呪われパティシエは異世界騎士に恋をする
二十二歳のパティシエール、桃瀬莉子には大きな問題があった。彼女はとんでもない呪いにかかってしまったのだ――異世界の素材でしかお菓子を作れなくなってしまったのだ。
普通のイチゴで焼こうとすれば生地は溶け、普通の砂糖を使えば全てが炭になってしまう。まったく意味がわからない――でも、呪いだから仕方ない。
すべては三ヶ月前、莉子がジャンクショップで買った光るエプロンを身に着けたことから始まった。するとポータルが現れ、「ルカの世界へようこそ」という声が響き、彼女の生活は一変した。今や現実世界とルカを行き来しながら、星のように輝く蜂蜜や虹色のベリー、空気のように軽い砂糖など、魔法の素材を探し求めている。呪いは辛いが、素材は驚くほど素晴らしい。
そこで出会ったのが、銀の鎧をまとい黄金の瞳を持つ騎士、エルド・ヴァレイン。彼は莉子がルカに現れるたびに逮捕しようとする厄介な男だ。しかし、彼が彼女のお菓子を一口食べると、顔を赤らめて黙り込んでしまう。厳格な騎士でさえ魔法のお菓子には抗えないのだ。徐々に、ぎこちなくも彼は莉子を手助けし始め、莉子のルカへの旅はずっと楽しいものになっていく。
現実世界では
呪われパティシエは異世界騎士に恋をする - 焦げたタルトと光るハチミツ——呪いのエプロン、はじめての異世界
生地が、溶けている。
どろどろと、まるでチョコレートフォンデュみたいに。でもここはフォンデュの鍋じゃない。タルト型だ。さっきまでちゃんとしたパイ生地だったはずなのに。
桃瀬莉子は手を止めて、台の上の惨状を見つめた。
「……なんで」
呟きが、工房に吸い込まれていく。
東京・目黒区の住宅街にある小さなマンションの1階。6畳ほどのキッチン工房に、今日も業務用オーブンのファンが静かに回っている。壁には製菓道具がずらりと並び、冷蔵庫は2台。莉子のアトリエ・モモは、こじんまりしてるけど、莉子にとっては一番好きな場所だ。
はずだった。3ヶ月前までは。
莉子は深呼吸して、もう一度チョコレートに目を向けた。火もつけていないのに、ボウルの中でチョコがじわじわと黒ずんでいく。焦げたにおいがほわりと漂う。
「[angry]焦がしてないのに焦げてる!!」
絶叫した。
エプロンを見る。白いシャツと黒のスラックスの上に巻いた、くすんだ色のエプロン。刺繍がいっぱい入った、一見かわいい布の塊。これを買ったのは3ヶ月前のことだ。目黒区の裏通りにある古道具屋「クロニカ」で、白髪の老女・カヅキさんに勧められて購入した。2,000円だった。安かった。それが落とし穴だったのかもしれない。
エプロンを着けた瞬間、キッチンの床に光の門が開いた。そこから聞こえてきた声が言った。
「ルーカの世界へようこそ」
それが全ての始まりだった。
莉子は一つため息をついて、溶けた生地をゴミ袋に捨てた。今日これで3回目の失敗だ。スーパーで買った苺は、触れた瞬間からなぜか黒くなり始めた。薄力粉は計量している途中で勝手に固まった。そしてチョコは、火にもかけていないのに焦げた。
これが「食材束縛の呪い」だ。
現実世界の食材では、何を作っても必ず失敗する。生地が溶ける。素材が腐る。焦げる。これはもう莉子が試行錯誤でたどり着いた結論ではなく、呪いそのものの仕様らしかった。使えるのはルーカの食材だけ。それだけが唯一の解決策だった。
莉子は台を拭きながら、ちらりと手帳を確認した。今日の予定が書いてある。
「今日はもう1回分使っちゃったから、残り2回。時間も6時間ぴったりね」
独り言を言いながら、ペンを走らせる。
ポータルは1日に3回まで開ける。1回の滞在は最大6時間。そして出口は必ずルーカ側の「フィーロの丘」に固定されている。3ヶ月でようやく体に染み込んだルールだ。最初は時間を忘れて大変なことになったこともある。今はタイマーをスマホに3つセットしている。
台所の壁時計は午前10時を指していた。
「よし。行くか」
エプロンの刺繍に指を触れる。ざらっとした、独特の手触り。古代ルーカ文字が縫い込まれているらしいが、莉子には読めない。ただ、触れて念じるだけでいい。
光が、足元から広がった。
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キッチンの床が消えた。
次の瞬間、足の裏に感じるのは柔らかい土の感触。草のにおい。澄んだ空気が、肺いっぱいに広がる。
フィーロの丘だ。
膝丈まで伸びた銀色の草が、風に揺れている。東京の空気とは全然違う。なんというか、甘い。草の匂いだけじゃなくて、空気自体が少しだけ甘い。最初に来たときは驚いたけど、今はもうすっかり慣れた。
丘の頂上には古い石碑が立っている。表面に刻まれているのは、エプロンの刺繍と同じ古代ルーカ文字だ。誰が建てたのか、いつ建てたのかも分からない。莉子は最初の頃から気になっているけど、まだ調べられていない。
丘から見渡すと、北の方角に白い城壁が霞んで見える。
王都ブランシェール。ルーカの首都だ。人口約15万人の白い石造りの街で、中央には王宮パレ・ドレがそびえているらしい。モン・サン=ミシェルみたいな感じかな、と莉子はいつも思っている。実際に行ったことはないけれど。
城壁へと向かう道の途中、農家の煙突から煙が上がっている。木造の家、馬車の轍が残った土の道。どこを見ても中世ヨーロッパみたいな風景で、はじめて来たときは本当に声が出なかった。今は「あ、今日も晴れてる」くらいの気持ちで眺めている。
莉子はフィーロの丘を下り始めた。今日の目的地は北、ミエーラの森だ。
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30分ほど歩くと、森の入口が見えてきた。
昼間なのに、木々の隙間から淡い金色の光がちらついている。ミエーラ蜂の巣があると、こうして日中でも光るのだ。はじめて見たときは「ホタルかな」と思ったけど、昼だったから違うと気づいた。
入口近くの小屋の前に、使い込んだ木のベンチがある。そこに座った男が顔を上げた。
採取管理人のジョルジュだ。50歳くらいの男で、しゃべる量が極端に少ない。いつも渋い顔をしているけど、莉子に対しては悪い人じゃないと分かってきた。
ジョルジュは莉子を見ると、無言で立ち上がった。小屋の中に消えて、すぐに戻ってくる。手には小さな瓶が一つ。淡い金色の液体がとろりと入っている。
「ミエーラ蜜、1瓶か」
「[excited]はい!お願いします!」
「8リーフだ」
財布から葉の形をした銀貨を8枚取り出す。1リーフで約500円。つまりこの小瓶一本が約4,000円だ。東京で買う普通のハチミツより高い。でも、味が全然違う。ルーカの食材は、とにかく全部が別次元においしい。
支払いを終えて瓶を受け取った瞬間、足元でぐにゅっとした感触がした。
「[surprised]え?」
見ると、透明なゼリー状のものが莉子の靴にへばりついている。フォレ・スライムだ。ミエーラの森に棲む魔獣で、人を襲ったりはしないのだけど、甘いものに引き寄せられる習性がある。今は莉子が持っている蜜瓶を狙っているらしく、ぐにゅぐにゅと靴を伝ってきている。
「ちょ、ちょっと待って待って!」
ジョルジュが懐から小袋を出して、スライムにさらりとかけた。粉塩だ。スライムがぱっと縮んで、ぷるんと地面に落ちた。危険度は低いとは言え、毎回びっくりする。
「蜜を持ち歩くときは注意しろ」
「[laughing]いつも同じこと言いますね」
ジョルジュは答えずにベンチに戻った。
莉子は瓶をしっかりとリュックにしまって、来た道を戻り始めた。スマホのタイマーを確認する。残り4時間半。余裕だ。
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フィーロの丘でポータルを開いて帰還したのは、午後1時ごろだった。
アトリエ・モモのキッチンは相変わらず静かだ。莉子はリュックを下ろして、ミエーラ蜜の瓶を台に置いた。淡い金色の液体が光の中でとろりと揺れる。
さて。作るか。
ボウルにバターと砂糖を入れる。砂糖もルーカで買ってきたものだ。エアロシュガーほど高いものじゃないけど、ルーカ産ならちゃんと使える。泡立て器を回すと、ふんわりとした白いクリームができあがる。次に卵、アーモンドパウダー、薄力粉。全部ルーカの食材だ。最後にミエーラ蜜をひとさじ加えると、ボウルの中がほわりと金色に輝いた。
生地の状態が、もう違う。
スーパーの食材で作ったときのどろどろした感触とは全然違う。指でつつくと、ふわりと弾力が返ってくる。においもいい。甘くて、やわらかくて、なんというか、幸せなにおいがする。
型に流し込んで、オーブンへ。
タイマーを15分にセットして、莉子は椅子に座った。窓の外、住宅街の道を猫が一匹ゆっくり歩いていく。三毛猫だ。莉子と目が合うと、猫は興味なさそうに視線を外して行ってしまった。
ぴー、とタイマーが鳴った。
オーブンを開けると、黄金色の香りが溢れ出した。ミエーラ蜜のフィナンシェが、きれいに膨らんでいる。表面がつやつやと輝いている。あ、これ絶対おいしい。見ただけで分かる。
粗熱を取って、一口かじった。
「……うそ」
思わず声が出た。
甘い。なのに重くない。バターのコクが口の中でふわっと広がって、次の瞬間にはもうなくなっている。後味に蜂蜜のやさしさだけが残る。加熱すると甘みが3倍になると聞いたことがあるけど、ほんとにその通りだ。こんなお菓子、東京でも食べたことがない。
莉子はもう一口食べた。
そして笑顔になった。
呪いは最悪だけど、食材は本当に最高だ。この複雑な気持ちはもう3ヶ月ずっと変わらない。
そのとき、エプロンが光った。
「[surprised]え?」
視線を下ろすと、刺繍が淡く脈打つように発光している。金色と白の光が、まるで生きているみたいに動いている。3ヶ月間ずっと着けていたのに、こんなことは一度もなかった。
莉子は思わず一歩下がった。
エプロンの表面に、文字が浮かび上がっている。古代ルーカ文字だ。石碑にあったのと同じ形の、くにゃくにゃした線で書かれた文字が、刺繍の中から浮かび出してくる。
スマホを出して、翻訳アプリのカメラ機能を向けた。
「対応する言語が見つかりません」
「[serious]だよね……」
ネット検索もしてみた。「古代文字 ルーカ 読み方」。もちろんヒットするわけもない。ルーカのことを知っているのは世界で莉子だけだから。
3ヶ月ずっとこのエプロン使ってきたのに、今更なんで光るの。
そのじわじわとした不安は、フィナンシェの甘さを少しだけ苦くした。
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翌日も、莉子は工房でエプロンを眺め続けた。
ノートにルーカ文字を書き写して、形を分析する。コーヒーを飲みながら、1文字ずつ形を見比べる。途中で「あ、猫みたいな形だ」とか「これひらがなの『り』に似てる」とかを発見するたびに少しテンションが上がったりもした。それはそれで楽しかった。
午後3時ごろ、ふと気づいた。
いくつかの文字が、日本語の音に近い響きに変換できる気がする。正確には「変換できる」というより「なんとなく、こう読めなくもないかも」という程度だけど。指でなぞりながら、断片的な音を並べてみた。
み、こ、う、お、う、に、とど……けよ。
「[serious]王に届けよ?」
続けて次の行を読む。さもなく……ば……ここに……えい、えん、に。
莉子の手が止まった。
「え、永遠に閉じ込められる?」
声が上ずった。
読み直す。もう一回読む。やっぱりそう読める。三十日の終わりに王へ届けよ、さもなくばここに永遠に。
莉子は椅子の背もたれに寄りかかって、天井を見上げた。
三十日。
呪いが発動したのは3ヶ月前じゃない。あの日からずっと「30日のカウントダウン」が動いていたんだとしたら。莉子は手帳を引っ張り出して、カレンダーを確認した。エプロンを買った日付にはちゃんと印がついている。そこから30日。
計算した。
今日の日付を見た。
もう一回計算した。
「[surprised]残り21日?!」
思わず立ち上がった。
「じゃあ9日ロスってること?! ちょっと待ってよ!!」
誰もいないのに怒鳴った。コーヒーカップが揺れた。三毛猫が窓の前を通り過ぎた。外はのんきに晴れている。
莉子は深呼吸した。
オーケー。落ち着いて。パニックになっても何も変わらない。まず情報を整理する。呪いの条件は「30日以内にルーカの王にお菓子を届けること」。失敗したら永遠にルーカに閉じ込められる。残り21日。そして「ルーカの王」って、つまりあの白い城壁の奥にいる人でしょ。王都ブランシェールのパレ・ドレに。
行ったことは、ない。
どうやって会いに行くのかも、全然わからない。
莉子は手帳を開いて、ペンを取った。
「残り21日」と書いた。
「王に届ける方法を調べる」とその下に書いた。
ペンを置いて、台の上に残ったフィナンシェを一つ取った。一口かじる。やっぱりおいしい。このおいしさを、21日以内に王様に届ければいい。それだけだ。それだけなんだけど。
(どうすんの、ほんとに)
笑顔は保てていた。でも心の奥の方で、静かに何かが焦り始めていた。