クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~
優等生の仮面をかぶった女子高生・安楽岡花火には、誰にも言えない秘密がある。想いを寄せる相手は、担任教師の鐘井鳴海——かつて「お兄ちゃん」と呼び、結婚を約束した幼い日の初恋の人。決して届かないその想いを胸に秘めながら、花火は完璧な「いい子」を演じ続けていた。
一方、同じクラスの粟屋麦は、色白で整った容姿を持つ人気者。だが彼にも、中学時代の家庭教師だった音楽教師・皆川茜への叶わぬ恋があった。
お互いの秘密を知る二人は、ある「三つの約束」を交わす。お互いを好きにならないこと。どちらかの恋が実ったら関係を終えること。そして——身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。周囲には理想のカップルに見える二人の、偽りの恋人関係。それは寂しさを埋めるための、危うく脆い共犯関係だった。
「クズ」と呼ばれても仕方ない、最低で、ずるくて、それでも止められない本物の恋。桜舞うアマノガワの街で、報われない想いを抱えた少年少女の、切なくも危険な恋の行方を描くラブストーリー。
クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~ - お兄ちゃんと、内緒の距離
教室の窓から見えるアマノオカ川の桜は、もうほとんど散ってしまっていた。花びらが舞う代わりに、若葉が風に揺れている。四月も半ばを過ぎて、新学期の空気はすっかり落ち着いていた。
安楽岡花火は、始業のチャイムが鳴るまでの数分間、机の上に置いた教科書の角を指先でなぞっていた。心臓が、朝からずっと落ち着かない。
(今日から、正式に……)
花火は、小さく息を吸った。
一週間前、クラスに新しい担任が来ることが知らされた。臨時の先生ではなく、正式な担任として。その知らせを聞いた瞬間、花火の胸は変な音を立てた。嬉しいような、怖いような。どちらともつかない感情が、ぐるぐると渦を巻いた。
(鐘井先生が、私の担任になる)
それは、幼い頃からずっと「お兄ちゃん」と呼んで慕ってきた人。花火の一番大切な人。
「おはよう、花火ちゃん」
後ろの席の子が声をかけてきた。花火は、ぱっと顔を上げて笑顔を作る。
「おはよう。今日もいい天気だね」
「ほんと。でも、もう桜終わっちゃったね。ちょっと寂しい」
「そうだね。でも、新緑もきれいだよ」
他愛のない会話。花火は、こういう時間が嫌いではなかった。優等生の仮面を被っている間は、自分の心のざわつきから目を逸らせる。
教室のドアが、ガラリと開いた。
花火の心臓が、跳ねた。
入ってきたのは、鐘井鳴海だった。
二十八歳の国語教師。花火の目から見ても、鳴海は決して派手な人ではない。身長は高いけれど、どこか頼りない雰囲気があって、眼鏡の奥の目はいつも優しく笑っている。スーツのネクタイが、今日は少し曲がっていた。
(あ、ネクタイ、曲がってる)
花火は、思わず口元が緩みそうになって、慌てて引き締めた。
「おはよう。今日から正式に、このクラスの担任を務める鐘井鳴海です。よろしく」
鳴海は、教壇に立って、クラス全員に向かってそう言った。声は、少しだけ緊張しているように聞こえた。
(先生、緊張してるのかな)
花火は、そんな鳴海の様子を、胸の奥がきゅっとなるような気持ちで見つめた。
「とはいえ、一週間前からもう顔は合わせてるから、今さらって感じだけどな」
鳴海が照れくさそうに笑うと、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。
(お兄ちゃん)
花火は、心の中でだけ、その言葉を呟いた。
声には出さない。絶対に。ここは学校で、鳴海は先生で、花火は生徒だから。
「じゃあ、今日の一限は国語。教科書を出してくれ」
鳴海の授業は、とてもわかりやすかった。声が穏やかで、説明が丁寧で、時々挟む小話が面白い。生徒たちは、すぐに鳴海に懐いた。
花火は、ノートを取りながら、時々ちらりと鳴海を見た。
(先生は、昔と変わらないな)
小学生の頃、花火はよく鳴海の家に遊びに行っていた。鳴海が勉強を教えてくれて、花火は「お兄ちゃん」と呼んで、甘えていた。鳴海は、いつも笑って花火の頭を撫でてくれた。
あの頃から、ずっと。
花火の想いは、ずっと同じ場所にある。
でも、鳴海にとって花火は、いつまでも「昔の妹分」でしかない。
そのことが、嬉しくて、切なかった。
授業が終わって、鳴海が答案用紙を返し始めた。
「安楽岡」
名前を呼ばれて、花火は立ち上がった。教壇まで歩いていく。鳴海が、答案用紙を差し出しながら、にこりと笑った。
「花火の字は、本当に丁寧でいいな。昔から変わらない」
その言葉は、花火だけに向けられたものだった。
(昔から、覚えててくれたんだ)
花火の胸の奥が、じわりと温かくなる。
「ありがとうございます。先生の字も、きれいですよ」
花火は、精一杯の笑顔でそう返した。声が震えないように、必死だった。
「俺の字は、ただの癖字だよ。花火に褒められると照れるな」
鳴海は、そう言って、照れたように後頭部をかいた。
その仕草が、あまりにも無邪気で。
(ああ、好きだなあ)
花火は、心の中で、そう思った。
でも、次の瞬間、鳴海は別の生徒にも同じように笑いかけた。
「お前の字は、もうちょっと丁寧に書けよ。読めないぞ」
「えー、先生ひどい」
鳴海と男子生徒のやりとりを聞きながら、花火は席に戻った。
(先生の笑顔は、私だけのものじゃない)
当たり前のことだ。鳴海は教師で、クラス全員の担任で、誰に対しても平等に優しい。
花火は、答案用紙を机の上に置いて、そっと指でなぞった。
(でも、昔から変わらないって、言ってくれた)
その言葉を、心の中で繰り返す。
嬉しいのに、胸の奥がちくりと痛む。
この感情の名前を、花火はもう知っていた。
(私だけを見てほしい)
叶わない願いだ。
叶わないと、知っている。
それでも、想い続けることだけは、やめられなかった。
放課後。
花火は、職員室の前に立っていた。
手には、進路希望調査票のファイル。昨日、クラス全員分を集めて、きれいに整理したものだ。
(進路相談、っていうのは、口実だけど)
花火は、心の中で、自分に言い訳をした。
本当は、ただ鳴海と話したかっただけ。
でも、生徒が担任と進路の話をするのは、何もおかしなことではない。花火は、優等生の仮面を被って、職員室のドアをノックした。
「失礼します」
職員室の中は、放課後ということもあって、先生たちがそれぞれ忙しそうにしていた。花火は、迷わず鳴海の席へ向かう。
鳴海は、机に向かって何か書類を書いていた。
「鐘井先生、進路希望調査票、持ってきました」
花火が声をかけると、鳴海は顔を上げて、にこっと笑った。
「おお、ありがとう。助かるよ」
鳴海は、ファイルを受け取ると、ぱらぱらと中身を確認した。
「相変わらず、花火は仕事が早いな。本当にしっかりしてる。小学生の頃から、ずっとそうだった」
また、「昔から」だ。
花火は、胸が高鳴るのを感じた。
「そんなことないです。私、結構抜けてるところありますよ」
「そうか? 俺には完璧に見えるけどな」
鳴海は、無邪気に笑った。
その笑顔が、花火の心を、ぎゅっと掴む。
(お兄ちゃん)
喉の奥まで、その言葉がせり上がってくる。
(だめ。ここでは、鐘井先生)
花火は、唇をぎゅっと結んで、言葉を飲み込んだ。
「……先生、あの、進路のことで、少し相談したいことがあるんです」
花火は、話題を変えるように言った。
「お、いいぞ。何でも聞け。俺で答えられることなら、何でも答える」
鳴海は、椅子に座り直して、花火の方を向いた。
「実は、大学のことで迷っていて……教育学部にしようか、文学部にしようか」
「ほう、教育学部? 花火は教師になりたいのか?」
「……はい。先生みたいな、教師に」
花火は、少しだけ勇気を出して、そう言った。
鳴海は、一瞬きょとんとして、それから、嬉しそうに笑った。
「そうか。それは嬉しいな。でも、俺なんてまだまだだぞ。花火なら、もっとすごい教師になれるよ」
「先生は、すごい教師です。私が保証します」
花火が真剣な顔で言うと、鳴海は、また照れたように笑った。
「そう言ってもらえると、本当に救われるよ。ありがとう、花火」
「いえ、こちらこそ、相談に乗ってもらって」
花火は、ぺこりと頭を下げた。
(先生と、二人で話せた)
それだけで、今日一日のすべてが報われたような気がした。
「困ったことがあったら、何でも言えよ。俺は、お前の担任なんだから」
鳴海が、何の気なしに、そう言った。
その言葉が、花火の胸に、深く突き刺さる。
(担任だから、か)
鳴海にとって、花火は「担任する生徒の一人」でしかない。
その距離感が、花火の心を、冷たく締め付けた。
「……ありがとうございます」
花火は、笑顔でそう返した。
笑顔の下で、心が、音を立ててひび割れていく。
(わかってる。わかってるよ)
花火は、心の中で、自分に言い聞かせた。
(先生にとって、私は、ただの生徒)
(それでいい。それでいいはずなのに)
どうして、こんなに苦しいんだろう。
職員室を出た。
廊下は、夕方の薄暗い光に包まれていた。部活に向かう生徒たちの声が、遠くで聞こえる。
花火は、壁に手をついて、深く息を吐いた。
(今日は、もう帰ろう)
そう思って、歩き出した、その時だった。
「あはは、鐘井先生ってば、本当に面白いんだから」
聞き覚えのある声。
花火の足が、止まった。
声のした方を見る。
職員室の隣、廊下の曲がり角の向こう側。
そこに、鳴海と、もう一人、女性の先生が立っていた。
皆川茜。
音楽教師で、清楚な外見から、生徒たちに絶大な人気を誇る人。長い黒髪を揺らして、上品な笑みを浮かべている。
「やめてくださいよ、皆川先生。あの話は、もう忘れてください」
鳴海が、困ったように笑いながら、茜に言った。
「えー、忘れられませんよ。この前の飲み会で、鐘井先生ったら、すごく酔っ払って、面白いことばかり言うんだもの」
茜は、口元に手を当てて、くすくすと笑った。
その笑い声は、花火の耳に、やけに鋭く突き刺さった。
(飲み会?)
(二人で、飲みに行ったの?)
花火は、その場に立ち尽くした。
体が、動かない。
「や、やめてくださいって。本当に、あの日は記憶がなくて……」
鳴海は、真っ赤になって、手をばたばたさせている。
その様子は、花火の前で見せる「先生」の顔とは、全然違っていた。
(茜先生の前だと、先生、あんな顔をするんだ)
花火の胸の奥で、何かが、ぎりぎりと音を立てて軋んだ。
茜は、ふと、花火の方を見た。
目が、合った。
茜は、一瞬だけ、驚いたように目を丸くした。
それから。
ゆっくりと、人差し指を、自分の唇に当てた。
「内緒だよ」
茜の唇が、そう動いた。
声は、聞こえなかった。
でも、花火には、確かにそう言ったのがわかった。
茜は、にっこりと微笑むと、鳴海の腕に、そっと手を置いた。
「じゃあね、鐘井先生。また、面白いお話、聞かせてくださいね」
「だから、忘れてくださいってば……」
二人は、花火に背を向けて、廊下の向こうへ歩いていった。
花火は、動けなかった。
(内緒だよ)
茜の唇の動きが、頭の中で、何度も繰り返される。
(あの人は、私にだけ見えるように、あの仕草をした)
(あの人は、私が先生のことを好きだと、知ってるの?)
(知ってて、あんなことを?)
花火の胸の奥で、初めて、はっきりとした感情が生まれた。
怒り。
憎しみ。
そして。
(この人に、負けたくない)
それは、花火が初めて感じる、強烈な敵意だった。
花火は、拳をぎゅっと握りしめた。
爪が、掌に食い込む。
痛みで、ようやく、体が動いた。
(帰ろう)
花火は、逃げるように、その場を後にした。
夜。
サンリオ通りの喫茶ミルパス。
花火は、窓際の席で、アイスコーヒーを飲んでいた。向かいには、粟屋麦が座っている。
麦は、色白でサラサラの髪をした、整った顔立ちの少年だ。花火の偽装彼氏。
「で、今日は何の用だ」
麦は、スマホをいじりながら、素っ気なく言った。
「別に、用事があるわけじゃないよ。ただ、偽装カップルとして、定期的にデートしてるって実績を作らないとね」
花火は、優等生の笑顔で、そう答えた。
「ふーん。真面目だな」
麦は、花火の顔をちらりと見て、またスマホに視線を戻した。
花火は、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜた。氷が、カランと音を立てる。
(偽装カップルの三条件)
花火は、心の中で、そのルールを確認した。
お互いを好きにならないこと。
どちらかの恋が実ったら、別れること。
身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。
この三つのルールが、花火と麦を繋いでいる。
(私は、麦を好きにならない)
(麦も、私を好きにならない)
(私たちは、お互いの傷を舐め合うだけの、偽物の恋人)
それでいい。
そう、思っていた。
でも、今日、茜の姿を見てから、花火の心は、ずっとざわついていた。
「ねえ、麦」
花火は、何気ないふりをして、麦に話しかけた。
「あ?」
「鳴海先生と、皆川先生って、仲いいの?」
花火は、ストローを指で弄びながら、さりげなく尋ねた。
麦は、一瞬だけ、スマホから顔を上げた。
「さあ。でも、あの二人、よく職員室で話してるみたいだぜ。皆川先生って、誰とでも距離近いからな」
麦は、何の気なしに、そう答えた。
(よく、話してる)
(誰とでも、距離が近い)
花火の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「そっか」
花火は、笑顔でそう言った。
テーブルの下で、爪が、掌に食い込む。
痛い。
でも、その痛みで、心の痛みを誤魔化すしかなかった。
麦は、そんな花火の様子に、全く気づいていなかった。
麦のスマホが、小さく震えた。
麦は、画面を見て、一瞬だけ、表情を緩めた。
花火は、その変化を見逃さなかった。
(茜先生からの、メッセージ)
そう、確信した。
(麦も、茜先生に、振り回されてる)
(私と同じだ)
偽装の約束があるのに、二人とも、本命の話題で心を揺らしている。
互いに、気づかない。
気づけない。
それが、この偽装カップルの、歪な均衡だった。
「悪い、ちょっと返信してくる」
麦は、そう言って、席を立った。
花火は、笑顔で頷いた。
「うん、どうぞ」
麦が、店の外に出ていく。
花火は、一人になると、笑顔をやめた。
「……最低」
小さく、呟いた。
自分が、最低なのか。
茜が、最低なのか。
それとも、この関係が、最低なのか。
花火には、もう、よくわからなかった。
翌日。
花火は、学校に着くと、まっすぐ音楽室へ向かった。
音楽室は、音楽棟の二階にある。茜が担当する教室だ。
(負けたくない)
昨日の夜から、花火の心の中では、その言葉がずっと燃えていた。
(茜先生に、私の想いを、踏みにじらせたりしない)
花火は、音楽室の前で、足を止めた。
中から、ピアノの音が聞こえる。
美しい、優しい曲。
でも、花火の心には、その音が、やけに冷たく響いた。
花火は、ドアの小窓から、中を覗いた。
茜が、一人でピアノを弾いていた。
黒い長髪が、さらさらと揺れる。横顔は、本当に清楚で、美しかった。
(この人が、あんな顔で笑うなんて)
花火は、拳を握りしめた。
その時、茜が、ふと、花火の方を見た。
目が、合った。
茜は、ピアノを弾く手を止めて、にっこりと微笑んだ。
「花火ちゃん、いらっしゃい。どうしたの?」
茜は、立ち上がって、ドアを開けた。
「……すみません、音楽室の前を通りかかったら、きれいな音が聞こえたので、つい」
花火は、優等生の笑顔で、そう答えた。
「あら、嬉しい。ありがとう。花火ちゃんは、音楽の授業、真面目に受けてくれてるものね」
茜は、花火の目をじっと見ながら、そう言った。
その視線は、花火の心の奥を見透かすように、鋭かった。
「はい。楽しいです」
花火は、笑顔を崩さなかった。
「そう。それなら良かったわ」
茜は、一歩、花火に近づいた。
「ねえ、花火ちゃん」
茜の声が、急に、甘く、低くなる。
「鐘井先生もね、花火ちゃんのこと、妹みたいに可愛がってるって、言ってたわよ」
花火の笑顔が、一瞬だけ、凍った。
(妹みたいに)
その言葉が、花火の心を、鋭い刃で切り裂いた。
「……そう、ですか」
花火は、声が震えないように、必死で笑顔を保った。
茜は、花火の変化を、見逃さなかった。
茜の口元が、ゆっくりと、弧を描く。
それは、面白がっている時の、笑みだった。
「花火ちゃん、顔色が悪いわよ。大丈夫?」
茜は、心配そうな声で、そう言った。
でも、その目は、笑っていた。
「大丈夫です。平気ですから」
花火は、口癖のように、そう答えた。
本当は、全然平気じゃないのに。
「そう。それならいいんだけど。無理しちゃだめよ」
茜は、花火の肩に、そっと手を置いた。
その手は、冷たかった。
「それじゃあね、花火ちゃん。また、音楽室に遊びに来てね」
茜は、そう言って、音楽室の中へ戻っていった。
ピアノの音が、再び、流れ始める。
花火は、その場に、しばらく立ち尽くしていた。
(あの笑顔は、何だったの)
花火は、自席に戻ると、机に突っ伏した。
(妹みたいに、可愛がってる)
茜の言葉が、頭の中で、何度も繰り返される。
(あの人は、私の一番痛いところを、正確に狙ってくる)
(私が、先生に、妹としてしか見られていないことを、知ってて)
(それを、わざわざ、私に教える)
花火は、ぎゅっと、スカートの裾を握りしめた。
(負けたくない)
(絶対に、あの人にだけは、負けたくない)
でも、どうすればいいのか、わからなかった。
花火は、ただ、茜の笑顔を思い出して、震えていた。
夕方。
花火は、アマノオカ川の土手に座っていた。
川風が、花火の髪を揺らす。
夕日が、川面をオレンジ色に染めていた。
花火は、膝を抱えて、小さく息を吐いた。
「……大丈夫。平気だから」
誰に言うでもなく、呟いた。
本当は、全然平気じゃない。
でも、そう言い聞かせないと、心が壊れてしまいそうだった。
花火は、スマホを取り出した。
ロック画面には、鳴海の笑顔。
「お兄ちゃん」
小さく、声に出して呼んだ。
その声は、川風にさらわれて、消えていった。
花火は、画面をじっと見つめた。
(私は、先生のことが、好き)
(茜先生に、負けたくない)
(でも、先生は、私のことを、妹としか見てない)
花火の目から、涙がこぼれた。
一筋、また一筋。
涙は、止まらなかった。
花火は、声を殺して、泣いた。
誰にも、聞こえないように。
誰にも、見つからないように。
夕日が、沈んでいく。
アマノガワの街に、夜が訪れようとしていた。
花火の心の中に、茜への敵意と、鳴海への想いと、どうにもならない現実が、ぐちゃぐちゃに渦巻いていた。
(それでも、私は、諦めない)
花火は、涙を拭って、立ち上がった。
(負けたくない。絶対に)
花火は、拳を握りしめて、歩き出した。
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