零落の令嬢は拳で語る - 生かす拳、下町の朝―道場開きと未知の紋章
古運河の朝は、いつも油の匂いがする。
水面に浮かぶ虹色の膜が、昇り始めた陽をにじませていた。セレスティア・ヴァルドレンは、貸倉庫の前の石段に座っていた。銀がかった淡い金髪が、まだ冷たい風に揺れる。灰青の瞳は、向かい岸の古い煙突を、何かを見定めるように見つめていた。
膝の上には、分厚い束がある。
ドラングの私財と、奪還した魔力の証文。アルヴィンが倉庫から回収したものだ。昨晩、空き家に避難した囚われた者たちの世話を終えた後、四人でこの場所に落ち合い、朝までかけて中身を確認していた。
指先が、紙の端の毛羽立ちを、何度もなぞっていた。
「お嬢様、お寒くはございませんか」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、ガレスが立っていた。白髪を後ろに撫りつけ、皺の深い顔に、いつもの穏やかな微笑みを浮かべている。左耳が少し聞こえにくいせいか、少しだけ首を傾げる癖がある。胸には包帯が巻かれていたが、杖はもうついていない。診療所を出てから、彼の回復は、老体の割に驚くほど早かった。
「平気だ」
セレスティアは、短く答えた。
「そうでございますか。ですが、朝は冷えます。どうか、ご無理はなさらぬよう」
ガレスは、セレスティアの隣に、ゆっくりと腰を下ろした。古い石段が、ぎしりと鳴る。
「それで、中身の方は、いかがでしたかな」
「……まだ全部は見ていない。だが、金目のものは、いくらかあった」
セレスティアは、束の中から、小さな革袋を取り出した。中から、銀貨と銅貨が、こぼれ落ちる。硬貨が石段の上で、かち、かち、と軽い音を立てた。
「へへ、こりゃあ、当分は食いっぱぐれなしだぜ!」
いつの間にか、リュカが後ろから覗き込んでいた。赤茶の癖毛が、寝癖で四方八方に跳ねている。そばかすの浮かんだ茶色の目が、銀貨の輝きを反射して、きらきらと光っていた。左の頬の小さな傷が、笑うたびに、ほんの少し持ち上がる。
「リュカ、お前、いつからそこに」
「さっきからだぜ! 姉ちゃんたち、全然気づかねえんだもんな!」
リュカは、得意げに胸を張った。
「お嬢様が気づかぬはずがない。気づいていて、相手をしなかっただけですよ」
ガレスが、真顔で言った。
「ええ!? ひどくね!?」
リュカが、大げさに傷ついた顔をする。
「……うるさい。座れ」
セレスティアは、リュカの頭を、軽く小突いた。
「へへっ」
リュカは、嬉しそうに笑って、セレスティアの反対側に座った。
三人で、朝の古運河を眺める。
しばらくして、石畳を叩く足音が近づいてきた。軽快で、どこか芝居がかった、あの足音。
「やあ、おはよう。朝から仲良しだねえ」
アルヴィン・レイフォードが、路地の角から現れた。栗色の髪を無造作に流し、片眼鏡の奥の碧い目が、楽しげに細められている。指先は、いつものようにコートのボタンをいじっていた。
「遅かったな」
「少し、調べ物をね。君たちが休んでいる間、僕は僕で、色々と動いていたんだよ」
アルヴィンは、肩をすくめた。
「それで、どうするのさ。ドラングの私財は、なかなかの額だったろ? これで、当座の金には困らない。屋敷を買い戻すことも、あるいは、もっと別の場所へ移ることも、選択肢はある」
アルヴィンの言葉に、セレスティアは、黙った。
屋敷。
ヴァルドレン屋敷。築八十年の木造二階建て。かつては使用人が二十人もいた、武門の伯爵家の邸宅。父の事業が失敗し、魔力を担保に取られ、それでも、あの場所だけは、三人の居場所だった。
だが、もうない。担保証文は奪われ、屋敷は、もう戻らない。
「……いや」
セレスティアは、ゆっくりと首を振った。
「屋敷には、戻らない」
「姉ちゃん……?」
リュカが、不安そうな顔で、セレスティアを見上げた。
「私は、貴族の籍を捨てる」
セレスティアの声は、静かだった。でも、その言葉は、朝の空気を、びりりと震わせた。
「お嬢様……」
ガレスが、小さく息を呑んだ。
「あの家は、もう、私の家じゃない。あの家に縋って、あの家の名に縋って、私は、何かを守ってきたつもりでいた。でも、違った。私が守りたかったのは、家じゃない。あの家にいた、お前たちだ」
セレスティアは、ガレスとリュカの顔を、順番に見た。
「だから、籍を捨てる。あの名前に、もう、意味はない。私が、私の拳で、お前たちを守る。それだけだ」
ガレスは、しばらく、セレスティアの顔をじっと見つめていた。
それから、深く、深く、頭を下げた。
「……かしこまりました。お嬢様が、そうお決めになったのなら。私、ガレス・オルドリッジは、これまで通り、いえ、これまで以上に、お嬢様個人にお仕えいたします。家ではなく、あなた様に」
ガレスの声は、震えていなかった。穏やかで、確かだった。
セレスティアは、ガレスの白髪を見つめた。
(この男は、いつもそうだ)
私が何を選んでも、何を失っても、この老執事は、ただ私の傍にいてくれる。
「……籍の抹消手続きは、王都の戸籍管理局でできる。だが、私が行けば、面倒が起きる。悪いが、頼めるか」
「お任せくださいませ。この老いぼれ、こう見えても、役所の手続きには明るいのです。必要な書類は、すべて整えてまいります」
ガレスは、顔を上げて、微笑んだ。
「よっしゃあ! じゃあ、俺、道場の手伝いやるぜ!」
リュカが、突然、飛び上がった。
「……道場?」
セレスティアは、眉をひそめた。
「だって、姉ちゃん、言ってたじゃん。自分の拳で、誰かを守るって。守るための拳を、教える場所があったら、きっといいって。俺、聞いてたんだぜ! あの路地で、朝日を見ながら!」
リュカの言葉に、セレスティアは、はっとした。
あの夜。
診療所の外で、リュカと二人で見た朝日。
(私は、この拳で、誰かを生かす)
そう、心の中で誓った。
「……お前、あの時、起きてたのか」
「へへ、ちょっとだけな!」
リュカは、照れくさそうに笑った。
「道場、か」
セレスティアは、自分の拳を見つめた。
拳の関節は大きく、指の付け根には、古い傷跡がある。この拳で、多くの敵を倒してきた。でも、もう、殺さない。殺さずに止める拳。守るための拳。
「……悪くない」
セレスティアは、小さく、そう呟いた。
「面白い。実に面白いねえ。貴族の籍を捨てて、下町で道場か。君は、僕の想像の、いつも斜め上を行く」
アルヴィンが、愉快そうに笑った。
「……何か文句があるのか」
「まさか。大歓迎だよ。下町に、君の道場ができれば、僕の情報網も、もっと面白くなる」
アルヴィンは、片眼鏡をくいっと押し上げた。
「それで、場所はどうするのさ。道場を開くなら、それなりの広さがいる。ソイル地区の家賃は、安いと言っても、タダじゃない」
「……心当たりがある」
セレスティアは、古運河の向こう岸を見た。
「ソイル地区の北端。古い鍛冶屋の跡がある。店主が、去年、足を悪くして店を畳んだ。それっきり、空き家だ」
「ああ、あの煙突の曲がった家か。確かに、あそこなら、道場にはもってこいだね。通りから少し入った場所にあるから、騒音の苦情も少ないだろう」
アルヴィンは、頷いた。
「よし! じゃあ、早速、掃除しに行こうぜ! 俺、張り切っちゃうからな!」
リュカは、両手を握りしめて、やる気満々だった。
「……まずは、腹ごしらえだ」
セレスティアは、立ち上がった。
「あ……そ、そうだな。腹が減っては、なんとやら、だもんな!」
リュカの腹が、ぐぅ、と鳴った。
「ふむ。では、私が、何か温かいものを用意いたしましょう。この近くの市場で、今朝採れた豆と、焼きたてのパンを買ってまいります」
ガレスが、立ち上がろうとした。
「待て。お前は、まだ、安静だ。買い物は、私とリュカで行く」
セレスティアは、ガレスの肩を、そっと押さえた。
「お嬢様、私は、もう、大丈夫でございます。この通り、杖もなく歩けますし」
「だめだ。傷が開いたら、どうする。お前は、ここで、休んでいろ。それとも、私の言うことが、聞けないのか」
セレスティアの灰青の瞳が、真っ直ぐにガレスを見た。
ガレスは、一瞬、口を開きかけたが、やがて、ふっと微笑んだ。
「……かしこまりました。では、お言葉に甘えて、ここで、大人しくしております。ですが、お嬢様、どうか、無理はなさらないでくださいませ」
「ああ」
セレスティアは、短く頷いた。
「僕も、一緒に行くよ。ちょうど、市場で聞きたいこともある」
アルヴィンが、言った。
「……勝手にしろ」
セレスティアは、歩き出した。
リュカが、その隣にぴったりとくっついて歩く。アルヴィンが、その後ろを、飄々とした様子でついてくる。
古運河沿いの道は、朝の光に照らされて、少しずつ、活気づいていた。
市場は、すでに、たくさんの人で賑わっていた。
ソイル地区の市場は、王都ルミナスの南岸に広がる、木造の屋台がひしめく場所だ。野菜や魚、古着に、魔導具の部品。あらゆるものが売られている。商人たちの威勢のいい声が、あちこちから聞こえてくる。
「へいらっしゃい! 今日の豆は、粒が揃ってるよ!」
「新鮮な川魚だよ! 見てってくれ!」
セレスティアは、人混みを縫うように歩いた。リュカは、あちこちの屋台に目を奪われている。
「姉ちゃん、見て見て! あの串焼き、うまそうだぜ!」
リュカが、香ばしい匂いを漂わせる屋台を指さした。
「……朝から、串焼きは、胃に悪い」
「えー! でも、うまそうなんだもん!」
リュカが、駄々をこねる。
「昼まで、我慢しろ」
「ちぇー」
リュカは、唇を尖らせた。
「ふふ、元気だねえ。でも、朝は、やっぱり、パンと豆のスープが一番さ。ほら、あの店なんて、どうだい?」
アルヴィンが、市場の一角にある小さな店を指さした。
「あそこは、この界隈じゃ、結構有名な店でね。朝早くから、焼きたてのパンを出すんだ。豆の煮込みも、絶品だよ」
「へえ、アルヴィンさん、詳しいんだな!」
「情報屋だからね。こういう、下町の美味いものの情報も、仕事のうちさ」
アルヴィンは、にやりと笑った。
三人は、その店で、パンと豆の煮込みを買った。
パンは、まだほかほかと湯気を立てている。豆の煮込みは、濃厚な匂いが、食欲をそそる。
「……うまい」
セレスティアは、パンを一口かじって、小さく呟いた。
「だろ!? 俺、こんなうまいパン、初めてだぜ!」
リュカが、頬張りながら、嬉しそうに言った。
「それは良かった。店の主人も、喜ぶよ」
アルヴィンは、豆の煮込みを、上品に食べていた。
三人は、市場の隅の、空いた木箱に腰掛けて、朝食を食べた。
朝の市場は、活気に満ちていて、眺めているだけで、元気が出る。
「そういえば、アルヴィンさん。聞きたいことって、なんだったんだ?」
リュカが、パンを食べながら、聞いた。
「ああ、大したことじゃないよ。ちょっと、この辺りで、最近、妙な噂がないか、探りたかっただけさ。まあ、道場を開くなら、近所の情報は、知っておいて損はないだろう?」
「妙な噂?」
リュカが、首をかしげた。
「例えば、夜中に、古運河の倉庫街で、誰かの悲鳴が聞こえたとか、そんな類の話さ。まあ、今は、まだ、気にしなくていい。何か分かったら、君たちにも教えるよ」
アルヴィンは、軽く、話を濁した。
セレスティアは、アルヴィンの横顔を、ちらりと見た。
(この男は、何か、隠している)
だが、今は、追及しない。
朝食を終え、三人は、ガレスの待つ貸倉庫へ戻った。
ガレスは、言われた通り、石段に座って、大人しく待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ガレスが、微笑みながら、立ち上がった。
「ああ。ほら、食え」
セレスティアは、ガレスに、パンと豆の煮込みを渡した。
「ありがとうございます。では、遠慮なく」
ガレスは、丁寧に、パンを受け取った。
四人で、朝食を食べ終えた後、セレスティアは、再び、証文の束を手に取った。
「アルヴィン。この束を、もう一度、調べたい。手伝ってくれ」
「いいよ。僕も、気になっていたところだ」
二人は、石段に座り、証文を一枚一枚、確認し始めた。
ガレスとリュカは、その様子を、静かに見守っている。
「これは、ソイル地区の貸倉庫の権利書。こっちは、王立魔力銀行ゴールデン・レッジの預かり証。金貨二十枚分の、精製魔力石の取引記録……なるほど、ドラングの私財は、かなり、ここの倉庫に集中していたようだ」
アルヴィンが、証文を読み上げる。
「……これは?」
セレスティアが、一枚の証文を、アルヴィンに差し出した。
アルヴィンは、それを受け取ると、片眼鏡を外して、まじまじと見つめた。
「……なんだい、これは」
アルヴィンの声から、いつもの軽さが消えた。
証文の端に、押された印。
円環に、三本の棘が絡みつくような、奇妙な紋章。
「これは……他の証文には、全部、環の印が押されている。でも、これだけは、違う。この紋章は、僕も、見たことがない」
アルヴィンは、証文を、太陽の光に透かして見た。紙の繊維の向こうで、紋章の棘が、細く滲んで見えた。
「……ドラングのものじゃない、か」
セレスティアは、静かに言った。
「ああ。ドラングの印は、もっと、単純な、牙を模したものだ。こんな、凝った紋章を使う趣味は、あの男にはない。これは、おそらく……」
アルヴィンは、言葉を切った。
「環の上に、まだ、誰かいる」
アルヴィンの声は、低く、重かった。
セレスティアは、その紋章を、じっと見つめた。
円環に、三本の棘。
環。ミアズマ環。その上に、さらに、別の何かがいる。
ドラングを倒し、囚われた者たちを救い出し、証文を取り戻した。でも、それは、まだ、終わりじゃない。むしろ、これは、始まりに過ぎないのかもしれない。
(この紋章の持ち主が、本当の敵だ)
セレスティアの拳が、無意識に、ぎゅっと握りしめられた。爪が、掌に食い込む。
「……面白くなってきた」
アルヴィンが、突然、笑った。
「ドラングは、所詮、使い走りだった。この紋章の持ち主こそ、ミアズマ環の、本当の支配者。あるいは、環を、裏から操る、別の勢力。どちらにせよ、僕の好奇心を、これほど刺激する相手は、久しぶりだ」
アルヴィンの碧い目が、きらりと光った。
「……お前、楽しんでるな」
「もちろん。退屈な平和より、危険な謎の方が、ずっと面白い。そういう性分なんだよ、僕は」
アルヴィンは、肩をすくめた。
「当面は、この紋章の出所を、僕が調べよう。君は、道場の準備に専念してくれ。何か分かったら、すぐに知らせる」
「……頼む」
セレスティアは、紋章の押された証文を、自分の腰に巻いた布の内側に、しまった。布越しに、紙の角が、脇腹に当たる。
「さて、それじゃあ、僕は、これで。また、道場ができたら、遊びに行くよ」
アルヴィンは、軽く手を振って、路地の向こうへ消えていった。
「……行ったか」
「はい。相変わらず、掴みどころのない方ですな」
ガレスが、苦笑いした。
「でも、悪い人じゃないんだろ? 俺、あの人のこと、結構、好きだぜ!」
リュカが、言った。
「……そうだな。悪い人では、ない」
セレスティアは、アルヴィンが消えた路地の角を、しばらく見つめていた。
それから、二人に向き直った。
「行くぞ。道場の下見だ」
「おお! いよいよだな!」
リュカが、飛び跳ねた。
「ええ。参りましょう、お嬢様」
ガレスが、穏やかに頷いた。
三人は、古運河沿いを北へ向かった。
ソイル地区の北端。
古い鍛冶屋の跡は、思った通り、煙突の曲がった、古びた建物だった。
木造の外壁は、煤けて黒ずみ、あちこちが、はげ落ちている。窓は、板で打ち付けられていた。入口の扉は、錆びついて、今にも、外れそうだった。
「……広いな」
セレスティアは、建物の前に立って、全体を見渡した。
作業場だった一階部分は、かなりの広さがあった。土間が広がり、奥には、炉の跡が見える。二階は、住居スペースとして使われていたようだ。
「いいじゃねえか、ここ! 広いし、なんか、強そうな雰囲気だし!」
リュカが、目を輝かせた。
「そうですね。手を入れれば、立派な道場になりそうです。ですが、まずは、掃除と修理が、大変そうですな」
ガレスが、壁の傷を、しげしげと眺めた。
「……やるぞ」
セレスティアは、錆びた扉に、手をかけた。
ギギギ、と、重い音を立てて、扉が開く。
中から、埃っぽい空気が、流れ出してきた。
「うわっ、すっげえ埃! ごほっ、ごほっ!」
リュカが、咳き込んだ。
「まずは、掃除だ。リュカ、窓を開けろ。ガレスは、外で、水を用意してくれ」
「了解だぜ!」
「かしこまりました」
三人は、それぞれ、掃除を始めた。
リュカは、板で打ち付けられた窓を、力いっぱい外そうとしたが、なかなか、うまくいかない。
「くっそー、この板、びくともしねえ!」
「どけ」
セレスティアが、リュカを押しのけて、板に手をかけた。
彼女が、ぐっと力を込めると、太い釘が、メリメリと音を立てて、抜けていく。
「うわ、すげえ力! 姉ちゃん、やっぱ、化け物だな!」
リュカが、尊敬の眼差しで、セレスティアを見た。
「……化け物は、余計だ」
セレスティアは、リュカの頭を、軽く小突いた。
窓が開くと、朝の光と、新鮮な空気が、部屋の中に流れ込んだ。
「うわあ、明るい! これなら、気持ちよく稽古できそうだぜ!」
リュカが、嬉しそうに、窓から顔を出した。
ガレスが、近くの井戸から、水を汲んできてくれた。
三人は、古い布を水に浸して、床や壁を拭き始めた。
何年も積もった埃は、なかなか落ちない。布を絞るたび、黒い水が、土間に染みを作った。
「……これは、骨が折れるな」
セレスティアが、額の汗を、腕で拭った。
「ですが、お嬢様。こうして、自分たちの手で、一から作り上げるというのは、なかなか、楽しいものですな」
ガレスが、床を拭きながら、微笑んだ。
「そうだぜ! 俺、こういうの、結構、好きかも! 自分の家を、自分で作るって感じで、ワクワクする!」
リュカが、張り切って、壁をゴシゴシ擦った。
「……そうだな」
セレスティアは、二人の様子を見て、小さく、そう呟いた。
(自分の居場所を、自分の手で作る)
それは、貴族の令嬢だった頃の自分には、考えられないことだった。
でも、今は、違う。
この場所が、新しい、自分たちの居場所になる。
昼過ぎになって、三人は、一度、休憩を取ることにした。
ガレスが、市場で買ってきたパンと、井戸の水で、簡単な昼食を済ませる。
「それにしても、お嬢様。道場の名前は、どうなさいますか?」
ガレスが、パンを食べながら、聞いた。
「……名前?」
セレスティアは、首をかしげた。
「ええ。看板を出すなら、名前が必要でしょう。何か、良い名前は、ございませんか?」
「うーん、道場の名前かあ。難しいなあ」
リュカが、腕を組んで、考え込んだ。
「……別に、名前なんて、なくてもいい」
「そうはいきません。名前があると、ないとでは、人々の印象が、大きく変わります。それに、お嬢様の道場です。看板の一つも、なければ」
ガレスが、真剣な顔で言った。
「じゃあ、『ヴァルドレン流護身術道場』とか?」
「……私は、籍を捨てる。その名前は、もう、使わない」
セレスティアの声は、静かだった。
「あ……そっか。ごめん、姉ちゃん」
リュカが、しゅんとした。
「いや、いい。……そうだな。『生かす拳』。この道場は、そのための場所だ」
セレスティアは、自分の拳を見つめた。
「生かす拳……」
リュカが、その言葉を、繰り返した。
「良い名前ですな。殺すための拳ではなく、生かすための拳。お嬢様の、その信念が、よく表れております」
ガレスが、深く頷いた。
「よし! じゃあ、俺、看板作るぜ! 木の板に、でっかく、『生かす拳』って書くんだ!」
リュカが、張り切って、立ち上がった。
「……字、書けるのか」
セレスティアが、リュカを見た。
「う……ま、まあ、なんとかなるって! ガレスさんに、手伝ってもらうし!」
リュカが、ガレスを見た。
「ええ、私でよければ、お手伝いいたしましょう。文字を書くのは、私の数少ない特技の一つですから」
ガレスが、微笑んだ。
「……頼む」
セレスティアは、二人に、短く言った。
午後から、三人は、掃除と修理を続けた。
リュカとガレスは、近くの材木置き場から、使えそうな板を探してきて、看板を作り始めた。
セレスティアは、一人で、床の修理をしていた。
緩んだ床板を、釘で打ち付け、壊れた箇所を、新しい板で補強する。金槌の音が、がつん、がつん、と道場に響いた。
「……よし」
彼女は、立ち上がって、作業の成果を確認した。
床は、まだ、完全には直っていない。でも、人が立って、動く分には、問題ないくらいには、なった。
「おーい、姉ちゃん! 看板、できたぜ! 見てくれよ!」
リュカの声が、外から聞こえた。
セレスティアは、外に出た。
リュカとガレスが、一枚の木の板を、掲げていた。
板には、ガレスの流麗な筆致で、『生かす拳』と、大きく書かれていた。
「……いい字だ」
セレスティアは、素直に、そう思った。
「へへ、だろ!? ガレスさん、字がうめえんだよな!」
リュカが、得意げに言った。
「いえいえ、お嬢様に、そう言っていただけると、この老いぼれ、冥利に尽きます」
ガレスが、照れくさそうに、頭をかいた。
「じゃあ、さっそく、取り付けるぜ! どこに飾る?」
「……入口の上だ」
セレスティアは、建物の入口を見上げた。
「よし、任せろ! ……っと、届かねえ!」
リュカが、背伸びをしたが、入口の上には、手が届かなかった。
「貸せ」
セレスティアが、リュカから看板を受け取り、軽々と、入口の上の梁に、それを取り付けた。
「うわ、姉ちゃん、やっぱ、でけえなあ!」
リュカが、自分の身長と、セレスティアの身長を見比べた。
「……お前が、小さすぎるんだ」
「ち、違うし! 俺は、これから、伸びるんだからな!」
リュカが、顔を赤くした。
「ふふ。リュカ様も、これから、きっと、大きくなられますよ。ですが、お嬢様に追いつくには、あと十年は、かかるでしょうな」
ガレスが、真顔で言った。
「十年!? そんなにかかるのかよ!」
リュカが、絶望的な顔をした。
「……冗談だ」
ガレスが、くすりと笑った。
「もー、ガレスさん、心臓に悪い冗談は、やめてくれよ!」
リュカが、胸を撫で下ろした。
セレスティアは、二人のやり取りを、黙って見ていた。
(……悪くない)
こんな、他愛のない時間が、かけがえのないものに思える。
夕方になって、掃除と修理は、ひとまず、一段落した。
三人は、道場の前に立って、その姿を眺めた。
「……まだ、何もない。だが、ここからだ」
セレスティアは、静かに言った。
「そうですね。ここから、すべてが、始まりますな」
ガレスが、穏やかに頷いた。
「よっしゃあ! 明日からも、頑張るぜ! 俺、道場の一番弟子になるんだ!」
リュカが、拳を握りしめて、叫んだ。
「……一番弟子は、お前しかいない」
「あ、そっか! じゃあ、一番弟子兼、看板係兼、掃除係だな!」
リュカが、嬉しそうに言った。
「……欲張りだな」
セレスティアは、リュカの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「へへっ」
リュカが、嬉しそうに、目を細めた。
その夜。
セレスティアは、一人で、道場の中に立っていた。
月明かりが、開け放たれた窓から、差し込んでいる。
昼間の喧騒は、もう、どこにもない。
静かな、静かな夜だった。
セレスティアは、道場の床に、ゆっくりと足を踏み入れた。
ひんやりとした、土間の感触が、足の裏から伝わってくる。
彼女は、道場の中央に立ち、目を閉じた。
(ここが、私の場所だ)
貴族の籍を捨て、屋敷を失い、名前を失った。
でも、その代わりに、この場所を、自分の手で、手に入れた。
セレスティアは、拳を、ぎゅっと握りしめた。
それから、ゆっくりと、その拳を、開いた。
月明かりに、彼女の手のひらが、白く浮かび上がる。
拳の関節は大きく、指の付け根には、古い傷跡がある。
(この拳は、殺すためのものじゃない)
(奪うためのものでもない)
(この拳は、誰かを生かすためにある)
(朝を迎えるために、ある)
セレスティアは、開いた拳を、静かに、胸の前に掲げた。
「……そうか」
彼女は、小さく、そう呟いた。
その声は、静かな夜の空気に、溶けていった。
翌朝。
道場開きの朝は、よく晴れていた。
雲一つない、青い空。
セレスティアは、道場の前に立っていた。
銀がかった淡い金髪が、朝の光を浴びて、きらきらと輝いている。
「おはようございます、お嬢様。良い朝ですな」
ガレスが、道場の中から、出てきた。
「ああ。……傷の具合は、どうだ」
「ええ、おかげさまで、すっかり。今朝は、特に、体が軽く感じられます」
ガレスが、微笑んだ。
「おーい、姉ちゃん! ガレスさん! 見て見て! 俺、こんなの、作ったんだぜ!」
リュカが、道場の中から、飛び出してきた。
彼の手には、小さな木の板があった。
「なんだ、それは」
「門下生募集の張り紙だよ! これ、市場の掲示板と、酒場『錆びた鍵』の前に、貼ってくる!」
リュカが、張り紙を、セレスティアに見せた。
そこには、ガレスの字で、こう書かれていた。
『生かす拳 道場 門下生募集 未経験者歓迎 稽古は朝と夕 見学自由』
「……よくできた」
セレスティアは、張り紙を見て、短く言った。
「だろ!? ガレスさんに、字を書いてもらったんだ! 俺は、この紙を、ここまで運ぶ係!」
リュカが、胸を張った。
「……それも、立派な仕事だ」
セレスティアは、リュカの頭を、軽く小突いた。
「へへっ」
リュカが、嬉しそうに笑った。
「やあ、おはよう。道場開きの朝に、ふさわしい、いい天気だねえ」
路地の角から、アルヴィンが現れた。
「来たか」
「もちろん。君の晴れ舞台だ。見逃すわけには、いかないだろう?」
アルヴィンは、道場の看板を見上げた。
「『生かす拳』。良い名前だ。君に、ぴったりだよ」
アルヴィンが、片眼鏡を押し上げた。
「……そうか」
セレスティアは、自分も、看板を見上げた。
『生かす拳』
その文字が、朝日を浴びて、力強く輝いていた。
「それで、アルヴィンさん。紋章のことは、何か、分かったのか?」
リュカが、アルヴィンに、聞いた。
「いや、まだ、何も。今は、いくつか、心当たりを当たっているところさ。焦る必要はない。何か分かったら、真っ先に、君たちに知らせるよ。それまでは、僕も、この道場に、ちょくちょく、顔を出す。情報を持ち込む、ついでにね」
アルヴィンが、にやりと笑った。
「……勝手にしろ。ただし、邪魔はするな」
「もちろん。僕は、いつでも、ただの観客さ。……ああ、でも、面白い情報があったら、その時は、ちゃんと、聞いてくれよ?」
アルヴィンは、軽く、手を振った。
「さて、それじゃあ、僕は、これで。道場の繁盛を、祈ってるよ」
アルヴィンは、来た時と同じように、飄々とした足取りで、路地の向こうへ消えていった。
「……行ったか」
「ええ。相変わらず、風のような方ですな」
ガレスが、苦笑いした。
「でも、約束してくれたぜ! 情報を持ち込んでくれるって! 心強いよな!」
リュカが、嬉しそうに言った。
「……ああ」
セレスティアは、頷いた。
「姉ちゃん」
リュカが、突然、真剣な顔で、セレスティアを見上げた。
「なんだ」
「俺、強くなるから。次は、俺が、姉ちゃんを守る。姉ちゃんが、俺たちを守ってくれたみたいに、今度は、俺が」
リュカの声は、震えていなかった。
まっすぐに、セレスティアの目を見て、彼は、そう宣言した。
セレスティアは、リュカの目を、じっと見つめた。
(この少年は、いつの間に、こんなに、強くなったんだ)
あの路地で、震えながら、自分を売ると言った少年。
今は、こうして、私を守ると言っている。
「……ああ。楽しみにしている」
セレスティアは、リュカの頭に、手を置いた。
「へへっ。任せてくれよな!」
リュカが、照れくさそうに、笑った。
「ふふ。リュカ様は、本当に、大きくなられNoveliaとは?
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