クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~
優等生の仮面をかぶった女子高生・安楽岡花火には、誰にも言えない秘密がある。想いを寄せる相手は、担任教師の鐘井鳴海——かつて「お兄ちゃん」と呼び、結婚を約束した幼い日の初恋の人。決して届かないその想いを胸に秘めながら、花火は完璧な「いい子」を演じ続けていた。
一方、同じクラスの粟屋麦は、色白で整った容姿を持つ人気者。だが彼にも、中学時代の家庭教師だった音楽教師・皆川茜への叶わぬ恋があった。
お互いの秘密を知る二人は、ある「三つの約束」を交わす。お互いを好きにならないこと。どちらかの恋が実ったら関係を終えること。そして——身体的な欲求は、どんなときでも受け入れること。周囲には理想のカップルに見える二人の、偽りの恋人関係。それは寂しさを埋めるための、危うく脆い共犯関係だった。
「クズ」と呼ばれても仕方ない、最低で、ずるくて、それでも止められない本物の恋。桜舞うアマノガワの街で、報われない想いを抱えた少年少女の、切なくも危険な恋の行方を描くラブストーリー。
クズの本懐 ~秘められた恋のゆくえ~ - どん底の涙――河川敷の孤独と、内緒の毒
教室の窓から見えるアマノオカ川の若葉が、風に揺れている。
あの日から、三日が過ぎていた。
安楽岡花火は、始業のチャイムが鳴るまでの数分間、机の上に置いた教科書の角を指先でなぞっていた。指の腹に、紙の繊維のざらつきが残る。心臓が、朝からずっと鳩尾のあたりで小さく羽ばたいている。
(あの光景が、頭から離れない)
音楽室の前で、皆川茜が鐘井鳴海に笑いかけていた。鳴海が、照れながらそれに応じていた。二人の距離は、花火が知っているどんな距離よりも近くて、温かくて、そして、花火の知らない場所にあった。茜の白い指先が、鳴海の袖口に触れていた。ほんの一瞬。でも、花火の目には、その一瞬がゆっくりと、水に落ちる墨のように広がって見えた。
茜が、花火にだけ見えるように、唇に指を当てて囁いた。
「内緒だよ」
あの唇の形を、花火は何度も何度も思い出していた。人差し指の腹が唇にめり込む、あの形。思い出すたびに、胸の奥が冷たくなる。指先が、わずかに震える。教科書の角から、指が滑った。
(今日も、学校に行かなきゃ)
花火は、小さく息を吸った。肺の底に、冷たい空気が溜まる。完璧な優等生の仮面を被る。口角を上げる。目尻を柔らかくする。誰にも、本当の私を見せない。見せてはいけない。
「おはよう、花火ちゃん」
後ろの席の子が声をかけてきた。花火は、ぱっと顔を上げて笑顔を作る。頬の筋肉が、少しだけつった。
「おはよう。今日もいい天気だね」
「ほんと。もうすぐ五月だね。中間考査、やだなあ」
「大丈夫。一緒に頑張ろう」
花火は、そう言って微笑んだ。歯を見せて、三秒。笑顔を作り終えると、奥歯を噛みしめた。
大丈夫。平気だから。
心の中で、何度も繰り返す。声にすると、震えが漏れそうだった。
(私は、大丈夫)
(平気だから)
(そう言い聞かせないと、喉の奥から何かが溢れてきそうで)
一限目の国語の時間。
教壇に立つ鐘井鳴海の声が、教室に響く。チョークが黒板を叩く、乾いた音。
「じゃあ、今日はこの問題からやっていくぞ。四十八ページを開いてくれ」
花火は、教科書を開いた。ページの匂いが、ふわりと鼻をかすめる。黒板に書かれていく文字を、目で追う。チョークの白い粉が、光の筋の中を舞っている。
(先生の字だ)
(昔から、変わらない)
(先生は、私の一番近くにいて、一番遠い人)
黒板の文字が、霞んで見えた。輪郭が、にじむ。
(あれ?)
花火は、何度も瞬きをした。まぶたを閉じて、開いて、閉じて、開いて。それでも、霞は晴れない。
(おかしいな。目が、ぼやける)
ノートに板書を写す。ペン先が、紙の上を走る。文字を書く。書く。書く。
気がつくと、ノートの端に、小さく「鐘井鳴海」と書いてあった。インクが、紙に染み込んでいる。自分の字なのに、自分のものに見えなかった。
(なに、やってるの、私)
花火は、慌ててそれを消した。消しゴムで、何度も何度もこする。紙が、毛羽立つ。書いた文字が、薄くなって、消えていく。消しゴムのカスが、机の上に小さな黒い粒になって散らばった。
(消えればいいのに)
(私の、この気持ちも)
(全部、消えてなくなればいいのに)
消しゴムのカスを、手で払い落とした。手のひらに、カスの感触が残る。手が、震えていた。指先が、細かく、小刻みに。
休み時間。
花火は、机に突っ伏していた。頬に、冷たい机の天板が当たる。目を閉じると、まぶたの裏に、茜の指が浮かんだ。
(寝不足のせいかな。ちょっと、しんどい)
「花火、大丈夫? 顔色悪いよ」
顔を上げると、クラスメイトの三戸が心配そうに覗き込んでいた。三戸は、メガネをかけた、髪型がぱっつんの女子だ。レンズの奥の目が、まっすぐに花火を見ている。
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ。ありがとう」
花火は、笑顔で答えた。自分の声が、遠くから聞こえるみたいだった。口が勝手に動いているみたいだった。
「ほんとに? 無理しないでよ。あんた、いつも完璧だから、たまには休んでもいいんだからね」
「ふふ、ありがとう。でも、ほんとに平気だから」
「花火ちゃん、これ、よかったら食べて。おばあちゃんが送ってきてくれたやつなんだけど」
あゆみが、小さな包みを差し出してきた。包み紙の上からでも、甘い匂いがした。花火の胃が、きゅっと縮む。
「え、いいの? ありがとう。じゃあ、いただくね」
花火は、笑顔で受け取った。包みを握る指に、力が入らない。
(みんな、優しい)
(優しいのに、私は、みんなに嘘をついてる)
(完璧な優等生を演じてる)
(本当の私は、こんなに汚くて、弱いのに)
昼休み。
花火は、弁当箱を開ける気になれなかった。蓋に手をかけて、やめた。弁当箱を鞄にしまった。ファスナーを閉める音が、やけに大きく聞こえた。
(お腹、空いてない)
(というか、食べ物の匂いが、気持ち悪い)
教室の喧騒から逃げるように、廊下に出た。上履きの底が、リノリウムを擦る音。誰かの笑い声が、遠くで弾けた。
(どこか、静かなところに行きたい)
(一人になれる場所)
花火の足は、自然と屋上へ向かっていた。階段を上がる。一段ごとに、肺が重くなる。
屋上の扉の鍵は、相変わらず甘かった。金具が、かちり、と軽い音を立てる。花火は、誰にも見つからないように、そっと扉を開けた。蝶番が、軋む。
屋上には、誰もいなかった。五月の風が、花火の髪を優しく撫る。髪が、頬をくすぐった。空は、青くて、高くて、どこまでも続いていた。見上げると、目の奥が痛くなった。
花火は、フェンスにもたれかかった。鉄の冷たさが、背中に伝わる。背骨に沿って、冷気が這い上がる。
(ああ、やっと、一人になれた)
そう思った瞬間だった。
涙が、溢れてきた。まぶたの縁から、熱いものがこぼれる。頬を伝う。顎に落ちる。
(なんで)
(なんで、こんなに、涙が出るの)
花火は、必死に涙を拭った。手の甲で、目尻をこする。でも、拭っても拭っても、涙は後から後から溢れてくる。止まらない。手の甲が、濡れる。
(おかしいな)
(私、泣くつもりなんて、なかったのに)
花火は、ポケットからスマホを取り出した。画面を点ける。ロック画面を表示する。そこには、鐘井鳴海の写真があった。鳴海が、無邪気に笑っている写真。花火が、こっそり撮った写真。教室の窓際で、光が鳴海の横顔を縁取っていた。
(この写真、消さなきゃ)
(もう、持ってちゃいけない)
(先生は、茜先生と、付き合うんだから)
花火は、写真を消そうとした。指が、震える。消去ボタンに、指を伸ばす。親指の先が、画面に触れる。
(消さなきゃ)
(消さなきゃ、いけないのに)
指が、止まった。画面の上で、親指がぴくりとも動かない。
(できない)
(消せない)
(この写真だけは、消せない)
花火は、スマホを握りしめた。手のひらに、スマホの角が食い込む。痛い。でも、その痛みだけが、今の花火を現実に繋ぎ止めていた。手のひらの肉が、押し返される感覚。
(私は、まだ、先生のことを、諦められない)
(諦められないまま、先生は、私の知らない人になっていく)
(茜先生と、二人で、出かける)
(あの笑顔を、茜先生だけに向ける)
(私の知らないところで、私の知らない顔をする)
花火は、フェンスを握りしめた。鉄の網目が、指に食い込む。網目の跡が、肌に赤く残る。
(嫌だ)
(嫌だ、嫌だ、嫌だ)
(行かないで)
(お兄ちゃん、行かないで)
花火は、声を殺して、泣いた。歯を食いしばる。喉の奥で、嗚咽が潰れる。誰にも、聞こえないように。誰にも、見つからないように。屋上の風だけが、花火の嗚咽を、そっと攫っていった。
放課後。
花火は、鞄を手に取った。肩紐を、指に絡める。
(早く帰ろう)
(今日は、もう、何も考えたくない)
教室を出ようとした、その時だった。
「安楽岡さん」
花火の心臓が、跳ねた。胸の内側で、骨が軋む音がした。振り返ると、皆川茜が、教室の入り口に立っていた。白いブラウスに、淡い色のカーディガン。ふんわりとしたスカートが、歩くたびに揺れる。肩にかかった髪は、夕暮れの光を受けて、柔らかく輝いていた。髪の一本一本が、光を纏っている。
(茜先生)
花火は、笑顔を作った。唇が、引きつる。
「はい。何でしょうか、茜先生」
「ちょっと、音楽室に来てくれる? 話したいことがあるの」
茜は、にこりと微笑んだ。その笑顔は、天使のように優しくて、聖母のように慈愛に満ちていた。でも、花火にはわかっていた。あの唇の端の、ほんの数ミリの歪みを。
(この笑顔の裏に、何が隠れているのかを)
「……はい、わかりました」
花火は、茜の後について、音楽室へ向かった。茜の歩く速度は、ゆっくりだった。花火の一歩一歩に、足首が重くのしかかる。
音楽室には、誰もいなかった。消灯した教室に、夕日が斜めに差し込んでいる。ピアノの黒い艶が、鈍く光る。茜は、ピアノの蓋に腰掛けた。白い指が、蓋の縁に添えられる。
「ねえ、花火ちゃん」
茜の声は、音楽室に澄んで響いた。甘くて、優しくて、でもどこか、ぞっとするほど冷たい響き。空気が、すっと薄くなった気がした。
「花火ちゃんって、鐘井先生のこと、好きでしょ?」
花火の呼吸が、止まった。喉の奥で、空気が詰まる。心臓が、胸骨を内側から叩く。痛いほど、はっきりと。
(やっぱり)
(この人は、知ってる)
(全部、知ってて、私を試してる)
花火は、笑顔を保った。頬の筋肉が、痛い。口角が、ぴくぴくと痙攣する。
「……いいえ。そんなこと、ありませんよ」
声が、震えないように。必死で、笑顔を保つ。爪が、手のひらに食い込む。
「あら、そう? 残念」
茜は、首を傾げた。その仕草は、無邪気な少女のようで、それでいて、花火の心の奥底を覗き込むような、恐ろしさがあった。首の白さが、夕日に照らされて、浮き彫りになる。
「でも、花火ちゃん。私、応援するからね。鐘井先生のこと。私のことは、気にしないで」
茜は、微笑んだ。それは、完璧な善意の仮面だった。目が、笑っていない。
(気にしないで、だって)
(私の目の前で、先生と、週末に出かける約束をしたのに)
(私の気持ちを、全部知ってて)
(それで、応援するから、気にしないで?)
花火の心は、えぐられるように痛んだ。胸の中心が、内側から掻き毟られる。
「……ありがとうございます。でも、本当に、何もないので」
花火は、笑顔を保とうとした。でも、口元が、引きつるのが、自分でもわかった。唇が、笑顔の形を保てない。
「あら、そう? じゃあ、これは余計なお世話だったかしら」
茜は、くすりと笑った。喉の奥で、小さな鈴が転がるような音。
「そういえば、麦ちゃんもね、昔から私のこと大好きなのよ。今も、時々相談に乗ってるの。ねえ、花火ちゃん、知ってた?」
(麦ちゃん)
(麦の、本命)
(麦が、今も、茜先生に、相談してる)
花火の胸に、別の痛みが走った。それは、鳴海への想いとは違う、もっと鋭くて、もっと苦い痛みだった。胃の底が、熱くなる。
「……知りませんでした」
花火は、声を絞り出した。喉が、からからに乾いている。
「あら、そう。麦ちゃん、花火ちゃんには内緒にしてるのね。ふふ、かわいい」
茜は、嬉しそうに笑った。その声が、耳の奥で、いつまでも反響する。
(この人は、本気で、私を壊しに来てる)
花火は、確信した。背筋を、冷たい汗が伝う。
(私の大切なものを、一つずつ、壊していく)
(先生のことも、麦のことも)
(全部、私から、奪っていく)
「じゃあ、花火ちゃん。今日はこの辺で。また、お話ししましょうね」
茜は、ピアノの蓋から降りた。スカートが、ふわりと膨らむ。花火の横を通り過ぎる時、茜は、唇に指を当てた。
「内緒だよ」
茜は、囁いた。花火にだけ、聞こえるように。花火にだけ、見えるように。その息が、花火の耳朶をかすめた。生温かい。
そして、茜は、音楽室を出て行った。靴音が、廊下に消えていく。
花火は、その場に、しばらく立ち尽くしていた。足の裏が、床に張り付いて離れない。
(内緒だよ)
(また、あの言葉)
(あの言葉で、私は、何も言えなくなる)
(誰にも、助けを求められなくなる)
花火は、音楽室を出た。廊下を歩く。足が、もつれる。膝が、笑う。壁に、手をついた。冷たい壁紙が、手のひらに吸い付く。
(立てない)
(立ってられない)
花火は、壁に寄りかかって、呼吸を整えた。息を吸う。吐く。吸う。吐く。でも、空気が、肺に入っていかない。
(息が、苦しい)
(心臓が、痛い)
(あの人の言葉が、頭の中で、ぐるぐる回ってる)
「花火?」
花火は、顔を上げた。鐘井鳴海が、心配そうな顔で、立っていた。夕日を背負って、その輪郭が、ぼんやりと光っている。
(先生)
(なんで、ここに)
花火は、反射的に、笑顔を作った。頬が、ひきつる。
「……あ、先生。大丈夫です。ちょっと、立ちくらみがしただけなので」
花火は、笑顔で答えた。声が、震えないように。必死で、笑顔を作る。唇が、笑顔の形にひび割れる。
「ほんとか? 顔色、真っ青だぞ。保健室、行くか?」
鳴海は、花火の顔を覗き込んだ。その眼鏡の奥の目は、本当に心配そうで、優しかった。レンズに、夕日が反射している。
(やめて)
(そんな目で、見ないで)
(茜先生と、週末に出かける約束をした人が)
(何も知らない顔で、私を心配しないで)
花火の胸が、えぐられるように痛んだ。心臓が、熱く軋む。
「大丈夫です。平気ですから」
花火は、笑顔で言った。喉の奥で、声が裏返りそうになる。
「そうか? 無理するなよ」
鳴海は、そう言って、花火の頭を、軽く叩いた。ポン、と。それは、昔から、何度もされた仕草だった。花火が、落ち込んでいる時に、鳴海が、いつもしてくれた仕草。手のひらの温度が、頭頂に伝わる。
(やめて)
(その手で、私に触れないで)
(その優しさが、今は、刃のように、私を切り裂く)
花火は、笑顔を保った。頭皮が、鳴海の手の形に、じんじんと痺れる。
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼します」
花火は、そう言って、鳴海から離れた。早足で、廊下を歩く。上履きが、床を叩く音が、やけに大きい。
(早く、ここから、離れなきゃ)
(先生の前で、泣き崩れそうになる)
(先生は、何も知らない)
(私が、こんなに苦しんでること、何も知らない)
(茜先生と、週末に出かける約束をした先生が)
(何も知らずに、妹のように、私を気遣う)
(その事実が、私の孤独を、さらに深くする)
花火は、校門を出た。夕日が、アマノオカ川の向こうに沈んでいく。空が、オレンジ色から、紫色に変わっていく。空気が、冷たくなる。花火は、河川敷公園の土手に来た。アマノオカ川の水面が、夕日に照らされて、きらきらと輝いている。光の粒が、水面で踊っている。
誰もいなかった。風の音と、川のせせらぎだけが、耳に満ちている。
花火は、誰もいないことを確認すると、その場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて、顔を埋める。膝小僧に、額が当たる。そして、声を上げて、泣いた。
「うっ……うぅ……あああああっ……」
涙が、止まらなかった。鳴海への報われない想い。茜への恐怖と嫉妬。麦にすら言えない本音。偽装カップルの約束の重さ。すべてが、こみ上げてくる。喉が、焼けるように熱い。
「なんで……なんで、私ばっかり……」
花火は、地面を叩いた。土が、爪の間に入り込む。爪の隙間が、黒く汚れる。
「好きなのに……好きなのに、どうして……」
涙が、土に落ちて、小さな染みを作る。染みが、じわじわと広がる。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
花火は、鳴海の名前を呼んだ。その声は、川風にさらわれて、消えていった。誰にも、届かない。届くはずがない。
花火は、スマホを取り出した。ロック画面には、鳴海の笑顔。画面の光が、涙で滲む。
(この笑顔を、茜先生にだけ、向けるんだ)
(私には、もう、向けてくれない)
(妹として、気遣ってはくれるけど)
(それは、私が欲しいものじゃない)
花火は、スマホの画面を、涙で濡れた指で、なぞった。指の腹が、ガラスの上を滑る。
その時だった。
スマホが、震えた。手のひらの中で、ぶるぶると。メッセージが、届いた。差出人は、粟屋麦。
『今日、なんか変だったぞ。大丈夫か』
短い、メッセージだった。
(麦)
(麦が、私を、気遣ってくれてる)
花火は、返信しようとした。指を、画面に置く。キーボードが、ぼやける。でも、何と書けばいいのか、わからなかった。
『大丈夫』
違う。
『平気』
違う。
『助けて』
……違う。
花火は、指を止めた。画面の上で、指が固まる。
(麦に、何て言えばいいの)
(偽装カップルの、好きにならないっていう約束がある)
(麦に、私の本当の気持ちを、言っちゃいけない)
(麦は、私の彼氏じゃない)
(偽物の、彼氏)
(だから、助けてなんて、言えない)
花火は、返信を打っては消し、打っては消しを繰り返した。文字が、現れては消える。画面の光が、指の腹で滲む。
(でも)
(誰かに、助けてほしい)
(一人で、抱えきれない)
(もう、無理)
(私、もう、壊れそう)
花火は、震える指で、文字を打った。
『大丈夫、ありがとう』
送信ボタンを押した。親指の先が、画面に沈む。
(嘘)
(大丈夫じゃない)
(全然、大丈夫じゃない)
花火は、スマホを、伏せた。画面が、土の上で、小さく光った。
夕日が、沈んでいく。空が、暗くなっていく。アマノオカ川の水面が、黒く変わる。
花火は、立ち上がった。膝が、笑っている。涙は、まだ、止まらなかった。頬を伝う涙が、風に冷やされる。
花火は、家に帰った。部屋の電気をつけずに、ベッドに倒れ込んだ。スプリングが、軋む。天井を見つめる。暗い。真っ暗だった。カーテンの隙間から、外の街灯が、細く差し込んでいる。
(明日も、学校に行かなきゃ)
(仮面を被って、笑わなきゃ)
(みんなに、大丈夫って、言わなきゃ)
花火は、ぎゅっと、シーツを握りしめた。布地が、指の間で皺になる。
その時だった。
スマホが、再び震えた。ベッドの上で、ぶるぶると。花火は、スマホを手に取った。画面の光が、暗い部屋を、青白く照らす。
差出人は、皆川茜。
『今日のお話、考えておいてね』
花火の顔から、血の気が引いた。指先が、一気に冷える。
(茜先生)
(まだ、終わってない)
(あの人の、策略は)
(まだ、始まったばかり)
花火は、スマホを握りしめた。手が、震える。歯が、カチカチと鳴る。奥歯が、噛み合わない。
(怖い)
(助けて)
(誰か、助けて)
花火は、薄暗い部屋で、小さく呟いた。声が、喉の奥で、潰れる。
「……助けて」
その声は、誰にも届かなかった。静かな夜が、花火の部屋を、冷たく包み込んでいた。スマホの画面が、しばらくして、暗くなった。部屋の闇が、また、一段と濃くなった。Noveliaとは?
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