呪われパティシエは異世界騎士に恋をする
二十二歳のパティシエール、桃瀬莉子には大きな問題があった。彼女はとんでもない呪いにかかってしまったのだ――異世界の素材でしかお菓子を作れなくなってしまったのだ。
普通のイチゴで焼こうとすれば生地は溶け、普通の砂糖を使えば全てが炭になってしまう。まったく意味がわからない――でも、呪いだから仕方ない。
すべては三ヶ月前、莉子がジャンクショップで買った光るエプロンを身に着けたことから始まった。するとポータルが現れ、「ルカの世界へようこそ」という声が響き、彼女の生活は一変した。今や現実世界とルカを行き来しながら、星のように輝く蜂蜜や虹色のベリー、空気のように軽い砂糖など、魔法の素材を探し求めている。呪いは辛いが、素材は驚くほど素晴らしい。
そこで出会ったのが、銀の鎧をまとい黄金の瞳を持つ騎士、エルド・ヴァレイン。彼は莉子がルカに現れるたびに逮捕しようとする厄介な男だ。しかし、彼が彼女のお菓子を一口食べると、顔を赤らめて黙り込んでしまう。厳格な騎士でさえ魔法のお菓子には抗えないのだ。徐々に、ぎこちなくも彼は莉子を手助けし始め、莉子のルカへの旅はずっと楽しいものになっていく。
現実世界では
呪われパティシエは異世界騎士に恋をする - 三層ムースと叩き落とされた夢——それでも、私は焼き続ける
リュミエール亭の厨房は、朝の五時から甘い匂いで満ちていた。
エプロンの刺繍に視線を落とすと、数字は13を示している。残り13日。昨日の騒ぎ——エルドとライナの火花、大地からの連絡——が走馬灯みたいに頭を流れて、莉子は軽く頭を振った。
今日は予選だ。それだけ考えよう。
木のテーブルの上に、三種の食材が並んでいる。エアロシュガー——雲の結晶から精製される、軽くてふわふわの砂糖——が小さな瓶に入っている。ミエーラ蜜の金色の光がランプの炎を受けてゆらゆらと揺れる。そしてプリズマベリー、今朝の光の中で七色に変わる果実が籠の中で静かに光っている。
ドタドタと足音がして、厨房の扉が開いた。
「[excited]おはよう、莉子さん。レシピのメモ、昨夜まとめといたよ」
紫と黒のツートーンの髪を後ろで束ねたライナが、折りたたんだ紙を差し出してくる。碧と銀のオッドアイが、莉子の顔をまっすぐ見て、にっと笑った。
「ありがとう、ライナさん! 助かる」
莉子がメモを受け取った、その瞬間。
横から大きな手が伸びてきて、さっと紙を取った。
エルドだった。銀色の短髪、金色の目、片目にかかる細い傷跡。厨房の入り口に立って、腕を組んだまま、メモを読んでいる。
「……問題ない」
一言だけ言って、莉子に返した。
ライナの笑顔が、微妙な角度で固まった。
「[sarcastic]僕のメモを検閲するの?」
「内容確認だ」
「同じことじゃん」
「違う」
莉子は二人を見比べた。朝の五時から、なんでこんなにピリピリしてるんだろう。
「[surprised]あの……二人とも、喧嘩してる?」
「「してない」」
ぴったり同時に、同じ声量で答えた。その後の微妙な沈黙が、かえって空気をギクシャクさせた。莉子はそっと目を逸らした。
そのとき、荷物の中でスマホが鳴った。画面に「大地くん」と出ている。
「もしもし」
「[serious]予選、今日だろ。絶対勝てよ」
短くて、温かい声だった。莉子の口元が自然とゆるんだ。
(みんなが気にかけてくれてる。ほんとにありがたいな)
「[excited]うん! 頑張るよ! ありがとう、大地くん」
電話を切ってスマホをしまうと、横でエルドが腕を組んだまま目を細めていた。莉子のスマホの画面を、ちらっと確認していた、気がする。
「……誰だ」
「幼なじみ。応援してくれてるんだ」
「そうか」
それきり黙った。でも腕の組み方が、心なしかさっきより力強くなった気がした。
ライナが涼しい顔で「[laughing]賑やかな朝だね」と呟いた。
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パレ・ドレ——ルーカの王宮——の調理室に入った瞬間、莉子は思わず足を止めた。
天井が高い。白大理石の壁と床が光を跳ね返して、室内全体が柔らかく輝いている。調理台が三台、審査台が中央に一台。王宮の調理室というだけあって、道具も什器もすべてが見たことのない品質だった。
審査台には三人が座っている。
左端は、白髪に温かみのある目をした老齢の女性——グルマン職人組合の推薦員、ロイ。体型は小柄だが、佇まいに長年の経験が滲んでいる。中央は体格のいい壮年の男性、宮廷料理長のベルナール。そして右端。
莉子は右端の男を見て、少し緊張した。
三十代半ばくらい。きっちり整えた黒髪に、文官の紺色の制服。表情が固くて、莉子の方を一度も見ない。あれが、騎士団長ヴァレス・ガルディーンの息がかかった文官審査官、シオンだ——とライナが昨日教えてくれた。
ロイが静かに立ち上がって言った。
「[serious]では予選を始めます。制限時間は一時間。審査官全員の採点を経て、本選参加資格が決まります」
鐘が、澄んだ音で一度鳴った。
莉子は動き始めた。
まずエアロシュガーを取り出す。50グラム、15リーフの希少な砂糖。指でつまむと、本当に羽根みたいに軽い。これを泡立て器で空気を含ませながら、一層目のムース生地を作る。
(いい感じ。軽さが出てる)
次にミエーラ蜜を小鍋に入れて火にかける。じわじわと温度が上がるにつれて、金色の蜜がゆらゆらと揺れ始め——そして、甘い匂いが調理室に広がった。
莉子は鼻をひくつかせた。三倍になった甘みの香り。これが中層になる。
プリズマベリーを刻む。包丁を入れるたびに、果実の断面が七色に変わる。食べる人の気分で味が変わる果実——正確に加工して、ゼリー状に固めれば最上層になる。
四十五分かけて、三層ムースケーキが組み上がった。
完成品を審査台に置いた瞬間、プリズマベリーの層が照明を受けて虹色に輝いた。エアロシュガーの白い層から、細い湯気みたいな香りが漂い始める。
ロイとベルナールが、同時に身を乗り出した。
「おお……」
莉子の胸の奥で、何かが温かくなった。
——その瞬間だった。
「[cold]結構です」
右端の文官が立ち上がった。
「異界の侵入者が持ち込んだ食材で作られた菓子など、この神聖な審査の場に相応しくない」
シオンは手を払った。
パリン、という音が調理室に響いた。
三層ムースケーキが、白大理石の床に叩きつけられた。プリズマベリーの七色の層が砕け、ミエーラ蜜の黄金色がじわりと広がる。エアロシュガーの軽い生地がぺたんと潰れて、四十五分かけて積み上げたものが、数秒で跡形もなくなった。
調理室が、完全に静まり返った。
ロイが微かに眉を寄せた。ベルナールが口を開きかけて、閉じた。見学席に立っていた宮廷の使用人たちが、息を潜めている。
部屋の端に立っていたエルドの手が、剣の柄のそばで止まった。ライナが「おい」と呟いて、立ち上がりかけた。
莉子の目が、床に散らばったケーキと、砕けた皿の破片の間を行き来した。
唇が震えた。
(四十五分。食材を揃えるために、トゥリエラ高原まで行って、ミエーラの森まで行って、ティノーラ丘陵まで行って。その全部が、今、床の上にある)
涙が来そうだった。ぐっと奥歯を噛んだ。泣いたら負けだ。泣いたら、お菓子が負けたことになる。
莉子は膝をついた。
散らばった皿の破片を、一枚ずつ拾い始める。指先が震えている。それでも、丁寧に、確実に。
「……あたしのお菓子は」
声が震えた。でも続けた。
「食べた人を笑顔にするために作ってます」
立ち上がった。荷物の食材袋を開けて、残りを確認する。ミエーラ蜜の残り、卵、粉、バター。十分だ。
「[serious]食べてもらえないなら、もう一個作ります」
ライナが、その場で固まった。
シオンが「何を——」と口を開いた。
莉子はもう動いていた。フィナンシェ型に生地を流し始める。ミエーラ蜜を火にかける。さっき作ったのと同じ工程を、体が覚えている。
部屋の後方で、エルドが莉子の背中を見た。
金色の目が、一瞬だけ遠くを向いた。ティノーラ丘陵の夕暮れ、崖際で手を繋いで引き上げた時、莉子がぽつりと「甘い」と言って笑った横顔。あの顔が、今の背中と重なった。
(俺が前に立てるのは——今だ)
エルドが歩き出した。
フィナンシェが焼き上がる数分。ミエーラ蜜の加熱された甘い香りが、白大理石の調理室に広がり始めた。
見学席の使用人たちが、鼻をひくつかせる。ロイが審査台から身を乗り出す。ベルナールが「これは……」と低く呟いた。
ライナが一番先に焼き上がったフィナンシェに手を伸ばした。一口食べて——動きが止まった。あの夜、厨房で初めて食べた時と同じ表情が浮かんだ。計算も余裕も全部剥がれた、純粋に驚いた顔。
「[whispers]……また、これか」
そのタイミングで、エルドが莉子の真横に立った。
シオンと正面から向き合って、真っすぐに見据える。
「[serious]彼女の菓子を、正当に審査しろ」
「騎士が口を挟む場面ではない」
「それが騎士団の——いや」
一秒の間。
「この国の誇りだ」
動かなかった。
見学者の視線が、全部シオンに集まった。ロイが静かに立ち上がって言った。
「[serious]審査を続けましょう」
シオンの奥歯が噛みしめられるのが、莉子には分かった。
三秒。
シオンはフィナンシェを取り上げた。口に入れた。また三秒の沈黙。調理室の全員が、息を止めて見ていた。
「[cold]……美味い」
絞り出すみたいな声だった。
ロイとベルナールが同時に手を上げた。全員合格。本選参加資格、確定。
「[crying]……やった」
小さい声だった。かすれていた。
目に涙が溜まったまま、莉子はそれだけ言った。大きく叫べなかった。声が出なかった。でも、胸の奥から何かが溢れてきて、莉子はただ立ったまま、それが収まるのを待った。
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パレ・ドレの西回廊に出ると、夕陽が白い石柱をオレンジ色に染めていた。
莉子の隣を、エルドが歩いている。石畳に長い影が伸びている。
しばらく歩いて、エルドが立ち止まった。
莉子の前に向き直る。金色の目が、真剣に莉子を見た。
「[serious]……すまなかった」
頭を下げた。背が高い分、深く下げると迫力がある。
「お前を見捨てた」
莉子は少し間を置いた。牢の中の十四日間が、頭をよぎった。冷たい石壁、エプロンの数字だけが頼りだった日々。でも——。
「最後に来てくれたから」
莉子は笑った。
「ありがとう、エルドさん」
エルドが顔を上げた。
二人の距離が、自然に縮まっていた。夕陽の中、エルドの金色の目が莉子の顔をまっすぐ見る。近い。なんか急に近い。莉子の胸の奥で何かが脈打って、
(え、これどういう——)
「[excited]感動的だね〜」
回廊の端から声がした。
ライナが柱にもたれて、腕を組んで笑っていた。いつの間に来たんだ。
「[serious]でも本選のサポートは僕の役割だから。よろしく、莉子さん」
エルドの眉間に、すぐ皺が寄った。
「[angry]誰がそう決めた」
「僕が決めたよ」
「断じて許さん」
「まあね、なんだかんだ言って、エルドよりは向いてると思うけど」
そのタイミングで、莉子のスマホが鳴った。
画面を見る。「大地くん」。
「もしもし?」
「[excited]予選通過おめでとう。古道具屋クロニカのカヅキさんに、もう一回聞いてきた。今から会いに行く、待ってろ」
莉子の顔が青ざめた。
「[surprised]え、大地くんがルーカに来る気なの?」
スマホを持ったまま固まっていると、エルドが低い声で聞いてきた。
「[serious]誰だそいつは」
ライナが目を輝かせた。
「[surprised]もう一人いるの?」
莉子はエルドを見て、ライナを見て、スマホを見た。三方向から視線が来ている。
「[surprised]え? え? これどういう状況?」
「俺が聞いてるんだが」
「なんだかんだ言って、面白くなってきた」
エルドがライナを睨んだ。ライナが肩をすくめた。スマホの向こうで大地が「莉子? 聞こえてるか?」と言っている。
——そのとき。
莉子は、回廊の奥に人の気配を感じた。
振り返ると、王宮の扉の陰に老齢の男性が立っていた。白髪に、温かみのある目。宮廷の上品な装束。莉子が目を向けた瞬間、男は半歩後ろに退いた。
その視線が、莉子の胸元に——エプロンの刺繍に——落ちた。
男は誰にも聞こえない声で、何かを呟いた。
扉の奥に消えた。
「[surprised]今、誰かいた?」
エルドが振り返った。回廊の奥はもう誰もいない。
そのとき、莉子はエプロンの刺繍がうっすら光っているのに気づいた。いつもの13という数字はそのまま。でも刺繍の中の一文字が、新しく浮かび上がっている。
莉子には読めない文字だ。
エルドが莉子の胸元を見て、眉をひそめた。
「[serious]……この文字は」
「読める?」
「王家の紋章に使われる古代文字だ」
莉子は刺繍を見下ろした。王家の紋章。古代文字。200年前のエプロン。そして、さっきの老人の視線。
「つまりどういうこと?」
エルドが静かに答えた。
「[serious]本選で王に直接会えば——分かるかもしれない」
莉子はエプロンを握った。13という数字が静かに光っている。
ロワイヤル・オフリールの本選。王との謁見。呪いの真相。全部が、一本の線で繋がり始めていた。
ライナが「[serious]……面白くなってきたじゃないか」と静かに言った。珍しく、計算のない声だった。
スマホの向こうで大地の声が続いている。夕陽が石柱を染め上げている。エプロンの刺繍が、かすかに輝き続けていた。