呪われパティシエは異世界騎士に恋をする
二十二歳のパティシエール、桃瀬莉子には大きな問題があった。彼女はとんでもない呪いにかかってしまったのだ――異世界の素材でしかお菓子を作れなくなってしまったのだ。
普通のイチゴで焼こうとすれば生地は溶け、普通の砂糖を使えば全てが炭になってしまう。まったく意味がわからない――でも、呪いだから仕方ない。
すべては三ヶ月前、莉子がジャンクショップで買った光るエプロンを身に着けたことから始まった。するとポータルが現れ、「ルカの世界へようこそ」という声が響き、彼女の生活は一変した。今や現実世界とルカを行き来しながら、星のように輝く蜂蜜や虹色のベリー、空気のように軽い砂糖など、魔法の素材を探し求めている。呪いは辛いが、素材は驚くほど素晴らしい。
そこで出会ったのが、銀の鎧をまとい黄金の瞳を持つ騎士、エルド・ヴァレイン。彼は莉子がルカに現れるたびに逮捕しようとする厄介な男だ。しかし、彼が彼女のお菓子を一口食べると、顔を赤らめて黙り込んでしまう。厳格な騎士でさえ魔法のお菓子には抗えないのだ。徐々に、ぎこちなくも彼は莉子を手助けし始め、莉子のルカへの旅はずっと楽しいものになっていく。
現実世界では
呪われパティシエは異世界騎士に恋をする - 石壁と消えた騎士、それでも
昨夜、エルドが牢の前に来なかった。
それが頭から離れない。あの足音は確かに聞こえた。廊下の奥から近づいてきて、格子のすぐそばで止まった。でも声はなかった。莉子が振り向いた時には、もう誰もいなかった。
あれはエルドだったのだろうか。それとも別の誰かだったのか。分からないまま夜が明けた。
地下牢の石壁は、夜も昼も同じ温度だ。外の光が差し込まない。松明が一本、格子の向こうでゆらゆら揺れているだけ。莉子は石椅子に座らされたまま、正面を見ていた。
エプロンの刺繍をこっそり確認した。16。残り16日。
扉が開いた。
入ってきたのは二人だった。一人は四十代くらいの中年の騎士で、顔に深い皺が刻まれている。もう一人は若い男で、羽ペンと革表紙の帳面を持っていた。記録係らしい。
中年の騎士が石椅子を引いて莉子の正面に座った。背がすっと伸びていて、威圧感がある。それでも声のトーンは穏やかだった——穏やかすぎて、逆に怖い。
「[serious]昨日は疲れただろう。今日は少し話を聞かせてもらおう」
莉子は唇を湿らせた。
「[serious]……話すことはあたしには全部言いました。古道具屋でエプロンを買って、呪いがかかって、異世界の食材でしかお菓子が作れない体になって——」
「そのエプロンはどこで手に入れた」
「言いました。目黒区の古道具屋です。クロニカって名前の——」
「[serious]その店を証明するものは?」
莉子は口を閉じた。
ない。領収書なんて取っていない。その店の場所を知っているのは莉子だけだ。
「[serious]証明できないなら、嘘をついていると解釈せざるを得ない」
「嘘じゃないです。本当のことです」
「ルーカに来た目的は何だ」
話が変わった。莉子はついていこうとして、少し遅れた。
「呪いを解くためです。王様にお菓子を届ければ——」
「[serious]王に菓子を届ける。その情報はどこで得た」
「エプロンの刺繍から分かって……」
「刺繍が情報を教えるのか」
「光るんです。文字が——」
「[serious]今ここで見せてみろ」
莉子は刺繍に手を触れた。何も起きない。ここ数日、牢の中でもエプロンをつけているが、命じた通りに光るわけじゃない。
記録係の羽ペンが帳面を走る音だけが聞こえた。
「[serious]今光らなかった」
「それは……今は出ないだけで——」
「なぜスパイでないと言える」
「スパイじゃないから——」
「[serious]証拠を出せ。言葉だけでは証明にならない」
莉子はまた口をつぐんだ。
(証拠って……何を出せばいい。あたしは本当のことを言ってる。でも証拠が、ない)
「証拠がないだけで嘘ってことになるんですか」
「[serious]証明できない主張は認められない。それが法だ」
法。この国の法で、莉子は今裁かれようとしている。現実世界の常識も、東京の住所も、パティシエとして働いた年数も、何ひとつ証拠にならない。
この三時間、同じことが繰り返された。
莉子が何を言っても「証明できるか」と聞かれる。証明できないと「嘘と同じだ」と言われる。そして最初の質問に戻る。目的は何だ。エプロンはどこで手に入れた。誰に指示された。
声が、少しずつ小さくなっていく。
「あたし……何かしましたか」
声が震えた。自分でも驚いた。
「[serious]異界渡航禁止令違反だ」
「それは知らなかったんです。本当に——」
「[serious]知らなかったという言い訳も、証明できない」
その言葉で、何かが音を立てた気がした。
(あたしが悪いの? あたし、何かした?)
どれだけ正直に話しても全部「証拠がない」で返される。これまでどんなドジを踏んでも笑い飛ばしてきた。どんな状況でも「どうしよう!」と言いながら前に進んできた。でも今は、笑えない。そんな気力すら出てこない。
尋問官が立ち上がった。扉を開ける前に一度こちらを見た。感情のない目だった。
「[serious]また来る」
扉が閉まった。鍵の音がした。
莉子は石椅子の上で小さくなった。膝を抱えて、壁に背中をもたれさせる。
---
同じ頃、廊下の奥では別の話が進んでいた。
エルドがヴァレス団長に呼び出されたのは、尋問が終わった直後だった。
団長室ではなく、廊下の角だった。人目につかない場所を選んだということは、これが公式の話ではないということだ。
ヴァレス・ガルディーンはエルドより頭一つ分低いが、立っているだけで圧がある。鉄灰色の短髪、深く刻まれた目元の皺。この男が静かに話す時ほど怖い、とエルドは昔から知っていた。
「[cold]ヴァレイン」
「[serious]はい」
「[serious]あの異界の娘への関与を、今すぐやめろ」
「団長——彼女は被害者です。呪いで来ているだけで、スパイでは——」
「[cold]お前の父親も同じことを言った」
言葉が止まった。
「[serious]異界の者に肩入れして、単独で調査を続けた。組織の判断を無視して。結果はお前も知っているはずだ」
エルドの奥歯が、ぎゅっと噛み合わさった。
父のことは、あまり思い出さないようにしていた。騎士団の勲章だけが残っていて、あとは何もない。名前も、今となっては騎士団の記録の中にしか存在しない。
「[serious]お前に父の勲章を保管する権利を認めているのは、俺の裁量だ。関与を続けるなら——称号を剥奪し、その勲章も返上させる」
静かな声だった。脅しっぽさがない分、ずっと重かった。
ヴァレスはそれだけ言って、足音も立てずに廊下の奥へ消えた。
エルドはしばらくその場に立っていた。
(父の勲章)
騎士になった理由の、全てだ。父が守ろうとした何かを、自分も守りたかった。だから剣を持った。だからティルナードに入った。
足が、動いた。
地下牢への廊下は一本道だ。エルドは歩きながら、自分の足音を数えた。一歩、二歩、十歩、二十歩——
格子が見えた。
松明の光の中に、小さな人影がある。膝を抱えて、壁にもたれている。黒いショートヘアが松明の影でより暗く見える。エプロンの刺繍だけが、かすかに光っている。
エルドの手が、格子に向かって伸びかけた。
——止まった。
(父の勲章を失ったら、俺は何のために騎士でいる)
手が、戻ってきた。
エルドは奥歯をもう一度噛んで、踵を返した。歩き出す。足音を殺しながら、廊下を戻る。
その瞬間、格子の向こうから声がした。
「[whispers]……エルドさん?」
足が、一瞬だけ止まった。
エルドは振り返らなかった。
そのまま、廊下の角を曲がった。足音が遠ざかる。そして消えた。
第三話の夕暮れを、エルドは唐突に思い出した。プリズマベリーのタルトを一口食べて、思わず「甘い」と呟いた時の、あの感覚。莉子が嬉しそうに笑った顔。あれは本物だったと、今でも思う。
廊下に、静寂だけが残った。
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莉子は格子から手を離した。
廊下には誰もいない。松明がゆらゆら揺れているだけ。石壁が、それを受けて薄く橙色に染まっている。
食事が運ばれてきたのは夕方だった。パンと、薄いスープ。騎士が無言で差し入れて、無言で去った。
莉子は食事を見つめた。食べる気がしない。でも手をつけなかったら体が持たない。分かってはいるけど、今は食欲というものが完全にどこかへ行ってしまっている。
エプロンの刺繍を見た。数字が変わっていく瞬間を、ぼんやりと待っていた。
16が、15になった。
残り、15日。
「[sad]エルドさんも……いなくなっちゃったんだ」
声に出したら、涙が出た。
あふれてきた、という感じではなく、静かに流れ出した。頬を伝って、顎の先から床に落ちる。莉子は止めなかった。止める理由が思いつかなかった。
前話の牢でも泣いた。でもあの時は怒りと悲しさが混ざっていた。なんでこうなるの、という気持ちだった。
今回は違う。ただ、一人だ、という感覚だけがある。
しばらく泣いた。石壁に背中をつけて、膝に顔を埋めて、声も出さずに泣いた。
それから、顎を上げた。袖で目元をぬぐう。
(でも、まだ15日ある)
莉子は小さく、石壁に向かって呟いた。折れていない。折れていないけど、一人では何もできない。この牢から出る方法もない。何もない。でも15日は残っている。
それだけは確かだ。
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深夜になった。
松明の火が小さくなっている。廊下に足音はない。地下牢全体が、息をひそめているみたいに静かだった。
莉子はエプロンの刺繍に指を当てた。古代ルーカ文字の刺繍。いつもは光の門を開く時に触れるけど、今は別のことを頼みたかった。
「[whispers]ねえ……何か教えてよ。どうすればいいか、分かるなら」
刺繍が、脈打つように光った。
莉子の手のひらに、ぽうっと温かい光が広がる。古代ルーカ文字が浮き上がって、目の前でゆっくりと動く。それから——
瞼が、重くなった。
映像が、流れ込んできた。
若い女性がいた。髪は莉子より少し長くて、結い上げている。手元には同じエプロンがある。針と糸で、今まさにこのエプロンの刺繍を縫い上げているところだった。狭い部屋で、石壁で——この牢に、よく似ていた。
その女性は異界から来た、ということが、映像を見ているだけで何となく分かった。場違いな服装。不思議な表情。でも怖がっていない。何かを考えている目をしていた。
映像の中で、その女性が立ち上がった。エプロンをつけた。扉が開いて、騎士に連れられてどこかへ歩いていく。たどり着いたのは広い場所だった。白い石造りの大きな部屋。人が大勢いる。食材を持った人、菓子を並べた人。それを見ている豪華な衣をまとった人——王様だ、と莉子は直感した。
女性がお菓子の皿を差し出す。王様がそれを食べる。その表情が変わった瞬間、映像は途切れた。
「——っ」
莉子の目が開いた。
(ロワイヤル・オフリール!)
年に一度、国中から食を王に献上する行事。認められた者には王の庇護と恩赦が与えられる——エルドが説明してくれたあの制度が、頭の中でぱっと広がった。
あの女性も、同じ状況だったのだ。異界から来て、牢に入れられて、でもロワイヤル・オフリールで王にお菓子を届けて、自由になった。
「[surprised]王様にお菓子届ければ、全部チャラじゃん!!」
思わず声に出た。廊下の松明がゆらっと揺れた。
それから莉子は一秒考えて、頭を抱えた。
(でも、牢から出る方法が……ない)
格子はびくともしない。エルドは来ない。尋問官は敵だ。ヴァレス団長は更に敵だ。ロワイヤル・オフリールには騎士の推挙か、グルマン職人組合の推薦が必要なはずで、今の莉子にはどちらの伝手もない。
問題が多すぎる。でも、道筋だけは見えた。王にお菓子を届ける。それが全部の答えだ。
そこで、足音が聞こえた。
廊下の奥から。軽い足音だった。巡回の騎士とは違う。リズムが違う。何というか——こっそり歩いている、という感じがした。
松明の光が届かない角度から、手が伸びてきた。
細い手だった。格子の隙間にするりと差し込まれて、何かを手放した。
ころん、と床に落ちたのは、焼きたての香りが漂う小さなかけらだった。
「え……」
莉子が格子に顔を近づけた瞬間、足音が遠ざかっていった。廊下を覗いても、人影はない。
かけらを拾った。丸い形の断面。きつね色の焼き色。鼻に届く甘い香りは——
ミエーラ蜜だ。
一口かじると、あの独特の甘さが広がった。ルーカの食材で作られた菓子。間違いない。そしてこのサイズ、この形状——フィナンシェだ。
莉子の胸の奥が、久しぶりにどくん、と跳ねた。
恐怖でも絶望でもない。誰かが、気にかけてくれたのだ。
(これ……誰が?)
格子の外を再び覗いた。廊下は静かで、松明だけが揺れている。足音はもう聞こえない。手の形は細くて、エルドじゃなかった。あんな柔らかい動き方をする人を、莉子はまだ知らない。
フィナンシェのかけらを手のひらで包んだ。温かい。
一人じゃない、かもしれない。
その考えが、石壁の冷たさの中に、ほんの少しだけ灯りをともした。