呪われパティシエは異世界騎士に恋をする
二十二歳のパティシエール、桃瀬莉子には大きな問題があった。彼女はとんでもない呪いにかかってしまったのだ――異世界の素材でしかお菓子を作れなくなってしまったのだ。
普通のイチゴで焼こうとすれば生地は溶け、普通の砂糖を使えば全てが炭になってしまう。まったく意味がわからない――でも、呪いだから仕方ない。
すべては三ヶ月前、莉子がジャンクショップで買った光るエプロンを身に着けたことから始まった。するとポータルが現れ、「ルカの世界へようこそ」という声が響き、彼女の生活は一変した。今や現実世界とルカを行き来しながら、星のように輝く蜂蜜や虹色のベリー、空気のように軽い砂糖など、魔法の素材を探し求めている。呪いは辛いが、素材は驚くほど素晴らしい。
そこで出会ったのが、銀の鎧をまとい黄金の瞳を持つ騎士、エルド・ヴァレイン。彼は莉子がルカに現れるたびに逮捕しようとする厄介な男だ。しかし、彼が彼女のお菓子を一口食べると、顔を赤らめて黙り込んでしまう。厳格な騎士でさえ魔法のお菓子には抗えないのだ。徐々に、ぎこちなくも彼は莉子を手助けし始め、莉子のルカへの旅はずっと楽しいものになっていく。
現実世界では
呪われパティシエは異世界騎士に恋をする - 幼なじみと地下牢——ハチミツより甘くない現実
昨日、エルドがプリズマベリーのタルトを食べて小さく笑った顔を、莉子はまだ覚えていた。
あの笑顔を思い出すたびに、胸の奥がじわっと温かくなる。なんなんだろう、この感じ。前回も同じことを考えて、結局よく分からないまま寝てしまった。
莉子はアトリエ・モモのキッチンでエプロンの刺繍に触れながら、ぽつりと呟いた。
「残り17日……今日も行かなきゃ」
光の門が閉じる。フィーロの丘の甘い空気が肺に入ってくる。今日は何の食材を探そう——そんなことを考えながら莉子がポータルから抜け出た瞬間、足元の感触が変わった。
丘じゃない。石畳だ。
(あれ?)
きょろきょろして気づいた。玄関ドアの前に立っていた。東京の、自宅の。ポータルを開いたつもりが、まだアトリエ・モモのままだったらしい。
「あ、そっか。エプロン念じてなかった」
莉子が苦笑いしながらドアを開けると——廊下の壁にもたれて、誰かが立っていた。
漆黒の短髪に、数本だけ混じった赤いメッシュ。温かみのある茶色い目。背は高く、顔立ちは整っている。マフラーを緩く巻いて、スマホをいじりながら、まるで当たり前のようにそこにいた。
一柳大地だった。
「おっ、帰ってきた」
莉子は固まった。
「……大地くん? なんでここにいるの?」
「3日も既読無視してたじゃん」
大地が髪をかき上げながら、にっこり笑った。笑顔なのに目が笑っていない。莉子は反射的に半歩引いた。
「えっ、ごめん。ちょっと忙しくて——」
「大丈夫? 俺がいるから、何でも言って」
「……まずとりあえず入って」
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工房のキッチンに通すと、大地はさっさと慣れた様子でスツールに腰を下ろした。昔から莉子の家に来ていたから、勝手知ったる、という感じだ。
お茶を入れようとした莉子の背後で、冷蔵庫を開ける音がした。
「ちょっと!」
振り返った時にはもう遅かった。大地が冷蔵庫の扉を開けたまま、中を覗き込んでいた。
棚の真ん中に、ミエーラ蜜の瓶がある。淡い金色に発光している。その隣に、プリズマベリーの容器。7色にゆっくりと変化している。
大地の顔が、ゆっくりと真顔になった。
「莉子」
「あー、えっと——それ、輸入品!珍しいやつ!」
「輸入品」
「そう!ちょっと特殊なルートで入手した感じの——」
大地がベリーを一粒つまんで、ためらいなく口に入れた。
「……っ、なんだこれ」
「マジで?」
大地の顔が一瞬、信じられないという表情になった。それからまた、すっと真顔に戻る。
「[serious]これ、どこの産地? 日本にこんな食材ない。世界中探してもないと思う」
「い、輸入品だって言ったじゃん」
「莉子」
「な、なに」
「僕、料理研究家だぞ」
それだけ言って、大地はスツールに戻って腰を下ろした。腕を組む。莉子を見る目が、真剣だった。
「[serious]子供の頃、一緒に料理で世界を広げようって言ってたじゃん。二人でって。俺に言えないことがあるの?」
その一言が、ずんと刺さった。
(言いたい。でも言ったら絶対に止められる。残り17日しかないのに——)
莉子は口を開いて、閉じた。大地が一歩、スツールから立ち上がって近づいてくる。
「[serious]俺が力になれる。なんでそれを——」
「どうしよう……」
思わず口から出た。大地がそれを聞いて、少し表情を緩めた。でも目の奥の、ぎゅっとした何かは消えない。
「[gentle]大丈夫。俺がいるから、話して」
莉子はため息をついた。
「……ちょっと待って。今日の夕方まで時間くれる? それから話す」
大地は少し迷った顔をして、それから頷いた。でも腕を組んで壁に背中を預けたまま、帰る気配は全くなかった。
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夕方5時になった。
エプロンの刺繍が、かすかに点滅し始めた。莉子は胸の奥でその感覚を確かめた。ルーカへ行かなければいけない時間だ。今日の食材の算段がまだついていない。残り17日。急がなきゃいけない。
「大地くん、今日はもう帰ってくれる?」
リビングでスマホを見ていた大地が顔を上げた。
「[sarcastic]さっき『夕方まで待ったら話す』って言ったよね?」
「あー……う」
言ってた。完全に言ってた。
「[serious]なんか隠してるだろ、絶対」
腕を組んで動かない。莉子は頭を抱えながらキッチンに入った。エプロンに触れる。刺繍が小さく光っている。もう時間がない。
(ごめん、大地くん。後で絶対ちゃんと話す)
莉子は刺繍をぎゅっと握って念じた。床に光が滲み始める。丸い光の輪が広がる。門が、開く——
「莉子、それ——」
背後から声がした。気づいたら、腕を掴まれていた。大地の手だ。
「[serious]どこ行くんだよ!」
「[scared]離して!」
莉子は全力で腕を振りほどいた。ポータルの光が最大になる。一歩踏み込む。光が全部、閉じた。
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キッチンに、大地一人が残された。
光がなくなった。普通の床だけがある。莉子がいた場所に、何もない。
大地は自分の手のひらを見た。さっきまで莉子の腕があったところ。今は空っぽだ。
「……何を、見た。俺」
声がかすれた。かすれたまま、その場に立ち尽くした。
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フィーロの丘の銀色の草が風に揺れていた。
莉子がポータルから出た瞬間、違和感を感じた。いつもエルドがいる。あの不器用な騎士が、腕を組んで難しい顔で待っている。それがいつものパターンだ。
でも今日は、違う。
丘の上に、銀色の鎧が複数あった。ティルナード——ルーカ王都守護騎士団の制服だ。エルドではない。見知らぬ騎士が、三人。整列して、こちらを見ている。
その中央に、一人の男が立っていた。
年齢は45歳くらいだろうか。鉄灰色の短髪、鋭い目つき。体格は大きくて、立っているだけで圧がある。騎士の鎧は他の三人より装飾が多い。階級が上、というのがひと目で分かった。
男が命令書を広げた。
「[serious]桃瀬莉子。異界渡航禁止令第三条に基づき、即刻拘束する」
ヴァレス・ガルディーン——ティルナードの団長だ、と莉子は後で知ることになる。今はただ、その声の重さに足が固まった。
「[scared]え、でも——エルドさんは——」
そこで気づいた。三人の騎士の後ろ、少し離れたところに、エルドが立っていた。
莉子と目が合った。エルドの金色の目が、一瞬だけ揺れた。何か言おうとして——動きかけて——
「[cold]ヴァレイン副隊長。お前はここに来ることを止められたはずだ」
団長の声は低く、感情がなかった。
エルドが一歩前に出た。
「[serious]彼女は危険な存在ではありません。呪いによってルーカに来ている——被害者です。団長、話を聞いていただければ——」
「お前の父も」
団長が静かに遮った。
「[serious]そう言って異界の者に肩入れした。結果はどうなった」
エルドの言葉が途切れた。
拳が、ぎゅっと握られる音がした気がした。エルドは前を向いたまま、何も言わなかった。言えなかった。
「[scared]エルドさん……?」
名前を呼んでも、エルドは動かない。横顔が、石みたいに固まっていた。
「[serious]連行しろ」
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地下牢は、思っていたより深い場所にあった。
ブランシェールの地下、石造りの廊下を三回曲がって、鉄格子の前に着く。騎士が鍵を開けた。背中を押されるように中に入って、後ろで鍵が閉まる音がした。カチャン。その音が廊下に響いて、消えた。
独房は狭かった。石壁、藁の敷かれた床、格子の向こうに松明が一本。それだけだ。
莉子は壁に背中を押し当てて、ずるずると床に座り込んだ。膝を抱える。
エプロンの刺繍を見た。
点滅している。その中に、数字が浮かんでいた。
16。
残り16日。
「[crying]お菓子作りたいだけなのに……なんでこうなるの……」
声が出た。石壁に吸い込まれるような小さな声だった。
笑えない。いつもならここで「どうしよう!」って言いながらも、なんとかしてきた。でも今は、ネタがない。笑える気がしない。
莉子は膝に顔を埋めた。泣いた。声を出さずに泣いた。肩が震えた。涙が膝に落ちて、冷えた藁に染みていった。
どれくらいそうしていたか分からない。
やがて莉子は顔を上げた。目が赤い。でも、まだここにいる。
「……16日、まだある」
かすれた声で呟いた。涙を袖でぬぐった。折れてはいない。でも、一人では限界だということだけは、はっきりと分かった。
松明の灯りが、ゆらゆらと揺れている。
そのとき——格子の外から、足音が聞こえた。
一歩。また一歩。近づいてくる。足音が止まった。廊下の暗がりに、誰かの影がある。
莉子は顔を上げた。
影は動かない。ただ、そこにいた。