呪われパティシエは異世界騎士に恋をする
二十二歳のパティシエール、桃瀬莉子には大きな問題があった。彼女はとんでもない呪いにかかってしまったのだ――異世界の素材でしかお菓子を作れなくなってしまったのだ。
普通のイチゴで焼こうとすれば生地は溶け、普通の砂糖を使えば全てが炭になってしまう。まったく意味がわからない――でも、呪いだから仕方ない。
すべては三ヶ月前、莉子がジャンクショップで買った光るエプロンを身に着けたことから始まった。するとポータルが現れ、「ルカの世界へようこそ」という声が響き、彼女の生活は一変した。今や現実世界とルカを行き来しながら、星のように輝く蜂蜜や虹色のベリー、空気のように軽い砂糖など、魔法の素材を探し求めている。呪いは辛いが、素材は驚くほど素晴らしい。
そこで出会ったのが、銀の鎧をまとい黄金の瞳を持つ騎士、エルド・ヴァレイン。彼は莉子がルカに現れるたびに逮捕しようとする厄介な男だ。しかし、彼が彼女のお菓子を一口食べると、顔を赤らめて黙り込んでしまう。厳格な騎士でさえ魔法のお菓子には抗えないのだ。徐々に、ぎこちなくも彼は莉子を手助けし始め、莉子のルカへの旅はずっと楽しいものになっていく。
現実世界では
呪われパティシエは異世界騎士に恋をする - 虹色のベリーと不器用な騎士——転んでも、手は離さない
昨日エルドが「監視が必要だ」と言った時の顔を、莉子はまだ覚えていた。
あれは絶対に照れ隠しだ。
根拠はない。でも、なんとなくそう確信している。莉子は今朝もアトリエ・モモのキッチンでエプロンの刺繍に指を触れながら、そんなことを思っていた。ルーカの空気が恋しいのか、それともあの不器用な騎士が気になるのか、自分でもよく分からないまま、光の門をくぐった。
フィーロの丘。銀色の草原、甘い空気、古い石碑。
エルドはもうそこにいた。腕を組んで、難しい顔をして。
「[serious]遅い」
「[laughing]いつもここにいるね、エルドさん。もしかして朝から張り込んでた?」
「[cold]巡回だ」
そっぽを向く。耳がちょっと赤い気がする。莉子はリュックを直しながら笑いをかみ殺した。
「今日はどこ行くの?」
「[serious]……ついてこい」
それだけ言って歩き出した。相変わらず前置きがない。莉子は小走りで追いかけながら、その背中に問いかける。
「どこまで行くの?」
「[serious]ティノーラ丘陵だ。東へ45km。プリズマベリーの自生地がある」
「プリズマベリー!」
莉子の目が輝いた。プリズマベリー——7色に変化する果実で、食べる人の気分で味が変わる。ラ・レコルトで見たことはあるけれど、産地直送は別格だと聞いていた。
「でもそこって、ティルナードの巡回ルートじゃないよね。確か王都の西と北しか……」
「[cold]……その通りだ」
歩みが一瞬、ほんの一瞬だけ止まった。
「じゃあなんで——」
「[serious]今日の外出届には、食材産地の安全確認と記録した。異界渡航禁止令の調査に関連する任務だ。お前の呪いを解くためにルーカの食材事情を把握することは、騎士として必要な調査と判断した」
一気に言い切った。まるで覚えてきた台詞みたいに。
莉子は数秒、沈黙した。
「[surprised]えっと……それって、あたしのために外出届に嘘ついたってこと?」
「[cold]嘘ではない。異界渡航禁止令の調査という文脈では——」
「エルドさん」
「……何だ」
「ありがとう」
エルドは前を向いたまま、何も言わなかった。でも首のあたりが、じわっと赤くなった。
「うるさい、歩け」
「歩いてるよ!」
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ティノーラ丘陵までの道は、思ったより楽しかった。
エルドは無口だけど、莉子が話しかけると短く答えてくれる。王都の外れに広がる麦畑を通り過ぎるとき、農家のおじさんが手を振った。エルドが無言で会釈を返したのを見て、莉子はちょっとほっこりした。あの人、こういうところは律儀なんだよなぁ。
「ティノーラってどんなとこなの?」
「[serious]緩やかな丘が連なる。プリズマベリーが群生していて、景色は……まあ、悪くはない。ただし、エピーヌという小型の魔獣がいる」
「エピーヌ?」
「[serious]トゲ付きのハリネズミ型だ。体長30センチほどだが、トゲに軽い痺れ毒がある。果実を守っているから、採取には少しコツが要る」
「ちっちゃいハリネズミ……かわいい」
「[cold]毒があると言った」
「かわいいけど毒がある、ね」
エルドが眉間に皺を寄せた。莉子は笑った。
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ティノーラ丘陵に着いたのは、昼前ごろだった。
丘を登った瞬間、莉子は声を失った。
視界いっぱいに、色が広がっている。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。風に揺れるたびに色が変わって、まるで生きているみたいにきらめいている。プリズマベリーだ。丘の斜面が、まるごと虹色に染まっていた。
「マジで……」
ぽかんと口を開けたまま、その光景を見つめる。
エルドが横を歩きながら、さりげなく言った。
「[serious]……悪くないだろう」
「悪くない?! めちゃくちゃきれいじゃん!!」
「声が大きい。エピーヌが逃げる」
「あ、そっか」
莉子は声を落とした。そしてリュックから籠を取り出し、丘の斜面をゆっくり下り始めた。足元に気をつけながら、一粒ずつ丁寧に摘んでいく。ベリーを指で触れると、触った瞬間に色が変わった。紫から青へ。これが7色に変わるってやつか。すごい。
「エルドさん、これ——」
足が止まった。
丘の端の方。崖のすぐ際に、一番大きいプリズマベリーの株があった。実が群れてついていて、色が濃い。鮮度が違う。あれを採ったら、すごいタルトができる。
パティシエとしての本能が、一歩踏み出させた。
さらに一歩。崖の縁まで、あと30センチ。草が足元で揺れる。手を伸ばせば届く。もう少し——
「[cold]おい」
エルドの声が後ろから飛んできたのと、足元の土が崩れたのは、ほぼ同時だった。
ズルッ、という感触。崖の縁が、崩れた。
落ちる——と思った瞬間、強い力が莉子の手首を掴んだ。
ガッ、と引かれる。体が宙を浮く。次の瞬間、莉子は丘の上に立っていた。
草の上に両足が戻った。でも体が止まらなくて、そのままエルドの胸に向かって倒れ込みそうになった。エルドが空いた方の腕で支える。
しばらくの間、二人とも動かなかった。
莉子はゆっくり顔を上げた。
エルドの顔が、すぐそこにある。
金色の目が、真正面にある。距離で言えば10センチもない。エルドの息遣いが、わずかに乱れている。
どくん。
胸の奥で、何かが大きく動いた。
(え、なに、これ……)
莉子の顔が、じわじわと熱くなる。なんで。なんでドキドキしてるの。エルドさんだよ。いつも不機嫌で、口が悪くて、規則の抜け穴を自分で作っておいてドヤ顔する——
「[serious]……籠を、確認しろ」
エルドが先に口を開いた。
声が、少しだけ低かった。
莉子は反射的に籠を見た。中のプリズマベリーが半分ほど残っている。転落しかけた時、いくつか落ちてしまったらしい。
「あ! ベリーが——!」
「[cold]…………」
エルドの目から、何かが消えた気がした。脱力、というか、呆れというか。
「[angry]今お前が落ちかけたんだぞ」
「そうなんだけど、でも一番いいやつが崖の際に——」
「[cold]不注意だ」
言いながら、エルドが顔を逸らした。
そこで莉子は気づいた。
エルドが、まだ自分の手首を握っている。
さっき引き上げてくれた時の形のまま、手首を包むように。離そうとしているのかどうかも分からないくらい、そっと。でも、確かに。
「[surprised]あの、エルドさん」
「[cold]……歩け」
やっと手が離れた。エルドは即座に背を向けて、丘の上の方へ歩き始めた。耳が、赤い。首まで赤い。
莉子はその背中を見ながら、さっきの感覚を思い出した。胸の奥の、あのどくんという感触。なんだったんだろう。びっくりしたから? 落ちかけたから?
(たぶん、そう、だよね)
莉子はリュックを背負い直して、エルドの後を追った。
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採取を終えて、二人は丘のふもとに下りた。
もう夕方に近い。橙色の光が丘全体を染めて、プリズマベリーの色が溶け込んでいる。野営の休憩地点——エルドが事前に目をつけていた平らな岩場の近くに、莉子はリュックを広げた。
「せっかくだし、お礼に何か焼くね」
「[cold]不要だ」
「もう出してるよ」
エルドが振り返った時、莉子は携帯の簡易バーナーをすでに点火していた。小さいやつで、ルーカに持ってくるのに都合がいい。あとはリュックの中に現地調達した材料——ルーカの市場で買ったバター、粉、卵。そして今日採ったプリズマベリー。
「[serious]どうやって……」
「いつでも簡単なお菓子が作れるように準備してるんだ。あたしパティシエだし」
エルドは何かを言いかけて、やめた。岩に腰を下ろして、腕を組む。
莉子はタルトの台を手早く作りながら、プリズマベリーを並べた。バーナーの上の小さなフライパンで、じっくり熱を通す。ベリーが加熱されると、色の変化がゆっくりになる。やがて落ち着いた深い紫色になった。甘い匂いが漂い始めた。
「プリズマベリーって、食べる人の気分で味が変わるんだよね」
「[serious]……そう聞いている」
「だからエルドさんが食べると、どんな味になるか気になって。今の気分で決まるんでしょ?」
エルドが眉間に皺を寄せた。
「[cold]なぜ俺が検体にされているんだ」
「検体じゃなくてモニターだよ。最初の一人目ってことで」
「…………」
言い返せないらしい。莉子はタルトを岩の上に置いて、エルドに差し出した。
エルドはしばらく眺めた。それから、観念したように一口かじった。
沈黙。
バーナーが静かに燃える音だけがしている。夕風が丘を渡る。
エルドは動かなかった。咀嚼する音も、飲み込む気配も、しばらくなかった。
「[whispers]……甘い」
小さく、本当に小さく言った。
口の端が、少しだけ上がった。
ほんの少し。でも確かに、笑っていた。
莉子は、その表情を見た瞬間——胸の奥で、あのどくんという感触がまた来た。さっきより、大きかった。
(え。ちょっと待って)
「[excited]甘いってことは、今いい気分ってこと! プリズマベリーって正直だね、エルドさんの気分が分かっちゃった」
エルドが皿を置いた。
「[cold]……そういう話ではない」
「え? だって食べる人の気分で——」
「[cold]うるさい」
そっぽを向く。でも皿はまだ自分の膝の上にある。もう一口食べようとして、気づいたのか、止まる。
莉子は笑いをこらえながら、自分のタルトをかじった。
甘い。でも、少し違う味がする。ちょっとだけ複雑で、なんだかもどかしい。これが今の自分の気分? どういう気分なんだろう。莉子はそれがよく分からなかった。
夕日が丘を真っ赤に染めている。
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エルドが静かに口を開いたのは、食事が終わってしばらく経ってからだった。
ぼんやりと莉子のエプロンを見ている。刺繍の模様を、目でなぞるように。
「[serious]……そのエプロンの刺繍を、俺は知っている」
莉子は顔を上げた。
「ポルティエのエプロン? 古道具屋で買ったやつだけど……」
「[serious]200年前の古文書の中に、これとまったく同じ図案が記録されていた。王宮の文書庫で見た。俺はずっと気になっていたが、今日確信した」
エルドの声が、低く静かになった。いつもの厳格な騎士の口調ではなく、何かを思い出しているような、慎重な言い方だった。
「[serious]エプロンの渡り事件——200年前、ルーカと異世界が一時的に繋がった記録がある。当時、異世界の遺物がいくつかルーカに持ち込まれた。そのうちの一つの目録に、この紋様が載っていた」
莉子の顔から、笑顔が消えた。
「じゃあこのエプロン……200年前のもの?」
「[serious]可能性が高い」
しばらく、どちらも黙った。
200年前。それはつまり、このエプロンはただの古道具じゃなかったってこと。古道具屋のカヅキさんが勧めてきた理由も、あの人が何か知っているような目をしていた理由も——
「調べればわかるか、な……」
独り言みたいに言うと、エルドが真正面を向いた。
「[serious]王宮の古文書庫なら詳しい記録が残っているはずだ。当時の遺物目録、渡り事件の経緯、エプロンの由来——全部調べられる」
間があった。
エルドは岩の縁を指で叩いた。それから、少し顎を引いて言った。
「[serious]……俺が調べてやる」
ちょっと間があった。
「[cold]お前のためではない。異界渡航禁止令に関わる調査は騎士の職務だ。そういう文脈での話だ」
付け加えた言葉の方が長かった。莉子は素直にうれしくなった。
「ありがとう、エルドさん」
エルドが今度は上を向いた。空を見る。夕焼けを見る。とにかく莉子の方を見ない。
「[cold]……礼は不要だ」
「いや、うれしいから言いたいんだよ」
「[cold]聞いていない」
「聞こえてるよね」
「……………」
沈黙で答えた。でも空から目を離さないまま、エルドが短く息をついた。怒っているわけじゃない、ということだけは莉子にも分かった。
もう一度、胸の奥が温かくなる。
あの感触が、さっきより落ち着いた形で、でも確かにそこにある。
莉子は膝に顎を乗せて、夕焼けを眺めた。残り19日。まだ先は長い。でも今日は、少しだけ前に進んだ気がした。
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フィーロの丘に戻った時、空はすっかり暗くなりかけていた。
莉子はエプロンに手を触れた。ポータルを開く準備をする。
「じゃあまた明日来ても——」
「[cold]来るな」
「えっ」
エルドが言いかけて、止まった。何かを考えるような間があった。
「……来るなとは、言えないな。監視が必要だ」
「さっきと真逆じゃん」
「[cold]黙れ。それより早く帰れ」
莉子が笑いながら光の門に踏み込もうとした時、エルドの視線が丘の外側に向いた。
一瞬だけ、表情が変わった。
丘の下の方——農道に沿った木の陰に、人影があった。銀色の鎧の端が、夕暮れの光を弾いている。ティルナードの騎士だ。こちらを見ている。手に何かを持っている。紙だ。外出記録か届け出のような——
騎士は視線をエルドに向けて、短く何かを呟いた。それから踵を返して、王都の方向へ歩き始めた。
エルドの顔が、すっと引き締まった。
「[serious]……」
「どうしたの? あの人、知ってる人?」
「[cold]気にするな」
笑顔を作ろうとして、うまくいかなかった。口の端が少し上がって、すぐ戻った。
莉子はその表情を見た。何かまずいことが起きたんだな、というのは分かった。でもエルドが「気にするな」と言うなら、今日は聞かないでおこうと思った。
「また明日ね、エルドさん」
エルドは答えなかった。でも莉子が光の門をくぐる最後の瞬間、横目でこちらを見た気がした。
光が閉じた。
アトリエ・モモのキッチンが戻ってくる。東京の夜の空気が、ルーカの甘さとは全然違う匂いで肺に入ってくる。
莉子はエプロンを外しながら、今日のことを思い出した。崖の縁、エルドの手、あのどくんという感触。プリズマベリーのタルト。「甘い」と言った時の、あの小さな笑顔。200年前の古文書。調べてやると言った声。
(なんで、あんなに胸がドキドキしたんだろう)
莉子はリュックをテーブルに置いて、首を傾けた。本当に不思議だ。びっくりしたから? 近かったから? よく分からない。
リュックの中に残ったプリズマベリーが、テーブルの上に転がった。薄暗いキッチンの中で、ひとりでに色が変わっていく。紫から青へ、青から緑へ。
莉子は一粒つまんで口に入れた。
甘い。でもどこかもどかしい。どうしてかは、まだよく分からなかった。