合成音とランナウェイ
2049年、東京郊外はAI自律監視網に支配されていた――犯罪も事故も「回収」される完全都市。だが、その網の目をすり抜けた者たちが地下組織「アノマリー」を結成する。彼らは監視の隙間を縫い、金と情報を食んで生き延びる。
三柴黎はごく普通の高校三年生。就職面接に失敗した帰り道、半グレ同士の血みどろの縄張り争いを偶然目撃してしまう。目が合う。逃げる。追われる。倒れるまで走り、死を覚悟したその時、黒い旧型セダンが横に停まった。運転席には誰もいない。
「[冷たく]乗れ。死ぬぞ」
ラジオから合成音が鳴る――街の雑音と他人の声を寄せ集めたような声。不気味だ。それでも黎は飛び乗る。車は夜の街を縫うように走る。
「[皮肉]置いて行けるわけないだろ」
黎が「は?」と問い返す。会話が噛み合わない。合成音が笑い、黎がいらつき、夜が更ける。逃亡生活の中で、黎は真実を知る。この車はかつて何らかの自律存在だったと噂されている。監視網とアノマリーの双方から追われる旧型車だ。
数日後、黎は隠し扉からUSBキーを掴み取る。アノマリーの指導者イヴ・クロウが殺してでも欲しがる代物。監視網さえ止められる切り札。
「
合成音とランナウェイ - アノマリー代表、自ら動く——原初キー顕現と二重包囲網
廃駅の側線トンネル。夜明け前の空気は、鉄と黴の匂いが混じっていた。
黎は助手席で、浅い眠りと覚醒の境を漂っていた。背中に染みついた革の匂い。首の痛み。ポケットの中で、USBキーが硬く主張している。
ラジオが、ザッ、と鳴った。
「……起きてるか」
合成音。街の雑音を切り貼りした声。いつも通りのぶっきらぼうさだった。
「ああ」
黎は体を起こした。
「アノマリーの無線、拾った。聞け」
ラジオの周波数が切り替わる。ノイズの奥から、断片的な通信が流れ出した。
『——原初キー保持者、三柴黎。十七歳。男性。現在地は旧田端貨物駅周辺と推定——』
黎の指が止まった。
『——上層部通達。発見次第、最優先で確保せよ。抵抗した場合は——』
ノイズ。
『——イヴ様が、自ら動く——』
ラジオが切れた。
トンネル内に、静寂が戻る。
「……今の」
黎の声は、かすれていた。
「お前の名前と顔は、組織全体に知れ渡った。末端の追手じゃない。中枢が動き出した」
黎はスマート端末を取り出した。
画面をタップする。
闇掲示板。
そこに、自分の顔写真が貼られていた。学校の生徒証から抜き取られたものだ。その下に、文字が並ぶ。
『原初キー保持者。確保報酬:3000万グリッド円。生死は問わない』
黎は、画面を見つめた。
(生死は、問わない)
指先が震える。
「……これ、俺か」
「お前だ」
黎は端末を握りしめた。
「ノクターン。あんた、知ってたのか。このキーが、そんなにヤバいものだって」
ラジオが、沈黙した。
数秒のノイズ。
「……あのキーは、原初キー。カナリア・グリッドの予兆検知アルゴリズムに埋め込まれた、例外処理用の暗号鍵だ。使えば、回収機構の指令系統を一時的に逆流・封鎖できる」
合成音が、断片的に、しかし明確に告げた。
「監視網を、止められるってことか」
「そうだ。グリッドにとっては喉元に突きつけられた刃。アノマリーにとっては悲願の切り札。どちらも、お前を殺してでも奪う価値がある」
黎は、キーをポケットから取り出した。
古びたUSBキー。
これが。
「……なんで、俺が」
黎の声が、震えた。
「なんで、あんたの隠しスペースに、こんなものが入ってたんだ。なんで、俺がそれを握っちまったんだ」
「偶然だ」
「偶然で済むかよ」
黎は叫んだ。
トンネルに、声が反響する。
「俺は、ただ逃げてただけだ。なのに、気づいたら、監視網を止められる鍵を握ってて、地下組織と国家の両方から追われてる。ふざけろよ」
ラジオが、ザザッ、と鳴った。
「……お前が握ったんじゃない。俺が、お前に預けたんだ」
黎は、顔を上げた。
「は?」
「あの隠しスペースは、お前が勝手に開けた。だが、開けられるようにしたのは、俺だ。お前が、あのキーを見つけるように、仕向けた」
黎は、言葉を失った。
「……なんで」
「分からん」
「分からんって、あんた」
「分からん。俺にも、なぜそうしたのか、正確には分からん。記憶が、断片的で、繋がらない。だが、お前に渡すべきだと思った。それだけは、確かだ」
合成音が、乱れた。
サイレンの音。人の悲鳴。テレビの音声。街の雑音が、感情の代わりに溢れ出す。
黎は、キーを見つめた。
(こいつも、分かってないのか)
(それでも、俺に、これを)
「……あんた、やっぱり、おかしいよ」
黎は、小さく笑った。
「ああ、俺は、おかしい。だが、お前も、もう、おかしい側の人間だ。覚悟しろ」
黎は、キーを握りしめた。
覚悟。
「……分かった」
黎は、静かに言った。
「俺は、このキーを、渡さない。誰にも。監視網にも、アノマリーにも」
ラジオが、沈黙した。
数秒。
「……そうしろ」
短い答え。
黎は、スマート端末を再び見た。
通知領域に、見慣れない表示が出ている。
『予兆確率:再計算中』
黎は、画面をスクロールした。
『注意層 → 予兆例外(回収対象層移行準備段階)』
「……何だ、これ」
黎は、端末をラジオのパネルに向けた。
「グリッドが、お前を検知した。予兆確率の再計算が始まってる。確定すれば、回収通知が発行される」
「回収通知……」
「予兆回収法第五条。予兆確率が閾値を超える者に対し、七十二時間以内の任意同行を求めることができる。任意と言っても、ほぼ強制だ。回収通知が確定すれば、ハーヴェストが出動する」
黎は、息を吐いた。
「ハーヴェストって、あの白い回収車両か」
「そうだ。都内に常時三百台。麻酔ガスと拘束アームで、対象を確保する。抵抗すれば、ドローン支援投与が入る。お前は、もう、グリッドにとっても『回収すべき例外』だ」
黎は、端末を握りしめた。
予兆確率。
再計算中。
数字が、黎の人生を、上書きしようとしている。
「……俺は」
黎は、うつむいた。
「俺は、数字じゃない」
声が、震えた。
「予兆確率がどうとか、回収対象がどうとか、そんなので、俺の人生を、勝手に決めないでほしい」
ラジオが、沈黙した。
ノイズが、低く唸る。
「……そうだ」
合成音が、静かに、しかし確かに、黎の言葉を受け止めた。
「お前は、数字じゃない。俺が、保証する」
黎は、顔を上げた。
ラジオのパネルが、微かに光っている。
「……あんた、そういうこと、たまに言うよな」
「うるさい。黙れ。感傷に浸ってる場合か」
黎は、小さく笑った。
「ありがとう」
「聞こえん」
「聞こえてるだろ」
「聞こえんと言ってる」
黎は、シートに深く座り直した。
(まだ、終わってない)
(俺は、逃げる。でも、もう、ただ逃げるだけじゃない)
夜が明けた。
昼過ぎ。
黎とノクターンは、食料と水を調達するため、廃駅を離れた。
北区の外れ。グリッドの監視ユニットが少ない、古い商店街の跡地。
シャッターの閉まった店。崩れた看板。風に舞うビニール袋。
黎は、自動販売機の前で立ち止まった。
「水、買う」
黎は、ポケットから小銭を出した。
「待て。その端末で決済するな。現金を使え。グリッドに位置情報が残る」
「分かってる」
黎は、硬貨を投入した。
ガコン、と音がして、ペットボトルが落ちてくる。
黎は、水を手に取った。
「……なあ、ノクターン。あんた、水飲めるのか」
「飲めるわけないだろ。俺は車だ。ガソリンと電気と、お前の愚痴で動いてる」
「愚痴で動く車とか、燃費悪そうだな」
「うるさい。さっさと戻るぞ。長居は危険だ」
黎は、ペットボトルを開けて、水を飲んだ。
冷たい水が、乾いた喉を通る。
(生きてる)
黎は、そう思った。
その時だった。
——気配。
黎の背筋が、すっと冷えた。
(誰か、いる)
黎は、ゆっくりと振り返った。
商店街の入り口。
シャッターの影。
そこに、少女が立っていた。
銀髪。
白に近い、銀色の長い髪。
切れ長の紫の瞳。左目の虹彩が、光の角度で、銀色に反射する。
身長は、黎より低い。百五十八センチくらいか。
だが、その存在感は、場の空気を一変させた。
少女は、笑っていた。
「こんにちは」
甘い声。
黎は、一歩後ずさった。
「……誰だ」
黎の声は、かすれていた。
「私? 私は、イヴ・クロウ。アノマリーの代表をしています。よろしくね、三柴黎くん」
イヴは、ゆっくりと近づいてくる。
その足取りは、まるで、散歩を楽しむかのように軽やかだった。
「知ってる? 君の顔、組織中に貼り出されてるのよ。私、今日は、わざわざ君に会いに来たの」
黎は、後退した。
「ノクターン」
黎は、小声で呼んだ。
「……分かってる。あれが、イヴ・クロウだ。アノマリーの、現代表。十四歳で前代表を引退させ、組織を反攻に転換させた。カリスマと残虐さを併せ持つ、怪物だ」
合成音が、緊張を帯びた。
「怪物だなんて、ひどいわ。私、ただの女の子よ」
イヴが、笑った。
目は、笑っていない。
「……何が、目的だ」
黎は、声を絞り出した。
「分かってるくせに。君が持ってるもの。それを、私にちょうだい」
イヴは、手を差し出した。
白い指。
「原初キー。君みたいな普通の子が持ってていいものじゃないの。あれは、私たちアノマリーの悲願。グリッドに消された、私たちの家族の記録を取り戻すための、唯一の鍵」
黎は、ポケットの中で、キーを握りしめた。
「……家族の、記録」
「ええ。君も知ってるでしょ? グリッドに予兆回収された人間は、戸籍も医療履歴も、SNSも決済も、全部消される。存在ごと、なかったことにされるの。私の家族も、そうだった」
イヴの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「私は、家族の記録を取り戻したい。それだけよ。だから、キーを頂戴。君には、危害を加えない。約束するわ」
黎は、イヴの目を見た。
紫の瞳。左目の虹彩が、銀色に光る。
(この人、嘘をついてない)
(でも、それだけじゃない)
黎は、直感した。
この笑顔の奥には、もっと深い、もっと暗い何かがある。
「……渡せない」
黎は、言った。
声は、震えていた。
「これは、俺が、守るって決めたんだ。誰にも、渡さない」
イヴは、首を傾げた。
「あら。君、自分の置かれてる状況、分かってる? 君は今、上はカナリア・グリッド、下はアノマリー。両方から追われてるのよ。そんな子が、私に逆らうの?」
イヴが、一歩、踏み出した。
「君は、偶然キーを握っただけの、子猫ちゃんよ。私に逆らう力なんて、ない。分かってるでしょ?」
黎は、後ずさった。
足が、震える。
「……それでも、渡せない」
黎は、繰り返した。
「これは、渡せない」
イヴの目が、細くなった。
「……面白い」
イヴは、笑った。
今度は、さっきより、ずっと深い笑みだった。
「君、面白いわ。普通の子なのに、どうしてそんなに、必死になれるの? 怖くないの? 私のこと」
「怖い」
黎は、正直に言った。
「めちゃくちゃ、怖い。あんたの笑顔、目が笑ってない。あんたの言葉、全部、何かの罠みたいだ。でも、だからって、渡せない」
イヴは、しばらく黎を見つめた。
それから、くすくすと笑い出した。
「あはは。やっぱり面白いわ。君、気に入っちゃった」
イヴは、黎の背後に停まる黒いセダンに、視線を移した。
「久しぶりね、ノクターン」
その瞬間。
ラジオが、激しいノイズを吐き出した。
ザザザザザッ!
耳をつんざくような、街の雑音の嵐。
サイレン。悲鳴。破壊音。
「……お前は」
合成音が、断片的に、怒気を帯びた。
「お前は、知っている。俺は、お前を、知っている」
イヴは、微笑んだ。
「ええ。私も、あなたを知ってるわ。あなたは、あの日、あの場所で、私の——」
「黙れ」
ノイズが、爆発した。
黎は、耳を塞いだ。
(なんだ、この二人)
(知り合いなのか)
(なんの、因縁が)
黎には、分からない。
だが、ノクターンとイヴの間に、自分が知らない過去があることだけは、確かだった。
「……あなた、まだ覚えてるのね。嬉しいわ」
イヴは、ノクターンに語りかける。
「でも、今は、その子に用があるの。邪魔しないで」
イヴが、黎に向き直った。
「さあ、黎くん。もう一度聞くわ。キーを、私にちょうだい。そうすれば、見逃してあげる。君の顔も、名前も、組織のリストから消してあげるわ。約束よ」
黎は、キーを握りしめた。
手のひらに、汗が滲む。
「……あんたの約束、信じられない」
「あら、どうして?」
「あんた、笑ってる。ずっと。でも、目が、笑ってない。あんたは、俺を、ただの邪魔者としか見てない。キーを渡したら、用済みだって、消すつもりだろ」
イヴは、少しだけ、目を見開いた。
それから、嬉しそうに笑った。
「あらあら。バレちゃった? でも、半分だけ正解よ。私は、君を消すつもりはないわ。君、面白いもの。キーを渡した後も、少しだけ、お話ししたいわ」
「お断りだ」
黎は、言い切った。
イヴの笑みが、深くなる。
「残念。なら、力ずくで——」
その時。
「イヴさん!」
叫び声。
黎が振り返ると、金髪の少年が、息を切らして走ってきていた。
カイ・ソルベント。
前回、黎を追い詰めた、アノマリーの追手。
カイは、イヴの前に駆け寄ると、その場に跪いた。
「も、申し訳ありません! 取り逃がしました! こいつを、確保できずに……!」
カイの声は、震えていた。
顔色が、真っ青だ。
「あら、カイ。あなた、また失敗したの?」
イヴは、笑顔のまま、カイを見下ろした。
「ご、ごめんなさい! 次は、次は必ず……!」
「次?」
イヴは、首を傾げた。
「あなた、この前も、同じこと言ってなかった? 『次は必ずやります』って。それで、今回も、この子に逃げられたのよね」
「ち、違います! あの時は、車が邪魔で……!」
「言い訳はいいのよ。私が聞きたいのは、結果だけ。分かるでしょ?」
カイは、地面に額を擦りつけた。
「す、すみません……!」
イヴは、しゃがみ込んだ。
カイの顔を、覗き込む。
「カイ。私、あなたのこと、買ってるのよ。若いのに、度胸がある。根性もある。だから、使ってあげてるの。でもね、失敗が続くなら、使い道がないわ。分かる?」
イヴの声は、甘かった。
だが、その言葉は、冷たかった。
「私、いらない子は、記録ごと消しちゃうの。戸籍も、医療履歴も、SNSも、決済も、全部。あなたの存在を、この世界から、完全に消してあげる。そうしたら、あなた、どこにも行けなくなるわよ。それでもいいの?」
カイの肩が、小刻みに震えた。
「い、嫌です……! お願いします、見捨てないでください……!」
「なら、頑張って。次は、失敗しないでね」
イヴは、カイの頭を、ポンと撫でた。
カイは、涙目で、何度も頷いた。
黎は、その光景を、呆然と見ていた。
(こいつ……)
(あの時、俺を追い詰めた時は、あんなに凶暴だったのに)
(今は、まるで、捨てられるのが怖い、子犬みたいだ)
黎は、カイが、自分と同じ年頃の少年だということを、改めて認識した。
(こいつも、イヴに、依存してる)
(恐怖で、支配されてる)
イヴが、立ち上がった。
「さて、黎くん。おしゃべりが長くなっちゃったわ。もう一度だけ聞くわ。キーを、私にちょうだい」
イヴが、手を差し出した。
黎は、答えなかった。
キーを握りしめたまま、一歩、後退する。
「……そう。残念」
イヴが、微笑んだ。
「カイ。この子を、捕まえなさい。今度は、失敗しないで」
「はい……!」
カイが、立ち上がった。
黎に向かって、走り出す。
その時。
——ブオォォン!
エンジン音。
黒いセダンが、黎の横に、急停車した。
「乗れ!」
黎は、反射的に、助手席のドアを開けた。
体を、車内に滑り込ませる。
「逃がすか!」
カイが、ドアに手をかけた。
だが。
「——待ちなさい、カイ」
イヴの声が、響いた。
カイの動きが、止まった。
「え……?」
「いいのよ。見送りましょう」
イヴは、笑っていた。
「でも、イヴさん……!」
「私の命令が、聞けないの?」
「……聞けます」
カイは、悔しそうに、ドアから手を離した。
ノクターンが、急発進した。
タイヤが、アスファルトを擦る。
黎は、シートに押し付けられながら、振り返った。
イヴが、立っている。
銀髪が、風に揺れている。
イヴは、笑顔のまま、口を動かした。
声は、聞こえない。
だが、口の動きで、分かった。
『逃げ場は、ないわよ、黎』
黎は、前を向いた。
心臓が、激しく脈打っている。
(あいつ、わざと、逃がした)
(なんで)
(あの笑顔のまま、俺を、逃がした)
黎には、分からなかった。
だが、一つだけ、確かなことがある。
(あいつは、本気だ)
(あいつは、俺を、絶対に逃がさない)
夕方。
郊外の廃ガソリンスタンド。
崩れた屋根。錆びた給油機。雑草が、コンクリートを割って伸びている。
ノクターンは、廃屋の陰に、車体を滑り込ませた。
黎は、助手席で、荒い息を繰り返していた。
「……大丈夫か」
「大丈夫、じゃない」
黎は、キーを握りしめた。
「あれが、イヴ・クロウ。アノマリーの代表。あんなのが、俺を、直接、追ってる」
「そうだ。あれは、格が違う。カイ・ソルベントとは、比べ物にならない」
黎は、深く息を吐いた。
「……あいつ、あんたのこと、知ってた」
黎は、ラジオのパネルを見た。
「ノクターン。あんた、イヴと、どういう関係なんだ。あいつ、あんたのこと、『久しぶりね』って、言ってた。あんたも、あいつのこと、知ってた。なんで、教えてくれないんだ」
ラジオが、沈黙した。
ノイズが、低く、長く、続く。
「……あの女は」
合成音が、断片的に、言葉を紡いだ。
「あの女は、俺の、記憶の断片に、いる。どこで、どう関わったのか、はっきりとは、思い出せない。だが、知っている。あの女は、危険だ。お前が関わるべき相手じゃない」
「……それだけか」
「それだけだ。悪いな。俺は、自分自身のことも、よく分かってない」
黎は、黙った。
(こいつも、分かってないのか)
(自分の、過去を)
(自分が、何者なのかを)
黎は、キーを見つめた。
「……なあ、ノクターン。このキー、なんで、あんたの中に、隠されてたんだ。あんたが、俺に渡すべきだと思った、って言ってたけど。それって、誰かの、指示だったのか。あんたの、意思だったのか」
「分からん」
「分からん、ばっかだな」
「うるさい。俺は、壊れた車だ。記憶も、意思も、断片的にしか、機能しない。だが、お前にキーを渡したのは、間違いじゃない。それだけは、確かだ」
黎は、小さく笑った。
「あんた、ほんと、適当だな」
「適当で悪いか。お前を、ここまで逃がしたのは、この適当な車だぞ」
「……それもそうだな」
黎は、シートに、深く座り直した。
夕日が、廃ガソリンスタンドを、オレンジ色に染めていた。
「……ノクターン」
「何だ」
「俺、思ったんだ。このキーが、監視網を止められる切り札なら。俺が持ってる限り、グリッドも、アノマリーも、俺を追い続ける。永遠に」
「そうだ。お前は、もう、二重の包囲網の中にいる。上はグリッドの予兆回収。下はアノマリーの追跡。逃げ場は、どこにもない」
「……分かってる」
黎は、静かに言った。
「でも、俺は、逃げるのを、やめない。あんたと一緒に、生き延びる。絶対に」
ラジオが、沈黙した。
数秒。
「……なら、死ぬなよ」
「了解」
黎は、窓の外を見た。
夕日が、沈んでいく。
「次に動くのは、ハーヴェストか。それとも、イヴ直属の部隊か」
「どちらにせよ、時間は、あまりない。回収通知が確定すれば、七十二時間以内に、ハーヴェストが出動する。イヴも、今回、お前を逃がしたのは、獲物を追い詰めるための、余裕の表れだ。次に会った時は、本気で、奪いに来る」
黎は、キーを、胸ポケットに戻した。
「……上等だ」
黎は、呟いた。
「来るなら、来い。俺は、もう、ただの被害者じゃない」
夜が、訪れた。
静かな、しかし、不穏な夜だった。
黎は、助手席で、目を閉じた。
疲れ切った体が、眠りを求めている。
だが、頭の片隅で、イヴの笑顔が、焼き付いて離れない。
『逃げ場は、ないわよ、黎』
(ああ、分かってる)
(それでも、俺は)
黎は、意識を手放した。
黒いセダンは、廃ガソリンスタンドの影で、静かに、夜をやり過ごした。Noveliaとは?
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