呪われパティシエは異世界騎士に恋をする
二十二歳のパティシエール、桃瀬莉子には大きな問題があった。彼女はとんでもない呪いにかかってしまったのだ――異世界の素材でしかお菓子を作れなくなってしまったのだ。
普通のイチゴで焼こうとすれば生地は溶け、普通の砂糖を使えば全てが炭になってしまう。まったく意味がわからない――でも、呪いだから仕方ない。
すべては三ヶ月前、莉子がジャンクショップで買った光るエプロンを身に着けたことから始まった。するとポータルが現れ、「ルカの世界へようこそ」という声が響き、彼女の生活は一変した。今や現実世界とルカを行き来しながら、星のように輝く蜂蜜や虹色のベリー、空気のように軽い砂糖など、魔法の素材を探し求めている。呪いは辛いが、素材は驚くほど素晴らしい。
そこで出会ったのが、銀の鎧をまとい黄金の瞳を持つ騎士、エルド・ヴァレイン。彼は莉子がルカに現れるたびに逮捕しようとする厄介な男だ。しかし、彼が彼女のお菓子を一口食べると、顔を赤らめて黙り込んでしまう。厳格な騎士でさえ魔法のお菓子には抗えないのだ。徐々に、ぎこちなくも彼は莉子を手助けし始め、莉子のルカへの旅はずっと楽しいものになっていく。
現実世界では
呪われパティシエは異世界騎士に恋をする - フィナンシェと火花——格子の向こうの救世主と、三人の嘘くさい親切
石壁は相変わらず冷たかった。
莉子はエプロンの刺繍をぼんやりと撫でながら、昨夜から格子の隙間に落ちていたフィナンシェの欠片を見つめた。誰かが差し入れたのは間違いない。でも誰が、どうやって——。
(エルドさんじゃない。あの人がこういう気の利いたことをするタイプじゃないのは三日でわかった)
エプロンの数字は14を示している。残り14日。腹の底に重いものが溜まっているのを、莉子は無視した。考えても仕方ない。今できることをやるだけだ。
——そのとき、廊下に足音がした。
軽やかで、迷いのない足取り。莉子は顔を上げた。
格子の向こうに人影が現れた。紫と黒のツートーンの髪を後ろで束ねた若い騎士。身長は高く、ティルナードの制服をきっちり着こなしている。右目は碧、左目は銀——鮮やかなオッドアイが、莉子をまっすぐ見て、にっと笑った。
「おはようございます、桃瀬莉子さん」
「……え、と」
「[laughing]あ、自己紹介が先だったね。ティルナード第五小隊のライナ・フォーディルです。よろしく」
ライナは格子の前にしゃがんで、すっと手を差し伸べた。握手を求めている。牢の外から、牢の中の人間に。
莉子は三秒ほど固まった後、なぜか握手に応じた。
「……桃瀬莉子です」
「よろしく」
握手を終えてから、莉子はふと我に返った。
(待って。今、牢の中でよろしくした。なんで?)
「[surprised]あの、昨夜のフィナンシェって——」
「僕だよ。エルドから聞いてたから」
ライナはそのまま格子の外の床に腰を下ろした。完全にくつろいでいる。
「異界から来たパティシエなんだって? しかもお菓子が美味しいって。エルドのやつが珍しく動揺してたから、どんな人かと思って」
「マジで? エルドさんが動揺?」
「[laughing]あの人がフィナンシェ一個で三回も考え込んでたら気になるでしょ」
莉子は思わず笑った。エルドが三回も考え込んでいる姿は、確かに想像できる。
「で、本題なんだけど」
ライナの声が少し落ち着いたトーンになった。笑顔はそのままだが、碧と銀のオッドアイが真剣みを帯びている。
「君、ロワイヤル・オフリールって知ってる?」
「知ってる。年に一回、王様に食を献上する行事でしょ。認められたら身柄保護と恩赦が出る」
「正解。で、参加者には予選の期間中、一時的な身柄保護が認められる制度がある。今すぐここから出られるよ」
莉子は格子をつかんだ。
「[surprised]え、そんな制度があるなら——なんで誰も教えてくれなかったの?」
「[sarcastic]教えてくれる人間がいなかったんじゃない?」
それはそうだ。エルドは律儀すぎて自分が連行した人間にそんな抜け道を教えるわけがない。騎士団長は問題外だ。
「条件は?」
「僕が推薦人になる。代わりに、僕にもお菓子を作ってほしい」
シンプルな条件だった。莉子は一秒も迷わなかった。
「お安い御用だよ!」
ライナが立ち上がりながら、一瞬だけ口元を緩めた。その表情の奥で、何かが静かに動いている——でも莉子にはそこまで見えなかった。
(エルドが守ると張り切るほどの菓子を横から掠め取れれば、騎士団内での立ち位置も変わる。それに——あのフィナンシェの香り。正直、もう一回食べたかっただけという気持ちも、否定できない)
ライナは手続きのために廊下を歩き出した。莉子は格子の前で、残り14を示すエプロンをぎゅっと握った。
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手続きは思ったより早かった。
担当の騎士が書類を確認して、鍵を回した。カチャン。その音が廊下に響いて——今度は解放の音に聞こえた。
莉子は一歩、外に踏み出した。
地上に出た瞬間、朝の光が全部まとめて降ってきた。目が細くなる。風が頬に当たる。石造りのティルナードの砦の中庭に、澄んだ朝の空気が満ちている。
「[excited]空気がおいしい……!」
莉子は思い切り深呼吸した。ライナが隣で「[laughing]三日ぶりだもんね」と笑っている。
そのとき、廊下の奥から足音がした。
一歩、また一歩。重くて、まっすぐな足音。
銀色の短髪。金色の鋭い目。片目に細い傷跡。背が高くて、立ってるだけで圧があって——エルドだった。
エルドは莉子と目が合った瞬間、足を止めた。金色の目が一瞬だけ揺れる。何か言おうとして、口が動きかけて——
「……釈放されたか」
「うん。ライナさんのおかげで」
エルドの視線が、すっとライナに移った。温度が落ちた。中庭の空気が一度下がった気がした。
「[cold]ライナ。お前が何を企んでいるか、分かっていないとでも思っているのか」
「[sarcastic]企んでないよ。僕はただ親切なだけ」
ライナが両手を上げてみせた。笑顔が変わらない。その笑顔がエルドのこめかみに何かを走らせているのが、莉子には分かった。
「……面倒だがな」
「[laughing]エルドってさ、助けたかったなら助けてあげれば良かったじゃん。先週まで牢に入れてた側なのに」
「それは——関係ない」
声が少し低くなった。莉子はエルドの横顔を見た。怒ってる、というより、何か別のものが混じっているように見える。
莉子はとりあえず、二人の間に入るように体を向けた。
「二人とも、今日から食材探し手伝ってもらえる? 残り14日で予選に出せる菓子の食材を揃えなきゃいけないんだ」
ライナが即座に手を上げた。
「はい。僕が全部手伝うよ。どこにでも連れていく」
「助かる!」
その瞬間。
「[serious]それは俺の役割だ」
エルドが一歩前に出た。ライナと莉子が同時にエルドを見た。
「……お前が守る、ということか」
「[sarcastic]エルド、先週まで牢に入れてた人間にそれ言える?」
「……俺はその件については——」
「[laughing]まあね、なんだかんだ言って、エルドが一番心配してたんでしょ」
エルドが黙った。耳が少しだけ赤くなった気がした。莉子は二人を見比べた。
「[excited]二人とも手伝ってくれるの? ありがとう! すごく助かるよ!」
エルドとライナが同時に莉子を見た。それから、同時に盛大に脱力した。
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午後になって、莉子はエプロンのポケットに残っていた食材の欠片を取り出した。ミエーラ蜜の残りと、エアロシュガーのひとつまみ。それからアトリエ・モモから持ってきていたバターと小麦粉の少量。これだけあればフィナンシェは焼ける。
騎士団本部の中庭の端に、調理用の竈がある。莉子はてきぱきと材料を合わせた。エルドが少し離れたところで腕を組んで立ち、ライナが隣で興味深そうに覗き込んでいる。
「[excited]ミエーラ蜜を加熱すると甘みが三倍になるんだよ」
「[surprised]三倍?」
「うん。エアロシュガーと合わせると、普通の砂糖じゃ出せない軽さになる。ルーカの食材ってほんとにすごいんだよね」
焼き上がったフィナンシェを、莉子はライナに渡した。
「約束通り。どうぞ」
ライナが受け取って、一口食べた。
静かになった。
さっきまでのよく動く口が、完全に止まった。もう一口。また静かになる。中庭の風が通り過ぎる音だけが聞こえた。
しばらくして、ライナが小さく呟いた。
「[whispers]……これ、反則だよ」
「え?」
「[laughing]なんでもない」
ライナはすぐ笑顔に戻った。でもその一瞬——計算も余裕も全部剥がれた、純粋に驚いた顔だった。子供みたいな表情だった。
少し離れた場所で、エルドがその様子を見ていた。腕を組んだまま、ライナが動かされた事実を確認して、何かを考え込む顔をしている。
莉子はそんな二人の様子に気づかずに、次の食材リストをエプロンの隅に書き始めた。
そのとき——荷物の中でスマホが鳴った。
「あっ」
画面に「大地くん」と出ている。莉子は少し身を固くしてから、電話に出た。
「もしもし」
「[serious]莉子、古道具屋クロニカに行ってきた」
大地の声は落ち着いていた。でも、静かな声の裏に何か固いものがある。莉子の手が少し緊張した。
「クロニカ? カヅキさんのところ?」
「うん。店主の人が少し教えてくれた。ポルティエのエプロンは一方通行じゃない。使う人間の意志が呪いの形を変える、って」
莉子はエプロンの刺繍をぐっと握った。14という数字が光っている。
「……意志が、呪いの形を変える」
「だから僕、もう止めないよ。止めても無駄だって分かった。でも莉子一人には任せない」
電話越しの声に、柔らかさと、それ以上に強い何かが混じっている。
「[gentle]俺がそばにいるから」
「……大地くん」
莉子が言葉を探していると。
「[serious]お前の菓子は、俺が守る」
背後からエルドの声がした。莉子は振り返った。エルドが腕を組んだまま、真剣な顔で立っている。
「[sarcastic]僕の方が頼りになると思うけどね」
その横でライナが涼しい顔で口を挟んだ。
二人の間に火花が散った。スマホからは大地の声。隣ではエルドとライナが視線でぶつかり合っている。
莉子はスマホを持ったまま、三人分の気配に取り囲まれた状態で、完全に固まった。
「[surprised]え? え? なんでみんな怒ってるの?」
エルドとライナが揃って莉子を見た。スマホの向こうで大地が「怒ってないよ」と言った。でも三人とも、微妙な顔をしている。
「[laughing]……なんだかんだ言って、これ大変なことになってるよね」
「面倒だがな」
「大丈夫、俺がいるから」
三人が、バラバラなタイミングでそれぞれ言った。
莉子はしばらくスマホと二人の騎士を見比べてから、深く息を吸った。
「……よし」
気持ちを切り替えた顔で、莉子はエプロンの刺繍に触れた。14という数字。残り14日。やることは決まっている。ロワイヤル・オフリールの予選に出せる菓子を作ること。そのための食材を揃えること。
「大地くん、ありがとう。また連絡する。エルドさん、ライナさん——明日から食材探し、よろしくね」
二人が同時に「俺が」「僕が」と言い始めた。
莉子は笑いながら電話を切った。中庭に夕暮れが差し込んでくる。赤い光が石畳を染めている。
三人がそれぞれの思惑を抱えて、それぞれのやり方で莉子の方を向いている。莉子はその全部に気づいていない。
でも残り14日、予選に必要な食材の中でまだ揃っていないものがある。エアロシュガーの在庫が足りない。トゥリエラ高原——王都から西へ60キロ、標高1500メートルの雲海の高原に、明日以降どうやって向かうか。エルドとライナ、どちらと行けばいいのか。あるいは両方と行けばいいのか。
(どうしよう)
莉子の口癖が、胸の中でぽつりと浮かんだ。