クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~
優等生の仮面をかぶった女子高生・安楽岡花火には、誰にも言えない秘密がある。想いを寄せる相手は、担任教師の鐘井鳴海——かつて「お兄ちゃん」と呼び、結婚を約束した幼い日の初恋の人。決して届かないその想いを胸に秘めながら、花火は完璧な「いい子」を演じ続けていた。
一方、同じクラスの粟屋麦は、色白で整った容姿を持つ人気者。だが彼にも、中学時代の家庭教師だった音楽教師・皆川茜への叶わぬ恋があった。
お互いの秘密を知る二人は、ある「三つの約束」を交わす。お互いを好きにならないこと。どちらかの恋が実ったら関係を終えること。そして——身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。周囲には理想のカップルに見える二人の、偽りの恋人関係。それは寂しさを埋めるための、危うく脆い共犯関係だった。
「クズ」と呼ばれても仕方ない、最低で、ずるくて、それでも止められない本物の恋。桜舞うアマノガワの街で、報われない想いを抱えた少年少女の、切なくも危険な恋の行方を描くラブストーリー。
クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~ - 清楚な毒牙――音楽室の内緒
音楽室の窓から、校庭の若葉が風に揺れるのが見えた。
四月の終わり。新学期が始まってから、もうすぐ一か月が経とうとしている。
安楽岡花火は、音楽室の一番後ろの席で、配られたプリントに視線を落としていた。五線譜の上に並ぶ音符が、なぜだか今日はいつもより遠くに見える。
(今日は、音楽の授業)
花火は、小さく息を吸った。
この二週間、花火は皆川茜という存在を、ずっと意識していた。音楽教師で、清楚な雰囲気の、生徒に人気のある先生。でも、花火だけは知っている。あの人の笑顔の裏に、何が隠れているのかを。
(茜先生は、お兄ちゃんに近づいてる)
二週間前、職員室の廊下で見た光景が、花火の頭から離れない。鳴海が茜に笑いかけていて、茜が花火にだけ見えるように「内緒だよ」と唇に指を当てた、あの瞬間。
あれから、花火は茜のことを考えるたびに、胸の奥が冷たくなった。
ガラリ、と扉が開く音がした。
「はーい、みんな席について。今日はね、ちょっと特別なことをするわよ」
皆川茜が、音楽室に入ってきた。
白いブラウスに、淡い色のカーディガン。ふんわりとしたスカートが、歩くたびに揺れる。肩にかかった髪は、窓から差し込む光を受けて、柔らかく輝いていた。
(きれいな人)
花火は、そう思ってしまった。
悔しいけれど、茜は本当にきれいだった。生徒たちが「茜先生は天使みたい」と噂するのも、わかる気がする。
「今日はね、みんなに一人ずつ歌ってもらおうかなって思ってるの。私がピアノで伴奏するから、それに合わせて歌ってみて」
茜の声は、音楽室に澄んで響いた。甘くて、優しくて、でもどこか、ぞっとするほど冷たい響き。
(歌うの?)
花火は、心の中で小さく身構えた。
音楽の授業で歌のテストをするのは、別に珍しいことじゃない。でも、今日は茜が伴奏をする。それだけで、花火の緊張は普段の何倍にもなっていた。
「じゃあ、順番にいきましょうか。出席番号順で。最初は……安楽岡さん、お願いできるかしら?」
花火は、心臓が跳ねるのを感じた。
(一番最初)
茜の視線が、花火に注がれる。にこにこと笑っているのに、その目は花火の心の奥まで見透かそうとしているみたいだった。
「はい」
花火は、優等生の笑顔で立ち上がった。
教壇の前まで歩いていく。クラスメイトの視線が、背中に刺さる。花火は、そんな視線には慣れていた。完璧な優等生は、いつだって見られる側に立つものだ。
茜が、ピアノの前に座った。
「じゃあ、始めるわね。この曲、知ってるでしょう?」
茜が弾き始めたのは、有名な唱歌だった。誰でも一度は聞いたことがある、優しいメロディ。
花火は、息を吸って、口を開いた。
声が、音楽室に広がる。
花火の歌声は、自分でも驚くほどよく響いた。この日のために練習してきたわけじゃない。でも、鳴海に「花火は歌も上手いんだな」と褒められたくて、昔から歌うことは好きだった。
(お兄ちゃんに、聞いてほしい)
花火は、心の中でそう思いながら、歌った。
最後の一音を歌い終えると、クラスメイトたちから、まばらな拍手が起きた。
「ありがとうございました」
花火は、ぺこりと頭を下げた。
「花火ちゃん、歌うまいのね。とってもきれいな声だったわ」
茜が、にこりと笑った。
「ありがとうございます。茜先生の伴奏が素敵だったので」
花火も、完璧な笑顔を返した。
(これで終わり)
そう思って席に戻ろうとした、その時。
「麦ちゃんも、きっと喜ぶわね。花火ちゃんの歌、聞きたいって言ってたもの」
花火の足が、ぴたりと止まった。
(麦ちゃん?)
茜は、にこにこと笑っている。周りの生徒たちには、ただの世間話にしか聞こえなかっただろう。でも、花火にはわかった。
(この人、今、確信犯で言った)
茜は、花火の反応を、じっと観察している。その目は、まるで実験をする科学者みたいに、冷たくて、好奇心に満ちていた。
「……そうですか。麦は、そんなこと言ってませんでしたけど」
花火は、笑顔を崩さなかった。
「あら、そう? 私の思い違いかしら。でも、花火ちゃんの歌が上手いのは本当よ。鐘井先生も、花火ちゃんのことを『あの子は何をやらせても完璧だ』って褒めてたわ」
(鐘井先生の名前を、ここで出す)
花火の胸が、きゅっと締め付けられた。
茜は、花火が鳴海に好意を持っていることを知っている。知っていて、わざと鳴海の名前を出した。
「先生にそう言ってもらえると、嬉しいです」
花火は、必死に笑顔を保った。
茜は、花火の笑顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「花火ちゃんは、本当にいい子ね。先生、花火ちゃんのこと、大好きよ」
その言葉が、花火の心に、小さな棘を刺した。
(大好き、なんて)
(この人の口から聞くと、全部、嘘に聞こえる)
花火は、席に戻った。
心臓が、どくどくと脈打っている。
(茜先生は、私が鳴海先生を好きだって、知ってる)
(知ってて、私の前で、鳴海先生の名前を出す)
花火は、プリントの端を、指先でぎゅっと握りしめた。
紙が、くしゃりと音を立てた。
放課後。
花火は、職員室の前に立っていた。
手には、進路希望調査のプリント。
(進路相談、っていう名目なら、自然に先生に会える)
花火は、心の中で、そう言い訳をした。
本当は、鳴海に会いたかっただけだ。二週間前、茜に「妹みたいに可愛がってる」と言われたことを、鳴海の顔を見て、上書きしたかった。
(お兄ちゃんに会えば、大丈夫)
花火は、深呼吸して、職員室の扉をノックした。
「失礼します」
「はーい」
花火は、扉を開けた。
職員室の中は、夕方の柔らかい光で満ちていた。
鳴海は、自分の席に座って、何か書類を書いている。眼鏡の奥の目が、真剣に書類を追っていた。
(お兄ちゃん)
花火の胸が、ほっと温かくなった。
「鐘井先生、今、お時間よろしいですか?」
花火は、鳴海の席に近づいた。
鳴海が、顔を上げる。
「ああ、花火か。どうした?」
鳴海の顔に、笑みが広がる。
(先生が、笑ってくれた)
それだけで、花火の心は、ふわふわと浮き上がる。
「進路のことで、少し相談したくて。プリント、提出に来ました」
花火は、プリントを差し出した。
「おお、もう書いてきたのか。さすが花火だな。……うん、字が丁寧だ。昔から変わらないな」
鳴海は、プリントを受け取ると、嬉しそうに笑った。
(昔から、変わらない)
花火の心が、じわりと温かくなる。
「先生に褒められると、照れます」
花火は、少しだけ、本当の笑顔になった。
鳴海の前では、優等生の仮面が、ほんの少しだけ薄くなる。
「それで、相談って? 何か悩んでるのか?」
鳴海が、真剣な顔で花火を見た。
「はい、実は……」
花火が、言葉を続けようとした、その時。
「鐘井先生、お疲れさまです」
澄んだ声が、職員室に響いた。
花火の心臓が、跳ねた。
振り返ると、茜が立っていた。
手には、小さな包み。
「あ、皆川先生。お疲れさまです」
鳴海の声が、少しだけ明るくなった。
(先生の声、変わった)
花火は、その変化を、聞き逃さなかった。
「鐘井先生、お昼、まだ食べてないんじゃないですか? 私、お弁当、多めに作ってきちゃったんです。半分こ、しません?」
茜は、にこにこと笑いながら、鳴海の隣の席に、自然に腰を下ろした。
「え、でも、悪いですよ。皆川先生のお弁当を……」
鳴海は、照れたように、後頭部をかいた。
「いいんです。私、いつも作りすぎちゃうから。それに、一人で食べるより、誰かと一緒の方が美味しいですし」
茜は、包みを開いた。
中から、色とりどりのおかずが詰まった、小さな弁当箱が出てくる。
「ほら、これ、卵焼き。甘いのとしょっぱいの、両方作ったんです。鐘井先生、どっちが好きですか?」
茜が、鳴海に卵焼きを差し出す。
「え、あ、じゃあ……甘い方、ですかね」
鳴海は、ますます照れたように、卵焼きを受け取った。
花火は、その光景を、ただ立って見ていることしかできなかった。
(お弁当を、半分こ)
(先生と、茜先生が)
花火の胸が、ぎゅうぎゅうと締め付けられる。
「あら、花火ちゃん。何か用?」
茜が、花火に気づいた。
その口元には、含み笑い。
「……いえ、進路のプリントを、提出に来ただけです」
花火は、笑顔を作った。
「そう。花火ちゃんは、本当に真面目ね。感心しちゃうわ」
茜は、そう言って、また鳴海の方に向き直った。
「鐘井先生、卵焼き、どうですか? 美味しい?」
「あ、はい。すごく美味しいです。皆川先生、料理上手なんですね」
「ふふ、嬉しい。じゃあ、今度はお弁当、一緒に作りましょうか?」
「え、それは……その、光栄ですけど」
二人の会話が、花火の耳に、遠くから聞こえてくるみたいだった。
(私、ここにいちゃいけない)
花火は、そう思った。
「あの、先生、私、これで失礼します」
花火は、声を振り絞った。
「あ、ああ。相談は、また今度、ゆっくり聞くからな」
鳴海は、花火の方を向いて、優しく言った。
「はい。ありがとうございます」
花火は、頭を下げて、職員室を出た。
扉を閉めた瞬間、笑顔が、音を立てて崩れ落ちた。
(お弁当、半分こ)
(あんなに嬉しそうな先生、初めて見た)
花火は、廊下を歩きながら、唇を噛んだ。
(茜先生は、私が見てるって、わかってて)
(わざと、あんなことを)
花火の掌に、汗が滲む。
「花火ちゃん」
後ろから、声がした。
花火は、心臓が止まるかと思った。
振り返ると、茜が立っていた。
いつの間に、職員室を出てきたのだろう。
「……茜先生、どうかしましたか?」
花火は、笑顔を作り直した。
茜は、ゆっくりと花火に近づいてくる。
その足音が、廊下に、やけに大きく響いた。
「ねえ、花火ちゃん」
茜が、花火のすぐ目の前で、足を止めた。
二人の距離は、あと少しで触れ合ってしまいそうなほど近い。
茜の香水の匂いが、花火の鼻をくすぐる。
甘い、花の匂い。
「花火ちゃんって、鐘井先生のこと、好きでしょ?」
茜の声が、花火の耳元で、甘く囁かれた。
花火の頭が、真っ白になった。
(知られてる)
(やっぱり、知られてた)
花火の心臓が、ばくばくと暴れる。
「……違います。そんなこと、ありません」
花火は、声が震えないように、必死で否定した。
「ふうん。まあいいわ。私、そういうの、敏感なの」
茜は、意味深に笑った。
その笑顔は、獲物を追い詰める猫みたいだった。
「花火ちゃん、安心していいわよ。私、花火ちゃんの邪魔をするつもりはないから。むしろ、応援してあげたいくらい。……でも、鐘井先生が、私のことをどう思ってるかは、私にもわからないわ」
茜の言葉は、花火の心を、ぐちゃぐちゃにかき回した。
(応援する?)
(この人が?)
(嘘。絶対に嘘)
「私のことは、気にしないでね」
茜は、そう言って、人差し指を唇に当てた。
「内緒だよ」
その仕草は、二週間前、花火が見たあの仕草と、全く同じだった。
茜は、勝ち誇ったように微笑むと、花火に背を向けて、廊下を歩いていった。
花火は、その場に、立ち尽くした。
足が、動かない。
(私のことは、気にしないで)
(内緒だよ)
茜の言葉が、頭の中で、何度も繰り返される。
(あの人は、私の気持ちを知ってて)
(知ってて、私の前で、先生に近づいてる)
花火は、掌を見た。
汗で、ぐっしょりと濡れていた。
その夜。
花火は、気がつくと、鳴海のアパートの近くに立っていた。
「コーポ・シラヤマ」
駅から徒歩十五分の、古い木造アパート。鳴海が住んでいる場所。
(なんで、ここに来てるの)
花火は、自分でも、どうしてここに来たのか、わからなかった。
家に帰るつもりだった。でも、足が、勝手にこっちに向かっていた。
(お兄ちゃんに、会いたい)
(でも、会って、何を話すの)
花火は、アパートの前の電柱の影に、身を隠すように立っていた。
二階の、端から二番目の部屋。
鳴海の部屋の明かりが、ついている。
(先生、まだ起きてる)
花火は、その明かりを見上げた。
オレンジ色の、暖かい光。
(あの光の下に、お兄ちゃんがいる)
花火の胸が、きゅっと締め付けられる。
その時。
花火は、アパートの前に停まっている車に、気づいた。
赤い、小さな車。
(あの車)
花火の心臓が、冷たくなった。
二週間前、花火がこの場所で見た、あの車。
茜の車だ。
(また、来てる)
花火は、車のナンバーを、目で追った。
間違いない。茜の車だった。
(前は、偶然かもしれないって思った)
(でも、二度目)
花火の頭の中で、昼間の光景が、フラッシュバックした。
茜が鳴海に笑いかけて、鳴海が照れて、二人でお弁当を分け合っていた、あの光景。
(茜先生は、今、お兄ちゃんの部屋にいるの?)
(二人で、何をしてるの?)
花火は、アパートの二階を見上げた。
鳴海の部屋の明かりは、相変わらず、静かに灯っている。
カーテンの向こうに、人影が、二つ。
(……二つ)
花火の呼吸が、止まった。
(嘘)
(嘘でしょ)
花火は、目を凝らした。
でも、カーテンの向こうの人影は、はっきりとは見えなかった。
(見間違いかもしれない)
花火は、自分に言い聞かせた。
(お兄ちゃんの部屋に、茜先生がいるはずない)
(だって、まだ、付き合ってるって決まったわけじゃない)
花火は、スマホを取り出した。
ロック画面。
鳴海の笑顔。
「お兄ちゃん」
花火は、小さく呟いた。
小学生の頃、鳴海の家の縁側で、花火は言った。
「大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる」
鳴海は、笑って、花火の頭を撫でてくれた。
「そっか。じゃあ、花火が大人になるまで、俺は待ってるよ」
あの約束。
(お兄ちゃんは、きっと、忘れてる)
(子供の冗談だって、思ってる)
花火の目から、涙がこぼれた。
一筋、また一筋。
(私は、本気だったのに)
花火は、スマホを握りしめたまま、その場にしゃがみ込んだ。
夜風が、花火の髪を揺らす。
アパートの明かりは、変わらず、二階で静かに輝いていた。
数日後。
花火は、茜から「放課後、音楽室に来てほしいの」と声をかけられた。
「花火ちゃん、ちょっと手伝ってほしいことがあるの。楽譜の整理、一人じゃ大変で」
茜は、人懐っこい笑顔で、そう言った。
周りの生徒たちには、仲の良い先生と生徒の会話にしか見えなかっただろう。
でも、花火にはわかっていた。
(これは、呼び出しだ)
花火は、断る理由も思いつかず、「はい、わかりました」 と答えた。
放課後。
花火は、音楽室のある音楽棟へ向かった。
音楽棟は、校舎から少し離れた場所にある。
夕方の音楽棟は、人通りが少なくて、花火の足音だけが廊下に響いた。
音楽室の前に、花火は立った。
扉は、少しだけ開いている。
中から、声が聞こえた。
「……それで、鐘井先生。今度の週末、お時間ありますか?」
茜の声。
花火の足が、ぴたりと止まった。
(鐘井先生?)
花火は、扉の陰に、身を潜めた。
「週末? ああ、特に予定はないけど」
鳴海の声も聞こえる。
(お兄ちゃんも、いる)
花火は、心臓がばくばくと鳴るのを感じた。
「実は、駅前の楽器店に、新しく入荷した楽譜があるんです。よかったら、一緒に見に行きませんか? 二人で」
茜の声は、甘く、少しだけ弾んでいた。
「二人で、ですか? いや、でも、俺、楽譜とか詳しくないし……」
鳴海の声は、照れている。
「大丈夫です。私が教えますから。それに、音楽の話、鐘井先生と、もっとしてみたいんです」
茜の声が、少しだけ近くなった気がした。
(もっと、二人で)
花火の胸が、ぎゅうっと締め付けられる。
「……そう、ですね。じゃあ、よろしくお願いします」
鳴海が、茜の誘いを、受け入れた。
(嘘)
(お兄ちゃん、行っちゃうの)
花火は、扉の陰で、唇を噛んだ。
「ふふ、嬉しい。じゃあ、週末、楽しみにしてますね」
茜の声が、花火の耳に、鋭く突き刺さる。
花火は、動けなかった。
逃げなきゃ。
そう思うのに、足が、床に張り付いたみたいに動かない。
その時。
茜が、ちらりと、扉の方を見た。
花火と、目が合った。
茜は、にっこりと笑った。
そして、ゆっくりと、人差し指を唇に当てた。
「内緒だよ」
声は出さなかった。
でも、唇の動きで、はっきりと、そう言った。
花火の心臓が、音を立てて、砕け散った。
花火は、その場から、逃げるように走り出した。
廊下を、階段を、校舎へ。
息が切れる。
涙が、溢れて止まらない。
(見せつけられた)
(あの人は、私に、見せつけたんだ)
花火は、校舎の陰で、立ち止まった。
壁に手をついて、肩で息をする。
涙が、地面に、ぽたぽたと落ちた。
(お兄ちゃんが、茜先生と、週末、二人で)
(デート)
(あれは、デートだ)
花火は、頭を振った。
(違う。楽器店に行くだけ。デートじゃない)
(でも、二人で、って)
(あんなに嬉しそうに)
花火は、スマホを取り出した。
震える指で、メッセージアプリを開く。
粟屋麦の名前。
『今から、ミルパスに来られる?』
送信。
数秒後。
『わかった』
短い返信。
花火は、涙を拭いて、歩き出した。
サンリオ通りにある喫茶「ミルパス」。
花火が先に着いて、窓際の席に座っていると、麦が入ってきた。
麦は、花火の顔を見るなり、少しだけ眉を動かした。
「泣いたのか?」
麦は、花火の向かいに座りながら、静かに言った。
「泣いてないよ。花粉症みたいなもの」
花火は、笑顔を作った。
「四月の終わりに花粉症か」
麦は、呆れたように言った。
「うるさいなあ。それより、聞いてよ。鳴海先生と茜先生、週末、二人で出かけるんだって。楽器店に。二人で」
花火は、明るく装って言った。
でも、声が、震えている。
「へえ、そうなんだ」
麦は、淡々と返した。
(それだけ?)
花火は、麦の反応に、なぜか強い苛立ちを覚えた。
(私が、こんなに苦しいのに)
(麦は、どうして、そんなに平気なの)
花火は、麦の顔を見た。
麦は、窓の外を見ている。
その横顔は、いつも通り、静かで、何を考えているのか、わからない。
(麦の本命は、茜先生だ)
(茜先生が、鳴海先生と出かけるって聞いて、麦も、本当は、傷ついてるはず)
(なのに、どうして、そんな顔ができるの)
花火は、麦の心の中を、覗きたくなった。
「ねえ、麦。茜先生が、鳴海先生と付き合ったら、どうする?」
花火は、自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか、わからなかった。
「どうもしない。俺の恋が実らなかったってだけだろ」
麦は、あっさりと言った。
「……そう」
花火は、麦の言葉に、胸の奥が、もやもやした。
(どうもしない、って)
(そんな風に、割り切れるの?)
花火は、麦に、嘘でも「大丈夫?」と気遣ってほしかった。
でも、麦は、そういうことを言う人じゃない。
(偽装カップルなんだから)
(お互いの恋を、応援するのが、ルール)
(なのに、私は、麦に、慰めてほしいって、思ってる)
花火は、自分の心の汚さに、吐き気がした。
「……大丈夫。平気だから」
花火は、口癖のように、そう言った。
本当は、全然平気じゃない。
でも、そう言うしかなかった。
麦は、花火の顔を、じっと見た。
「花火」
麦が、静かに、花火の名前を呼んだ。
「なに?」
花火は、顔を上げた。
「お前が平気じゃないのは、わかってる」
麦の言葉に、花火の心臓が、跳ねた。
「……なんで、わかるの?」
「顔に書いてある」
麦は、少しだけ、口元を緩めた。
それは、笑っているのか、呆れているのか、よくわからない表情だった。
「……ばか」
花火は、小さく呟いた。
でも、その声は、さっきよりも、少しだけ、柔らかくなっていた。
(麦は、わかってる)
(私が平気じゃないって、わかってて)
(それでも、慰めようとはしない)
(それが、麦の優しさなのかもしれない)
花火は、窓の外を見た。
サンリオ通りの夕暮れ。
街灯が、ぽつぽつと点き始めている。
「……私、帰るね」
花火は、立ち上がった。
「ああ」
麦は、頷いた。
花火は、ミルパスを出た。
夕暮れの商店街を、一人で歩く。
(私の恋は、終わりに向かってる)
花火は、心の中で、そう思った。
(お兄ちゃんは、茜先生と、どんどん近づいていく)
(私は、ただ、見てるしかできない)
花火は、空を見上げた。
アマノオカ川の向こうに、夕日が沈んでいく。
空が、オレンジ色から、紫色に変わっていく。
(それでも、私は)
花火は、拳を握りしめた。
(負けたくない)
(茜先生にだけは、絶対に)
花火の目に、再び、涙が滲んだ。
でも、今度は、悲しみだけじゃなかった。
悔しさと、怒りと、そして、まだ消えない、鳴海への想い。
(お兄ちゃんへの気持ちは、まだ、終わってない)
花火は、涙を拭って、歩き出した。
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