パタ姉は転生してもサメが好きすぎる件について
春。エデン私立学園の入学式で、転入生のレイン・パターソンは一際注目を集めていた。銀髪に青い瞳、制服の上からでもわかる鍛えられた体躯。前の世界では、大切な仲間を守る凄腕のボディガードだった。でも今はただの高校一年生。そして不思議なことに、彼女の左胸のポーチには三本の煙草が入っている。彼女は吸わない。それは、もういない仲間たちのためのものだ。
レインの日常は、奇妙な出会いから始まる。明るいクラスメイトの陽菜は、なぜか彼女を「パタ姉」と呼んで懐いてくる。図書室で出会った物静かな少年カイは、傷だらけの彼女の手を見て言う。「誰かを守ってたんだろ?」そして水泳部のエース澪は、水を眺めるレインの姿に涙をこぼす。
「あなた……サメ、好きでしょ?」澪のその一言で、レインの中でスイッチが入る。そう、彼女はサメが好きすぎるのだ。前の世界で命を救われて以来、サメのぬいぐるみを集め、毎日サメ動画を観て、サメについて三時間は語れる。クールな外見とは裏腹に、サメの話題になると目を輝かせる。そのギャップに、陽菜もカイも澪も、気づけば惹かれていく。
しかし、学園の全員がレインを歓迎するわけではない。生徒会副会長の
パタ姉は転生してもサメが好きすぎる件について - 傷だらけの手と消えた三本 ―― 涙の理由、タバコの行方
放課後の図書室は、いつもより静かだった。
窓から差し込む午後の光が、本棚の背表紙を淡く照らしている。空気はひんやりとしていて、紙と古い木の匂いが混ざっていた。
レイン・パターソンは、窓際の席で一冊の図鑑を開いていた。
銀色のロングヘアが、ページをめくるたびにさらりと揺れる。深い青い瞳は、図鑑に描かれたサメの絵を真剣に見つめていた。
「……やっぱり、ホホジロザメの遊泳速度は時速五十キロを超えるのか」
小さく呟く。
図鑑のページには、大きなホホジロザメの写真が載っていた。流線型の体。鋭い歯。黒い瞳。
(……美しい)
レインは、そっとページをなぞった。
その指が、ふと止まる。
左手の甲。古い傷跡が、いくつも走っている。
白く盛り上がった線。引き攣れた皮膚。指の関節には、小さな切り傷の痕。
(……この手で、どれだけの人を守ってきたんだろう)
前世の記憶が、薄く蘇る。
剣を握った。盾を構えた。仲間の前に立った。何度も、何度も。
(でも、最後は——)
守れなかった。
カイルも。ソフィアも。グレンも。
レインは、静かに目を閉じた。
その時だった。
「……君」
低く、静かな声。
レインは、ゆっくりと顔を上げた。
隣の席に、いつの間にか一人の男子生徒が座っていた。
黒髪に一筋だけ白いメッシュ。前髪が左目を隠す長さで、深い緑色の瞳が、じっとレインの手を見つめている。
手には、古い革装の本。左手首には、古い革のブレスレット。
(……いつからそこに?)
レインは、一瞬で警戒を強めた。
気配を感じなかった。
ボディーガードとしての感覚が、この少年を「只者ではない」と告げている。
「……何か用か」
レインは、感情を消した声で言った。
少年は、本を閉じる。
「海堂カイ。二年生。図書委員をしている」
「……知っている。同じクラスの転入生を、知らないわけがないだろう」
「ふぅん」
カイは、静かに笑った。
「君、その手——誰かを守ってたんだろ」
レインの指が、ぴくりと動いた。
「……何の話だ」
「傷の入り方が、そう言ってる」
カイは、自分の手をテーブルに置いた。
長い指。本をめくるのに慣れた、綺麗な手。
「人の手の傷は、その人の生き方を映す。料理人の火傷、職人の切り傷、農家の皹——そして、護る者の傷」
カイの緑色の瞳が、レインの手をじっと見る。
「君の傷は、護り方を知ってる人間の傷だ。それも、何度も本気で守った人間の」
レインは、無言でカイを見返した。
心臓が、早くなる。
(……見抜かれた)
初対面で。たった一瞬で。
この少年は、自分の核心に触れた。
「……詮索するな」
レインは、低く言った。
「別に、詮索するつもりはない」
カイは、肩をすくめる。
「ただ、その手を隠さないでいいんじゃないかと思っただけだ」
「……隠してなどいない」
「隠してる。無意識に、手を握りしめてる。今も」
レインは、自分の手を見た。
いつの間にか、拳を握っていた。
(……本当だ)
「……君は、何者だ」
「ただの図書委員。本を読むのが好きなだけの、普通の二年生」
「普通の二年生が、人の手の傷を見て、そこまで言うか」
「普通の二年生だから言うんだよ」
カイは、静かに微笑んだ。
「君の手は、綺麗だ。傷があっても、護るための手だって分かる。……僕には、そんな手はない」
レインは、返す言葉を失った。
(……綺麗?)
この傷だらけの手が?
「……失礼する」
レインは、図鑑を閉じて立ち上がった。
これ以上、この少年の前にいてはいけない。
(……心を乱される)
レインは、足早に図書室を出た。
カイは、追いかけなかった。
「……守るって、そういうことだよ」
カイは、小さく呟いた。
その声は、もうレインには届いていなかった。
サメ観察ポイントは、中庭の池から湖に繋がる水路沿いにあった。
夕方の風が、湖面を撫でていく。
レインは、木製のベンチに一人で座っていた。
(……海堂カイ)
図書室での会話が、頭から離れない。
(あの少年は、何か知っているのか? それとも、ただの勘か?)
銀色の髪を、風が揺らす。
湖の水面が、夕日を反射してきらきらと光っていた。
「……水の音」
レインは、目を閉じた。
水の音が、心を落ち着かせる。
前世の記憶。戦場の音。剣のぶつかる音。仲間の叫び。
(……今は、静かだ)
その静けさが、少しだけ怖い。
「……あ」
小さな声が聞こえた。
レインが目を開けると、一人の少女が立っていた。
水色のロングヘア。深い藍色の瞳。透き通るように白い肌。
水泳部のユニフォームを着ている。
「水無瀬……澪」
「……こんにちは。レインさん」
澪は、少しだけ頭を下げた。
「すみません。お邪魔でしたか」
「……いや。別に」
澪は、レインの隣に腰を下ろした。
二人の間に、少しだけ距離がある。
澪は、湖面を見つめていた。
「……水の音が、聞こえます」
「……ああ」
「私は、水の音を聞くと、落ち着くんです。小さい頃から、ずっと」
澪の声は、柔らかくて、静かだった。
「……そうか」
レインは、澪の横顔を見た。
水色の髪が、夕日に透けて、淡く光っている。
(……綺麗だ)
そう思った瞬間。
澪の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……え?」
澪は、自分の頬に触れた。
「あれ……なんで……」
涙が、止まらない。
次から次へと、澪の頬を伝っていく。
「ごめんなさい。なんでもないの。本当に、なんでもないんです」
澪は、慌てて手で顔を拭った。
でも、涙は止まらない。
「……水無瀬」
レインは、ポケットからハンカチを差し出した。
「……使え」
「すみません……」
澪は、ハンカチを受け取って、涙を拭いた。
「私、変ですよね。急に泣いたりして」
「……理由、わからなくてもいい」
レインは、湖面を見つめながら言った。
「涙は、勝手に出るもんだ。私も、そうだった」
「レインさんも?」
「……昔の話だ」
レインは、小さく息を吐いた。
前世の記憶。仲間を失った夜。涙が止まらなかった。
(……あの時は、泣くことさえ許されなかったけど)
澪は、ハンカチを握りしめたまま、レインの横顔を見た。
銀色の髪。深い青い瞳。
その横顔を見た瞬間、また涙が溢れそうになった。
(……どうして?)
澪は、自分の心が分からなかった。
でも、一つだけ、確かなことがある。
(この人のそばにいたい)
澪は、涙を拭きながら、小さく笑った。
「……あなた、サメが好きなの?」
その一言で、レインの目が、すっと変わった。
「……ああ。好きだ」
「そうなんですね。私も、サメ……少しだけ、興味があります」
「少しだけ? 少しだけじゃダメだ」
レインは、澪の方を向いた。
「サメはいいぞ。まず、サメは四億年以上前から存在している。恐竜より古いんだ。それから、サメの骨格は軟骨でできていて、歯は何度でも生え変わる。種類は約五百種。ホホジロザメ、ジンベエザメ、シュモクザメ——」
「……レインさん、落ち着いてください」
「落ち着いている。これは重要な話だ。それで、サメの皮膚は歯と同じ構造で、触るとザラザラしている。でも、撫でる方向を間違えると手を切る。そう、サメはいいぞ」
澪は、目を丸くした。
「……すごいです。本当に、サメが好きなんですね」
「ああ。サメは最高だ。特に、私のぬいぐるみのサメッチは、ホホジロザメを忠実に再現していて——」
「サメッチ?」
「私のサメのぬいぐるみだ。前世——いや、前から持っている。特注品で、尾びれの角度が絶妙で、口の中の歯まで再現されているんだ」
澪は、レインの話を聞きながら、くすっと笑った。
「レインさん、サメの話をすると、すごく楽しそう」
「……そうか?」
レインは、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「ええ。目が、きらきらしてます」
「……きらきらは、していない」
「してます」
澪は、柔らかく笑った。
「……なんだか、私まで嬉しくなってきました」
澪は、湖面を見つめた。
夕日が沈みかけている。空が、オレンジ色に染まっていた。
「レインさん」
「……なんだ」
「また、ここで会えますか」
澪の声は、少しだけ震えていた。
「……私は、放課後はだいたいここにいる」
「じゃあ、また来ます」
澪は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、レインの胸が、少しだけ温かくなった。
(……守りたい、か)
レインは、心の中で呟いた。
「パタ姉ーーーっ!!」
元気な声が、遠くから聞こえた。
オレンジ色のショートボブが、夕日の中を跳ねるように走ってくる。
「あ、澪ちゃんもいる! 二人で何話してたの!?」
陽菜は、息を切らしながらベンチに到着した。
「……サメの話だ」
「えー! あたしも聞きたかった! パタ姉のサメ講座、最高なのに!」
「……サメ講座ではない」
「サメ講座だよ! 三時間コースでしょ? あたし、この前聞いたもん!」
陽菜は、えくぼを見せて笑った。
澪は、そんな二人のやり取りを、微笑ましそうに見ていた。
「……三人で、もう少しここにいましょうか」
「さんせーい! ね、パタ姉、サメの続き、聞かせて!」
「……続きは長いぞ」
「大丈夫! 時間ならいっぱいあるよ!」
レインは、小さくため息をついた。
でも、その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「……分かった。サメの嗅覚について話そう。サメは、一リットルの水に一滴の血が混ざっても、それを感知できると言われている」
「すごいすごい!」
「……本当に、すごいです」
三人の声が、夕暮れの湖畔に、静かに響いていた。
その夜。
レインは、寮の自室に戻った。
部屋の明かりをつける。サメのポスターが、壁を埋めている。ベッドの上には、サメッチのぬいぐるみ。
レインは、制服の左胸に手を当てた。
「……?」
指先が、空を切った。
(……ない)
レインは、ポーチを探った。
ない。
三本のタバコ。
カイル。ソフィア。グレン。
三人の形見。
「……どこだ」
レインは、部屋中を探した。
机の上。ベッドの下。カバンの中。ポケット。
ない。
どこにも、ない。
「……嘘だ」
レインの声が、震えた。
窓の鍵は、内側からかかっている。
外部からの侵入の形跡は、ない。
(……どういうことだ)
レインは、もう一度、ポーチを確認した。
空っぽだった。
「……カイル……ソフィア……グレン……」
レインは、名前を呼んだ。
返事はない。
当たり前だ。
三人は、もういない。
前世の戦場で、死んだ。
自分が守れなかったから。
「……ああ」
レインの視界が、赤く染まった。
血の色。
前世の記憶が、怒涛のように押し寄せる。
剣を振るう感覚。敵の断末魔。仲間の血の匂い。
指先が、疼く。
(……殺してやる)
誰かが、頭の中で囁いた。
(奪った奴を、殺してやる)
レインは、拳を握りしめた。
爪が、掌に食い込む。
血が、滲んだ。
「……違う」
レインは、歯を食いしばった。
「……もう、拳では解決しない」
自分に言い聞かせる。
「……そう決めたんだ」
レインは、ゆっくりと息を吐いた。
視界の赤が、少しずつ薄れていく。
指先の疼きが、治まっていく。
「……でも」
レインは、崩れるように床に座り込んだ。
「……あれは、私の全てだった」
タバコは、仲間との唯一の繋がりだった。
失うことは、また守れなかったという罪悪感を、突きつけられることだ。
「……ごめん」
レインは、誰にともなく謝った。
「……ごめん、みんな」
涙は、出なかった。
前世の自分は、泣くことを許されなかった。
だから、今の自分も、泣けない。
「……今度こそ、守る」
レインは、床に手をついた。
「……絶対に、失わない」
その声は、暗い部屋に、静かに消えていった。
翌朝。
レインは、ほとんど眠れないまま、学校へ向かった。
廊下は、朝の光で明るい。
生徒たちのざわめきが、遠くに聞こえる。
レインは、俯きがちに歩いていた。
「レイン・パターソンさん」
凛とした声。
レインは、足を止めた。
振り返ると、綾女菖蒲が立っていた。
黒髪ストレートのロングヘア。紫色の瞳。
生徒会副会長。
完璧な姿勢で、レインを見つめている。
「……綾女」
「おはようございます。少し、お時間よろしいかしら」
「……何の用だ」
レインの声は、低く、硬かった。
菖蒲は、一歩、レインに近づいた。
「……あなたの過去を知っています」
レインの呼吸が、止まった。
「誓約守護者。最年少でその称号を得て、そして——」
菖蒲の紫色の瞳が、レインを真っ直ぐに見る。
「仲間を三人、守れなかった」
レインは、言葉を失った。
(……知っている)
この世界で、自分の過去を知る者など、いるはずがない。
(……どうして)
「……あなた、何者だ」
「私は、この学園の生徒会副会長。そして、学園の平和を守る者です」
菖蒲は、静かに言った。
「あなたがこの学園にいる限り、私はあなたを監視します」
「……監視?」
「ええ。あなたは、危険です。前世の戦歴も、今のあなたの存在自体も」
菖蒲は、一歩、レインに近づいた。
「タバコのことも、いずれ話してもらいます」
レインの目が、鋭くなった。
「……タバコを、知っているのか」
菖蒲は、答えなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「それでは、失礼します」
菖蒲は、背を向けて去っていった。
黒い髪が、廊下の光を反射して、揺れる。
レインは、その場に立ち尽くした。
(……私の過去が、完全に把握されている)
恐怖。
(……そして、タバコを狙う人物が、生徒会内部にいる可能性)
レインは、拳を握りしめた。
(……動き出している)
その日の夕方。
レインのスマートフォンが、震えた。
見知らぬ番号からのメッセージ。
『タバコは預かった。湖畔の桜並木、明日の午後五時。来なければ、燃やす』
レインは、画面をじっと見つめた。
(……やはり、盗まれたんだ)
怒りが、湧き上がる。
(……燃やす? あのタバコを?)
レインは、スマートフォンを握りしめた。
画面が、軋む。
(……陽菜に相談するか? いや、カイや澪にも?)
レインは、首を振った。
(……ダメだ。仲間を危険に巻き込めない)
前世の罪悪感が、胸を締め付ける。
(……また、失うかもしれない)
でも、タバコだけは、失えない。
「……単身で行く」
レインは、静かに決意した。
夜。
レインは、寮の窓から、ミラーレイクを見つめていた。
月明かりが、湖面に反射して、銀色に光っている。
「……今度こそ、守る」
レインは、呟いた。
「……絶対に、失わない」
その声は、静かだった。
でも、その奥に、前世の戦士の覚悟が、確かに宿っていた。
同じ時刻。
図書館地下の特別資料室。
サメのポスターが貼られた、小さな部屋。
「……パタ姉、なんか変だったよね」
陽菜は、机に突っ伏しながら言った。
「今日、ずっと顔色悪かったし、話しかけても上の空だったし……」
「……そうだね」
カイは、本を読みながら答えた。
「カイ君、何か知らない?」
「……図書室で、少し話した。彼女の手は、誰かを守ってきた手だ」
「手?」
「傷だらけの手。護る者の傷」
カイは、本を閉じた。
「……彼女は、何かを抱えている。それも、一人で抱えきれないほどのものを」
「……あたし、パタ姉の力になりたい」
陽菜は、顔を上げた。
「……明日、尾行しよう」
「え?」
「彼女、明日、一人でどこかに行く気だ。放課後の様子が、そう言ってた」
「……尾行って、そんなことしていいの?」
「……良くはない。でも、彼女を一人にしないためには、必要だ」
カイの緑色の瞳が、静かに光った。
「……守るって、そういうことだよ」
陽菜は、カイの言葉に、こくりと頷いた。
湖の底では、今日も、何かが静かに動いていた。Noveliaとは?
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