クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~
優等生の仮面をかぶった女子高生・安楽岡花火には、誰にも言えない秘密がある。想いを寄せる相手は、担任教師の鐘井鳴海——かつて「お兄ちゃん」と呼び、結婚を約束した幼い日の初恋の人。決して届かないその想いを胸に秘めながら、花火は完璧な「いい子」を演じ続けていた。
一方、同じクラスの粟屋麦は、色白で整った容姿を持つ人気者。だが彼にも、中学時代の家庭教師だった音楽教師・皆川茜への叶わぬ恋があった。
お互いの秘密を知る二人は、ある「三つの約束」を交わす。お互いを好きにならないこと。どちらかの恋が実ったら関係を終えること。そして——身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。周囲には理想のカップルに見える二人の、偽りの恋人関係。それは寂しさを埋めるための、危うく脆い共犯関係だった。
「クズ」と呼ばれても仕方ない、最低で、ずるくて、それでも止められない本物の恋。桜舞うアマノガワの街で、報われない想いを抱えた少年少女の、切なくも危険な恋の行方を描くラブストーリー。
クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~ - 私じゃダメ?――河川敷の告白と、朝の罪悪感
教室の窓から差し込む光が、机の上のプリントを白く照らしていた。
安楽岡花火は、始業のチャイムが鳴るまでの数分間、配られたばかりの数学のプリントをじっと見つめていた。数字が、記号が、ただの模様みたいに並んでいる。頭に入ってこない。
(昨日、私、河川敷で泣いてた)
あの後、どうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。涙が止まらなくて、土手の草にしがみついて、声が枯れるまで泣いた。スマホの画面には、鳴海の笑顔。それを見るたびに、胸の奥が引き裂かれるみたいに痛んだ。
(茜先生に、全部見透かされてる)
音楽室で言われた言葉が、耳の奥でぐるぐる回る。
『鐘井先生のこと、好きでしょ? 応援するから』
あの時の茜の笑顔。優しくて、温かくて、それでいて、花火の心臓をゆっくりと握りつぶすみたいな笑顔。
『麦ちゃんも昔から私のこと大好きなのよ』
(私の大切なものを、全部、あの人は奪っていく)
「花火、おはよう」
顔を上げると、クラスメイトの三戸が心配そうに覗き込んでいた。メガネの奥の目が、花火の顔をじっと見ている。
「おはよう、三戸さん」
花火は、笑顔を作った。口角を上げて、目を細めて。完璧な優等生の笑顔。何度も鏡の前で練習した、誰からも好かれる笑顔。
「……花火、あんた、目の下のクマすごいよ。ちゃんと寝てる?」
「大丈夫。ちょっと夜更かししちゃっただけ。平気だから」
花火は、そう言って微笑んだ。
大丈夫。平気だから。
口癖みたいに、その言葉が出てくる。本当は全然平気じゃないのに。本当は今すぐにでも、机に突っ伏して泣き叫びたいのに。
「花火ちゃん、これ、よかったら。朝、買ってきたやつなんだけど」
今度は、あゆみが小さな包みを差し出してきた。甘い匂いが、ほんのりと漂う。
「え、いいの? ありがとう。でも、あゆみちゃんが食べなよ」
「いいのいいの。花火ちゃん、最近元気ないから。甘いもの食べて、元気出して」
あゆみの笑顔が、まぶしかった。
(私、そんなに顔に出てるのかな)
花火は、包みを受け取った。指先が、ほんの少し震えている。
「ありがとう。いただくね」
笑顔で返す。完璧に。誰にも、本当の私を見せないように。
(優等生の安楽岡花火は、いつも笑ってる)
(そう思われてないと、ダメなんだ)
(だって、仮面が剥がれたら、私、何も残らないから)
一限目の国語の時間。
教壇に立つ鐘井鳴海の声が、教室に響く。黒板にチョークが走る音。クラスメイトのノートを取る音。
花火は、教科書の文字を目で追っていた。でも、内容は少しも頭に入ってこない。鳴海の声が、遠くから聞こえるみたいだった。
(お兄ちゃんの声)
(昔から、ずっと聞いてた声)
(なのに、今は、すごく遠い)
花火は、ペンを持つ手に力を込めた。指先が、白くなる。
(昨日、茜先生と、どこに行ったのかな)
(二人で、何を話したのかな)
(お兄ちゃんは、茜先生のこと、どう思ってるのかな)
考えるだけで、胃のあたりがきゅっと縮む。息が、浅くなる。
(ダメだ。考えちゃダメ)
花火は、ノートに板書を写した。文字を書く。書く。書く。手を動かすことで、心を誤魔化すみたいに。
気がつくと、ノートの端に、小さく「助けて」と書いてあった。
花火は、慌ててそれを消した。消しゴムで、何度も何度もこする。紙が、毛羽立つ。
(誰に助けてほしいの?)
(お兄ちゃん? 麦? それとも……)
(私、一人で立ってなきゃいけないのに)
休み時間になった。
花火は、机に突っ伏した。冷たい机の天板が、火照った頬に気持ちいい。
(今日も、一日が長い)
(早く、放課後にならないかな)
(でも、放課後になったらなったで、何をすればいいんだろう)
その時だった。
「えっちゃん」
聞き覚えのある声。
顔を上げると、教室の入り口に、絵鳩早苗が立っていた。
早苗は、花火の親友だった。去年は同じクラスで、今は隣のクラス。背が高くて、美人で、男子にも女子にも人気がある。でも、花火の前では、いつも柔らかい笑顔を見せてくれる。
「えっちゃん、ちょっといい?」
早苗の声は、静かだった。でも、その目は、花火の顔をじっと見つめている。何かを、見抜こうとするみたいに。
花火は、ゆっくりと立ち上がった。
(えっちゃんに、何か言われる)
(昨日のこと、知ってるのかな)
(いや、知るわけない。誰にも言ってないんだから)
花火は、早苗のところまで歩いていった。
「おはよう、えっちゃん。どうしたの?」
「おはよう。……花火、今日、放課後、時間ある?」
早苗は、花火のことを「えっちゃん」とは呼ばなかった。花火の本名で呼んだ。それだけで、何か特別な話なんだとわかった。
「放課後? うん、別に予定ないけど」
「じゃあ、河川敷で待ってる。いつもの場所。話したいことがあるの」
早苗の目は、真剣だった。
花火は、何かを感じ取った。
(えっちゃん、私の異変に気づいてる)
(昨日、河川敷で泣いてたの、もしかして見てた?)
(いや、そんなはずない。あの時、誰もいなかった)
「……わかった。行くね」
花火は、頷いた。
断る理由が、見つからなかった。
早苗は、少しだけ微笑むと、自分の教室へ戻っていった。
花火は、その背中を見送りながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(えっちゃんと、何を話せばいいんだろう)
(私、今、誰かとまともに話せる状態じゃないのに)
放課後。
花火は、河川敷公園の土手に座っていた。
アマノオカ川の水面が、夕日に照らされて、オレンジ色に光っている。風が、若葉の匂いを運んでくる。
昨日と同じ場所。
昨日、一人で声を上げて泣いた場所。
(ここに来ると、昨日のことがフラッシュバックする)
(涙が出そうになる)
花火は、膝を抱えて、川の流れを見つめた。
(えっちゃん、まだ来ない)
(何を話すんだろう)
(やっぱり、昨日のこと?)
その時、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、早苗が立っていた。
夕日を背にして、長い髪が風に揺れている。その表情は、逆光でよく見えない。
「お待たせ、花火」
早苗は、花火の隣に、静かに座った。
二人の間に、少しだけ距離があった。
(えっちゃん、いつもより、静かだ)
花火は、早苗の横顔をちらりと見た。
早苗は、川の流れを見つめていた。その横顔は、真剣で、何かを決意しているみたいだった。
「……あのね、花火」
早苗が、口を開いた。
「なに?」
花火は、早苗の顔を見た。
早苗は、ゆっくりと花火の方を向いた。
その目には、涙が滲んでいた。
「私、毎日、花火のこと見てたの」
花火は、息を止めた。
「花火が、無理して笑ってるの、ずっと前から知ってた。教室で、友達と笑ってる時も、目が笑ってないこと。廊下を歩いてる時も、時々、すごく苦しそうな顔をしてること」
早苗の声が、震えている。
「昨日も、ここで、一人で泣いてたでしょ。私、見てたの。……声をかけられなかった。ごめんね」
花火は、何も言えなかった。
(見られてた)
(えっちゃんに、私の一番醜いところを、見られてた)
恥ずかしさと、情けなさで、顔から火が出そうだった。
「花火、今、すごく辛いんでしょ。何があったのか、話してほしい。私、花火の力になりたいの」
早苗の涙が、頬を伝って落ちた。
花火の胸の奥で、何かが、ゆっくりと溶けていく。
(私、誰かに話したかった)
(誰かに、聞いてほしかった)
(一人で抱え込むのは、もう限界だった)
花火の目からも、涙が溢れてきた。
「……私、鳴海先生のことが、好きなの」
声が、震えた。
「小さい頃から、ずっと。お兄ちゃんって呼んで、ずっと、大好きで。でも、茜先生が、お兄ちゃんのこと、奪おうとしてて……私、どうしたらいいか、わからない」
涙が、止まらなかった。
昨日、一人で泣いた時と同じ。でも、今は、隣に早苗がいる。
早苗は、花火の言葉を、黙って聞いていた。
責めなかった。
驚きもしなかった。
ただ、優しく、花火の話を聞いてくれていた。
「私、茜先生に、全部見透かされてて……『応援するから』って言われて……でも、あれは、絶対に、本心じゃない。あの人は、私を傷つけるために、近づいてるんだと思う」
花火は、堰を切ったように、全部話した。
鳴海への想い。
茜への恐怖。
麦との偽装関係。
何もかも。
早苗は、最後まで、静かに聞いてくれた。
花火が話し終えると、あたりは、すっかり暗くなっていた。
川の流れる音だけが、二人の間に響いている。
「……花火、よく話してくれたね」
早苗が、静かに言った。
「ありがとう、えっちゃん。……私、誰かに話したかったの。聞いてくれて、本当にありがとう」
花火は、涙を拭った。
(少し、楽になった)
(誰かに話すだけで、こんなに違うんだ)
その時、早苗が、花火の手を握った。
花火は、びっくりして、早苗の顔を見た。
早苗の手は、温かかった。
「……花火」
早苗の目から、再び涙が溢れ出した。
「私じゃ、ダメ?」
花火は、言葉の意味を、一瞬、理解できなかった。
「花火を慰められるのは、私だけだよ。私、花火のことが、好きなの。友達としてじゃなくて、一人の女の子として、花火のことが、大好きなの」
早苗の涙が、花火の手の甲に落ちた。
温かい。
「ずっと、ずっと前から、好きだった。花火が笑ってるのを見るたびに、胸が苦しくなって。花火が辛そうにしてるのを見るたびに、代わってあげたいって思ってた」
早苗の声は、震えていた。
「私、女の子なのに、おかしいよね。気持ち悪いよね。……でも、この気持ちは、止められないの」
早苗は、花火の手を、ぎゅっと握った。
花火は、何も言えなかった。
(えっちゃんが、私のことを、好き?)
(女の子の、えっちゃんが?)
頭が、真っ白になった。
でも、早苗の手の温かさだけは、はっきりと感じていた。
「花火、お願い。私を、花火のそばにいさせて。花火が辛い時、私が、慰めるから。花火が泣きたい時、私が、抱きしめるから」
早苗の涙声が、夜の河川敷に響く。
花火の心臓が、早鐘を打っていた。
(どうすればいいの)
(えっちゃんの気持ちに、どう答えればいいの)
(私、女の子同士で、そんなこと……)
でも。
(私、今、誰かに抱きしめてほしい)
(誰かに、必要とされたい)
(一人でいるのが、怖い)
花火の体は、心よりも先に、動いていた。
花火は、早苗の肩に、そっと頭を預けた。
早苗の体が、一瞬、強張った。
「……えっちゃん、私、わかんない。どうしたらいいか、全然わかんない。でも、今、一人は、嫌なの」
花火の声は、かすれていた。
早苗は、ゆっくりと、花火の体を抱きしめた。
「うん、わかってる。私、花火が一人にならないように、ずっとそばにいるから」
早苗の腕が、花火の背中に回される。
温かい。
安心する。
花火の目から、また涙が溢れてきた。
(私、えっちゃんに、甘えてる)
(えっちゃんの気持ちに、はっきり答えられないのに)
(でも、この温もりを、手放したくない)
花火は、早苗の胸に顔を埋めた。
早苗の心臓の音が、聞こえる。
ドキドキと、速い。
(えっちゃんも、緊張してる)
(それなのに、私を、抱きしめてくれてる)
「……花火、私、花火のためなら、何でもするから」
早苗の囁きが、花火の耳に、甘く響いた。
その夜。
花火は、早苗と一線を越えた。
早苗の部屋のベッドの上で、二人は、何度も、互いの温もりを確かめ合った。
(私、何をしてるんだろう)
(えっちゃんは、友達なのに)
(女の子同士なのに)
でも、体は、快楽を求めていた。
心の穴を埋めるように、早苗の肌を求めた。
早苗もまた、花火を求めた。
二人の吐息が、暗い部屋に溶けていく。
行為の後。
花火は、早苗の腕の中で、天井を見つめていた。
体は、まだ火照っている。
心は、ぐちゃぐちゃだった。
(気持ちよかった)
(でも、これは、恋じゃない)
(私は、お兄ちゃんが好きなのに)
「……私、ひどい人間だよね」
花火は、呟いた。
「麦とも偽装してるのに、えっちゃんにまで、こんなことして。最低だ」
涙が、こめかみを伝って、枕に落ちた。
早苗は、花火の髪を、優しく撫でた。
「花火は、悪くないよ」
早苗の声は、穏やかだった。
「私が、勝手に好きになったんだから。花火が、自分を責めることなんて、何もないんだよ」
早苗の指が、花火の髪を梳く。
その感触が、心地よかった。
「……えっちゃん、ありがとう。でも、私、えっちゃんの気持ちに、ちゃんと応えられないかもしれない。私の心は、まだ、お兄ちゃんでいっぱいで」
「うん、知ってる。それでいいの。私は、花火のそばにいられるだけで、幸せだから」
早苗は、花火の額に、そっと唇を落とした。
「明日も、明後日も、えっちゃんのそばにいるからね」
花火は、小さく頷いた。
(この温もりを、手放したくない)
(でも、この温もりに、溺れたくもない)
(私の心は、矛盾だらけだ)
花火は、目を閉じた。
早苗の心臓の音が、子守唄みたいに聞こえた。
翌朝。
花火は、自分の部屋のベッドで目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
(あれ? 私、どうやって家に帰ったんだっけ)
(早苗の部屋から、始発で帰ったんだった)
花火は、隣を見た。
誰もいない。
シーツは、冷たかった。
(早苗は、いない)
花火の胸に、安堵と寂しさが、同時に押し寄せた。
(よかった。気まずくならなくて)
(……でも、一人だと、やっぱり寂しい)
花火は、スマホを手に取った。
画面には、いくつかの通知が表示されている。
早苗から。
『おはよう。無理しないでね』
麦から。
『今日、放課後ミルパス来れる?』
花火は、早苗への返信を打った。
『ありがとう。大丈夫だよ』
送信ボタンを押す。
(大丈夫じゃないのに)
(また、嘘をついた)
花火は、麦への返信も打った。
『行く』
短く、それだけ。
花火は、ベッドから起き上がった。
体が、重い。
心も、重い。
(私、何やってるんだろう)
(えっちゃんと、あんなことして)
(麦には、何も言えなくて)
(お兄ちゃんへの想いは、まだ消えなくて)
花火は、鏡の前に立った。
鏡の中の自分は、目の下にクマがあって、ひどい顔をしていた。
(こんな顔で、学校に行けない)
花火は、化粧水を手に取った。
(完璧な優等生の仮面を、被らなきゃ)
(誰にも、本当の私を見せないように)
学校。
花火は、廊下を歩いていた。
(早苗に、会いたくない)
(でも、会わなきゃいけない)
(どんな顔をして会えばいいんだろう)
その時だった。
「えっちゃん、おはよう」
後ろから、早苗の声がした。
花火は、心臓が跳ねるのを感じた。
振り返ると、早苗が立っていた。
いつも通りの、柔らかい笑顔。
でも、その目には、昨夜の記憶が、確かに滲んでいた。
「おはよう、えっちゃん」
花火は、笑顔で返した。
でも、周囲の目が気になって、必要以上に距離を取ってしまう。
(みんなが見てる)
(早苗と、仲良さそうに話してるのを、見られてる)
(別に、普通のことなのに)
(なのに、どうして、こんなに意識してるんだろう)
早苗は、花火の微妙な変化を感じ取ったようだった。
その表情が、ほんの一瞬、寂しそうに曇った。
でも、すぐに笑顔に戻った。
「じゃあ、また後でね」
早苗は、そう言って、自分の教室へ向かっていった。
花火は、その背中を見送りながら、胸の奥がチクチク痛むのを感じた。
(私、えっちゃんを傷つけてる)
(昨夜のこと、なかったことにしようとしてる)
(最低だ)
花火は、唇を噛んだ。
教室に戻ると、廊下の向こうから、皆川茜が歩いてくるのが見えた。
茜は、花火と目が合うと、にこりと微笑んだ。
そして、花火にだけ見えるように、唇に指を当てた。
『内緒だよ』
花火の心臓が、跳ねた。
(また、あの仕草)
(あの人は、私が何か隠してるのを知ってるみたいに)
(私の秘密を、全部見透かしてる)
茜は、そのまま廊下を歩き去っていった。
花火は、その場に立ち尽くした。
手が、震えている。
(怖い)
(あの人の笑顔が、怖い)
昼休み。
花火は、机の上に置かれた一冊のノートに気づいた。
交換日記だった。
早苗と、一年生の時から続けている交換日記。
花火は、ノートを開いた。
早苗の文字が、ページいっぱいに綴られていた。
『花火へ
昨日のこと、後悔してないよ。
むしろ、花火と、あんなに近づけたことが、嬉しかった。
でも、花火が無理してるなら、私、我慢するから。
花火の好きなようにしていいんだよ。
私は、花火が笑ってくれるなら、それでいい。
ずっと、花火のそばにいるからね。
早苗より』
花火は、ノートを読んで、胸が締め付けられた。
(えっちゃんは、私のことを、すごく考えてくれてる)
(私の気持ちを、最優先にしてくれてる)
(なのに、私は、えっちゃんの気持ちから、逃げようとしてる)
花火は、ペンを手に取った。
返事を書こうとした。
でも、ペンが進まない。
『私も楽しかった』
そう書けば、早苗を傷つけずに済む。
でも、それは本心なのか。
(昨夜のことは、気持ちよかった)
(でも、それは、恋じゃない)
(私は、お兄ちゃんが好きなのに)
(そんな気持ちで、えっちゃんに「楽しかった」なんて、言っていいの?)
花火は、自分の気持ちが、わからなかった。
ペン先が、ノートの上で止まる。
結局、花火は、短い返事だけを書いた。
『ありがとう。ちょっと考えさせて』
それだけ書いて、ノートを閉じた。
(ごめん、えっちゃん)
(私、まだ、自分の気持ちが、わからないの)
放課後。
花火は、喫茶ミルパスにいた。
サンリオ通りの中腹にある、古い喫茶店。花火と麦が、偽装デートでよく使う場所。
窓際の席に座って、麦を待つ。
店の中には、コーヒーの匂いが漂っていた。
カランコロン、とドアベルが鳴った。
「よっ」
粟屋麦が、入ってきた。
色白な肌に、サラサラの髪。整った顔立ち。クラスメイトの女子が「麦くんは王子様みたい」と噂するのも、わかる気がする。
麦は、花火の向かいに座った。
「お疲れ様。注文、何にする?」
花火は、メニューを麦に差し出した。
「いつもの」
麦は、メニューを見ずに言った。
「じゃあ、私も、いつもので」
花火は、店員に注文した。
しばらくして、アイスコーヒーが二つ、運ばれてきた。
花火は、ストローでコーヒーをかき混ぜた。氷が、カランと音を立てる。
「で、話って何?」
麦が、切り出した。
「え? 話があるのは、麦のほうでしょ? 今日、ミルパス来れる?って、連絡くれたじゃない」
「ああ、そうだった。……いや、大したことじゃないんだ。ただ、最近、色々あって、誰かと話したかっただけ」
麦は、コーヒーを一口飲んだ。
「茜先生から、連絡が来たんだ。『相談に乗ってあげる』って。……何の相談だよ、って感じだけど」
花火の心臓が、ドキッとした。
(茜先生が、麦に?)
(あの人、私だけじゃなくて、麦にも近づいてる)
「それから、のり子からも、しつこく連絡来るし。『王子様、今度一緒に帰ろう』って、毎日メッセージ送ってくるんだよ。うざい」
麦は、ため息をついた。
「のり子ちゃん、相変わらずだね。……茜先生のことは、どうするの? 相談に乗ってもらうの?」
花火は、平静を装って聞いた。
(茜先生は、麦のことを、どう思ってるの?)
(麦は、茜先生のことが、まだ好きなの?)
「わからない。でも、茜先生と話せるなら、話したい。……俺は、まだ、茜先生のことが、忘れられないから」
麦の言葉に、花火の胸が、チクリと痛んだ。
(麦は、まだ、茜先生のことが好きなんだ)
(偽装カップルのルールでは、お互いの恋を応援するはずなのに)
(なのに、どうして、こんなにモヤモヤするんだろう)
「……そう。麦が、それでいいなら、いいと思うよ」
花火は、笑顔で言った。
(私、笑えてる?)
(ちゃんと、優等生の笑顔、できてる?)
「花火、最近、なんかあった?」
麦が、珍しく、花火の顔をじっと見た。
花火は、ドキッとした。
「え? なんにもないよ。なんで?」
「いや、目の下にクマあるし、なんか、上の空だし。……まあ、言いたくないなら、別にいいけど」
麦は、コーヒーを飲んだ。
花火は、ストローを指でいじった。
(麦に、早苗のこと、話せるわけない)
(女の子同士で、あんなことしたなんて)
(麦にだけは、絶対に、知られたくない)
「大丈夫。平気だから。ちょっと寝不足なだけ」
花火は、口癖の言葉を、また言った。
麦は、それ以上、何も聞かなかった。
二人の間に、ぎこちない沈黙が流れた。
以前は、こんな沈黙、なかったのに。
偽装カップルのはずなのに、もっと、気楽に話せてたのに。
今は、お互いに、言えない秘密を抱えている。
その重さが、二人の間に、見えない壁を作っていた。
「……そろそろ、帰ろうか」
花火は、立ち上がった。
「ああ」
麦も、立ち上がった。
会計を済ませて、二人は店を出た。
夕暮れのサンリオ通りを、並んで歩く。
商店街の店先には、夕焼け色の光が当たっていた。
「じゃあ、また明日」
駅前で、花火は言った。
「おう。また明日」
麦は、手を軽く上げて、改札へ向かっていった。
花火は、その背中を見送った。
(麦も、何か隠してる)
(私も、隠してる)
(偽装カップルのまま、お互いの本心は、どんどん離れていく)
花火は、一人、駅前のベンチに座った。
スマホを取り出す。
早苗からのメッセージが届いていた。
『今日はゆっくり休んでね』
花火は、その文字を、じっと見つめた。
(えっちゃんは、優しい)
(私が、無理してるのを知ってて、それでも、そばにいようとしてくれる)
(でも、その優しさが、今は、少しだけ、重い)
花火は、空を見上げた。
アマノオカ川の向こうに、夕日が沈んでいく。
空が、オレンジ色から、紫色に変わっていく。
(私の気持ちは、まだ、整理がつかない)
(お兄ちゃんへの想い)
(麦へのモヤモヤ)
(早苗への罪悪感)
(全部、ぐちゃぐちゃに絡まって、ほどけない)
花火は、立ち上がった。
家路につく。
夕闇が、花火の背中を、ゆっくりと包み込んでいった。
その頃。
駅前のカフェの窓際席で、皆川茜は、花火の後ろ姿を見つめていた。
茜は、アイスティーのストローを、指でくるくると回す。
その唇には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「花火ちゃん、ずいぶん、お疲れみたいね」
茜は、スマホを取り出した。
メッセージアプリを開き、鐘井鳴海に、文字を打つ。
『今度、花火ちゃんの相談に乗ってあげてるの。とってもいい子ね』
送信ボタンを押す。
茜は、スマホの画面を見つめながら、小さく笑った。
「さて、次は、どうやって揺さぶってあげようかしら」
茜の瞳が、夕日に照らされて、赤く光った。
花火は、その視線に、気づかない。
早苗からの『今日はゆっくり休んでね』というメッセージを読み返しながら、自分の気持ちの整理がつかないまま、夜の街へと消えていった。Noveliaとは?
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