灰になるまで
両親の罵り合いで朝が始まる——そんな日常に慣れきった少年・葛葉律。ヤクザの組長の息子として、この街の底辺地区アッシュランドで生まれ育った彼は、暴力が支配する環境の中で、ただ一つ「頭でここを出る」ことだけを目標に生きている。学年トップの成績、進学校への進学。それが彼の描いた脱出のシナリオだった。
だがある日、路地裏で繰り広げられる暴力を目の当たりにした律の胸の奥で、長い間押し殺してきた「何か」が疼き始める。右手の甲に残る古い火傷の痕。それは、彼がまだ名前を知らない衝動の証だった。
これは、灰色の街に生まれた一人の少年が、暴力と知略の狭間で自分自身の正体に気づいていく物語。ハードボイルド・ノワールの空気を纏いながら、静かに、しかし確実に「灰になるまで」燃え尽きる運命へと向かっていく——。
灰になるまで - 駒の牙——支配の代償
夜の帳がアッシュランドを覆い尽くす頃、街はようやく本性を現す。昼間は寝静まっていた路地が、酒と煙草と安い香水の匂いで満ちていく。グレン川の向こう、グランヴェルド区の明かりが遠く滲む中、こちら側には別の種類の光が灯る。ネオンの赤、店先の裸電球、そして路上に立つ男たちの煙草の火。それらが、この街の夜の輪郭をなぞっていた。
葛葉家のアパートは、その喧騒から少し外れた場所にある。木造二階建て、壁は雨染みで黒ずみ、外階段は踏むたびに軋む。律の部屋は二階の突き当たり。六畳の空間には、ベッドと勉強机、そして本棚だけが整然と並んでいた。本棚には経済学と心理学の本が、背表紙をきっちり揃えて収まっている。この部屋だけが、まるでこの街から切り取られた別の世界のように静かだった。
律は机に向かい、黒い表紙の帳面を開いていた。
中には、日付と名前、金額、返済期限が、几帳面な字で並んでいる。借金の記録。東雲工業高校に通い始めて一年、律が築き上げてきた「商売」の全容だった。三村、井上、佐々木、藤堂——名前の横に、それぞれの事情が記されている。親の借金、バイクの修理代、賭け事の負け。律はそれらをすべて頭に入れていた。誰がいくら借りていて、誰が返せそうで、誰が逃げようとしているか。帳面を見なくても、目を閉じれば浮かんでくる。
隣の部屋から、母のすすり泣きが聞こえた。
かすかな、湿った音。壁一枚隔てた向こうで、母がまた酒に沈んでいる。父の剛は今日はまだ帰っていない。組の用事か、あるいは別の女のところか。どちらでもよかった。律にとって、両親の存在はすでに「壁の向こうの雑音」でしかなかった。
右手の甲が、かすかに疼いた。
古い火傷の痕。直径二センチの、ストーブに触れた痕。律は無意識に、左手の指でその痕をなぞった。皮膚の下に、あの日の熱がまだ残っているような気がした。
その時だった。
外階段を、誰かが駆け上がってくる音がした。
一歩、二歩、三歩——足音は迷いなく律の部屋の前で止まった。
ドンドンドン。
扉を叩く音。乱暴で、切羽詰まった響きだった。
律は帳面を閉じ、机の引き出しにしまった。鍵をかける。それから、ゆっくりと立ち上がり、扉へ向かった。
ドンドンドン。
また、叩く。
律は扉を開けた。
そこに立っていたのは、御崎透だった。
玲明学園の制服。濃紺のブレザーは、この街には似つかわしくないほど上等な生地だった。銀縁の眼鏡。整った黒髪。二重まぶたの黒い瞳。ノースゲートの高級住宅街で育った、大手銀行頭取の一人息子。それが今、アッシュランドのボロアパートの廊下で、肩を激しく上下させながら律を睨みつけていた。
「……返せ」
御崎の声は、上品ぶった口調の奥に、隠しきれない怒りを滲ませていた。
「返せよ、あの証文を。僕の借金の証文を、全部だ」
律は、御崎の顔をじっと見た。
無表情だった。感情の欠片も見せない、いつもの律の顔。三白眼の奥で、何かが冷たく光っている。御崎はその視線に射抜かれ、一瞬だけたじろいだ。だが、すぐに怒りでそれを塗りつぶす。
「聞こえてるんだろ。君が握ってる、僕の署名入りの証文。あれを、今すぐ返してもらう」
律は、ゆっくりと壁に背を預けた。
「で?」
平坦な声。感情のない、ただの音。
御崎の右の小指が、震えた。
「で、じゃないんだよ!」
御崎の声が、裏返る。追い詰められた時の、早口の言い訳のような口調。律はそれを見逃さなかった。
「君が僕を脅して、賭博場の胴元なんてやらせて、犯罪者に仕立て上げたんだ! あの証文さえなければ、僕は君の支配から逃れられるんだよ!」
御崎の言葉は、どんどん早くなっていく。
「父さんが言ってた。君みたいな人間に関わっちゃいけないって。うちの銀行が、君の父親の組と繋がりがあるなんて、僕は知らなかった。知らなかったんだよ! 君に弱みを握られて、胴元をやらされて、毎晩あの地下で——」
「御崎」
律が、静かに名前を呼んだ。
御崎の口が、ぴたりと止まった。
「お前、今、何をしに来た?」
律の声は、相変わらず平坦だった。だが、その平坦さが、逆に御崎の神経を逆撫でする。
「証文を返してもらいに来たんだよ!」
「そうか」
律は、ゆっくりと瞬きをした。
「で、返すと思ったか?」
御崎の顔が、真っ赤に染まった。
「君は——!」
御崎が一歩踏み出した。その時、律は御崎の右の小指を、もう一度見た。震えている。嘘をつくときの癖。御崎透という男は、感情が高ぶると必ずそこに現れる。律はそれを、初めて路地裏で対峙した時から知っていた。
そして今、御崎の小指は、怒りとは別の理由で震えているように見えた。
(こいつは、何かを隠している)
律の頭の中で、冷たい計算が走る。
御崎が証文を返せと詰め寄る。それ自体は、支配された者の当然の反応だ。だが、御崎の目には、怒りとは違う色があった。焦り。そして、妙な自信。何か「切り札」を持っている者の、危うい余裕。
「御崎。お前、誰かに何か渡したか」
律の言葉に、御崎の肩が、びくりと跳ねた。
「な、何を言ってるんだよ。僕が誰かに何かを渡すわけないだろ」
早口。声のトーンが、一段高くなる。
「そうか」
律は、御崎から視線を外し、廊下の先を見た。外階段の下、暗がりに、人影が見えた。将志だった。律は、ほんの少しだけ顎を引いた。将志はそれだけで意図を察し、音もなく闇に消えた。
「入れよ。廊下で騒がれると面倒だ」
律は身を引き、部屋の入口を開けた。
御崎は、一瞬迷ったように律の顔を見た。だが、結局は部屋の中へ足を踏み入れた。律の部屋。六畳の、何の変哲もない空間。御崎は、そのあまりの質素さに、一瞬だけ顔をしかめた。
「……君、こんな部屋に住んでるのか。本物の貧乏なんだな」
律は、その言葉を無視した。
「座れ」
御崎は、ベッドの端に腰を下ろした。律は、机の椅子に座る。二人の距離は、一メートルほど。部屋の空気が、重く沈んでいく。
「で、本題だ。お前は、誰に何を渡した」
「だから、何も渡してないって言ってるだろ!」
御崎の声が、また裏返る。
「お前の右の小指、震えてるぞ」
御崎は、慌てて右手を左手で覆った。
「こ、これは、寒いからだよ。夜は冷えるだろ」
律は、ゆっくりと首を傾げた。
「お前、ミナミガワ連合の人間と会ったな」
御崎の顔から、血の気が引いていくのが、はっきりと見えた。
「な、なんで——」
「お前が、証文を返せと単身で乗り込んでくる。それ自体が、おかしいんだよ」
律の声は、冷たく、淡々としていた。
「お前は俺に弱みを握られて、逆らえないはずだ。それなのに、真夜中に一人で、こんな場所まで来た。つまり、お前には『これで律の支配から逃れられる』という根拠がある。その根拠は、お前一人では作れない。誰かの後ろ盾が必要だ」
律は、御崎の目をまっすぐに見た。
「その誰かが、ミナミガワ連合の人間だって言ってるんだよ」
御崎は、息を呑んだ。
沈黙。
壁の向こうから、母のすすり泣きが、まだ聞こえている。
「……そうだよ」
御崎の声が、かすれた。
「君の父親の組が所属してる、ミナミガワ連合の幹部に、連絡した。君が僕を脅して、賭博場の胴元をやらせて、証拠を握ってるって、全部話した。そしたら、その幹部が、君の持ってる証拠のコピーを渡せば、君から守ってやるって——」
御崎は、早口で、まるで言い訳を並べるように言った。
「僕は悪くないんだよ! 君が悪いんだ! 君が僕を犯罪者にしようとしたから、僕は自分を守るためにやったんだ! 父さんだって、君みたいな人間は警察に突き出すべきだって言ってた! うちの銀行の力を使えば、君の父親の組なんて、簡単に潰せるんだよ!」
御崎の言葉は、もはや律に向けられているのか、自分自身に向けられているのか、わからなかった。
律は、黙って聞いていた。
(そうか。御崎は、俺の手札を、俺を刺す刃に変えようとしている)
律の胸の奥で、何かが、冷たく収縮した。
恐怖。
それは、律が初めて味わう種類の感情だった。自分が握っているはずの弱みが、実は相手の武器になり得る。支配していると思っていた相手が、裏で別の支配者と手を結んでいる。
(俺の手札が、俺を刺す)
律は、机の上に置いた自分の右手を見た。火傷の痕。あの夜、愛を守るために振るった拳の記憶。そして、今は人を弱みで縛るために動かす、この手。
(……そうか)
律は、ゆっくりと息を吐いた。
「御崎。お前が渡そうとしているのは、証拠のコピーだな」
「ああ、そうだよ。君の持ってる証文のコピーを、全部、連合の幹部に渡す。そうすれば、君は連合から消される。僕は自由になれる」
御崎の声には、もはや開き直りの色があった。
「渡す日時と場所は、決まってるのか」
御崎は、一瞬、口ごもった。
「……それが、何か」
「答えろ」
律の声が、初めて、ほんの少しだけ鋭くなった。
御崎の体が、びくりと震えた。
「……明後日の夜、十一時。ゴースト・タウンの、グレン川沿いの廃工場だよ」
律は、その情報を頭に刻み込んだ。
「そうか。で、お前は今、それを俺に教えた」
御崎は、はっとしたように顔を上げた。
「な、なんだよ。教えたって、君に何ができるんだよ。連合の幹部は、君の父親よりもずっと上の人間だ。君一人でどうにかできる相手じゃないんだよ!」
律は、立ち上がった。
御崎が、思わず身を引いた。
律は、部屋の隅に置いてあった鞄から、一枚の紙を取り出した。御崎の署名が入った、借金の証文。原本だ。律はそれを、御崎の目の前に差し出した。
「これが欲しいか」
御崎の目が、証文に釘付けになった。
「……返してくれるのか」
律は、証文を、御崎の手の届かない高さに掲げた。
「明後日の夜、お前が連合の幹部と会う。その現場に、俺も行く」
御崎の顔が、恐怖に歪んだ。
「な、何を言って——」
「お前がコピーを渡す瞬間を、俺が見届ける。それで、お前の裏切りは帳消しにしてやる」
律の声は、冷たく、静かだった。
「そ、そんなことしたら、君は連合に殺されるんだよ! それに、僕だって——」
「お前が心配する必要はない」
律は、証文を机の上に置いた。
「お前は、明後日の夜、連合の幹部と会え。ただし、コピーを渡す前に、必ず俺を呼べ。呼ばなければ、この証文は、明日中に警察と玲明学園と、お前の父親の銀行に届く」
御崎の顔から、完全に血の気が消えた。
「そ、それは——」
「お前の父親は、銀行の頭取だ。息子がヤクザの賭博場で胴元をやっていたと知れたら、どうなると思う」
律は、御崎の目を、まっすぐに見下ろした。
「お前の家は、終わるぞ」
御崎の右の小指が、激しく震えた。
沈黙。
「……わかったよ」
御崎は、絞り出すような声で言った。
「明後日の夜、連合の幹部と会う前に、君を呼ぶ。それでいいんだろ」
律は、答えなかった。
ただ、机の上の証文を手に取り、再び鞄の中にしまった。
「帰れ」
御崎は、ふらふらと立ち上がった。
部屋の扉に手をかけたところで、御崎が振り返った。
「……君は、いつか必ず、自分の握ったものに刺されるよ」
御崎の声は、恨みと、奇妙な予言めいた響きを帯びていた。
律は、御崎の背中を、無言で見送った。
扉が閉まり、外階段を降りていく足音が遠ざかる。
律は、机の椅子に座り直した。
(自分の握ったものに、刺される)
御崎の言葉が、頭の中で反響する。
律は、右手の甲を見た。火傷の痕。あの夜、愛を守るために振るった拳。あの時、律は確かに、自分の手で何かを守ったはずだった。だが、その結果、愛は消え、律の進路は断たれ、今は人を弱みで縛る側になった。
(俺は、いつか、刺される)
律は、その予感を、静かに胸の奥にしまい込んだ。
---
翌日。
東雲工業高校の屋上。
昼休みの喧騒が、下の校舎から聞こえてくる。律は、フェンスに背を預け、空を見ていた。厚い雲が、空を覆っている。太陽の位置は、ぼんやりとしかわからない。
「律さん」
将志が、屋上の扉から顔を出した。金髪に近い茶色の短髪。日焼けした肌。右腕には、律の文字を崩した小さな刺青。左耳には安全ピンのピアス。いつもの、忠犬のような笑顔。だが、今日は、その笑顔の奥に、緊張の色があった。
律は、将志を見た。
「どうだった」
将志は、律の隣に来ると、声を潜めた。
「調べました。御崎の野郎、昨日の夜、律さんのアパートに来る前に、グランヴェルド区の喫茶店で、連合の幹部と会ってたんすよ」
律は、目を細めた。
「相手は誰だ」
「名前は、たしか……鬼頭って男っす。ミナミガワ連合の、舎弟頭の一人だって噂っす。四十代後半で、いつも黒いスーツ着てる、目つきの鋭い男っすよ」
鬼頭。律も、名前だけは聞いたことがあった。ミナミガワ連合の中でも、特に冷酷な男として知られている。直接の暴力より、相手を精神的に追い詰めて、破滅させるのが得意な男。
「御崎は、鬼頭に、律さんが握ってる証拠のコピーを渡す約束をしてたんす。明後日の夜、ゴースト・タウンの廃工場で」
律は、将志の報告を、静かに聞いていた。
将志は、律の顔色をうかがいながら、続けた。
「律さん。俺、どうすればいいっすか。御崎の野郎、律さんを裏切ってる。俺が、今すぐにでも、あの野郎を——」
将志の声に、怒りが滲む。
「待て」
律は、将志の言葉を遮った。
「お前は、よくやった」
将志の顔が、ぱっと明るくなった。
「マジっすか! 律さんに褒められた!」
「ただし、御崎には手を出すな」
「えっ、なんでっすか! 裏切り者っすよ!」
律は、フェンスから背を離し、将志の方を向いた。
「御崎の裏切りは、利用できる」
将志は、首を傾げた。
「利用……っすか?」
「御崎は、明後日の夜、連合の鬼頭に証拠のコピーを渡す。その現場を、俺たちが先回りして押さえる」
律の声は、平坦で、感情がなかった。
「コピーを回収すれば、御崎の裏切りの証拠が手に入る。連合の幹部と、銀行頭取の息子が、秘密裏に会っていた。その記録は、御崎にとって、新しい弱みになる」
将志は、目を丸くした。
「なるほど! 御崎の裏切りを逆手に取るんすね!」
律は、頷いた。
「お前は、明後日の夜まで、御崎の動きを監視しろ。特に、鬼頭との接触を、もう一度でもしたら、すぐに知らせろ」
「任せてくださいっす! 俺、律さんのために、命懸けで働きますから!」
将志は、胸を張って言った。
律は、将志の顔を見た。
(こいつは、俺のために、本当に命を懸ける)
律は、将志の忠義心の重さを、静かに感じていた。将志は、律が人を弱みで縛るのではなく、ただ純粋に、律という存在に憧れ、従っている。その純粋さが、律には、時に眩しく、時に重かった。
「将志」
「はいっ!」
「お前は、俺の駒だ」
将志は、一瞬、きょとんとした。
「駒……っすか?」
「そうだ。だが、俺の駒の中で、一番信頼している」
将志の顔が、みるみるうちに赤くなった。
「り、律さん! それ、めちゃくちゃ嬉しいっす! 俺、律さんの一番の駒になれるように、もっと頑張ります!」
将志は、大声で叫んだ。
律は、将志の肩を、軽く叩いた。
「静かにしろ。授業が終わったら、また連絡しろ」
「了解っす!」
将志は、元気よく返事をすると、屋上の扉へ走っていった。
律は、再びフェンスに背を預けた。
(御崎は、俺の駒だ)
律は、将志に言った言葉を、心の中で繰り返した。
(だが、御崎は、将志とは違う。御崎は、恐怖と屈辱で従っているだけだ。だから、裏切る。だから、縛り直さなければならない)
律は、空を見上げた。
厚い雲の向こうで、太陽が、ぼんやりと光っていた。
---
明後日の夜。
ゴースト・タウン。
アッシュランド北部、グレン川沿いに広がる廃墟地帯。かつての工場労働者たちの住宅街が、今は誰も住まない空き家の群れになっている。道路は舗装されているが、穴だらけ。街灯はすべて壊れ、夜になると完全な闇に包まれる。
律は、将志と共に、ゴースト・タウンの外れにある廃工場の近くまで来ていた。
工場は、かつて鉄鋼を扱っていたらしい。巨大な建物が、月明かりに照らされて、黒い影を落としている。窓ガラスはすべて割れ、壁には落書きがびっしりと描かれている。
律は、工場から五十メートルほど離れた、廃屋の陰に身を潜めた。将志が、隣にいる。
「律さん、あれです。鬼頭の車っす」
将志が、工場の前に停まっている黒いセダンを指さした。
律は、頷いた。
時間は、夜の十一時五分前。御崎が律に教えた時間、十一時まで、あと少し。
律は、右手の甲を見た。火傷の痕が、闇の中で、ぼんやりと白く浮かんでいる。
(ここで、御崎は、俺を裏切る)
律は、その事実を、冷静に受け止めていた。
(そして、俺は、御崎を、二度と逆らえない場所まで、縛り直す)
律の胸の奥で、何かが、静かに、熱を持ち始めていた。
---
十一時。
御崎透が、廃工場の前に現れた。
玲明学園の制服ではなく、黒いコートを着ている。手には、封筒。証拠のコピーが入っているのだろう。御崎は、周囲を警戒しながら、工場の中へ入っていった。
律は、将志に目配せをした。
二人は、音を立てずに、工場の裏手へ回った。
工場の中は、薄暗く、鉄と油と、カビの匂いが混ざっていた。
律は、壁の穴から、中の様子を窺った。
工場の中央に、鬼頭が立っていた。
黒いスーツ。鋭い目つき。四十代後半の、痩せた男。ミナミガワ連合の舎弟頭。その隣には、二人の子分が、腕を組んで立っている。
御崎は、鬼頭の前に立っていた。
「……これが、約束のコピーです」
御崎の声が、かすかに聞こえた。
御崎が、封筒を差し出す。
鬼頭が、封筒を受け取ろうとした、その瞬間。
律は、動いた。
工場の裏口から、音もなく中へ入る。将志が、律の後ろに続く。
「待て」
律の声が、工場の中に、冷たく響いた。
鬼頭と子分たち、そして御崎が、一斉に振り返った。
御崎の顔が、青ざめた。
「り、律——!」
律は、ゆっくりと、御崎に近づいた。
「御崎。お前、俺に言ったよな。明後日の夜、連合の幹部と会う前に、俺を呼ぶって」
御崎の体が、震え始めた。
「そ、それは——」
「呼ばなかったな」
律の声は、平坦だった。だが、その平坦さが、御崎を追い詰める。
鬼頭が、一歩前に出た。
「お前が、葛葉剛の息子か」
鬼頭の声は、低く、威圧的だった。
律は、鬼頭を見た。
「あんたが、鬼頭か」
「ほう。俺のことを知ってるのか。だが、生意気なガキだな。ここがどこだかわかってるのか」
鬼頭の子分たちが、律と将志を囲むように動いた。
将志が、身構える。
律は、動じなかった。
「あんたに、用はない」
律は、御崎の手から、封筒を奪い取った。
「あ——!」
律は、封筒の中身を確認した。御崎の署名が入った、証文のコピー。間違いない。律が握っていた証拠の、複製だ。
「これは、俺のものだ」
律は、封筒を、コートの内ポケットにしまった。
鬼頭の目が、細くなった。
「ガキ。お前、今、自分が何をしたかわかってるのか」
鬼頭の声が、一段と低くなる。
「俺は、お前の父親の組なんか、いつでも潰せる。お前は、連合に逆らうのか」
律は、鬼頭の目を、まっすぐに見た。
「逆らうつもりはない。これは、俺と御崎の、個人的な問題だ」
律の声は、冷静だった。
「あんたは、御崎に利用された。銀行頭取の息子が、ヤクザの連合に泣きついてきた。その情報だけで、あんたには十分な価値がある。違うか」
鬼頭は、しばらく律の顔をじっと見ていた。
「……面白いガキだ」
鬼頭の口元が、わずかに歪んだ。
「だが、俺の前で、そんな口をきいていい身分か。お前の父親は、俺の下で、小さなシノギをしてるだけの、末端の組長だぞ」
律は、答えなかった。
鬼頭は、律の沈黙を、何かを見定めるように、しばらく眺めていた。
「……今日のところは、見逃してやる。ただし、二度と俺の前に現れるな。次に会ったら、お前の右手の甲を、もう一度、火で焼いてやる」
鬼頭は、そう言うと、子分たちを連れて、工場を出て行った。
黒いセダンのエンジン音が、遠ざかっていく。
工場の中に、律と、将志と、御崎だけが残された。
沈黙。
御崎は、その場に、へたり込んでいた。
「……君は、鬼頭さんに、逆らったんだよ。君は、もう終わりだ。連合に、消されるんだ」
御崎の声は、震えていた。
律は、御崎の前に立った。
「御崎。顔を上げろ」
御崎は、恐る恐る、顔を上げた。
律は、内ポケットから、封筒を取り出した。
「これは、お前の裏切りの証拠だ。お前が、連合の幹部と密会して、俺を排除しようとした記録。日付、場所、相手の名前。すべて、将志が記録している」
御崎の顔が、絶望に歪んだ。
「そ、そんな——」
「お前は、俺の駒だ」
律の声は、静かで、冷たかった。
「逃げられると思うな。お前がどこへ行こうと、誰に泣きつこうと、俺はお前を追い詰める。お前の父親の銀行も、お前の学校も、お前の未来も、すべて、俺の手のひらの上だ」
御崎の右の小指が、激しく震えた。
「……僕は、君の、駒なのか」
「そうだ。お前は、俺の駒だ。そして、駒は、主人に逆らってはいけない」
律は、御崎の目の前に、証文のコピーを、一枚、落とした。
「これは、お前に返す。だが、原本は、俺が持っている。お前の署名入りの証文。賭博場で胴元をやっている写真。そして、今夜の密会の記録。それらが、いつでもお前を破滅させられる」
御崎は、落ちたコピーを、震える手で拾った。
「二度と、俺を裏切るな。裏切ったら、次は、お前の父親の銀行に、すべてを送る」
御崎は、こくこくと頷いた。
「……わかったよ。僕は、君の駒だ。もう、逆らわない」
御崎の声は、涙で濡れていた。
律は、御崎に背を向けた。
「帰れ」
御崎は、這うようにして、工場から出て行った。
律は、その姿を、見送った。
---
夜のアッシュランド。
律は、自室のベッドに横たわっていた。
天井を見つめる。壁の向こうから、今日も、母のすすり泣きが聞こえる。父は、まだ帰っていない。
律は、右手を、顔の前に掲げた。
火傷の痕。
(勝った)
律は、心の中で、そう呟いた。
御崎の裏切りを逆手に取り、新しい弱みを握り、二度と逆らえない場所まで縛り直した。連合の鬼頭という男の存在を知り、その男に目をつけられたというリスクはある。だが、それ以上に、御崎という駒を、より強固に支配することに成功した。
(これで、御崎は、完全に俺の手札になった)
律は、そう思った。
だが、胸の奥には、別の感情があった。
(……愛)
律の脳裏に、あの夜の路地が浮かぶ。愛が、男たちに囲まれ、壁に押しつけられ、泣きながら律の名を呼んだ。律は、鉄パイプを振るった。骨が折れ、血が飛び散り、男たちが倒れた。
(愛は、どこにいる)
愛は、事件の後、姿を消した。家の事情で引っ越したという噂。だが、将志の調査では、引っ越しの形跡はない。部屋の明かりが、夜になると点いている時があるという。
(愛は、まだ、この街にいるのか)
律は、愛の失踪の真相を、まだ掴めていなかった。
(それとも、愛は、俺のせいで——)
律は、その先の考えを、振り払うように、目を閉じた。
(俺は、人を弱みで縛る)
律は、御崎を支配した時の、あの冷たい感覚を思い出した。支配の快感。相手が自分の手の中で、恐怖と屈辱に震えるのを見る、あの感覚。
(だが、それは、代償を伴う)
御崎の言葉が、蘇る。
『君は、いつか必ず、自分の握ったものに刺されるよ』
律は、右手の火傷の痕を、ぎゅっと握りしめた。
(俺は、刺される)
律は、その予感を、静かに受け入れた。
(それでも、俺は、この街を出る)
律は、目を開けた。
天井を見つめる。
(愛を見つける。そして、この街を出る。そのために、俺は、もっと強くなる)
律の瞳の奥で、何かが、暗く揺れていた。
---
数日後。
律は、将志と共に、アッシュランドの路地裏を歩いていた。
「律さん、次はどうしますか? 御崎の野郎も、もう大人しくなったし、俺、次の仕事、何でもやりますよ!」
将志は、相変わらずの大声で、律に問いかけた。
律は、前を見たまま、答えた。
「もっと大きな仕組みを作る」
将志は、首を傾げた。
「もっと大きな仕組み……っすか?」
「御崎は、銀行頭取の息子だ。あいつを介して、銀行そのものへ、影響力を広げる。そして、この街の金の流れを、俺が握る」
律の声は、静かで、決意に満ちていた。
「マジっすか! 律さんが、銀行を支配するんすか! かっけー!」
律は、将志の言葉を、聞き流した。
(支配される恐怖)
律は、鬼頭の目を思い出した。あの男は、律を「ガキ」と呼び、いつでも潰せると言った。律は、生まれて初めて、自分が「支配される側」になる恐怖を味わった。
(だから、俺は、支配する側になる)
律は、右手の甲を見た。
火傷の痕。
(何を使ってでも)
律の瞳の奥で、愛の行方への執着と、支配される恐怖とが、静かに、影となって揺れていた。
アッシュランドの空は、今日も厚い雲に覆われている。
星は、見えない。
だが、律の足音だけは、冷たい路地に、はっきりと響いていた。Noveliaとは?
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