あれば、写しの一枚や二枚、取れるだろ」
律は、財布から三万円を取り出し、将志に渡した。
「わかりました。やってみます」
将志は、三万円を握りしめ、決意の表情で頷いた。
(将志は、金で動くわけではない)
律は、将志の背中を見送りながら、思った。
(こいつは、俺への忠誠で動いている)
(その忠誠は、あの夜、俺が愛を助けた時に生まれた)
律は、右手の甲を見た。
火傷の痕。あの夜、熱を持った痕。
(愛)
律の脳裏に、愛の顔が浮かぶ。茶色いボブの少女。大きな黒い瞳。笑うと八重歯が見える。
(今、どこにいる)
律は、愛のことを考えるのをやめた。
今は、御崎透だ。
さらに数日後。
将志が、御崎の借金の証文の写しを手に入れた。
「律さん! やりました! 御崎の借金、合計で百二十万っす!」
将志は、息を切らしながら、証文の写しを律に渡した。
律は、その証文に目を通した。御崎透の署名。借金額。返済期限。すべてが、律の手の中に収まった。
「これで、御崎を呼び出せる」
律は、静かに言った。
「呼び出すって、どこにっすか?」
「アッシュランドの路地裏だ。あいつが一番居心地の悪い場所で、話をする」
律の声は、冷たく、静かだった。
土曜日の夜。
アッシュランドの路地裏は、昼間の埃っぽさがそのまま残り、生ゴミと排気ガスの匂いが混ざっていた。
律は、指定した路地の入り口で待っていた。将志は、少し離れた場所で見張りをしている。
やがて、御崎透が現れた。
玲明学園の制服ではなく、私服だった。白いシャツに紺のカーディガン。だが、その姿は、アッシュランドの路地裏では場違いに浮いていた。
御崎は、律の姿を見ると、足を止めた。
「……君が、葛葉律?」
御崎の声は、上品ぶった丁寧な口調だった。だが、その目には、明らかな警戒心が浮かんでいる。
「ああ」
律は、壁にもたれかかったまま、御崎を見た。
「随分と、下品な場所に呼び出すんだね。僕は、こういう場所は苦手なんだけど」
御崎は、わざとらしく眉をひそめた。
「お前が通ってる賭博場も、この辺りだろ」
律の言葉に、御崎の顔色が、わずかに変わった。
「……何の話か、よくわからないな」
御崎は、笑みを浮かべた。だが、その笑みは引きつっていた。
律は、鞄から証文の写しを取り出し、御崎の目の前に突きつけた。
「御崎透。お前はカジノ・アッシュで、合計百二十万円の借金をしている。この証文は、その写しだ」
御崎の顔が、みるみる青ざめていった。
「な、なんで君がそれを……」
御崎の右の小指が、震え始めた。
律は、御崎の小指を見ながら、静かに言った。
「お前が賭けに負けるたびに、早口で言い訳をし、金額を上乗せし、『僕は選ばれた人間だ』と周囲に嘯く。返済が滞れば、顔を青ざめさせて、胴元にすがる。全部、記録してある」
律は、将志の記録した紙を、御崎に見せた。
御崎は、その紙に目を走らせ、自分の言動が事細かに記録されているのを見て、唇を震わせた。
「なんだよ、これ……盗撮でもしたのかよ……」
御崎の口調が、崩れ始めた。上品ぶった丁寧な口調から、地の言葉が漏れ出している。
「君に、僕の何がわかる! 僕は、御崎誠一郎の息子だぞ! マウント・シオン銀行の頭取の! この僕が、君みたいな下賤の人間に、指図される筋合いはない!」
御崎は、声を荒げた。家柄を盾に、律を見下そうとした。
律は、感情を動かさなかった。
「お前の父が、銀行の頭取だからどうした」
律の声は、氷のように冷たかった。
「お前が百二十万の借金をして、闇賭博に通っている事実は変わらない。もし、この証文と記録が、お前の父の耳に入ったらどうなる?」
御崎の顔が、真っ白になった。
「や、やめろ……父には……」
御崎の声が、震える。
「マウント・シオン銀行の頭取の息子が、アッシュランドの闇賭博で借金まみれ。これを新聞に流したら、銀行の株価はどうなる? お前の父の立場は? お前は、玲明学園にいられると思うか?」
律は、一歩、御崎に近づいた。
御崎は、後退った。
「待ってくれ……頼む……それだけは……」
御崎の声は、涙声になっていた。
「選ばれた人間が、下賤の者に頭を下げるのか?」
律の言葉に、御崎は唇を噛んだ。
「……くそ」
御崎は、うつむき、拳を握りしめた。
「選ばれた僕が……こんな……下賤の……」
御崎の右の小指が、激しく震えていた。
律は、御崎の震えを、じっと見ていた。
(こいつは、もう逃げられない)
律は、静かに言った。
「御崎。お前に、やってもらいたいことがある」
御崎は、顔を上げた。その目には、恐怖と屈辱が渦巻いている。
「な、なんだよ……」
「カジノ・アッシュの胴元をやれ」
御崎の目が、見開かれた。
「は……!? 胴元!? 僕が!?」
「そうだ。お前は、これからあの賭博場の胴元として、客の金を回す。犯罪の片棒を担ぐんだ」
律の声は、有無を言わせないものだった。
「ふざけるな! なんで僕が、そんなことを! 僕は、御崎誠一郎の息子だぞ! 犯罪者なんかになるわけがない!」
御崎は、声を張り上げた。だが、その声は裏返っていた。
「お前はもう、犯罪者だ」
律は、証文を揺らした。
「百二十万の借金。闇賭博への出入り。これだけでも、十分に犯罪の片棒を担いでいる。お前の父が、息子のこんな姿を知ったら、どう思う?」
御崎は、言葉を失った。
「選ばれた人間が、犯罪者になるのか? それとも、ここで全てを失うのか? 選べ」
律の声は、冷徹だった。
長い沈黙が流れた。
路地裏に、遠くの暴走族のバイクの音が響く。
御崎は、うつむいたまま、唇を噛みしめていた。
「……わかった」
御崎の声は、かすれていた。
「やればいいんだろ……やれば……」
御崎は、顔を上げた。その目には、涙が滲んでいた。
「でも、覚えておけ。僕は、絶対に、君を許さない」
御崎の右の小指が、まだ震えていた。
律は、御崎の目を見た。
その目には、屈辱と、そして——反抗の色が、確かに灯っていた。
(こいつは、俺を恨んでいる)
律は、その事実を、冷静に受け止めた。
(だが、それでいい)
律は、御崎に背を向けた。
「将志。御崎を、賭博場まで送って行け」
将志が、物陰から姿を現した。
「わかりました」
将志は、御崎の腕を掴んだ。
「触るな! 下賤の人間が!」
御崎は、将志の手を振り払おうとした。
「へいへい、ボンボン様。おとなしく歩けよ。ここはお前の庭じゃねえんだ」
将志は、御崎の背中を押した。
御崎は、悔しそうに唇を噛みながら、将志に連れられて、路地の奥へ消えていった。
律は、一人、路地裏に残った。
(これで、御崎透は、俺の駒になった)
律は、夜空を見上げた。
アッシュランドの空は、今日も厚い雲に覆われている。星は見えない。
(だが、証拠は、すぐには使わない)
律は、胸の内で、計画を確認した。
御崎透という手札は、銀行頭取、そして銀行そのものへ影響力を及ぼすための切り札だ。今、使う必要はない。むしろ、御崎に仕事を任せる形で、証拠をさらに積み上げる。
(御崎が胴元を務め、客の金を回す。その姿を、また記録させる)
律は、将志に、御崎の動向を引き続き監視させるつもりだった。
(支配の輪は、広がっている)
律は、右手の甲を見た。
火傷の痕が、夜の闇の中で、ぼんやりと白く浮かんでいた。
(だが、御崎の目に灯っていた反抗の色)
律は、御崎の最後の言葉を思い出した。
『僕は、絶対に、君を許さない』
(あれは、計算ずくの沈黙だ)
律は、そう思った。
御崎は、証拠を握られたから従っただけだ。心から屈服したわけではない。むしろ、屈辱を飲み込み、復讐の機会をうかがっている。
(支配の輪が、内側から軋む)
律は、その予感を、静かに胸の奥にしまい込んだ。
(それでも、俺は、この街を出る)
律は、路地裏を歩き出した。
靴音が、冷たい壁に反響する。
(何を使ってでも)
律の背中を、アッシュランドの夜が、静かに包み込んでいった。
数日後。
御崎透は、カジノ・アッシュの胴元として、客の金を回すようになった。
律は、将志に命じ、御崎の仕事ぶりを記録させた。
御崎は、最初こそ嫌々だったが、賭博場の空気に慣れると、次第に胴元としての役割をこなすようになった。
だが、その目は、いつも何かを探っていた。
律は、将志の報告を受けながら、御崎の動向を監視し続けた。
(御崎は、俺に従っている。だが、心からではない)
律は、将志の報告を聞きながら、静かに考えた。
(こいつの反抗心を、どう封じるか)
律は、御崎の借金の証文と、賭博場での記録を、さらに分厚いファイルにまとめた。
(これが、俺の手札だ)
律は、ファイルを机の引き出しにしまい、鍵をかけた。
(すぐには使わない。だが、いざという時に、こいつが俺を守る)
律は、窓の外を見た。
東雲工業高校の校舎から見える、アッシュランドの街並み。
(この街を出る)
律は、静かに、その決意を胸に刻んだ。
(そのために、俺は、もっと強くなる)
右手の甲の火傷跡が、静かに、熱を帯びていた。Noveliaとは?
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