クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~
優等生の仮面をかぶった女子高生・安楽岡花火には、誰にも言えない秘密がある。想いを寄せる相手は、担任教師の鐘井鳴海——かつて「お兄ちゃん」と呼び、結婚を約束した幼い日の初恋の人。決して届かないその想いを胸に秘めながら、花火は完璧な「いい子」を演じ続けていた。
一方、同じクラスの粟屋麦は、色白で整った容姿を持つ人気者。だが彼にも、中学時代の家庭教師だった音楽教師・皆川茜への叶わぬ恋があった。
お互いの秘密を知る二人は、ある「三つの約束」を交わす。お互いを好きにならないこと。どちらかの恋が実ったら関係を終えること。そして——身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。周囲には理想のカップルに見える二人の、偽りの恋人関係。それは寂しさを埋めるための、危うく脆い共犯関係だった。
「クズ」と呼ばれても仕方ない、最低で、ずるくて、それでも止められない本物の恋。桜舞うアマノガワの街で、報われない想いを抱えた少年少女の、切なくも危険な恋の行方を描くラブストーリー。
クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~ - 偽装デートの境界線
教室の窓から差し込む日差しが、少しだけ角度を変えていた。
四月の初めのあの日から、三日が経っていた。新学期の喧騒も少しずつ落ち着いて、授業の合間のざわめきにも、どこか慣れた空気が混ざり始めている。
安楽岡花火は、終業のチャイムが鳴るのを待っていた。手元のノートには、今日の授業の要点がきれいにまとめられている。黒板の文字を写しながら、時々、窓の外を見る。
アマノオカ川沿いの桜は、もう散り始めていた。満開の時期を過ぎた花びらが、風に吹かれて教室の窓ガラスに貼り付いては、力尽きたように落ちていく。
(今日は、麦とサンリオ通りに行く)
花火は心の中で、今日の予定を確認した。
偽装デート。
そう呼んでいるのは、自分たちだけだ。周りから見れば、ただの仲の良いカップルが放課後にデートをしているようにしか見えない。実際、そう見えるように振る舞っている。
(偽装カップル、か)
花火は、ノートの端にシャープペンシルの先を押し当てた。小さな点が、紙に染みる。
粟屋麦。
同じクラスの、色白でサラサラの髪をした、整った顔立ちの男子。
花火と麦の間には、三つのルールがある。
お互いを好きにならないこと。
どちらかの恋が実ったら、別れること。
身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。
この三つを確認し合ったのは、ほんの数日前のことだ。ファミレスで向かい合って、アイスコーヒーを飲みながら、まるで契約書にサインをするみたいに、淡々と。
(それでいいの。それでいいんだよ)
花火は、自分に言い聞かせた。
だって、私にはお兄ちゃんがいる。
鐘井鳴海。花火の担任で、国語教師。幼い頃から「お兄ちゃん」と呼んで慕ってきた、花火の一番大切な人。
その想いがある限り、麦との関係は偽物のままでいい。偽物だからこそ、安心できる。
チャイムが鳴った。
「起立。礼」
日直の声に合わせて、花火は立ち上がり、頭を下げた。クラスメイトたちが、それぞれの放課後に向かって動き出す。部活に行く者、帰る者、友達と連れ立って教室を出る者。
花火は、机の上の教科書をバッグにしまいながら、さりげなく視線を教室の後ろの方に走らせた。
麦は、まだ自分の席に座っていた。窓の外を見ている。その横顔は、教室の喧騒から少しだけ切り離されたみたいに、静かだった。
(何を考えてるのかな)
花火は、一瞬だけそう思って、すぐにその考えを打ち消した。
偽装カップルが、相手の心の中まで詮索する必要はない。
「花火ちゃん、今日も部活?」
後ろの席の女子が声をかけてきた。花火は、すぐに優等生の笑顔を作る。
「ううん、今日は買い物に行くの。サンリオ通りの方に」
「え、彼氏と?」
「まあ、そんなところかな」
花火が少し照れたように笑ってみせると、女子生徒は「いいなあ」と声を弾ませた。
「粟屋くんと付き合ってるって、本当なんだね。なんか、お似合いだよね」
「そうかな? ありがとう」
花火は、にこりと微笑んだ。
(お似合い、か)
その言葉が、心のどこかに引っかかる。
お似合いなのは、見た目だけだ。中身は、お互いに別の人間を想っている。そんな二人が並んで歩いても、きっと傍から見れば幸せそうに見えるんだろう。
それが、少しだけおかしかった。
教室の後ろで、麦が立ち上がる気配がした。花火は、バッグを肩にかけて、麦の方へ歩いていく。
「麦、行こ」
麦は、花火の方をちらりと見て、小さく頷いた。
「ああ」
二人は、並んで教室を出た。
廊下に出ると、すれ違う生徒たちの視線が、わずかに二人に集まる。
「ねえ、あの二人って付き合ってるんだって」
「へえ、意外。粟屋くん、クールそうなのに」
「でも、安楽岡さんって完璧だし、お似合いじゃない?」
聞こえよがしの声が、背中に届く。花火は、聞こえないふりをして、笑顔のまま歩いた。
(これも、偽装のうち)
周りにどう見られるか。それも、偽装カップルにとっては大事な仕事だ。学校中に「二人は付き合っている」と知らしめること。そうすれば、お互いの本命にバレずに、お互いの傷を隠し合える。
校門を出て、駅の方へ向かう。
四月の午後の空気は、少しだけ汗ばむくらいの暖かさだった。アマノオカ川沿いの遊歩道に出ると、川から吹き上がる風が、花火の前髪を揺らす。
「今日、暑いね」
花火は、何気なく言った。
「そうだな」
麦は、短く答えた。
それきり、会話が途切れる。
(相変わらず、無口だなあ)
花火は、内心で苦笑した。
でも、それが麦という人間だ。必要以上に喋らない。感情を表に出さない。偽装カップルとしては、むしろやりやすい相手だった。
駅前のロータリーを抜けて、商店街の方へ歩いていく。
サンリオ通り。
カガミガワ駅から徒歩八分、全長四百メートルのアーケード商店街。約六十店舗が軒を連ね、駅前の喧騒から少し離れた、どこか懐かしい空気が漂っている。
「ここ、来るの久しぶりだなあ」
花火は、アーケードの天井を見上げた。
「そうか?」
「うん。最近、駅前のショッピングモールばっかりだったから」
「ふうん」
麦は、相変わらず素っ気ない。
でも、花火は気にしなかった。
二人で並んで歩く。それだけで、周りの目には「仲の良いカップル」に見える。実際、すれ違う買い物客たちが、ちらちらと二人を見ていく。
「あれ、安楽岡さん?」
突然、後ろから声をかけられた。
振り返ると、クラスメイトの三戸とあゆみが立っていた。
三戸は、メガネをかけた、髪型がぱっつんの女子。あゆみは、三戸の隣でにこにこ笑っている。
「あ、三戸さん、あゆみちゃん。こんにちは」
花火は、すぐに優等生の笑顔に切り替えた。
「二人でデート? 本当にお似合いだよね」
三戸が、少し興奮した様子で言った。
「えへへ、ありがとう」
花火は、照れたように笑って、麦の腕にそっと手を添えた。
麦は、一瞬だけ体を強張らせた。でも、すぐに力を抜いて、軽く会釈する。
「どうも」
「粟屋くん、安楽岡さんと付き合えて幸せ者だね」
あゆみが、にこにこしながら言った。
「……そうだな」
麦は、短く答えた。
その声に、感情は乗っていない。
(幸せ者、か)
花火は、心の中で繰り返した。
幸せなのは、見た目だけだ。中身は、お互いに別の人間を想っている。それなのに、こうして腕を組んで、恋人同士のふりをしている。
(偽物の幸せって、案外、簡単に作れるんだなあ)
花火は、そう思って、笑顔のまま三戸とあゆみに手を振った。
「じゃあね、また明日」
「うん、バイバイ!」
二人が去っていくのを見送ってから、花火は麦の腕から手を離した。
「ごめんね、急に腕組んじゃって」
「別に。偽装だろ」
麦は、前を向いたまま言った。
「そうだけど」
花火は、小さく笑った。
(偽装、か)
その言葉が、今日はやけに胸に響く。
どうしてだろう。
いつもなら、偽装だろ、の一言で片付けられるのに。
今日は、その言葉の向こうに、麦の心の距離を感じる。
(麦、上の空だな)
花火は、麦の横顔を盗み見た。
色白の肌、サラサラの髪、整った鼻筋。どこからどう見ても、絵に描いたような美少年だ。
でも、その目は、どこか遠くを見ている。
(何を考えてるの?)
花火は、聞きたくなった。
でも、聞けなかった。
偽装カップルのルールに、「お互いの心に踏み込まない」なんて項目はない。でも、なんとなく、聞いてはいけない気がした。
「ミルパス、行こっか」
花火は、明るい声で言った。
「ああ」
二人は、サンリオ通りの中腹にある喫茶店「ミルパス」へ向かった。
ミルパスは、二階建ての小さな喫茶店だ。一階の入り口を入ると、カウンターがあって、二階に上がると窓際の席が並んでいる。店主の大庭マモルは、六十代の無口な男性で、学生たちの恋バナの墓場と呼ばれるほど、口が固いことで有名だった。
「こんにちは」
花火が声をかけると、カウンターの奥からマモルが顔を出した。
「おう、いらっしゃい。窓際、空いてるぞ」
「ありがとうございます」
花火は、麦と一緒に二階に上がった。
窓際の席に座る。ここは、花火のお気に入りの席だ。窓からは、サンリオ通りのアーケードと、行き交う人々の姿が見える。
「アイスコーヒー、二つください」
花火は、マモルに注文した。
「俺、ホットで」
麦が、珍しく注文を変えた。
「あ、ごめん。じゃあ、アイスコーヒーとホットコーヒーで」
「あいよ」
マモルは、無愛想に頷いて、カウンターの奥へ引っ込んだ。
花火は、窓の外を見た。
アーケードの下を、買い物袋を提げた主婦や、学生服姿のグループが歩いている。四月の夕方の光が、アーケードの屋根に反射して、柔らかく店の中に差し込んでいた。
「なんか、久しぶりにゆっくりした気がする」
花火は、背もたれに体を預けて言った。
「そうか?」
「うん。新学期始まってから、ずっとバタバタしてたから」
「お前、いつも完璧にこなしてるだろ」
麦の言葉に、花火は少しだけ笑った。
「完璧に見えてるなら、私の演技もなかなかだね」
「演技、か」
麦は、窓の外に目をやった。
その横顔は、やっぱりどこか上の空だった。
コーヒーが運ばれてきた。
花火はアイスコーヒー、麦はホットコーヒー。湯気の立つカップを、麦は両手で包み込むように持った。
「麦、今日なんか静かだね。いつも以上に」
花火は、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら言った。
「そうか?」
「うん。なんか、上の空っていうか」
「……別に、普通だろ」
麦は、コーヒーを一口飲んだ。
(普通、か)
花火は、心の中で首をかしげた。
普通の麦なら、もっと素っ気ないながらも、会話のキャッチボールを返してくる。でも、今日はどこか、心ここにあらずという感じだ。
「何かあった?」
花火は、思い切って聞いてみた。
麦は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……この前さ、中学ん時の家庭教師だった人に、偶然会ったんだ」
花火の手が、一瞬止まった。
(家庭教師)
心の奥が、ざわりと揺れる。
「へえ、そうなんだ。懐かしい人に会えたんだね」
花火は、優等生の笑顔で相槌を打った。
「ああ。まさか、あそこで会うとは思わなかった」
「どこで会ったの?」
「駅前の本屋。向こうから声をかけられた」
「へえ。その人、今何してるの?」
花火は、平静を装って聞いた。
(やめて。聞かないで)
心のどこかで、そう叫んでいる自分がいる。
でも、聞かずにはいられなかった。
麦は、窓の外を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
「今、うちの学校で音楽の先生やってるんだよ。皆川茜っていうんだけど」
花火の胸が、小さく音を立てた。
皆川茜。
音楽教師の、皆川茜。
花火は、その名前を知っていた。いや、知っているどころではない。
(茜先生が、麦の家庭教師だった)
その事実が、頭の中でゆっくりと輪郭を持つ。
「……そうなんだ。すごい偶然だね」
花火は、笑顔を保った。
でも、指先が少しだけ冷たくなっていた。
「ああ。茜先生、相変わらず綺麗で、優しくて、俺の話をちゃんと聞いてくれるんだ」
麦の声に、熱がこもる。
無意識の熱。
花火には、それが痛いほど分かった。
(麦、嬉しそう)
花火は、麦の横顔を見た。
さっきまで上の空だった麦の目が、今は少しだけ輝いている。
茜の話をしている時だけ、麦は生き生きとしている。
(そんな顔、私には見せないのに)
花火の胸の奥で、小さな亀裂が走る音がした。
「よかったね。麦の憧れの人に、また会えて」
花火は、精一杯の笑顔で言った。
「憧れ、か。まあ、そうかもな」
麦は、照れくさそうに笑った。
その笑顔が、花火の胸にちくりと刺さる。
(偽装のはずなのに)
花火は、ストローでアイスコーヒーを一口飲んだ。
冷たい液体が、喉を滑り落ちていく。
(偽装のはずなのに、なんで)
心が、ざわつく。
理由が、分からない。
麦が茜のことを嬉しそうに話す。
それだけのことだ。
なのに、どうしてこんなに、胸が痛いんだろう。
「茜先生って、どんな人なの? 学校では、音楽の授業でしか見たことないから」
花火は、笑顔のまま聞いた。
(やめて。これ以上、聞きたくない)
心の声は、無視した。
「そうだな……まず、すごく綺麗だよ。音楽室にいると、そこだけ空気が違うっていうか。声をかけるのも、ちょっと緊張するくらい」
「へえ」
「でも、話すとすごく優しくて。中学の頃、俺が勉強でつまずいても、怒らないで何度でも教えてくれたんだ。俺の話も、いつも真剣に聞いてくれて」
麦は、コーヒーカップを見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺、あの人のおかげで、勉強が嫌いにならずに済んだんだよ。感謝してる」
「そっか。いい先生だね」
花火は、相槌を打った。
(いい先生、か)
花火の知っている茜は、そんな単純な言葉で片付けられる人じゃない。
でも、麦の前では、そんなことは言えない。
「ああ。本当にいい先生だよ。今度、学校でも挨拶しに行こうと思ってる」
「うん、行けばいいよ」
花火は、笑顔で頷いた。
笑顔を作る時、ほんの一瞬だけ、目が笑っていないことを、花火は自分で知っている。
でも、麦は気づかない。
麦は、茜のことしか見えていない。
(それでいい。それが、偽装カップルの正しい姿だよ)
花火は、心の中で自分に言い聞かせた。
お互いに別の好きな人がいる。
それが、この関係の大前提だ。
なのに、なんで。
なんで、こんなに心がざわつくの。
その後、二人は他愛もない話をした。
クラスのこと、課題のこと、最近見た動画のこと。
でも、花火の心は、さっきの麦の言葉に囚われたままだった。
茜。
皆川茜。
音楽教師で、麦の中学時代の家庭教師。
(私の知らない麦が、あの人の中にはある)
花火は、アイスコーヒーの氷が溶けていくのを、ぼんやりと眺めた。
カラン、と氷が音を立てる。
「そろそろ、行こっか」
花火は、明るく言った。
「ああ」
会計を済ませて、店を出る。
外は、もう夕暮れに近づいていた。
サンリオ通りのアーケードに、オレンジ色の光が差し込んでいる。
「今日は、ありがとう。楽しかったよ」
花火は、駅の改札前で手を振った。
「別に、俺は何もしてない」
麦は、相変わらず素っ気ない。
「それでも。偽装でも、デートはデートでしょ」
花火は、にこりと笑った。
「……そうだな」
麦は、少しだけ口元を緩めて、手を上げた。
「じゃあな」
「うん、また明日」
麦の背中が、駅の雑踏に消えていく。
花火は、それを見送ってから、一人で歩き出した。
家に帰る道の途中で、足が止まった。
気がつくと、花火は駅の北口から、住宅街の方へ歩いていた。
家とは、反対方向だ。
(なんで、こっちに来てるんだろう)
花火は、自分でも分からなかった。
足が、勝手に動いている。
どこに向かっているのか、本当は知っている。
(お兄ちゃん)
心の中で、その名前を呼んだ。
鐘井鳴海。
花火の担任で、国語教師。
幼い頃から「お兄ちゃん」と呼んで慕ってきた、花火の一番大切な人。
その人が住んでいるアパートが、この先にある。
コーポ・シラヤマ。
駅から徒歩十五分の、木造二階建ての古いアパート。
花火は、何度もこの道を歩いたことがある。
鳴海に用があるわけじゃない。
ただ、近くを通りたくなるのだ。
(ストーカーみたいで、気持ち悪いな)
花火は、自分を嘲笑った。
でも、足は止まらない。
アパートの前まで来ると、花火は電柱の陰に身を隠すようにして、二階の窓を見上げた。
鳴海の部屋は、二百五号室。
窓から、柔らかな灯りが漏れている。
(お兄ちゃん、家にいる)
その事実だけで、胸が温かくなる。
(私、ほんと、ばかだなあ)
花火は、小さく息をついた。
小学生の頃のことを思い出す。
両親が忙しくて、家に一人でいることが多かった花火。
そんな花火の面倒を見てくれたのが、当時大学生だった鳴海だった。
家庭教師として、兄として、鳴海は花火のそばにいてくれた。
ある雨の日。
花火は、鳴海に言った。
「大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる」
鳴海は、笑って答えた。
「じゃあ、花火が大人になるまで待ってるよ」
その約束を、花火は今でも覚えている。
(お兄ちゃんは、きっと忘れてる)
花火は、窓の灯りを見上げながら、そう思った。
でも、花火は忘れない。
忘れられない。
この想いだけが、花火の心を支えている。
「お兄ちゃん……」
声に出して、つぶやいた。
その時だった。
アパートの駐車場に、一台の車が入ってくるのが見えた。
赤い軽自動車。
花火の心臓が、大きく跳ねた。
(あれは)
車が、駐車場の空きスペースにゆっくりと停まる。
エンジンが切られ、運転席のドアが開いた。
降りてきたのは、細い影。
女性だった。
薄暗い駐車場の灯りに照らされて、そのシルエットが浮かび上がる。
(皆川、茜)
花火は、その場に立ち尽くした。
間違いない。
あの細い体、あの髪のシルエット。
音楽教師の皆川茜だった。
茜は、車の鍵をかけると、迷いのない足取りでアパートの階段を上がっていく。
二階へ。
花火は、息を殺して、その姿を見ていた。
茜は、二百五号室の前で立ち止まった。
インターホンを押す。
しばらくして、ドアが開く。
中から、鳴海の姿が覗いた。
「あ、茜さん。いらっしゃい」
鳴海の声が、夜の静けさに響く。
「こんばんは。お邪魔します」
茜の声は、甘く、柔らかかった。
二人は、笑顔で言葉を交わし、茜は鳴海の部屋の中へ消えていった。
ドアが閉まる。
カチャリ、という音が、花火の耳に届いた。
(なんで)
花火は、電柱の陰で、指先が震えるのを感じた。
(なんで、茜先生が、お兄ちゃんの部屋に)
考えたくない想像が、頭の中を駆け巡る。
茜は、鳴海の同僚だ。
だから、仕事の話で訪ねてくることもあるかもしれない。
でも。
でも、こんな夜に、一人で、車で。
(やめて。考えるな)
花火は、首を振った。
心臓が、冷えていく。
手足の先から、体温が奪われていくような感覚。
(私は、ただの生徒だ)
花火は、自分に言い聞かせた。
(お兄ちゃんの部屋に、誰が来ようと、私には関係ない)
関係ない。
そう思えば思うほど、胸が締め付けられる。
花火は、二階の窓を見上げた。
鳴海の部屋の灯りは、さっきと同じように、柔らかく輝いている。
でも、その光は、もう花火を温めてはくれなかった。
花火は、ゆっくりと、その場を離れた。
足取りは、重かった。
家に帰る道のりを、花火はほとんど覚えていない。
気がつくと、自宅の前に立っていた。
玄関の鍵を開け、中に入る。
「ただいま」
誰もいない家に、声が響く。
両親は、今日も遅い。
花火は、自分の部屋に上がると、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
白い天井。
何もない。
(茜先生は、お兄ちゃんの部屋で、何をしてるんだろう)
考えたくないのに、考えてしまう。
(麦は、茜先生のことを、綺麗で優しい人だって言ってた)
麦の嬉しそうな顔が、浮かぶ。
(茜先生は、お兄ちゃんのことも、麦のことも、手に入れようとしてるの?)
花火は、枕に顔を埋めた。
「やだ……」
声が、くぐもる。
「やだよ……」
涙は、出なかった。
でも、胸の奥が、冷たくて、重い。
花火は、そのまま、眠れない夜を過ごした。
翌日。
花火は、いつも通りに学校へ行った。
優等生の仮面を、完璧に被って。
教室に入ると、クラスメイトたちが挨拶してくる。
「おはよう、花火ちゃん」
「おはよう」
花火は、にこりと笑った。
(大丈夫。平気だから)
心の中で、口癖を繰り返す。
本当は、平気じゃない。
でも、そう言い聞かせることで、なんとか立っていられる。
午前の授業を、花火は完璧にこなした。
ノートを取り、質問に答え、グループワークではリーダーシップを発揮する。
誰も、花火の心の異変に気づかない。
(それでいい)
花火は、心の中でつぶやいた。
昼休み。
花火は、購買でパンを買って、教室で食べようとしていた。
廊下を歩いていると、前方から、あの人が歩いてくるのが見えた。
皆川茜。
音楽教師の茜は、今日も清楚な装いで、廊下を優雅に歩いていた。
すれ違う生徒たちが、茜に挨拶する。
「茜先生、こんにちは」
「こんにちは。今日も頑張ってね」
茜は、一人ひとりに微笑みかける。
その笑顔は、本当に美しくて、優しそうで。
(この人が、昨日、お兄ちゃんの部屋に)
花火は、茜の姿を見た瞬間、足がすくみそうになった。
茜は、花火に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。
「あら、花火ちゃん」
茜の声は、鈴を転がすように澄んでいた。
「こんにちは、茜先生」
花火は、優等生の笑顔で挨拶した。
「麦ちゃんと、仲良しなんだってね」
茜は、にこにこ笑いながら言った。
花火の心臓が、跳ねる。
「……クラスメイトですから」
花火は、平静を装って答えた。
「ふうん、そう」
茜は、含み笑いを浮かべた。
その笑顔には、何かが隠されている。
花火には、それが分かった。
茜は、花火の耳元に、そっと顔を寄せた。
「私ね、麦ちゃんの家庭教師だったの。今も時々、相談に乗ってあげてるのよ」
花火の背中に、冷たいものが走る。
茜の声は、甘い。
でも、その言葉の端には、鋭い棘が仕込まれていた。
「……そうなんですか」
花火は、声が震えないように、必死で笑顔を保った。
茜は、花火から少し離れると、自分の唇に、細い人差し指を当てた。
「内緒だよ」
その仕草は、花火にだけ見えるように。
周りの生徒には、見えない角度で。
茜は、にこりと微笑んで、そのまま廊下を去っていった。
花火は、その場に立ち尽くした。
掌に、じっとりと汗をかいていた。
(内緒だよ)
茜の声が、耳の奥でこだまする。
(あの人は、知ってる)
花火は、茜がただの音楽教師ではないことを、改めて確信した。
茜は、花火が鳴海を好きだということを、知っている。
そして、茜は、鳴海にも、麦にも、近づいている。
(あの人は、何をしようとしてるの?)
花火の胸に、新たな不安が植え付けられた。
午後の授業も、花火は完璧にこなした。
でも、心は、ずっと茜の言葉に囚われていた。
(麦ちゃんの家庭教師だったの)
(今も時々、相談に乗ってあげてるのよ)
茜の言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
(内緒だよ)
あの仕草。
あの含み笑い。
(あの人は、私を試してる)
花火は、ノートを取る手を止めずに、心の中でそう結論づけた。
放課後。
花火は、教室で帰り支度をしていた。
麦の姿は、もう教室にはなかった。
(どこに行ったんだろう)
花火は、麦の机をちらりと見た。
きれいに片付けられた机の上には、何も置かれていない。
(まさか、茜先生のところに行ったんじゃ)
花火は、その考えを振り払った。
(偽装カップルの私が、そんなこと気にする権利はない)
そう。
権利は、ない。
なのに。
花火の足は、教室を出て、廊下を歩き、階段を上っていた。
向かう先は、屋上。
県立アマノガワ高校の屋上は、立入禁止だった。
でも、鍵は甘く、花火と麦は、ここを偽装カップルの「演じ場所」に使っていた。
屋上の扉を開けると、風が吹き抜けた。
四月の午後の風が、花火の髪を大きく揺らす。
「……麦」
花火は、屋上のフェンスにもたれかかっている麦の姿を見つけた。
麦は、花火に気づくと、軽く手を上げた。
「よお」
「ここにいたんだ」
花火は、麦の隣に歩いていった。
二人の間に、微妙な距離ができる。
偽装カップルとしての、適切な距離。
「ねえ、麦」
花火は、フェンス越しに校庭を見下ろしながら言った。
「なんだ」
「……皆川先生と、何かあったりする?」
言いたくて、言えなかった言葉。
それが、するりと口から出た。
(あ、言っちゃった)
花火は、心の中で後悔した。
でも、もう遅い。
麦は、少し驚いたように、花火の顔を見た。
「何かって、別に。どうして?」
「……なんとなく。茜先生と、最近よく会ってるのかなって」
花火は、笑顔でごまかした。
(やめて。これ以上、踏み込まないで)
心の声が、叫んでいる。
でも、花火は止まれなかった。
「まあ、たまに挨拶するくらいだよ。あとは、この前偶然会った時くらいか」
「そうなんだ」
花火は、ほっとしたような、でも、まだ何か引っかかるような、複雑な気持ちになった。
(茜先生は、今も時々、麦の相談に乗ってるって言ってた)
(麦は、たまに挨拶するだけって言ってる)
(どっちが本当?)
花火は、麦の顔を見た。
麦は、もう校庭の方に目をやっていた。
その横顔は、昨日、ミルパスで茜の話をしていた時と同じように、少しだけ遠くを見ている。
(麦の目、また茜先生の話をした時と同じ輝きをしてる)
花火の胸が、ちくりと痛んだ。
(偽装のはずなのに)
花火は、フェンスを握る手に、力を込めた。
冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
(偽装のはずなのに、なんで)
心が、ざわつく。
理由が、分からない。
いや、本当は、分かっている。
でも、認めたくない。
認めてしまったら、この偽装カップルは、終わってしまう。
「……何でもない。ごめんね、変なこと聞いて」
花火は、笑顔を作った。
「別に」
麦は、素っ気なく答えた。
花火は、それ以上、何も言えなかった。
屋上に、風が吹く。
アマノオカ川の向こうに、夕日が沈もうとしていた。
空が、オレンジ色に染まっていく。
花火は、その景色を見ながら、心の中でつぶやいた。
(私は、ずるい)
偽装の割り切りが、崩れかけている。
それに気づいていながら、花火は、その感情の名前を認めることができなかった。
「そろそろ、帰ろっか」
花火は、明るい声で言った。
「ああ」
二人は、屋上を後にした。
階段を下りる。
花火の心の中には、まだ、茜の「内緒だよ」という声が、小さくこだましていた。
(あの人は、私の大切なものを、全部奪おうとしてる)
花火は、階段の一段一段を踏みしめながら、そう思った。
お兄ちゃん。
そして、麦。
(麦は、私のものじゃないけど)
花火は、前を歩く麦の背中を見た。
色白で、サラサラの髪をした、整った背中。
(でも、偽装カップルなんだから)
(今は、まだ、私の隣にいる)
花火は、麦の背中に、そっと手を伸ばしたくなった。
でも、できなかった。
偽装カップルのルールが、花火の手を縛りつける。
お互いを好きにならないこと。
(好きになんて、なってない)
花火は、心の中で強く否定した。
(これは、ただの嫉妬だ)
(偽装の彼氏を、他の女に取られそうで、面白くないだけ)
花火は、そう自分に言い聞かせた。
でも、その言い訳は、あまりにも脆かった。
校門を出る。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
「また明日、学校でね」
花火は、笑顔で手を振った。
「ああ。また明日」
麦は、軽く手を上げて、駅の方へ歩いていった。
花火は、その背中を見送りながら、心の中でつぶやいた。
(麦の隣にいるのは、今は、私だ)
(偽物でも、今は)
花火は、ゆっくりと、家への道を歩き始めた。
空には、一番星が、かすかに輝き始めていた。
アマノガワの街に、夜が訪れようとしている。
花火の心の中には、まだ、小さな棘が刺さったままだった。
その棘は、きっと、簡単には抜けない。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。